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2011年7月の11件の記事

2011/07/31

うあー 男前だな── 『オールラウンダー廻』(現在6巻まで) 遠藤浩輝 / 講談社イブニングKC

Photo 少し前までは白い手袋に拡声器しょって「ご町内の皆様、今スポーツマンガで一番面白いのは、日本橋ヨヲコ『少女ファイト』、『少女ファイト』でございます」と連呼しつつ歩いていたのだが、ドブに落ちたりえいうるさいと生タマゴ投げられたりでどよどよしているうちにいつの間にか『少女ファイト』のほうでスポーツマンガでない要素が半分を越してしまった。最近はちゃりらんと宗旨替え。風見烏と呼んで。おーほほほ。
 とゆーわけでー、今、一番面白いスポーツマンガは『オールラウンダー廻』。500どんぐり賭けてもよろしくってよ。

 遠藤浩輝の作品は絵も巧いしストーリーもよく練られているが、その主題が極道モノだったりインナーワールドなSFだったり、つまりは少しってゆーかかなりってゆーか粘度が高く、人間も五十を過ぎるとどうもそういうのは胃にもたれてねえとやんわり敬遠してきた。短編集(かなりエッチだ)は比較的口にしやすいのだが、それでもコマとコマの間に隙間があって喉越しが重い。流れない。マンガ(1回分)を描く、より、ページを埋める、より、1コマ描き込むことに重点、な印象。そのため無闇にギックリシャックリしてしまうわけだ。

 ……とかいうのを全部とっぱらい、窓を開けて風通しよく作品打ち上げたのが『オールラウンダー廻』。コレハヨイ。
 主人公の高柳廻(めぐる)は総合格闘技「修斗」のジムに通うが、今一つ勝負に対する執念に欠ける。基礎体力や技術もまだまだで、アマの大会でもなかなか勝ちきれない。1巻では主人公のライバル、山吹木(瀬川)喬とヤクザのからみにまだ従来のどろどろ重暗い読み味が残るが、ジムの打撃基礎クラスの指導者として絹川まりあ、さらに女子キック選手のマキちゃんが登場した2巻の冒頭あたりからはノンストップ、めったやたら面白い作品と化して現在にいたる。よく読めばそれぞれの登場人物に重いセイシュンをしょわせていたりはするのだが、練習と試合各シーンの面白さがそれを上回る。

 以前読んだ雑誌の書評欄で誰かが「面白いを連発するだけの書評はダメ」というようなことを書いていたが(当たり前ですね)、今回ばかりは「面白い」の連呼で許してもらおう。なにしろ1巻さえクリアできれば続きは向こうから跳んでくる。現在6巻まで。読みごろだーあんあんあんあん(エコー)。

2011/07/30

苦い虫をかみつぶしながら 『ストリンドベリ名作集』 白水社

Photo  (まだ巻末の作品解説読んだだけ。およそ書評などというものではありません)

 節電の夏に似つかわしい本は何だろう──そういうことを考えてみた。ホラーだの原発関連ではあまりにありきたり。頭の中の本屋をぶらつくうち、そうだ、いつかは読もうと心に決めていたあの作家にチャレンジするのは、こんな夏こそふさわしい。
 思い立ってさっそく池袋ジュンク堂で買い求めたのが『ストリンドベリ名作集』、白水社の復刻版で、「父」「令嬢ジュリー」「ダマスカスへ」「罪また罪」「死の舞踏」「幽霊ソナタ」の6つの戯曲が収録されている。いずれも題名には聞き覚えのある、代表作。

 ヨハン・アウグスト・ストリンドベリ。スウェーデンの劇作家、小説家。
 子供のころ、文学全集の北欧編でストリンドベリの「海におちたピアノ」という短編を読んだ。
 蒸気船の桟橋で、古いピアノが海に落ちた。ピアノは波に揺れ、魚たちが触れるたびに静かに音楽を奏で、あるときは若い男女をうっとりさせ、あるときは釣りに訪れたコックを驚かせる。このピアノは鉱山の技師の奥さんのものだったが、彼女は技師のこぐボートに乗って懐かしいその音に涙をこぼす。つらく寂しい夜をともにしたピアノ。やがて秋が訪れ、嵐とともにピアノはどこかへ流され、桟橋は静かになる。
 それだけの話だ。それだけの話だが忘れられない。

