フォト
無料ブログはココログ

« 2010年12月 | トップページ | 2011年2月 »

2011年1月の6件の記事

2011/01/26

宇宙人ジョーンズ「BOSS」CMが留めようとするもの

 サントリー缶コーヒー「BOSS」のCMでは、米俳優トミー・リー・ジョーンズ扮する宇宙人ジョーンズが、地球調査のためさまざまな職業についてみせる。寡黙だが少しKYでドジな宇宙人をユーモラスに描き、同時に「この惑星」現代日本の暗黙のルールを皮肉にあぶり出す……というのがこのシリーズのおおかたの評価かと思われる。
 しかし……それだけだろうか。

 最新の「とある老人」篇では、タクシー運転手のジョーンズに、同じく宇宙人調査員の老人(大滝秀治!)が語りかける。
 「この惑星で起きることはむかーしからわけのわからんことばかりじゃった」
 「とくに最近はまったくわけがわからん」
 「いや〜、ずっと見てきたけど、今ほど皆が下を向いてる時代はなかったかもしれんな」
 そこで一転、カーラジオから坂本九の「上を向いて歩こう」が流れ、建設中の東京スカイツリーを見上げる人々のカットが次々と示される。
 (ナレーション)「ただ  この惑星の住人はなぜか上を向くだけで元気になれる」

 ちょっと見夢と希望にあふれた展開だが、この「上を向くだけ」の「だけ」が味わい深い。
 東京スカイツリーは、決して昭和期における東京タワーのごとく希望と繁栄(リア充)の約束として描かれているわけではない。誰もが下を向かざるを得ない右肩下がりの時代に、希望も根拠もないけれどせめて顔「だけ」上を向こうとするための単なる目印にすぎない。虚の指標とでも称すればよいか。

 さらにシリーズ全体を振り返ってみよう。
 ジョーンズの働く仕事の多くは、いわゆる日雇い派遣労働である。周囲にばらばらと登場するのは疲れ果てて眠る者、やみくもに働く者、年老いた者などなど。このシリーズが扱う職業や場面のいくつかが、「秋葉原無差別殺傷事件」など最近の一連の無差別殺傷事件の犯行にいたる道程と重なるのははたして偶然だろうか。

 このCMが言葉少なく、しかし強く止めようとしているものは(他者を巻き込むものも含む)「自殺」ではないか。
 制作陣がどれほど明確に意図しているかはわからない。だが、このシリーズは、(とくに経済弱者と老人に対し)愚かな時代でも顔「だけ」は上を向いてはどうかと静かにメッセージを送る。「せめて、缶コーヒーを飲む間だけでも、踏みとどまろう」。

2011/01/21

野をひらくハサミ 『ダダ・シュルレアリスムの時代』 塚原 史 / ちくま学芸文庫

Photo  『第七官界彷徨』でしばらく「はまった」尾崎翠だが、その小品の1つに「駄々詩人」という言葉が出てきた。ちょっと嬉しくなって本棚から本書を取り出し、久しぶりにパラパラとページをめくってみた。

 塚原 史『ダダ・シュルレアリスムの時代』はタイトルこそダダ、シュルレアリスムと並記しているが、ダダという祭りの中心人物の一人、ルーマニア出身の詩人トリスタン・ツァラの晩年に至るまでの軌跡と、彼がしてのけたことの意味(ないし無意味)を追ったものである。
 ツァラはダダの創始者として名前と片眼鏡の肖像ばかり有名だが、その人と仕事は意外に知られていない。なお、ダダ的な精神というかあり方は同時多発的に発生したようで、彼一人の発案というものでもないそうだ。最近でいえばパンクのようなものだったのだろうか。その中でツァラはダダという言葉を辞書から「発見」し、その短い花火大会の尺玉として生きた(ダダは、未開社会の儀礼のシミュレーションを思わせる一回かぎりの破壊の儀式の執行者であろうとしたのである。(p.109))。

 百科事典的文学史には、まずダダが既存の文学や美術を否定し、それを引き継いだシュルレアリスムが新しい潮流を切り拓いた……といったわかりやすい解説が少なくない。しかし、本書では、ダダとシュルレアリスムはそれぞれ個別に発生し、存外最後まで言葉への信頼を失わなかった(捨てずにすんだ)シュルレアリスムに比べ、ダダこそは真にアバンギャルドだった、と主張する。
 ただ、アバンギャルドな運動としてとして純粋であればあるほど、一発大きな花火を打ち上げてしまうとほかにはもう何もすることがない。ダダのムーブメントは数年で途絶えてしまい、シュルレアリスムやコミュニストのアジテーションに紛れて消えて行く。それから何十年も「著名な詩人」として生き、死んでいったツァラ。彼の、必ずしも栄光一色で彩られたわけではない姿を本書は私たちに指し示す。フランス共産党系知識人とレトリストたちの矮小な抗争に巻き込まれ、その抗争さえ盛り上がらなかったツァラの死は寂しい(このダダイストは長生きしすぎたのだ。(p.155))。

