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2011/07/20

ハー・ホワイトアルバム 『音楽の在りて』 萩尾望都 / イースト・プレス

Photo  ビートルズのホワイトアルバムを意識したのだろうか。カバーも、帯も、カバーの内側も真っ白な装丁。イラスト1つない。

 

 『音楽の在りて』は(今は亡き)SF専門誌「奇想天外」に発表された萩尾望都のSF短篇をまとめた作品集である。書かれたのは1970年代後半だが、作風は1960年代にさまざまなメディアに発表されたSFプロパーによるショートショートをイメージすれば、大きくは外れない。しいて似た空気をあげるなら、福島正実。つまりは国産正統派である。

 

 ……せっかく萩尾望都の作品を取り上げるのに、こんなくぐもった論調をもってしなければならないのは我ながら哀しい。当時まだ決して有名とは言い難かった萩尾望都、大島弓子、樹村みのりらの素晴らしさを説いて口角泡を飛ばし、時の経つのも忘れたのは、気がつけばもう40年も昔のことだ。

 

 萩尾望都とSFを語るには、どこから書き出せばよいだろう。
 『スターレッド』や『銀の三角』、『A-A'』、さらには『バルバラ異界』など、後年の長編あるいは連作はすでにSFとして高い評価を受けている。しかし、まだ無名だった70年代当初、少女マンガ誌でSFを描くことが許されなかった時代に、それでもあふれ出たSFマインド、それをまず推したい。作品でいえば「あそび玉」。ハッピーでもアンハッピーでもないエンディングの突き放しがSFならではだ。あるいはストーリー的にはやや甘いが「6月の声」。こちらでは冒頭のコマから主人公の育て親が

 

  「エディリーヌが外庭の芝刈り機を押すつもりだ! どういうわけだ」

 

とぶちかます。やがて読み手は「外庭の芝刈り機」が「太陽系外惑星移民国のロケット」のことだと知らされる。この展開、この用語センス、どこを切ってもSFだ。
 「オーマイ ケセィラ セラ」という(実に楽しいがある意味才能の浪費のような)作品では、脇役の少年と少女が落とした−拾った本を手に

 

  「すごいな ぜんぶニューウェーブだね バラード好き?」
  「ええ あの ほんとは オールディスが もっと好きよ」

 

と見つめ合う。
 当時の週刊少女コミックの読者の何%がこのやり取りに込められた作者の思いを、苛立ちを読み取ったことだろう。

 

 70年代の中頃、「ポーの一族」で独自の地位を築いた萩尾望都の描線は、しかし『トーマの心臓』や『アメリカン・パイ』に明らかなとおりやがて散漫に流れ、目線が力と自在感を喪い、初期の象徴主義的な語り口が喪われ、ポーのシリーズももはや目を覆いたくなるようなありさまだった……。『音楽の在りて』に掲載された小説群が書かれたのは、そういった最低の時期からはほんの少しだけ回復気味だった頃である(結局、初期の描線の知的かつソリッドな独自性はいまだ回復できたようには思えないのだが)。
 冒頭の「ヘルマロッド殺し」が抜群に素晴らしい。すさまじい、といってもよい。少女マンガではSFは……と言われ通した作者が、ようやく遠慮なしにバタフライナイフをふるった、そういうことだ。SFヤンキー。SFジャンキー。ここには少女マンガの感傷、さらにマンガのコマという制約から解き放たれたピュアなSF作家としての萩尾望都がいる。この作品の後日譚にあたるマンガ作品が本書の巻末に収録されている「左手のイザン」なのだが、そちらのイザンやヘルマロッドの象徴性の低さをみれば、「ヘルマロッド殺し」が活字で書かれなければならなかったことがよくわかる。

 

 だがしかし、1970年代といえば、SFが『日本沈没』などの成功によって市民権を得た代わりに、次に何をなすべきか、その憧れの先を見失った時期でもあった。
 星、小松、筒井らの大家は少しずつ作品を発表しなくなり、後を継ぐべき若手は大家のミニチュアにすらなれない。SFはマンガ、アニメ、やがてはコンピュータゲームの世界に拡散し、SFとしてのセンターラインはどんどんわかりにくいものとなっていく。

 

 せっかくSF小説を発表することのできた萩尾望都だったが、SF小説というくくりにこだわってしまうと、過去の名作へのオマージュしかなかったのではないか。『音楽の在りて』に収録された作品も、最初のいくつか、SFを書く喜びが炎のように立ち上るものから、やがてつまらないワンアイデアストーリーに尻すぼみ、1冊の作品集としてはついに「萩尾望都ならでは」を示せないままに終わっている。

 

 結局、萩尾望都のSFを語るなら、先にあげた作品群を……いや、大切なものを忘れていた。
 1972年に発表された「ドアのなかのわたしのむすこ」だ。シュルレアリスム宣言ふうに言うなら、

   萩尾望都は視線の自在さにおいてSF作家である。

 

 この作品は未来社会を、精霊というミュータントを、生命の神秘をモチーフにしたファンタジックなSF作品だが、それだけではなく、手法と結果において十全にSFなのである。嘘だと思うなら、(入手は少々困難かもしれないが)この31ページの作品のコピーをとって、すべてのコマのすべての登場人物の視線を赤いペンで矢印にして書き込んでみてほしい。縦、横、斜め、前後、左右。ここにあるのは視線の描く、生命と思索の乱舞である。

 

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