フォト
無料ブログはココログ

« 2011年4月 | トップページ | 2011年6月 »

2011年5月の5件の記事

2011/05/27

カタンコトンドキン 『阪急電車』 有川 浩 / 幻冬舎文庫

Photo  水曜日、25日は「図書館シリーズ」の文庫、3冊め、『図書館危機』の発売日だった。朝、出がけに駅の書店で買い求めたときは、文庫新刊コーナーでひときわうず高い平積み二段。それが、仕事上がりの帰り道に寄ってみると全部売り切れ。ちょいと「のだめ」様相を呈してきた感あり。数日前の新聞では最新長編『県庁おもてなし課』が好感をもって取り上げられていたし、長尺、量産のきくスターの誕生となると、苦戦の続く出版界には吉報だろう。

 『阪急電車』は、阪急今津線というローカル線を宝塚駅から西宮北口駅、そこで折り返してまた宝塚駅に戻る、その片道ほんの15分の線路にそって、駅の数だけショートストーリーを重ねた花束のような連作短編集。登場人物たちは、電車で出会い、すれ違い、別れ、あるいはまた出会う。キャラがかぶろうが、多少無理スジだろうが、ともかく進めることを優先したような展開ぶりが楽しい。悲しい恋、痛みの伴う話もあるのだが、あっという間に過去に流れていく。

 この電車の車内では、「図書館シリーズ」のように厳しい心理戦が待ち受けているわけではない。『空の中』『海の底』のように怪獣が暴れまくるわけでもない。どの町を走るどの電車でも見られそうな、平凡なすれ違いの中の甘い姿、苦い姿。けれど、気がつけば訳ありの白いドレスや、孫に厳しい祖母など、ここでも作者は闘う女をより美しく描いている。いじめにあう小学生さえ、背すじを伸ばしたきりりとした姿で描かれる。作者の筆遣いはライトだが、炉の燃料は軽くない。大切なものを大切に守れる心こそ大切、言葉にしてしまうとミモフタモナイが、それを好もしく読ませる作者が巧いのである。
 それにしても、こんなふうにまっすぐ戦う女たちを凌駕して「よくやったと」頭をぽんぽん叩けるくらいじゃないといけないのだから、有川作品に登場する男性陣は大変だ。

 なお、『阪急電車』は映画化されて公開中(らしい)。映画『阪急電車』の出来不出来は知らないが、本書をすんなり楽しみたい方は、映画のキャストは知らないほうがよい。……と思うのだけれど、どうだろう。

2011/05/25

饒舌なバルンガ 『空の中』 有川 浩 / 角川文庫

Photo 200X年。民間超音速ビジネスジェット「スワローテイル」の試作機が、航空自衛隊のF15Jイーグルが、相次いで四国沖の高高度で爆発した。高度2万メートルに、何かがいる!!

 ……なんと、怪獣映画、もとい、怪獣小説だ。

 怪獣小説というと、東雅夫によるアンソロジー『怪獣文学大全』(河出文庫)、山本弘『MM9』(創元SF文庫)ときて、すぐには次が思いつかない。初代ゴジラのストーリーを担当した香山滋の『ゴジラ、東京にあらわる』、『ゴジラとアンギラス』にしても、今でいうノベライズであり、小説としての評価が高いわけではない。
 怪獣小説がジャンルとして興隆しない理由はいくつかあるだろうが、個人的にはこと「怪獣」を描くにあたって、映画館の闇と、左右に大きなスクリーンと、鳴り響く伊福部昭の音楽がない限り、ただのファンタジーかホラーになってしまうからではないかと思っている。

 本書も、とびきり悲愴なプロローグに、航空自衛隊と怪獣の壮絶な空中戦を期待するが、それ以降は2輪のラブロマンスが花だし、対話による学習とコン・ゲームもどきが主戦場だし、そもそも登場する怪獣はガ行で始まり「ラ」や「ドン」で終わる名を持たず、ゴジラやギャオスより「未知との遭遇」の円盤によほど近い。
 小説としての面白さと「怪獣小説」たることはやはり並び立たないのか。本書が恋愛小説──2組のうちとくに大人のほう──さらに一種の知的パズルとして抜群に面白いだけに、そのあたり高みに思いが残る。

