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2011/01/21

野をひらくハサミ 『ダダ・シュルレアリスムの時代』 塚原 史 / ちくま学芸文庫

Photo  『第七官界彷徨』でしばらく「はまった」尾崎翠だが、その小品の1つに「駄々詩人」という言葉が出てきた。ちょっと嬉しくなって本棚から本書を取り出し、久しぶりにパラパラとページをめくってみた。

 塚原 史『ダダ・シュルレアリスムの時代』はタイトルこそダダ、シュルレアリスムと並記しているが、ダダという祭りの中心人物の一人、ルーマニア出身の詩人トリスタン・ツァラの晩年に至るまでの軌跡と、彼がしてのけたことの意味(ないし無意味)を追ったものである。
 ツァラはダダの創始者として名前と片眼鏡の肖像ばかり有名だが、その人と仕事は意外に知られていない。なお、ダダ的な精神というかあり方は同時多発的に発生したようで、彼一人の発案というものでもないそうだ。最近でいえばパンクのようなものだったのだろうか。その中でツァラはダダという言葉を辞書から「発見」し、その短い花火大会の尺玉として生きた(ダダは、未開社会の儀礼のシミュレーションを思わせる一回かぎりの破壊の儀式の執行者であろうとしたのである。(p.109))。

 百科事典的文学史には、まずダダが既存の文学や美術を否定し、それを引き継いだシュルレアリスムが新しい潮流を切り拓いた……といったわかりやすい解説が少なくない。しかし、本書では、ダダとシュルレアリスムはそれぞれ個別に発生し、存外最後まで言葉への信頼を失わなかった(捨てずにすんだ)シュルレアリスムに比べ、ダダこそは真にアバンギャルドだった、と主張する。
 ただ、アバンギャルドな運動としてとして純粋であればあるほど、一発大きな花火を打ち上げてしまうとほかにはもう何もすることがない。ダダのムーブメントは数年で途絶えてしまい、シュルレアリスムやコミュニストのアジテーションに紛れて消えて行く。それから何十年も「著名な詩人」として生き、死んでいったツァラ。彼の、必ずしも栄光一色で彩られたわけではない姿を本書は私たちに指し示す。フランス共産党系知識人とレトリストたちの矮小な抗争に巻き込まれ、その抗争さえ盛り上がらなかったツァラの死は寂しい(このダダイストは長生きしすぎたのだ。(p.155))。

 シュルレアリスムは、過去のさまざまな文学作品の一節から、未だ奏でられていない画家の爪弾きまで、彼らがこれと認めたものを十把一絡げに攪拌機にかけ、遠心分離をはかり、泥の中にぴちぴち跳ねる至高の魚を求めた。また、上澄み液にはグラックやマンディアルグの透明だが毒を孕んだ光るテキストが残された。
 一方、ダダは何を残しただろう。
 言葉の破壊と混乱を目論み、正しく指針として立ち上がったダダは、ただ詩人たらんとする魂がかつれたときのみ広大無辺の砂漠としてその魂を導く(アラゴンもいうように「これは詩を読むひとに対する挑戦ではなく、詩をつくるひとに対する挑戦」だったのだ。(p.093))。
 しかし、そも詩人たることのかなわない時代には、ダダもただ枯れ川である。

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