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2011年9月の9件の記事

2011/09/27

もっと稼げよ! 凡田夏之介 『グラゼニ(2)』 原作 森高夕次、漫画 アダチケイジ / 講談社モーニングKC

Photo この面白さはハンパない緊急事態。1巻に続いて取り上げたい。
 2巻には週刊連載化されてからの5話が掲載されているが、いずれも素晴らしい。

 凡田らと知り合い、プロの身体能力とその厳しさにショックを受けるアマチュアサッカープレイヤー(「プロになれなかった男」)。
 ちょうど10倍の年俸(つまり凡田10人分の給料)の肉食系左バッターと対決し、格の違いに圧倒されつつコントロールで挑んでいく凡田(「倍数」)。
 二軍と一軍を行ったり来たりする選手たちにプロの自負と凄みをほろ苦く描き上げる話(「二軍なのに一軍」「球場までの通勤事情」)。……

 なかでも、中継ぎ投手の凡田をモデルにして野球マンガにチャレンジしようとするマンガ家が、結局は格闘マンガの続編を選んでしまう「安全な株・危険な株」が実に深い。マンガ、野球ともにとことん「安全な株」を選ぶプロの世界の在り方を描きつつ、最後のページで「だが… だが… だが…… 僕はいずれ少年マガジンで野球マンガを発表してみせる!」と決心するマンガ家の涙が、言葉には変えがたい熱いメッセージを伝えてくれる。
(ちなみに、このマンガ家の名が牧場春彦。言わずと知れた星飛雄馬の同級生のマンガ家の名前そのまんま。)

 その他、プロ野球選手の生活や考え方について、(ほんとかウソかは知らないが)細部までいかにもなリアリティにあふれたこの『グラゼニ』、おそらくこの2巻が旬でこのレベルのネタは残念ながらいつまでも続くことはないだろう。秋のサンマ同様、今が食べ時だ。稼げよ! アダチケイジ。

2011/09/26

二度あることはハチが飛ぶ

 読んだ本2冊連続ニホンミツバチのことが出てきてね、と家人と話していると(義父は養蜂に手を出したこともあったらしい)、玄関のベルが鳴る。隣家の青年だ。
 出掛けに出会えば挨拶する程度のこの若い父親が何の用かと出てみると、
「そこにスズメバチの巣が」
おやおや。
 我が家と隣家と裏のもう一軒の家の、境界線がTの字になったあたり、裏の家の軒下に20センチばかりのがぶら下がっているらしい。我が家からは庭の先で気がつかなかったが、彼にすると駐車場に向かう通用口の目とハチ、もとい鼻の先、赤ん坊もいて笑い事ではない。
 困ったことに裏の家の主婦は縁戚の家に赴いたとやらで久しく姿を見せず、連絡先もわからない。とにかく隣家の青年が市役所に駆除を頼むことになったが、住人の了解なしに立ち入ることはできるのか。どうなることやら。
 
(追申)
 ハチにマークされると怖いので写真はナシ。

2011/09/25

ゴジラ映画の嗣子 『ファントム・ピークス』 北野一光 / 角川文庫

Photo_2 先週日曜の朝日新聞の書評欄に「ホラーかミステリーのように始まって、途中から急激に○○(ネタバレになるので伏せ字)パニック小説になる」とあり、なかなか面白そうなのでさっそく書店で買い求めた。
 しかし。しまったあぁ!なことには、書店でパラっとめくった瞬間にその○○がばっちり目に焼きついてしまった。くくうぅ。後悔後の祭り。
 とはいえ、○○の正体がわかっていて、なお面白かったのでよしとしよう。今度から気をつけようね。 > をれ

 作者北野一光は映画の宣伝プロデュースの仕事をされていたが、40代半ばで癌で亡くなったらしい。惜しいことだ。

 淡々とした書き方が「映画のシノプシスを思わせる」とは朝日の書評にもあったことだが、それだけでなく、長野安曇野の山岳地帯を舞台として展開するサスペンス、アクションシーン、穏やかだが根気強い主人公の男と気の強い動物学者の女、わかりやすい伏線などなど、いかにもB級映画向けの要素がバランスよく散りばめられた作品だ(ほめているのである。念のため)。また、姿の見えない凶悪な怪物について、一部の者以外にはなかなかその存在を理解されず、そのため被害がじわじわ広がっていく前半、怪物の正体が明らかになるとともに一気にパニックが広がってスプラッタなシーンが展開する後半、この二段構えの様式は大昔の「ゴジラ」など、正統派怪獣映画そのものだ。主人公と怪物の無理やりな最終対決の荒唐無稽さ、いかにもな「怪物博士」の登場を含め、怪獣映画のスピリットを正しく継ぐものとして高く評価したい。

