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2011年8月の4件の記事

2011/08/31

『怪談実話 無惨百物語 ゆるさない』 黒木あるじ / メディアファクトリー MF文庫ダ・ヴィンチ

Photo_2 秋口に差し掛かって発売されたものだが、これも「実話」をうたう怪談集の一つ。
 実録怪談系の文庫としては相当厚手だが、紙の斤量のせいなのか、実はさほどでもない343ページ。それで百話掲載(九十九話ではない)を敢行しているのだから、一話一話はごく短く、1ページに満たないものも少なくない。
 最初のうちはその短さが仇となって「こんなものか」感が続く。怪談、心霊体験談より、小さく捏ね上げたワンアイデアストーリー、下手するとO・ヘンリーばりの人情噺と見まがう小品まで並んでいる。少なくとも神経がひりひりちぎれそうな怖さは得られない。
 中盤までには少し長めの作品も用意されるが、それで数ページ、いずれもやはりそう怖いものではない。

 ──などと思っているうちに、いつの間にか部屋の空気が沈み、家のあちこちから音が聞こえる。心霊現象というわけではない。冷蔵庫で氷が落ちる音、風呂場でモップが倒れる音、雨が外壁を打つ音。つまりは読み始めた時分に比べるとこちらが過敏、臆病になっているようだ。

 さほど怖くない話でも、数読むうちにだんだん雰囲気に浸ってしまうため、かと思う。
 だが一方、もしやという気もしないでもない。つまり、百話も集めてくるうちには、いくつか「本物」を拾ってきてしまうことだってあるかもしれない……そういうことだ。そう考えると、思い当たるふしもある──あれと、あれが、怪しいといえば怪しい。

 人が人に怨みを残す「幽霊」は、実はまだいい。「神様」と称されるモノのほうが、怖い。
 幽霊は相手を見るが神は相手なぞ気にかけない。「祟り」にはそもそも「精密なコントロール」などという概念はないのだ。

 とはいえ、読み終えてしまえば部屋の温度も元どおり。ぱらぱらとめくり返してみれば、怖い話より震災に起因する「第九十六話 鼻歌」が心に残る。これに限れば怪奇的要素などなくともよかったのではないか。

2011/08/29

「実録」と銘打つ甘さ・辛さ 『百物語 第十夜 実録怪談集』 平谷美樹・岡本美月、『怖い本<9>』 平山夢明 / いずれもハルキ・ホラー文庫

 今年の夏の新刊怪談本のポイントの1つは、東日本大震災にどう向かい合うかにあった。

Photo 平谷美樹・岡本美月『百物語』の第十夜では、地震から2週間後の採話会(=百物語の会)において地震前後の話が出たため、と、巻末にコーナーが設けられている。いくつかは地震直前の不思議な徴候、いくつかは地震前後に見られた不可解なできごと。ただ、その大半は単なる自然現象や見間違いと指摘されても仕方のないレベルのもののように思われる。
 『百物語』シリーズは「実録怪談集」をうたい、「体験者の恐怖をできるだけ脚色せずに記録することが目的」と記している。逆にいえば、体験者の語った内容について一切検証はなされず、作り話だろうが人から聞いた話だろうが、そのまま垂れ流すことになる。「実録」とうたうなら、「自分が学生の頃に住んでいたアパートで」と体験者が語り始めたとき、せめて「何年のことか? 何市何町の、何というアパートか?」くらいは問い質し、動じずに返答できるものだけ掲載する程度の厳しさは欲しい。そうでなければ、「採話者(平谷美樹・岡本美月)が誰かから直接聞いた」という事実以上に「実録」の意味はないことになってしまう。

Photo_2 『百物語 第十夜』と同日に発売された『怖い話』において、平山夢明は、震災の怖い話について、
   現段階ではさほど多くは上がってきませんし、耳にしたもののなかでも特筆すべきものあるいは、書き留めて出版するタイプのものはありませんでした。
と述べている。
 つまり、「ロクなものぁなかった」と切り捨てているのである(と直接口にしているわけではないが)。では、「ロクなもの」とは何か。
 平山は「『怪談』とは『怪を愉しむ』ものだ」と定義する。そして「あまりに悲劇的であり、言語を絶する状況はこの『愉しむ』という点で人の心をセーブさせる」と読む。明快である。つまり平山にとって、単に「採話者(平山夢明)が誰かから直接聞いた」だけでは「実録怪談」とは言えず、「怪談」足るには、それが語る人、聞く人、さらには読む人を愉しませるものでなくてはならない、ということか。
 震災の逸話を排した『怖い話』には、その結果、たとえば「黒猫」のような怖い話が含まれる。逆に「黒猫」は「怪談」として出来すぎていて、「実録怪談」の素朴な味わいはもはや期待できない。

 「実録怪談」としての是非を問うべきか、怪談としてのピュアな品質を問うべきか。だが、「実録」をうたう『百物語』が「実証」「検証」を問わない以上、実は両者は同じまな板の上にいる。ならば少しでも怖いほうをより高く評価すべきだと思うのだが、どうか。

