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2010年12月の6件の記事

2010/12/25

続・絶望の深さ 『トラウマイスタ』(全5巻) 中山敦支 / 小学館少年サンデーコミックス

Photo_2  絶望の深さがただごとでない、といえば、紹介しておきたい作品があった。

 出自が楽天的なのか、マンガやアニメの世界では、さまざまな窮地こそ描かれるものの、読み手や視聴者がそのまま「もうダメだー」という気分まで引き落とされるようなことはめったにない。主要な登場人物が軒並み死んでしまうような作品でも、必ずしも真っ黒な気分に陥るとは限らないのだ。

 中山敦支『トラウマイスタ』はその絶望感の甚だしさにおいて、もう少し語られてよい。

 少年サンデー誌上では、近年、『金色のガッシュ!!』『うえきの法則』『烈火の炎』など、主人公が特殊な能力をもって敵と戦い、成長する、そんなヒット作が少なくない。というか、そんなのばっかり。登場人物たちの能力は彼らに従うキャラクターの形をもって現れ、ある能力にはこれこれの条件を満たせば逆転できるといったパズル色が強い。要はジョジョや幽遊白書、あの路線ですね。

 『トラウマイスタ』もそういった柳の下作品の1つで、2008年夏より約1年間にわたって掲載された。いかんせん、デフォルメが極端すぎてコマが読みづらい、戦闘時のパズル性がほとんどない、登場人物名や能力の設定等に中途半端に美術、宗教用語等を用いてとっつきが悪い、等々、素人目にも明らかな難点が目立ってヒットにはいたらなかった。

 しかし、第4巻後半の(掲載時、思わず「あっ」と声の漏れた)悲劇から最終巻半ばにいたる展開は、そんな理屈を凌駕して、ただもうざざざと血が引くような思いを誘う。キツい。悲しい。

 全体に、もう少し巧く描かれていたなら、という欲求は残る。……しかし、もし巧みに描かれたなら間違いなくこの血走った目、虚ろな暴走はなかった。青春みたいなものだ。ほかにどうしようもない。
 『トラウマイスタ』はこのようにしか描けなかった、傑出した素晴らしい失敗作なのである。

2010/12/20

最後は楽天的なアリア 『のだめカンタービレ(25)』 二ノ宮知子 / 講談社 KC Kiss

Photo  懐かしいR☆Sキャラに新キャラも加わって「アンコール オペラ編」がしばらく続くのかと期待していたら、あっという間の2巻でおしまい。
 楽しい宴も終演のブザーがなり、観客は名残を惜しみつつ立ち上がる。

 ………………

 ↑の「……」のところは、いろんなことを書いては消し、書いては消して、紙が破れてしまった。

 のだめと真一については、本編の最終回(23巻)が今ひとつ「決め!」きれなかったのを、アンコールで少しご褒美をあげたようなあんばい。よかったね。
 巻末の描き下ろし読み切りの主人公はターニャで、前巻の紹介の折

> もはやはらはらする必要のない千秋やのだめに比べて、気がかりなのはもう娘のようなターニャの行く末。

と書いたのだけれど、作者も同じような気持ちだったのかしら。

 『のだめカンタービレ』の登場人物たちは誰も彼も、なぜだかほかのマンガや小説に比べて実在の知人、友人のように思えてしまう傾向が強い。どうして、なんてことはここでは考えず、作品という窓が閉じてもその向こうでみんな幸多かれと祈ってこの項もおしまい。

2010/12/14

絶望の深さ 『進撃の巨人』(現在3巻まで) 諌山 創 / 講談社コミックス

 たぶん、今年最大の(ただし最高のかどうかはわからない)話題作。
 「凄まじけりゃいいってもんじゃないだろ」と悪態の一つもつきたくなるほど、とにもかくにも壮絶な作品である。

 人類は107年前、突如現れた「巨人」たちに捕食され、絶滅寸前まで追いやられた。築き上げた三重の壁の中に逃げ込んでようやく百年の安逸を得るも、桁違いに巨大な大型巨人の出現によって外側の壁が蹴り破られ、さらに内側の壁の中まで追いやられてしまう。兵士団の絶望的な戦いに勝機はあるのか、人類は「外」を取り戻すことができるのか……。