(追申)
 本書『ファントム・ピークス』は、先に紹介した『ハチはなぜ大量死したのか』を読み終えた日に購入し、その日のうちに読んだのだが、『ハチは』でも取り上げられていたニホンミツバチについて「病気やダニに強く、小柄なために様々な花に潜り込んで蜜を集めてくる」といった紹介がなされており、思わずしんくろにしてー!?とつぶやいたことであった。

2011/09/24

穏やかな朝への祈り 『ハチはなぜ大量死したのか』 ローワン・ジェイコブセン 著、中里京子 訳 / 文春文庫

Photo 養蜂家は恐怖におののきながら巣箱から巣箱へと走り回り、次々に蓋を開けていく。すべてが空だった。ハチの死骸はなかった。蜂児と蜂蜜は放棄されていた。なぜかその巣にはハチノスツヅリガなどの外敵も近づかない。
 2007年の春までに、北半球から四分の一のハチが消えたのだ。……

 本書は、2006年秋に米国やヨーロッパ各国のセイヨウミツバチのコロニーを突然襲った奇病、「蜂群崩壊症候群(Colony Collapse Disorder、CCD)」を起点に、精巧でエレガントなミツバチ社会の仕組みと、それがいかにあやうい均衡の上に成り立っていたかを説明する。CCD発生以前にも、ミツバチの世界はダニやウイルス、真菌、農薬、さらには無理な移動にともなうストレスのために何度も壊滅的な危機にさらされてきた。CCDはそれらのいずれかに起因するものなのか、それとも。

 養蜂家や科学者たちとともにCCDの原因を少しずつ究明していこうと試みる本書は、分類すれば科学的な読み物ではある。しかしその筆致は静かで暖かく、たとえばミツバチのコロニーの営みを1匹の若いハチの視点から語る章など、子供向きの絵本のように生き生きとして楽しく頼もしい。だが、CCDの発生したコロニーのハチは全身をウイルスや真菌に冒されて痛々しく、CCDへの対策はおろかその原因さえ解明できない養蜂家たちは疲弊し困窮していく。
 そして、後半のページで提示される問題は、さらに深くて重い。
 莫大な利益を産むアーモンド畑、開発を重ねられた農薬のためにミツバチ以外の昆虫の羽音ひとつ聞こえないその広大なアーモンド畑に、遠方から運ばれてきて働くミツバチ、そのミツバチのコロニーがCCDに冒されて消えた後、その地に残るものは何か。

 世の中には帯に「告発」「警鐘」をうたった書物が少なくないが、本書は正しく肥大化した農業への告発書であり、現代世界への警鐘といえるだろう。凡百のエコ本のようにあれがダメこれがダメとピンポイント攻撃をぶち上げるわけではない。主題たるCCDの原因さえ、最後まで明らかにはならない(一点にしぼれない)のだ。筆者は農薬を撒く農家を含め、誰かを責めることはしない。ただ、世界はさまざまな要素が複合的にからまり合っていることを説き、ミツバチの羽音が喪われるとき、そのほころびは自然がもっている「復元力」を上回り、やがて沈黙の秋が待っているに違いないと訴える。
 何をしなくてはならないか、何をしてはいけないか。回答は自明なのだ。

 哀しく、恐ろしく、よい本である。☆5つ。

(追申)
 一点残念なのは、本書のタイトルだ。売らんかなの気が強すぎたのか、無闇に扇情的で、文体にも内容にも合致しない。
 おそらく『沈黙の春(Silent Spring)』を意識してつけたに違いない原題(Fruitless Fall)そのままに『実りなき秋』としておいて、せいぜいサブタイトルとして「なぜミツバチは姿を消したのか」、百歩譲って「ミツバチを殺したのは誰か」、など付けておけばよかったのではないか。

2011/09/20

そこに死がある 『猫鳴り』 沼田まほかる / 双葉文庫

Photo_5 シンプルなタイトルや穏やかなカバー絵に騙されてはいけない。この作品は読者を蹂躙する。

 第一部の視点の主、信枝は、家の近くに捨てられた仔猫の声に「ああ、いやだな」と眉をひそめる。四十歳の彼女は、雇われ大工の夫藤治との間にさずかった赤ん坊を流してしまった。スーパーマーケットの軽食コーナーの母子の姿に息苦しくなる信枝。六ヶ月間胎児のいた腹の内側に、今は「空っぽの底なし井戸」が口を開けている。信枝は仔猫が「カラスが見つけなくても朝までに死ぬだろう」と思う。彼女は仔猫を引きはがすように捨てにいく。戻ってきた仔猫をさらに遠方に捨てにいく。