 いずれにせよ、すでに刊行を終えた『新耳袋』はじめ、『百物語』が十巻、『怖い話』が九巻。平山らの都会のサイコパス系シリーズも巻を重ねてややマンネリの感あり。そろそろ何か新鮮な切り口が欲しいと考えるのは贅沢だろうか。

2011/08/21

神は細部に宿りまくって 『エマ』(10巻完結)、『乙嫁語り』(現在3巻まで) 森 薫 / エンターブレイン BEAM COMIX

Photo_2【……… 嫁心ついたね】

「(読みかけていた本を閉じ、ため息をつく)ふう。不勉強でした」
「おや、珍しくしおらしい。明日は真夏の雪か」
「(無視して)エンターブレインのBEAM COMIXのラインナップは、編集者のこだわりなんでしょうか、描線に特徴があるんですねえ」
「うむ、腰の線とか、胸の線だな。ボンキュッパッ」
「(無視して)最近は商業誌でも、いかにも絵がヘタ、というマンガ家も少なくないし、巧いなら巧いで、デッサン風というか、細かな線をたくさん散らすモヤっとしたタッチもよく見受けられます。それに対し、BEAM COMIXでは、顔の輪郭や指先、髪の毛、背景から小道具にいたるまで、1本1本の線をクリアに描くマンガ家が評価されているような気がします」
「あと足首。夏は肩や、そうそう腋の線も気になるよね」
「(無視)その中でも、『描き込み魔』とまで称される森薫、この方の描き込みが、本当にすごい」
「メイドね。メガネっ娘ね」
「っと、ようやく話題が噛み合ったと思ったら、そこか」
「だいぶん前に読んだ。おばさんおじさんがいっぱい出てきて誰が誰だかだったぞ」
「森薫の代表作『エマ』は、メガネをかけたメイドをヒロインに、ヴィクトリア朝の英国の生活、ロマンスを細やかに描き上げた大作。後半の濃密な盛り上がりには圧倒的なものがありましたが、いかんせん僕はあんなふうに耐えるヒロインは苦手で、単行本も一度は揃えたものの、そのうち手放してしまいました」
「番外編の8、9、10巻は隠して置いてあるくせにー。お・こ・の・み、は、誰かなー」
Photo_3 「そ、その森薫の現在連載中の作品が、『乙嫁語り』。これがまた、というか、さらに、すごい。舞台は19世紀後半の中央アジア、いわゆるシルクロードですね。その、定住民の一族の12歳の少年に嫁いできた20歳の乙女が主人公。このアミル、作者言うところの『明日死んでも悔いのないキャラ作り』で、
  弓が上手
  姉さん女房
  なんでもさばける(鶏とか兎とか)
  野生
  天然
  強い
  でも乙女
  でもお嬢様
と、同じく作者いわく『清々しいまでに全部ブチ込んでありますね』」
「いやー、馬に乗って弓矢かまえて、兎は獲るわ、狐は獲るわ、鹿担いで帰ってきて『よく太ってますし メスだし きっと美味しいですよ』だもんなー」
「そんなキャラ立ても魅力的ですが、それを描いたコマがすごい。たとえば、登場する女性は老いも若きも全員、髪飾り、耳飾り、首飾り、刺繍ほどこした服、全コマすべて省略なしに描き込まれているのです。さりとて、描線に溺れるでもなく、作品としてはきちんとマンガになっているんですね」
「まあ、無口なヨメではあるが」
「確かに、『エマ』においてもそうでしたが、森薫の描く人物は概してお喋りではない。というか、マンガの読み手へのサービスとしての説明的なセリフは一切口にしない。顔の表情も記号的ではないので、一度読んだだけでは、ある場面でその人物が怒っているのか喜んでいるのか嘆いているのかわからない。それが、繰り返しページを繰るうちに、だんだんわかったような気になって、ああそうか、そういうことか! と思えてくる」
「いい歳した男が、若妻に感情移入……けっこうブキミじゃね」
「(無視無視)作者は仕事をしている間はキッチンタイマーを手元に置いて、1コマに15分以上かけないよう気をつけているそうです。おそらくそうしないと線を描くことが優先してしまって、物語が動かなくなってしまうのでしょう」
「一族に伝わる刺繍だとか、木彫細工つーのか?これ。模様だけの見開きがあっちゃこっちゃに」
「それに加えて無口な登場人物たち、とくればお話も地味かな、と思われてしまうかもしれませんが、これがなかなか濃い。嫁ぎ先の食事の仕度の場面にしてもちょっとした緊張感があるし、あっという間に部族間の抗争が始まったり、と、大小のエピソードは心理戦含め、なかなか苛烈なんです。何か、日本人離れしたものさえ感じますね。最新の3巻は英国からきた研究家スミスをメインにたて、おまけにやや半端なところで終わっていますから、とりあえず1、2巻を手に取っていただきたいですね。この2冊だけでも読み返し読み返しで1週間以上楽しめます」
「まーねー、でも19世紀じゃ、水着のねーちゃんは出てこないし」
「いや、それが、作者は女性ですが、女性の裸を描くのは大好きなようです」
「そういうことは、は、早く言いたまい。どこ? どこ? どこどこどこどこ?」
「……アミルさん、うるさいので弓矢でぴしぴししちゃってください」
アミル「……ハイ」