 シュルレアリスムは、過去のさまざまな文学作品の一節から、未だ奏でられていない画家の爪弾きまで、彼らがこれと認めたものを十把一絡げに攪拌機にかけ、遠心分離をはかり、泥の中にぴちぴち跳ねる至高の魚を求めた。また、上澄み液にはグラックやマンディアルグの透明だが毒を孕んだ光るテキストが残された。
 一方、ダダは何を残しただろう。
 言葉の破壊と混乱を目論み、正しく指針として立ち上がったダダは、ただ詩人たらんとする魂がかつれたときのみ広大無辺の砂漠としてその魂を導く(アラゴンもいうように「これは詩を読むひとに対する挑戦ではなく、詩をつくるひとに対する挑戦」だったのだ。(p.093))。
 しかし、そも詩人たることのかなわない時代には、ダダもただ枯れ川である。

2011/01/17

実は24年組の末裔? 『とりぱん』(現在10巻まで) とりのなん子 / 講談社ワイドKCモーニング

Photo  講談社にはなんとかしていただきたい、ドンドン!(両手で机を叩く)

 というのも、まっことゆゆしきことに『誰も寝てはならぬ』と『とりぱん』の2作が、この数年、単行本にして5冊連続、発行日がずっと同じなのである。
 いずれもモーニング連載、1回数ページの(フィクション、ノンフィクションの比重はともかく)いわゆるコミックエッセイ、それもまたーり、ほろほろした味わいを売りにした好編である。単行本は同じくワイド版、ストーリーを追う内容ではないのだから、ぱらぱらと順不同、思い立つとき気が向くままに読めばよいようなものだが、ついつい単行本発売日に買い求めてそのまま一気に読んでしまう。
 コミックエッセイというものは文字内容がポイントなのでコマの飛ばし読みはできない。腰を据え、目を凝らして2冊連続にぎゅぎゅっと読むことになる。そして疲れ果てる。コミックエッセイ読むのになぜにこんな息の上がるような思いをせにゃならんのか。ぜいはー。
 そういうわけで、講談社さん、発売日をせめて半月でもずらしていただければ幸い。

 紹介が前後したが、「とりぱん」とは野鳥に与えるパンの意。北東北の作者の住まいに訪れる、あるいは散歩先で見かけるさまざまな鳥や虫、その他動植物全般をギャグまじりに描く、それだけといえばそれだけだが、小さくとものびやかな作品だ。登場する鳥や虫たちの世界はほどよくのどかで、ときおり厳しい。

 『とりぱん』は毎回お題の鳥や虫を描いたギャグで幕を開け、最後のページには夕焼けや星空、雪景色など、少ししみじみした光景が描かれることが多い。ペンタッチやこうしたページの味付けに、いわゆる「花の24年組」(萩尾望都や大島弓子、樹村みのりら)が活躍していたころの小学館の雑誌の空気が感じられることがある。それも、かなり鮮明に……。
Photo_5  左は「プチコミック・春の号」(昭和53年5月1日発行、特集 名香智子の世界)に掲載された武石りえこの『れい子さんが行く』の一節だが、『とりぱん』の連載が始まった当時、この作品やこの作品が掲載された「プチコミック」を思い出したものだ。
(そういえば、たまたまだろうが、10巻の帯にカットを寄せているエロイカの青池保子も24年組の1人だった。)

2011/01/09

『キャンディとチョコボンボン』(大矢ちき/小学館文庫)より「雪割草」

Photo 【あたし あなたが だれなのか わかる気が するわ】

 少女マンガ研究者必読の書『花咲く乙女たちのキンピラゴボウ』において、橋本治は大矢ちきを「世界を変えた唇」というサブタイトルで取り上げている。いわく「顔には唇という名の内臓粘膜が露出している──そうしたリアルな現状認識に立つのが大矢ちきである」。

 この事実を発見した橋本治も偉いが、そのように作品を描いた大矢ちきも凄い。
 なにしろ彼女が活躍したのは主に70年代前半のほんの数年間、それも、掲載先はあの夢見る乙女ちっく、「りぼん」である。その誌上で、大矢ちきは、大きな星目、夢見がちな少女を主人公にいかにもの少女マンガを描きながら、のちのやおい同人誌ブームの先がけとなる長髪、鷲鼻、冷たい目、長く細い指のデカダン美青年をはじめて産み出したのだった。

 それだけではない。大矢ちきが冷たい楔のように少女マンガの歴史に残した作品がある。
 それが今回紹介する「雪割草」だ。「雪割草」だ。「雪割草」だ。(エコー)

 この中編については、これまで何度話題にしようとしてきたかわからない。川原泉の30回は泣ける怪作『銀のロマンティック…わはは』のパロディ元であることから書き起こすことも考えた。『アラベスク』や『エース』との関連から解くことも検討した。だが、言葉をつくそうとすればするほど「雪割草」から離れてしまう。

 「雪割草」は現在、小学館文庫『キャンディとチョコボンボン』で読むことができる。どうか手に取り、読んでいただきたい。文庫サイズであり、また表紙がモノクロなのが残念だが、それでも、他のあらゆるマンガ作品との違いは読み取っていただけるのではないか。