Photo  作者 諌山 創(いさやま はじめ)の作画はお世辞にも巧いとは言えない。その分、ボッシュやブリューゲルが描いてみせた夢魔跳梁の香配が漂う。第3巻からの引用となる添付画像は、巨人の手足の短さなど、滅茶苦茶といえば滅茶苦茶だが(まるでカエルだ)、その分、兵士を口にくわえた巨人の知性の欠落、無慈悲とすらいえない動物性がよく表れている。巨人たちは焦点の合わない目で市街を襲い、人間をみかけると無造作に摘み上げて食べてしまう。
(巨人たちの外見は白人の男性ふうで、身長は15m級、7m級、5~4m級とまちまち。人を捕食するにも一飲みにする場合もあればパキパキと手足胴を噛み折るもの、両手で捕らえて頭からかじるものとある。小海老を呑む大小の魚の如しだ。)

 一点、「絶望」について触れておきたい。アクションマンガなら次から次へと危機が出現することに不思議はない。しかし、おおかたの作品において、読み手は、主人公の資質をもってすればこの危機も突破できるに違いないと実はそれほど心配していない。
 だが、『進撃の巨人』の絶望の深さはただごとではない。第1巻、オープニング後間もなく主人公は奈落の底に突き落とされ、さらにその巻末では読み手がうろたえる展開が待っている。2巻では主人公を慕うヒロインが活躍するが、彼女の冷たい瞳の奥にもやはり底なしの絶望がある。

 こういった作品については、一刻も早く先を読みたいと思うのが普通だが、正直に申し上げれば単行本が十巻か二十巻かで完結するまで読みたくないのが本音だ。『進撃の巨人』は、それほどまでに荒く、暗い。

2010/12/09

電子書籍について気になるいくつかのこと その七 ひとまずおしまい

 電子書籍にできないこと。

 季節の小さな花をとじ込んで押し花にすることができない。忘れていたその儚い花びらを手のひらにこぼして、面影を懐かしむことができない。

 電子書籍にできないこと。

 クラスメートの少女にお気に入りの本を貸して、薄く線を引いた一節に、挟み込んだ小さな手紙に、もどかしい思いをたくすことはできない(少年は夢見るだけで、どうせそんなことできやしないのだけど)。

 電子書籍にできないこと。

 ページをくり抜いて拳銃を隠すことができない(まいった)。本棚の裏側に地下室につながる秘密の扉を隠すことができない(どうしよう!)。

 電子書籍にできないこと。

1_2  折々の詩の頁に、Wさんにカットを描いてもらった世界でただ1冊のこの本。

 電子書籍にできないこと。

 夫は寝たふりの枕にすることができない。妻はなけなしのヘソクリを隠すことができない。現役受験生は覚えた単語のページを食べることができず、浪人生は辞書の紙で煙草を巻いてふかすことができない(さすがにいつの話でしょう)。

 電子書籍にできないこと。

 サイン会は中止、初版本コレクターの目はうつろ、万引き少年は舌打ち、名ばかりの書斎は物置扱い。

 電子書籍にできないこと。

 ベンチで物思いにふける年老いた友人たちをブックエンドにたとえることができない。

 電子書籍にできないこと。できること。できないこと。

2010/12/06

電子書籍について気になるいくつかのこと その六 のおまけ

 ところで、そもそも、編集者とはいったい何者なのか。

 原稿やゲラを校正する者? ……校正能力、それどころか日本語能力に問題のある編集者も少なくない。原案となるストーリーを考えたり、直接原稿を書き換えてしまう編集者もいれば(極端な話、著名人の名前だけ借り、ゴーストを手配して本を仕上げるのも編集者の仕事である)、作家の書いた原稿を受け取って印刷屋に運ぶだけという者もいる。個々の作業は校正者、レイアウタ、進行担当などの専門家に任せて自身は映画館と書店に入り浸るような豪の者はさすがに生き残っていないか。

 こんなふうに、作業の中身やボリューム、密度で編集者の仕事を規定しようとすると、混乱に陥るかもしれない。同じ出版社でも、編集部によって編集者の立ち位置がまるきり違うことだってある。同じ編集部に属しながら、仕事の仕方がまったく異なることも珍しくない。