2011/08/08

原発には唄も物語もない 『津波と原発』 佐野眞一 / 講談社

Photo Twitterは便利なシステムだが、重い議論を展開するにはあまり向いていないようだ。140字という文字数制限のため、どうしてもきちんとした論理的検証は難しいのだが、その困難さを明確に意識して書かれている発言はどちらかといえば少数派である。その結果、議論の様相を呈しつつ、単なる相手の発言や状況の揚げ足取りだったり、よそに都合のよいサイトを発見して自らの手柄のように指し示してみせたり、と、そういう発言が多発することになる。
 困ったことに、Twitter上の議論は、敵と味方をデジタルに二分化しがちである。たとえば、ある小説をつまらない、とつぶやくと、その作者のファンから噛みつかれる場合がある。元の発言者は、その作家の一連の作品は評価しつつ、その作品にのみ問題ありと主張しているのかもしれない。つまらない、と書いたのはその作品のある一面であって、むしろ作品そのものは気に入っているのかもしれない。そういった要素やバランスが言葉の投げつけ合いの中でこぼれ落ちてしまう。そもそも、元の発言者にすればそれは「つぶやき」であり、誰かを非難したり立証したりする意識などなかったにもかかわらず、ことの是非だけがミサイルのように連射されていく……。

 今後の原子力発電の扱いについても、二元論が少なくない。印象批評で申し訳ないが、原子力発電を継続利用すべしと主張している方々が、そうでない方々について、経済の安定・発展を無視して原発即時停止を主張している、と決めつけてかかっているケースが少なくないように思う。メガソーラー計画の中心人物である孫正義にしても、「今すぐ原発を全廃せよというのは現実的には無理」と発言しているのだが……。

 添付画像の『津波と原発』は、東日本大震災発生後精力的に現地を訪問し、週刊誌などに寄稿していたノンフィクションライター佐野眞一が、非常にタイトなスケジュールの中でまとめ上げた書籍である。津波の被災地、さらには原発の避難地域に入り込んでルポをまとめた前半、さらには戦後原子力発電がこの国にもたらされた経緯をまとめ上げた後半と、(データマンの助力はあったとしても)尋常なら数か月でまとめられるようなボリュームではない。
 何より重要なのは、著者が現地に赴き、現場を見、人と会うことを大切にしている──もとい、それ抜きには書いてもしょうがない、としていることである。
 津波に遭った病院に、そこに入院していた母親を捜しにきて惨状に茫然とし、
「もう、ここにいるわけないですよね。たぶん流されてしまったのでしょう」
とつぶやく男性。
 六艘の船のうち、五艘を流され、
「船あればオレ、網建てっから。だって日本一の漁場だもん。訴えてねえすか(訴えてください)」
とすすりあげるカリスマ漁師。

 ……とはいえ、本書前半で取り上げられた被災者の多くは、比較すれば「無事」な人々である。前後の数章では、新宿のおかまバーの名物ママやかつて津波についての著書を発行した共産党元文化部長など、いわばキーパーソンばかりが登場し、津波で亡くなった方、避難所や簡易住宅に住む人々にはほとんどふれられていない。

 つまるところ、本書の序盤は著者にとって一種の「助走」にすぎなかったのかもしれない。中盤から後半にかけて、著者は調子を改め、世界でも稀有な被爆の経験をもつこの国に、そもそもなぜ、どのようにして原発が導入されたのか、さらにはそれがなぜ福島のあの場所に設けられたかを問う。そこには、たとえばあの正力松太郎の存在がある。その正力の掌の上で、テレビ、プロ野球、さらには原発を与えられ、安穏と暮らしてきた大衆の姿がある。

 そして、著者はこう記す。
「それは、原発によってもたらされる物質的繁栄だけを享受し、原発労働者に思いをいたす想像力を私たちが忘れてきた結果でもある。原発のうすら寒い風景の向こうには、私たちの恐るべき知的怠慢が広がっている。
 私たちは原発建設に反対しなかったから、原発事故という手痛い仕返しをされたわけではない。原発労働をシーベルトという被曝量単位でしか言語化できなかった知的退廃に仕返しされたのである」

 『津波と原発』が著者のこの指摘の核として十分機能する書籍かどうかは、まだわからない(内容が感傷的かつ五月雨式で、一つひとつの素材について密度に欠けるのは否めない)。
 だが、ここを先途とばかりに昔からの主張を繰り返すばかりの書籍、新書が散見する中、とりあえず現場に踏み込み、歴史的視点も加えて問題点を列挙した本書は、現時点では良書の1冊と言えるだろう。そして、本書が世に問われてしまった以上、私たちは自らの知的怠慢をあらためて検証しなくてはならないだろう。それは、気が向いたときにつぶやいて済むようなものではないだろう。

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