 それにしても、小学生向けの文学全集で山室静に「力強い筆で、極端なまでに人間の心の奥にひそんでいる悪をえぐったり、人間どうしの血みどろの争いをえがいたりしたことで知られています」と紹介される作家とははたしていかがなものか。少し後のページには、「仮借ないはげしさで、人間を自我の鬼のようなものとしてとらえ、食うか食われるかの血みどろの戦いの姿を描いた作家」「徹底的な無神論者になり、しまいには半狂乱になって、旅から旅へさまよい、創作もまったくできなくなる」などとも書かれる。
 小学生の頃に「海におちたピアノ」に出会い、業火のような人物紹介を読んで以来、ストリンドベリはいつか読まなくてはならない、だが生半可な気分で手にとってはいけない作家の一人となった。名前の著名なわりに書店店頭で見かけることもなく、出会いがなかったということもあったが、もし読むのなら、浮かれ気分の似合わないこの夏に限る。

 そのストリンドベリの写真は、いずれも苦虫をかみつぶしたような表情をしている。かつて、「苦虫」は世界中にいた。どこの商店街の店先にも、電車の中、公園に向かう道にも。近頃のジジイはどいつもこいつも愛想笑いを浮かべるばかり。苦虫かみつぶして人間の心の奥をさぐったり、血みどろの争いをえがいたりするジジイはもういないのか。いないのだ。

2011/07/26

それがあたりまえの日常 『とりぱん』(第11巻) とりのなん子 / 講談社ワイドKCモーニング

11 『とりぱん』は最近取り上げたばかりだが、11巻はポイントが高いのでもう一度。

 まず、巻頭すぐに収録された「私の小規模な鳥活」、これが凄い。
 同じモーニング掲載の福満しげゆき『僕の小規模な生活』を被うようにパクって『とりぱん』1回分を描いたもので、たった4ページながら、福満がトリビュって『とりぱん』を描いたのか、とりのがとり憑かれて『僕の小規模な生活』を描いたのか、わからない、そんな、目眩息切れを誘う1作である。欄外の福満からのメッセージもいかにもらしくて「ファファーン」だ。

 次いで、巻末の100コママンガ。
 サイン会で1人1枚(=1コマ)配ったセリフなし作品、つまり手に入れた方(うらやましい)は全貌を誰も知らなかった、というものらしい。原画は配ってしまったため、本誌収録もコピーから、なのだそうだ。ストーリーは、ドラ猫とカモのヒナの交情、というか、泣いた赤鬼というか、よくあるといえばよくある話なのだが……わかっていてもうなってしまう。巧い。45コマめがいい。

 そして最後に、東日本大震災に際しての作者の周辺を描いた回が収録されているのも、この11巻である。
 作者は東北といっても比較的被害の軽微な地域に住んでいたもようで、しかも停電のため、あの映像を2日間も見聞きせずに済んでいる。だが、震災の前後を淡々と描いたこの数ページの静かさは圧倒的だ。
 「私は また 普通の日常を 描いていこう」と記して、その後また普段どおりほんわか愉快な作風に戻したとりのなん子。これはその作家としての底力と(思いがけない)凄みを垣間見せた集積度の高い1冊といえるだろう。

2011/07/25

日常に偏在するモノ 『運命の鳥』 高橋留美子 / 小学館

Photo それに比べると、と比較するようなものでもないが、高橋留美子はさすがだ。

 少年サンデーの長期連載、『らんま1/2』、『犬夜叉』、『境界のRINNE』は、よくも悪しくも少年マンガの枠を決して踏み外さず、一定の水準を保ってマスの読者を楽しませてきた。そのスタイル、スタンス、ストラテジーについて「もはやマンネリ」と野次るのはたやすいが、「そのくらいわかってやってるわよ」と言わんばかりに作者の底堅い力量をみせつけるのが青年誌における短編読み切りである。