 『猫鳴り』は3部構成からなっている。
 同じ猫が登場する点を除くと、第一部と第二部、第二部と第三部との間にあまり関連付けはない。細かな関連付けを施し、10パートばかりからなる連作短編集に仕立て上げることなど、作者にはたやすかったはずだ。だが、沼田まほかるはそれをよしとしない。無理やりな関連付けやプロットを切り捨てることで、人物本人でなく本人の抱えた痛みばかりを乾いた骨を刻むように記す。描写はあるが説明はない。第三部、藤治はすでに信枝を亡くし、やがて猫を失う。年老いた猫が食を絶って最期を迎えるさまは、厳粛にして壮絶だ。だが、ただ一人3つのパートに少しずつ顔を出す仔猫の元の持ち主だったぶっきら棒な少女の描かれない痛みもまた(おそらく)凄まじかったに違いない。

 人生が、死が、許しが、猫好きなら、そうでないなら、など、うかつな解釈を推しはめるのは避けたい。苛烈な表現に、展開にただ圧倒され、身動きならなくなることこそ、『猫鳴り』の自然な読み方のように思われてならない。

2011/09/18

『ドラフト1位 九人の光と影』 澤宮 優 / 河出文庫

Photo  元巨人のドラ1でありながら阪急のマスコット「ブルービー」に入り1000試合以上に出場した島野修。西の福留・東の澤井と期待されながら怪我で活躍しきれなかったロッテ澤井良輔。暴漢に襲われて視力を損ね、引退に追いやられたヤクルト荒川尭。ほか、9人のプロ野球ドラフト1位の軌跡を追う。

 こういう本を読むときは、身近に同世代の野球ファンがいなくてはダメだ。
 「そうそう、○○のフォームは肘が」とか「○○は何勝したのに、同じ年に○○がいたからに新人王がとれなくて」とか、居酒屋から締め出されるまでやり合える仲間が昔はたくさんいたのに、今はいない。なので、せっかく読んでもちっとも楽しくない。

 60年代から90年代まで、登場する選手たちのドラフト年度が散っているため、同じドラ1でもその重みや意味づけがそれぞれに異なる。1冊の本としては、それを面白くは受け取れず、やや散漫な印象。ドラフト入団を拒否した選手から、西武の高木大成のように入団後ある程度活躍した選手まで混ざっていることも、全体の方向を見えづらくしている。
 プロ野球が栄えたり傾いたりしたこの数十年間には数百人のドラ1が登場し、週刊誌やテレビドキュメンタリーもドラ1選手のその後、といった特集を何度も組んでいる。となると後は個々の選手の入団前、入団後、引退後それぞれの「凄み」を味わえるかどうか、そういうことになる。

 巨人の1位指名を断った小林秀一には、何かごつごつした岩のような存在感あり。サラリーマンになって不動産業をやりたいと巨人の指名そのものを断った慶應の志村亮。当時も、この本を読んだ今も、どうもピントが合わせられない。未完の大器と呼ばれ続けた巨人大森。踵に体重を残した当時のフォームそのまま、おおらかといえばおおらか、凄みがないといえばない。荒川尭は、この短い文章からも、本当に惜しい逸材だったことが感じられる。荒川が引退後に野球用品を扱う会社を興し、ピッチングマシンやスピードガンの販売で成功した、という話は知らなかった。

2011/09/16

ヘアピンラブ 『スマッシュ!』(全18巻) 咲 香里 / 講談社 少年マガジンコミックス

 スポーツマンガの歴史において梶原一騎や水島新司の果たした役割が極めて大きなものだったことは今さら言うまでもない。だが、勝ち負けにこだわった彼らに対し、恋愛などスポーツ以外の要素をふんだんに交えることで、結果的により深く人間とスポーツの在り方を描いた山岸凉子山本鈴美香大矢ちきら女流作家のスポーツマンガは幾度でも再読に耐え、今も独特の輝きを放つ。