 テーマはフィギュアスケート、と、死。
 フランス心理映画のような人物描写、無駄を排したセリフ。そしてラスト数ページにおいて、読み手は氷上にベートーベンの「悲愴」とエッジングの音を聞く。

 ペンタッチが硬質な作品ならほかにいくつかあるかもしれない。しかし、あらゆるコマが磨き上げた大理石でできた作品は「雪割草」だけだ。

2011/01/07

『美しい恋の物語』(ちくま文学の森1)より、「なよたけ」(加藤道夫)

(本項およそ「なよたけ」の書評といえるようなシロモノではありません)

 大島弓子といえば、チビ猫が走り回る『綿の国星』が代表作ということになるのだろう。しかし、個人的には、ちょっとぼんやりしたところもある(人生の目標を決めかねた)若い主人公が、エキセントリックな登場人物と出会い、別れ、その経験が主人公の道を照らし出す、そんな作風が明瞭になったころの数年が狂おしくも愛おしい。「星にいく汽車」「鳥のように」「なごりの夏の」の1972年、「ミモザ館でつかまえて」「春休み」「野イバラ荘園」の1973年。まだ少女マンガの短編作家には単行本など期待できず、好みの作家の作品は古書店の雑誌束から探し出して切り取って保存するしかなかった時代のことだ。

 大島弓子の作品は、その予想外の展開曲線が胸を圧しつぶす切ない物語であると同時に、当時の若い読み手にとってすぐれた読書案内でもあった。与謝野晶子の「晩秋」(路は一すじ、並木道 赤い入日が斜に射し 点、点、点、点、朱の斑……)やゲーテの『ファウスト』からの引用は今もその場面ごと胸を高く鳴らす。

Photo_5  そんな中、別冊少女コミック1972年3月号に掲載された「3月になれば」で取り上げられていたのが、夭逝した加藤道夫の戯曲『なよたけ』だった。「なよたけ」は作中では登場人物の青年にとっての「マドンナ」の意である。

  竹よ竹
  なよたけは
  きみ……

 この1ページに、まだ読んだこともない「なよたけ」という戯曲をどれほど夢見たことだろう。

 しかし、「なよたけ」は戯曲ということもあって地方の書店店頭で見かけることもなく、筑摩の文学全集などに収録されてはいたようだが手にする機会を得ず(のちに青空文庫に公開されているのは知ったが、PCやケータイで読む気にはなれなかった)、このページのイメージのまま心の底に沈んで数十年(!)が過ぎた。

 『美しい恋の物語』は昨秋発行された文庫サイズの「ちくま文学の森」の1冊で、タイトルどおり恋愛小説を集めたアンソロジー。「なよたけ」はその巻末を飾る。「竹取物語」に想を得、幻想と現実を溶け合わせたような(やや暴走気味の)悲恋物語である。今読むと、全共闘的反体制風味やサイケデリックな味付けが感じられ(ただし「なよたけ」初演は1955年で、全共闘やサイケブームよりずっと以前のことなのだが)、つまりは「昭和」の味わいが濃い。
 こんなふうに直接的に恋慕を描く作品に無条件にこがれるには、もう少し若いうちに出会うべきだったかもしれない。年齢の問題ではなく、今、恋愛モノを必要としていない、ということがあるかもしれない。

 だが……大島弓子の1コマが導いた「なよたけ」が今も特別な作品であることに変わりはない。なよたけは手に入らなかった愛おしきものごとの影として、遠い昨日の竹薮に今も目をふせて黒髪を揺らす。

2011/01/03

『書き下ろし日本SFコレクション NOVA3』(河出文庫)より、「ろーどそうるず」(小川一水)

Nova  真夜中の初詣から帰ってきて、湯船につかりながらパラパラと読んだのが、小川一水「ろーどそうるず」。

 市販されたバイクに設置された制御ユニットと研究開発用システム間の通信記録(人工知能同士の対話)が、ささやかな友情と歴史を描き上げる。文庫で50ページにも満たない、しかもほとんどが会話体からなる短い作品だが、とても切ない、いいお話だった。
 このような寂寥感は、おそらくSFでしか表現され得ない。SFにおいては、作者が、時間軸、空間軸というものを(場合によっては宇宙的規模まで)強く意識して書くため、たとえば「二度と会えない」ことは「宇宙ができてから宇宙が滅びるまで、どの時間帯、どの空間座標においてももはや二度と会うことができない」ように描かれる。その情報は神の視点から描かれるわけだが、読み手もまた、事実を知らされたとき、神の目線で世界の豊かさ(本物のオールラウンダー!)、そして哀しさ、切なさを思い知ることになるのだ。

 気がつけば、そんな作品を、2011年の最初の1作として読んだことになる。
 その年の最初に読んだ作品によってその1年の読書生活が……なんてことは別にないのだけれど、それでも得をした気分ではある。大吉。

 なお、『NOVA3』をはじめ、ここ数年のSFアンソロジーの大繁殖については別の機会に触れたい。
 なにはともあれ、本年もよろしくお願いします。

« 2010年12月 | トップページ | 2011年2月 »