 『Pの悲劇』、『専務の犬』、『赤い花束』、そして新刊の『運命の鳥』。これら「高橋留美子劇場」と副題された作品集には、少年マンガとは異なる対象に向けた作品が並んでいる。ストーリーの素材は嫁・姑問題であったり、夫婦の倦怠であったり、サラリーマンの上司への気遣いであったり。それら生活のテーブルの上で、主人公は思い込みや勘違いに踊らされ、振り回され、いずれも最後はほろ苦い日常への回帰で終わる。中年サンデー、老年マガジンがあるならスタンダードとなるだろう味わいである。

 不思議なのは、これらの作品には、いずれも「わけしり」でなくては描けない細かなリアリティが満ち満ちていることだ。1970年代後半の『うる星やつら』以来、ずっとマンガ界の一線級に立ち続ける高橋留美子が、うだつの上がらないサラリーマンの私生活を斟酌しうるとはちょっと思えないのだが──。
 もう一点、不思議なのは、これら、最後に予測を微妙にずらして読み手をうろたえさせる短編群において、作者は(たとえば初期の「笑う標的」や「炎トリッパー」のように)さらに鮮烈な作品にしようと思えば容易にできたかもしれないのを、意図的に6~7割程度のところで仕上げているようにも見うけられることだ。とはいえ、手を抜いているという印象はない。作者の少年マンガ作品がそうであるように、ターゲットに向けて正しく手際よく作品が製造、提供されている、ということなのだろう。

 そうこう考えてみると、やがてうすら寒い。高橋留美子がさらに怖い、凄まじい話を描こうとするときはいつか訪れるのか。そのとき、対象とされる読み手はいったい誰なのか。

2011/07/22

失われた日常性 『中間管理職刑事』 秋月りす / 竹書房

Photo  単行本何十冊もお付き合いしてきたマンガ家とさよならするのは哀しい。だけれども、もう秋月りすをこれ以上続けて買う理由がない。
 本書は、すっかり新鮮味をなくした『OL進化論』最初からずっとつまらない『おうちがいちばん』などに比べれば、まだほんの少し黒胡椒の香りの残った作品で、それでもこうして単行本にまとめてしまうと──つらい。笑えない。

 読み手であるこちらが変わったのか、とも思うのだが、『OL進化論』の最初の数巻やその他の初期作品を読むと今でもそこそこ面白いのだから、そういうことではないのだろう。もはや若者ではないはずの秋月りすには最近のOLの考え方がわからないのかもしれない、など、いろいろ思わないでもないが、4コママンガがつまらなくなった理由を掘り下げて何が楽しいわけでもない。
 こういう本でもないと過ごせない夜が訪れるまで、静かに棚の奥にしまっておくことにしよう。

2011/07/20

ハー・ホワイトアルバム 『音楽の在りて』 萩尾望都 / イースト・プレス

Photo  ビートルズのホワイトアルバムを意識したのだろうか。カバーも、帯も、カバーの内側も真っ白な装丁。イラスト1つない。

 『音楽の在りて』は(今は亡き)SF専門誌「奇想天外」に発表された萩尾望都のSF短篇をまとめた作品集である。書かれたのは1970年代後半だが、作風は1960年代にさまざまなメディアに発表されたSFプロパーによるショートショートをイメージすれば、大きくは外れない。しいて似た空気をあげるなら、福島正実。つまりは国産正統派である。

 ……せっかく萩尾望都の作品を取り上げるのに、こんなくぐもった論調をもってしなければならないのは我ながら哀しい。当時まだ決して有名とは言い難かった萩尾望都、大島弓子、樹村みのりらの素晴らしさを説いて口角泡を飛ばし、時の経つのも忘れたのは、気がつけばもう40年も昔のことだ。

 萩尾望都とSFを語るには、どこから書き出せばよいだろう。
 『スターレッド』や『銀の三角』、『A-A'』、さらには『バルバラ異界』など、後年の長編あるいは連作はすでにSFとして高い評価を受けている。しかし、まだ無名だった70年代当初、少女マンガ誌でSFを描くことが許されなかった時代に、それでもあふれ出たSFマインド、それをまず推したい。作品でいえば「あそび玉」。ハッピーでもアンハッピーでもないエンディングの突き放しがSFならではだ。あるいはストーリー的にはやや甘いが「6月の声」。こちらでは冒頭のコマから主人公の育て親が