 もう1点。

 大橋通り前の国道三十三号線では中央に路面電車の線路が走る道路の全車線が車で詰まり、方々で横転した車両が火の手を上げている。
 逃げ惑う人々の上を大小の白い楕円が舞い飛び、雷や光線がその楕円から降り注ぐ。それに打たれて人が吹き飛び、建物が砕け、降り注ぐ破片がまた地上を逃げ惑う人々を襲う。
 中継のカメラが急に方向を変えて走り出した。がくがくと揺れる画面が、もはやカメラマンが撮影を続行する状況にないことを知らせている。

 上は本書の中で際立って「怪獣小説」している部分だが、この描写はデジャヴのようにこの春を経た我々を打つ。「怪獣」が日本人にとって何のメタファーであったかの証左の1つだろう。

2011/05/23

この木なんの木 気になる木 『レイン・ツリーの国』 有川 浩 / 新潮文庫

Photo「障害を持っていたら物語の中でヒロインになる権利もないんですか?」

 上は「図書館戦争シリーズ」2巻め、『図書館内乱』第二部のクライマックスのセリフ。
 図書隊員の一人が聴覚障害者の少女に奨めた本が障害者を扱った内容で、それをメディア良化特務機関に差別ではないかと攻撃(いちゃもん)の糸口にされる、という疼痛感あふれる展開。その(作品内で図書館から貸し出される)本のタイトルが『レイン・ツリーの国』で、作者有川浩はそのままのタイトル、そのまんま(と思われる)内容の作品を書き起こして「図書館シリーズ」とは別の出版社から発行してしまった。うーん、やりたい放題し放題、楽しそうだ。

 そうして新潮社から発行された『レイン・ツリーの国』は、健常者の男性と聴覚障害者の女性がネットを通じて知り合い、直接出会い、諍い・煩悶のはてに……という物語。耳が聴こえにくいというのは日常生活においてどういうことか、から細かく積み重ね、そのために起こる軋轢や苛立ち、逆に、そのためにつながり、深まっていく相互の思いを温かくざっくりと描き上げている。

 若い男女のダイナミックな恋愛心理の妙と爽やかな読後感の得られる好書ではあるが、しいていえば主人公(男性)のメール文が関西弁なのはどうなのだろう。こういった感情の吐露に関西弁はくどすぎて息が詰まるような気がするのだが。
  白状するけど、俺いま必死やわ。
とか、
  ちょっと卑怯やでそれ。
とか。

2011/05/22

戦闘上等! 『図書館戦争』『図書館内乱』 有川 浩 / 角川文庫

Photo 先月末、角川文庫から2冊同時に発刊された「図書館戦争シリーズ」、読み出したら止まらねー止まらねー。ほかの作品にも手を出して、今週はさながら有川ウィーク。来週も引き続き鞄のポケットは有川本で埋まりそうだ。

 「図書館戦争シリーズ」は全6巻、公序良俗を乱す表現を取り締まる「メディア良化法」をかたに書籍・雑誌の検閲を執行するメディア良化特務機関と、それに対して本と本を読む権利を守ろうとする図書隊の、銃撃戦、政争まで含む抗争を主軸とする。