Photo_3 ……とはいえ。それにしたって。

お蝶夫人のキラキラ美麗系コラーゲン白湯鍋

岡ひろみのメラメラ美燃系ピリ辛トマト鍋


は凄すぎないか。丸大食品。女子人気をあてこんだとしても、エース(連載は1973~80年)をよく知ってる女性って何歳くらい。アラフォーでも詳しくはご存知ないのでは。
  お蝶夫人「けっきょく… けっきょく冷たくはしきれない」
  ひろみ「お鍋ですもんね」
  コーチ「岡、肉だ。肉をねらえ」

 

 

 

 

 えー、こほん。


Photo_2  そうそう、今回の鍋の具は……じゃなくて、今回の題材は、やはり女流作家、咲香里のバトミントンマンガ『スマッシュ!』。2006年から2010年にかけて少年マガジンで単行本18巻分、打ち切りにもあわずきちんと完結したのだから、評価、人気が低かったとは思えない。さりとて「歴史に残る」「人生の一作」という評判を得ている様子もない。このままブックオフ105円棚に流れるかと思うと惜しい気になったので、せめてここでアピールしておこう、「面白い!」

 主人公 東翔太はバトミントンを始めたばかりの男子高校生。ヒロインの鬼頭優飛は天才肌のプレイヤー。彼女は交通事故で家族を失い、そのショックで声を出せなくなって、会話は常に筆談で行う(矢代まさこの「ピースバードストーリー」も同じような設定だったか)。
 この設定だとどうしてもウェットなストーリーを想像してしまうし、バトミントンの楽しさを知り始めた翔太がアキレス腱を切って試合に出られなくなる初期の展開など、あー、やはりこのまま今泉伸二ふうに次から次へと悲劇が続くのかと思われたものだが、そうはならない。『スマッシュ!』がとことん明るいのは、作品世界が翔太の幼馴染やダブルスのペア、先輩、後輩、ライバルたちを含むある世代のバトミントンプレイヤーたちの群舞として描かれているからで、翔太が怪我から回復した後はノンストップで前向きなドラマが展開されていく。本作が今ひとつインパクトに欠けるのは、主人公やヒロインの絵柄に個性が弱いせいなのだが(主人公が誰だかわからない添付の表紙カバーでもそれは明らか)、その代わり脇役たちのとぼけた言動は実に楽しい。基本的に「皆頑張れ!」と声をかけたくなる作品なのだ。

 興味深いのは、主人公がそこそこ大きな大会で優勝を得るのは、ダブルス、シングルスとも、ようやく最終巻にいたってということだ。優勝はほとんどエピローグ扱いなのである。また、最強のライバルが登場し、主人公が世界に羽ばたく後半にいたって、逆に物語は誰も彼ものラブラブおポンチと化す。ただし、バトミントンにおける勝ち負けが軽視されているわけでもなく、主人公もヒロインもダブルスのペアもライバルも皆勝たねばならないさまざまなプレッシャーにさらされ続けてはいる。それでこの軽さ、軽さの中でのこの凄み。梶原一騎や山本鈴美香よりあだち充に近いが、あだち充よりは格段にスポーツしてる、といったところだろうか。
 まあ、騙されたと思って、未読の方はぜひ。

2011/09/09

『文豪怪談傑作選 幸田露伴集 怪談』 東 雅夫 編 / ちくま文庫

Photo ここ数回実録怪談モノが続いたが、この夏、その手の怪談本ばかり読んでいたかのようにとられる方がおられたなら、それは断固誤解である。タイムシェアリングなオペレーションシステムをもって家のあちこちに読みかけの本を配置し、イベントドリブンでそれをつまみ上げては読む。その中で、風呂場と枕元を行ったり来たりしたのが本書『文豪怪談……』、いやその、えーと。

 東雅夫の怪奇アンソロジーはいつも楽しませていただいているが、少しばかり気になるのが、集め元にやや文士、文豪の類を多く揃えすぎることか。ちくま文庫の『文豪怪談傑作選』はその東嗜好全開、なにしろ皮切りから康成、鴎外である(とはいえ3冊めに吉屋信子をもってきたのにはシビれた)。
 しかし、鏡花、龍之介等々明治、大正期の文豪を連発されると、いかな怪談、妖異譚といえどすらすらとは読めない。誰とは言わないが昨今のベストセラー作家なら2、3時間もあれば読み抜けるボリュームを、1ヶ月、2ヶ月、ヘタすりゃくたびれ果てて読み切れないことも珍しくない。漢字が多い、言葉が難しいということももちろんあるが、そもそも文体の示すメトロノームの値が別なのだ。