  「エディリーヌが外庭の芝刈り機を押すつもりだ! どういうわけだ」

とぶちかます。やがて読み手は「外庭の芝刈り機」が「太陽系外惑星移民国のロケット」のことだと知らされる。この展開、この用語センス、どこを切ってもSFだ。
 「オーマイ ケセィラ セラ」という(実に楽しいがある意味才能の浪費のような)作品では、脇役の少年と少女が落とした−拾った本を手に

  「すごいな ぜんぶニューウェーブだね バラード好き?」
  「ええ あの ほんとは オールディスが もっと好きよ」

と見つめ合う。
 当時の週刊少女コミックの読者の何%がこのやり取りに込められた作者の思いを、苛立ちを読み取ったことだろう。

 70年代の中頃、「ポーの一族」で独自の地位を築いた萩尾望都の描線は、しかし『トーマの心臓』や『アメリカン・パイ』に明らかなとおりやがて散漫に流れ、目線が力と自在感を喪い、初期の象徴主義的な語り口が喪われ、ポーのシリーズももはや目を覆いたくなるようなありさまだった……。『音楽の在りて』に掲載された小説群が書かれたのは、そういった最低の時期からはほんの少しだけ回復気味だった頃である(結局、初期の描線の知的かつソリッドな独自性はいまだ回復できたようには思えないのだが)。
 冒頭の「ヘルマロッド殺し」が抜群に素晴らしい。すさまじい、といってもよい。少女マンガではSFは……と言われ通した作者が、ようやく遠慮なしにバタフライナイフをふるった、そういうことだ。SFヤンキー。SFジャンキー。ここには少女マンガの感傷、さらにマンガのコマという制約から解き放たれたピュアなSF作家としての萩尾望都がいる。この作品の後日譚にあたるマンガ作品が本書の巻末に収録されている「左手のイザン」なのだが、そちらのイザンやヘルマロッドの象徴性の低さをみれば、「ヘルマロッド殺し」が活字で書かれなければならなかったことがよくわかる。

 だがしかし、1970年代といえば、SFが『日本沈没』などの成功によって市民権を得た代わりに、次に何をなすべきか、その憧れの先を見失った時期でもあった。
 星、小松、筒井らの大家は少しずつ作品を発表しなくなり、後を継ぐべき若手は大家のミニチュアにすらなれない。SFはマンガ、アニメ、やがてはコンピュータゲームの世界に拡散し、SFとしてのセンターラインはどんどんわかりにくいものとなっていく。

 せっかくSF小説を発表することのできた萩尾望都だったが、SF小説というくくりにこだわってしまうと、過去の名作へのオマージュしかなかったのではないか。『音楽の在りて』に収録された作品も、最初のいくつか、SFを書く喜びが炎のように立ち上るものから、やがてつまらないワンアイデアストーリーに尻すぼみ、1冊の作品集としてはついに「萩尾望都ならでは」を示せないままに終わっている。

 結局、萩尾望都のSFを語るなら、先にあげた作品群を……いや、大切なものを忘れていた。
 1972年に発表された「ドアのなかのわたしのむすこ」だ。シュルレアリスム宣言ふうに言うなら、

   萩尾望都は視線の自在さにおいてSF作家である。

 この作品は未来社会を、精霊というミュータントを、生命の神秘をモチーフにしたファンタジックなSF作品だが、それだけではなく、手法と結果において十全にSFなのである。嘘だと思うなら、(入手は少々困難かもしれないが)この31ページの作品のコピーをとって、すべてのコマのすべての登場人物の視線を赤いペンで矢印にして書き込んでみてほしい。縦、横、斜め、前後、左右。ここにあるのは視線の描く、生命と思索の乱舞である。

2011/07/17

いらっしゃい、お掃除ロボット「ルンバ560」

Image071  過日迎えた本年の家人の誕生日のプレゼントは、アメリカはアイロボット社のお掃除ロボ、「ルンバ560」とさせていただいた。
 正直に言えば自分が欲しかったからなのだが、そのようなことはもちろん家人には内緒である。とはいえ家人にはバレバレである。