 有川浩(女性なので「ひろし」ではなく「ひろ」)は、もともとライトノベル作家。高知県出身。現実にはあり得ない設定を立ててストーリーを展開する最近の若手作家の一派とみなせなくもないが、『太陽の塔』『夜は短し歩けよ乙女』の森見登美彦、『鴨川ホルモー』『鹿男あをによし』『プリンセス・トヨトミ』の万城目学、『となり町戦争』『失われた町』の三崎亜記らに比べると、文学のシッポをつけていない。はっきりいえばマンガだ。
 なにしろ、図書特殊部隊に配属されたヒロイン笠原郁の設定にして、
   高校生の時に窮地を救ってくれた図書隊員(=王子様)に憧れ、いつか会える日を夢見て入隊
である。この王子様が、彼女に厳しい鬼教官であることも、もはやお約束。
 だからこの作品に、表現の自由や検閲について深いものを求めてもしょうがない。マンガと割り切って、次々訪れるピンチとそれを突破するスピーディな展開、さらに「いたた…」と苦笑いしたくなるよなベタなラブストーリーを楽しめばよいのだ。とはいえ、女流マンガ家の一部が、思いもかけないほど論理的かつ込み入ったストーリー、ことにセリフの妙を描いて突出するように、本シリーズも油断していると足をすくわれる。ともかく細部にわたってべらぼーに面白い。

 「子供だまし」ではない。立派な「大人だまし」である。

 なお、角川文庫版では、巻末に、読書家としても知られた俳優の児玉清氏と作者の対談が掲載されている。アタックチャンス、は、もう二度と宣言されない。黙祷。

2011/05/05

『幽明録・遊仙窟 他』 劉 義慶 他作、前野直彬 他訳 / 平凡社 東洋文庫43

Photo  連休はだらだらと家にいて、ぱらぱらと手元にある東洋文庫ばかり読んでいる。布張りのハードカバーが手に心地よい。
 震災報道にまさる悲惨、原発報道にまさるサスペンスがそうそうあるわけもなく、その反動かとも思う。

 晋の元帝のころ、甲という人物がとつぜんの病気で亡くなったが、天の役所で帳簿と照らし合わせてみるとまだ寿命があった。ところが甲は足が痛くて、歩いて帰ることができない。そこでちょうどそのときに死んだ西域人の足と交換して生き返ったが、西域人の足は毛むくじゃらで独特の匂いがする。おまけにその西域人の息子たちに見つかり、しょっちゅう泣きながら足にしがみつかれて閉口した。

 『幽明録・遊仙窟 他』にはこのような他愛のない短い話が山ほど詰まっている。

 温敬林という人物が、亡くなって一年たってひょいと戻ってきた。その後、酔いつぶれたところをみると、隣の家の年老いた黄色い犬だったのでたたき殺した。

 などなど。この話など、短いながら妻が「いっしょに寝た」ともあって丁寧に読めばなかなか気持ちが悪い。

 逆に楽しかったのは、昨夜読んだ以下のような話。

 上虞県の県令(知事のようなものか)になった劉鋼は道術をもちいてすぐれた統治を行ったが、道術においては妻の樊夫人にかなわなかった。政務のひまなときには夫人と術比べをするが、一つひとつ必ず負けてしまう。のちに仙人になって天に昇る際も、鋼が役所のそばに生えている木の上に数丈もかき登ってようやく飛んでいくことができたのに対し、夫人はすわったまま雲気のようにゆるゆると昇っていった。

 こういった話は孔子の弟子には「怪力乱神を語らず」といさめられ、また天下国家と関係ない「小説」とさげすまれ、さほど重要ではないものとされてきたようだ。
 だが、本当にそうか。

 それからまもなく妻は病気になって死んだ。それっきり幽霊も姿を現さなくなった。

 それから三十年たつと、はたして王は死んだ。

 それから数日後、巣の屋敷は全焼した。

 徐はくよくよとふさぎこんだきり、死んでしまった。

 それからまもなく、ふいに夫婦もろとも死んでしまった。

 その後、娘たちは次つぎに死んでいった。

 夫人が抱きしめようとすると、たちまち箒になってしまった。そこで焼き捨てた。

 勧善懲悪さえ成しとげられたかどうか怪しいこのような終わり方こそ、あさましくも尊い人のありさまではないか。
 のちの、人間や社会を描いたとされる文芸のわざとらしさが今は少し煩わしい。

« 2011年4月 | トップページ | 2011年6月 »