 幸田露伴については以前も少しだけ取り上げたことがあるが、本書には初期の「対髑髏」(東によれば近代最初の怪談文芸作品)や漢籍仏典からの引用の頻出するエッセイなど、中短の作品がぎゅうぎゅう多数詰め込まれており、いくつかはまだ読み終えていない。斜め読みなどしようものなら何を読んでいるのかわからなくなること必定。ああしんど。でも楽し。

 それにしても「対髑髏」冒頭、

   我元来洒落という事を知らず、また数寄(すき)と唱うる者にもあらで、ただふらふらと五尺の殻を負う蝸牛(ででむし)の浮れ心止み難く東西南北に這いまわりて、覚束なき角頭(かくとう)の眼に力の及ぶだけの世を見たく、……

これが二十歳そこそこの者に書ける文体だろうか。

 否、さらにすごいのは、後年の豊饒極まりない「観画談」「幻談」に向かうと、その「対髑髏」ですら所詮才走った若書き、いわゆる猪口才な小手先技量にしか見えないことだ。
 「観画談」など貧しい学生が療養のために旅に出た、山に登った、寺があった、激しい雨の害を避けるためさらに高所の草庵に移った、そこには耳の聞こえぬ老僧がおり、一軸の画があった。……妖魔、怪異が跳梁するわけでもないこれだけの話が、もう雨の圧迫感だけでいかにもすさまじい。舟で釣りに出たら溺死者のものとおぼしき釣竿を拾ってしまって、という「幻談」しかり。何度読んでもいい。もはや何がなんだかである。

2011/09/05

『黒塗怪談 笑う裂傷女』 黒 史郎 / 竹書房文庫

Photo_2 こちらも「実話怪談」。連発でちょっとしつこいか。そもそも、こういう本のレビューにニーズはあるのかとか思わないでもないが、よく考えたらもとからニーズに応えて書いているわけでもないので気にすることなんてないのです。

 さて、著者の黒史郎は、先の『無惨百物語』の黒木あるじらとともに平山夢明に発掘された人物。平山、黒木以上に、誰かに聞いた実話かどうかより「怪談」としてどうか、にポイントの置かれた作風である。サービス精神旺盛と言ってよい。同じ竹書房文庫から既刊の「黒丸ゴシック」シリーズではストーカー、サイコパスもの、つまり壊れた人間の裂けた恐怖を扱っており、不条理な暴力や直接的な不潔感が強く打ち出されていた。本作では一転「怪談」に焦点をしぼったわけだが、平山、黒木、あるいは『百物語』シリーズの平谷美樹らとも違う手法として、著者本人の「鑑定」が付記されたものがある。それが、よくある怪談話に奥行きを与えている。

 どういうことかというと、黒史郎は、誰かに聞いたという怪奇な出来事を取り上げて、語り手に

   いまだに、視たという実感がないという。

とか、

   今思えば、本当に子供だったのかも、わからないそうだ。

とか、

   だから、娘に留守番はさせないのだという。

など述懐させる。これは実録怪談では常套手段ともいうべきまとめ方だ。

 ところが、黒史郎は、(ごく一部の作品においてではあるが)さらに加えて、

   彼のおかげで、誰の命も川へ流されずに済んだ。

   私は真壁さんの体験談の中で、勝手に納得してしまうところが多々あったことは記しておく。

といった「論評」を加えるのだ。しかもその論評が、ご覧のとおり、実際にその怪異を体験した人物より、著者のほうがよりその怪異の「意味」をわかっている、という書きっぷりなのである。つまり、この数話において、黒史郎は単なる記述者、伝達者を越え、怪異を解き得る高次の者として立っているわけだ。
 しかも、わかっているぞと書きつつ、その意味の内容を一切書いてないあたりが実に巧い(ズルい)。著者はその怪異の領域におけるオーバーロードとして立ちふるまうと同時に、何も書いてないのだから間違いを指摘されることもない……。

 この締め方をした怪談は本書でもほんの数編にすぎないが、それでもその数編が『笑う裂傷女』をこの夏に登場した「実話怪談」モノの中でも忘れがたいものにしているのは間違いない。甘々と真似をするのはいかがなものかと思うが、なにしろありきたりの怪談があっという間に意味深な謎に化けるのである、来年の夏にはこの語り口が連発されるに違いない。

 ……ところで、表紙にしか登場しない(残念)「笑う裂傷(きず)女」さんだが、ふと、フェルメールの「真珠の耳飾りの少女」がお化けになったらこんなふうか、などと思い立ってしまった。フェルメールファンには叱られそうだけれど。

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