 どのモデルを選ぶかはあれこれ迷った。
 国内販売向けモデルは修理保証は安心だが、その分かなり売価が高い。比べて廉価な直輸入モデルも最近では修理専門サイトなど出てきており、その点はまあ安心だが、モデルによって長短がある。
「バッテリー残量が少なくなったら自分で探して充電しに戻るホームベース機能、これは必須!」
「リモコンは当面なくともよろしい(後で追加購入できる)」
「丸い形は持ち上げにくそうなので、取っ手(右写真の本体上面の『』形の部分)はあったほうがよい」
「白いモデルは今イチロボットらしくない」
「曜日、時間を設定できるスケジュール機能は我が家で使うとは思われないが試してはみたい」
「世界16か国語のアナウンスも、あると楽しそう」
 などなど、あれもほしいこれもほしいで、かなり機能豊富な「560」に注文ボタンぽち。デザインもシルバーに黒で、いかにもメカメカしい。

 さて家人の誕生日当日、帰宅してみると子供がもう箱を開いていた。というより、マニュアルを読んで、あらかたの機能はお試し済み。これはね、ここはだね、とちゃきちゃきボタンを押して示してくれる。ルンバの担当は次男ということになった。
 さっそく動かしてもらう。
 スイッチを入れた場所から、円を描きながらだんだん広い範囲を探っていき、壁や家具にあたると、今度はそれにそって小さくなめるように動いていく。動く速度、ちょっと停止して考え込む感じ……おお、これはあたかもスターウォーズのR2D2。

 高さ2cm程度の障害物なら乗り越えて突破するが、そのうち椅子の下にはまり込んで、4本の脚のどれかにぶつかって出られなくなってしまった。ソファの下はぎりぎり高さが足りず、このままでは入り込めないようだ(10cmの高さがあれば大丈夫とのこと)。ソファの下はぜひ掃除してほしいところなので、そのうちソファには何か適当な上げ底をかませてやることにしよう。

 吸引力はあまり強くない。ハンディ掃除機レベルか。それでも、ブラシで搔き出しながら何度も往復するので、フローリングがつるつるきれいになったような気がする。ダストボックスが少し小さいので、ゴミはこまめに捨てる必要がありそうだ。

 溜まったゴミを捨てるために、お腹の側を開けてみる。狭いところにこちゃこちゃ機能を詰め込んでいかにも故障しそうな危なっかしさを感じる。家電製品としての完成度、メンテナンスの面倒を考えると、一般家庭に普及するのはしばらく難しいかもしれない。しかし、こういうものをオモチャとして楽しめる方にはそれはもうお奨め。可愛いアニメキャラをペイントしてイタ車ならぬイタルンバなんてどうかと思ったりするが、「誰の誕生日プレゼントでしたっけ」と白い目で粗大ゴミ扱いされると困るのでそれもまた内緒である。

2011/07/11

『出版大崩壊 電子書籍の罠』 山田 順 / 文春新書

Photo  へたれ。

 活字離れ、過剰流通、電子書籍など、出版業界の問題と未来を語る書物はできるだけ手に取るよう心がけている。本書はその中ではどちらかといえば敬意を払うことのできないものだった。
 要するに、かつて光文社で編集に携わっていた著者は、数年前のiPhone、iPadの登場にショックを受けて電子書籍の普及を扇動する側にまわり、数年を経て、思うような利益構造が得られない状況を「罠だった!」と騒いでいる。そういうことだ。

 編集者や新聞記者は、ときに(いつも?)自分たちの経験と表現力が読み手を誘導しているように思い込んでしまうようだが、そうではない。選択権は常に読み手にある。追い掛けているのはプロのほうなのだ。活字離れが起こっているのではなく、旧態依然とした新聞や雑誌が読まれなくなっただけだし、従来の大手出版社の手法ではヒット商品が出せなくなっただけ。「電子出版」にストーリー性の高いRPGやアドベンチャーゲーム、あるいはブログやケータイ小説を含めるなら、革命はとっくに始まっている。「本」の体裁をしていて利益が出るものを制作、配布することだけを「出版」と思い込むほうが古いのだ。