 こんな考え方はどうだろう。
 編集者とは、トランプでいうジョーカーのような存在である、と。

 つまり、フィクションであれノンフィクションであれマンガであれグラビアであれ、主たる作者やライターやカメラマンが作品を構成するために足りないところを埋め合わせ、よりよく、より早く、より売れるべく作品を形づくるために働く者。だから、誤字脱字の多い作家なら校正が必要だし、文章を勝手にいじられるのを厭う作家の原稿には手を出さない。税金対策や住まい、××の手配まですることもあれば、単なる運び屋で十分な場合もある。アドバイスや励ましが必要な作家にはこまめな連絡を、放置すべき作家には自由な時間を、スケジュール管理の必要な(つまりほとんどの)作家に対しては、電話魔となる。

 騙し絵の一種に、中央に壺が1つある、ところがよく見るとその壺の形は左右の人の横顔のシルエット、というのがある。これは壺の絵なのか、顔の絵なのか。新刊の本や雑誌は、壺とシルエット、どちらが実とも影ともいえない補完された作業の上に成り立つものだ。もちろん、編集者の役割はすべて影の側に属す。

 今後広まるであろう電子書籍の時代に、影の役割を果たすのは誰だろう。壺の数が飛躍的に増え、その形が変化して定まらないとき、影はうまく機能できるだろうか。

2010/12/05

電子書籍について気になるいくつかのこと その六

 福満しげゆきの3つの作品を見てみると、同じ作者の私生活を描きつつ、それぞれが発表の場、つまり雑誌の空気に合わせて全く別の作品に仕上がっていることに驚く。

 『僕の小規模な失敗』は、「アックス」という(よくも悪しくも)「ガロ」の放任主義を受け継いだマイナー雑誌に掲載された作品で、マンガ家を志す若者の日々の迷妄と葛藤を小さなコマに丹念にペンで掘りつけていったような作風だ。ことに後半、のちの「妻」と知り合い、同棲、結婚にいたるいきさつを1ページにぎゅうぎゅう何十コマも描き詰めた執拗さ、切実さは、異様な心動と微妙な笑いを招く。

 それに比べれば出世作『僕の小規模な生活』は格段に落ち着いており、作者の「どうでしょう?」の問いかけにも余裕がある。ただしそこは編集長の島田英二郎氏がインタビューに応えて

雑誌は、「らしくあろう」とする志向と「新しくなろう」とする志向という、ふたつの相反するもので成立している。そのバランスが雑誌の個性だけど、「モーニング」は「新しくなろう」とする志向のほうが強くありたい。
いくらなんでも微妙すぎると恐る恐る載せるような作品が何本か入ってないと雑誌としてだめだと。

と胸を張る雑誌だけあって、可愛いばかりでない「妻」のヒステリックな激昂や他社を含む編集者たちとの諍いまで載せてしまい、尋常を半歩踏み外す味付け、さすが「モーニング」の面目躍如といえるだろう。

 場の空気にぴたり合っているという点では、双葉社「漫画アクション」掲載の『うちの妻ってどうでしょう?』も遜色ない。ここに至ってこの夫婦の生活、より正確にいえば売れないマンガ家の生活を描くという行為そのものの発する異様な気配は失われ、双葉社らしいコケティッシュでもっちりした空気に変わっている。「妻」はもはや当節流行の「不思議ちゃん」でしかない。そもそも『うちの妻ってどうでしょう?』という編集者のつけたと思われるタイトルが、他の2作とは世界観が違うのだと宣言している。

 これが、これらが「編集者」の仕事である。

 電子書籍が、作者本人によって簡単に作成でき、配布できるようになる環境下では、編集者はこういった成果を残しづらいことになるだろう。
 放任することによって特異なキャラクターを世に送り出し、それを素材に雑誌のカラーを作者に強要することがうまく効果を出し合って2つのヒット作が生まれた。この成果は、一方的な押し付け(これを権威と呼ぶことも、傲慢と呼ぶことも可能だろう)がまったくないところでは生まれ得なかったのではないか、ということなのである。

 電子書籍、いや、今後のネットの世界では、評価は読者が直接下す。これはとてもいいことだ。だが、何事につけても、「いいこと」には副作用がある。マーケティングが発達した時代には、自動車のデザインがメーカー、国を問わず似たようなものばかりになってしまうように、「衆」の声は「奇」の角を削り取る。
 作者が編集者と対峙し、作品の没、あるいは手直しを強制される場では、実は作者は全否定されているわけではない。ネットの世界で編集者が編集者として生活できなくなってくる時代、作者は「衆」の声と自分自身で対峙していかなくてはならない。それは、なかなかにやっかいなことだ。

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