 本書においても、そこかしこに「読み手はこれまでのプロの提供するものを読んでいればよいのだ」的驕慢な言い回しが見え隠れする。詳細に指摘しようかとも思ったが、面倒なのでやめておく。
(なお、本書で問題とされていることなら、このブログに昨年11月にアップした「電子書籍について気になるいくつかのこと」(その一からその七まで)においておおむね指摘済み。つまり、門外漢にもその程度ならすぐ先読みできるということだ)

 一つ、指摘しておきたい。
 『出版大崩壊』とは、大手出版社、流通、印刷業界に起こりつつあった出口のない混乱を描いた小林一博のドキュメンタリーのタイトルである。10年前、出版業界にそれなりに衝撃を与えた書籍のタイトルを芸もなくそのまま使ってしまうのは、不勉強か無神経のいずれかだろう。iPadでAmazon.co.jpにアクセスすれば1分もかけずにチェックできることなのだから。

2011/07/10

ただ走り切ればすむという話ではござらぬ。 「タイムスクープハンター」

 HDに録り溜めしていたNHK「タイムスクープハンター」、DVDに焼きながら3話分まとめて見る。

 毎回、あまり知られていない日本の歴史上の任務や風俗習慣を、無名(?)の役者さんたちが必至で再現してくれて楽しい。登場人物の朴訥なまでの誠実さに泣ける。ひなびた住居、ほこりっぽい街道。子供たちの粗末な衣服、男たちの見苦しい月代(さかやき。額から頭頂にかけて剃り落したさま)にもリアリティがあふれる。

 さすがにこの頃は具合のよい素材捜しに苦しんでか、ただ人情時代劇にしか見えない回も目立つ。
 7日放送の「維新ロマンス英語塾」も「そうだったのか!」と膝を打つ意外なナレッジはほとんど得られず、未来からきたジャーナリスト・沢嶋雄一(要潤)の立ち位置も不明瞭なまま。まぁ、この回は美人英語講師レイチェルの着物姿に萌え~、という話だったのかも。脳内BGMでは勝手にブレードランナーのエンディングテーマが鳴りっぱなしだった。

 過去の作品で一番心に残っているのは、昨年春の「“算額”頭脳バトル」。
 和算を教えながら地方を行脚する「遊歴算家」と庶民のかかわり、というテーマそのものも新鮮だったが、それ以上に、理性をもって権力に挑む、屈しない、という太い骨組みがあった。制作サイドの抑えきれない意図が知らず強く込められてしまった、と言ってもよいかもしれない。
 その意味で、今回のシーズン3からキャスティングされているナビゲーター役の杏は番組の構造をあいまいにしかねない。姿なしのマシーナリーな声だけでよかった。

2011/07/05

『現代百物語 生霊』 岩井志麻子 / 角川ホラー文庫、『現代百物語 忌ム話』 西浦和也 / 竹書房文庫

Photo 百物語ですか、と問われ、読みかけた本を伏せてああでもなければううでもない生返事を返す。夏ですもの、ね、女はしたり顔でうなずき、硝子コップの麦茶の氷がカロンと鳴る。風が湿り気を帯び、蝉の声が途絶えた。
 二冊とも同じ方の。そう思われるのも無理からぬが、作者も出版社も違う。少し前によく流行った『新耳袋』なる草紙も「現代百物語」と副題がついて、いやそんなことを今さら唱えてもらちがあかぬ。百物語とは、もはや短い怪談を百に一欠ける九十九集めた本、という記号に過ぎない。
 そのご本、怖い?
 そんなに怖くはありません。
 怖くはないのですか。
 そうですよ、怖がるようなものではない。
 実話系と称される怪談本の書き手たちは、何百という怪談をかき集めては切り揃えるのに倦んでしまったのか、もう部屋の空気がさぶくなるような怪異など滅多にみられなくなった。あら、じゃあ、なぜそんな本をわざわざ買ってきてもらって読んだりするのかしら。振り向かずとも女の唇の端に微かな悪意が透けて見える気がするが、それは昼から紅がきつすぎるせいに違いない。そうですね、これはもう習慣のようなもので、夏になるとアンズやスモモを一度は食べないと気がすまないのと変わらない。アンズがアプリコット、スモモがプラムでしたっけ。さあどうでしたろう、区別ができて美味しいわけではない。皮をむく指にぽたぽたとしたたるのにかぶりつく。口をぬぐう指は自分のものか女のものか。
 しいていえば岩井志麻子の怪談本は、一年に一夜味わう熟れたスモモのようなもの。夜伽する女に、自ら体を寄せてくるのはそのときだけで普段はそっけないのと、時分どきからこちらの手首の時計に手を添えてみたり、笑い上戸にシャツの衿に顔を寄せてきたりするようなのがいるが、これはまさに怪談についてそのような本。中身は前の『現代百物語』の引き写し、嫌な女がしつっこく夢に現れるとか、嘘ばかり吐く整形女だとか、新味ない話ばかりなのだけれど、湿った言葉遣いが足に生足をからませ、尖った爪が背中をさする。
 なんだか、汚くていや。女は白い眉間に皺を寄せ、こちらのご本は、と差す指を変える。
 西浦和也のほうは、そもそも果実の味わいを期待してもしようがない。見えた、見えない、我慢できなくなって逃げ出した、といった話ばかりで、薄気味悪い話さえない。「今回のテーマは“忌ム”」とかいいながらふさわしい話などほとんど出てこないのも期待外れ。いけないのは怖い話の拾い方ではなく、ちょっと「出た」「聞こえた」話でも、平山夢明の語りの「間」になかなかいたらない、そちらの問題でしょう。
 まあ、酷いおっしゃりよう。
 しかたないじゃないですか、弱いものは弱い。
 それなら読まなきゃよろしいものを。
 そうですね、でも、読むのをやめてしまうと、あなたを怖がらせることができない。
 この家でわたしを怖がらせて、どうするんです。
 怖いのですか。
 怖くなんて、ないわ。
 ふん。ではこちらにいらっしゃい。
 あら。
 そう、その奥の座敷に入るのです。
 怖いものを、見せて差し上げましょう。

2011/07/04

寒色の前半、後半の暖色 『ユリゴコロ』 沼田まほかる / 双葉社

Photo  その沼田まほかるの新刊、『ユリゴコロ』。
 ベストセラー『女医が教える 本当に気持ちのいいセックス』の表紙もかくやの体位でorzな裸女が静かに目をひくが、読み終えてみればこの表紙、内容にさほどマッチしているわけではない。虐げられたエロがお望みなら、同じ作者の『彼女がその名を知らない鳥たち』のがまだしもお奨めだ(だいたいがそういう作家ではない)。また、「ユリゴコロ」という言葉に「百合族」とか、そっち系を期待してしまった方もお帰りはあちら。

 ストーリーは、語り手の男性が父の部屋でノートに書かれた手記を発見し、それを読み進むうちに……。
 枠組みはありきたりだが、とつとつと書かれたこの手記が読み手の皮膚をざわつかせてなかなか凄い。手記に描かれた「過去」と語り手男性の「現在」とが意外な角度で交錯して、最後はこの作者にしては珍しくハートウォームな結末を迎える。しかし、これをハートウォームと思えるのはすでに作者の手の上で勘がぶれているのかとも思う。
 そもそも、(詳しくは書けないが)手記の書き手のキャラクターの移行には正直納得しがたいし、その書き手に人生を狂わされた男の生き様だって奇妙。また、手記の旋律が強すぎて語り手男性の婚約者のストーリー、つまり「現在」の側がほとんど粗筋、書割のよう、という点も否めない。……といったバランスの悪さにもかかわらず、最後まで一気に読んでしまうのは作者の技量によるものであり、これはそういう作品なのだ、と認めるしかないだろう。

 持ち上げているんだか落としているんだかなことをつらつら書いてきたが、作者のほかの作品同様、読ませる力、スピード感のみなぎる好もしい作品ではある。『ユリゴコロ』には子供から若者、老人までさまざまな世代の男女が登場するが、そのいずれにとってもこの作品はまぎれもなく「青春小説」であり、その在り方の前では多少の瑕疵など打ち流れてしまうのだ。

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