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2010年11月の7件の記事

2010/11/28

福満しげゆきについて気になるいくつかのこと 『僕の小規模な失敗』、『僕の小規模な生活』(現在3巻まで)、『うちの妻ってどうでしょう?』(現在3巻まで)

Photo  福満しげゆきのメジャーブレークに火がともったのは、2007年の暮れに講談社から『僕の小規模な生活』の単行本が出たあたりからだったかと思う。翌年の秋に第2巻が出たころにはささやかながらちょっとしたブームとなっており、ジュンク堂の地下の平台に専用コーナーが設けられ、過去の単行本まで取り揃えられていた(池袋までそれを求めに行ったのでよく覚えているのです)。
 最近は文庫の表紙やヴィレッジヴァンガードのレジ袋まで請け負って、しっかり売れっ子の一員である。小規模だけど。

 とはいえ、福満しげゆきの作品の魅力を説明するのは、ちょっと難しい。
 青林工藝舎から発行されていた、初期の、いかにもガロ風アヴァンギャルドな若描きはさておき、現在も連載中の『僕の小規模な生活』(モーニング)、『うちの妻ってどうでしょう?』(漫画アクション)では、マンガ家である福満自身とその「妻」の生活が描かれる設定においてまったく同様である。ちなみに青林工藝舎の『僕の小規模な失敗』は作者が高校生活に挫折し、それ以来何をやってもうまくいかない中、マンガ家になることを選び、何度も諦め、やがてのちの「妻」と出会って付き合い、何度も揉め、結婚し、マンガに(何度目かの)再チャレンジするまでの物語であり、現在の福満作品の前史となっている。つまり、福満しげゆきはもう何年も、「妻」と暮らすマンガ家の私生活のみをこつこつ描き続けている、ということになる。

Photo_2  この、丸顔に細い目、もっちり太い脚の「妻」が独特で、機嫌をそこねると泣き叫び、作者を殴り、蹴り、「クソブタ!」と罵倒する。かと思えば家計を支え、作者のパソコンを操作してホームページを作成してくれるしっかり者でもある。「よかよ」「せんよ」「おいの それ…」と味のある九州弁を駆使する点でも魅力的だ。福満ならずとも「妻~~っ!! 妻~~っ!!」と布団の上をごろごろする読者が少なくないに違いない(かな?)。
 この「妻」人気なくして福満しげゆきのブレークはなかっただろう。しかし、それだけではいろいろ説明がつかない。なにしろ、作品自体は、内向的で嫌味なマンガ家がダメダメな人生をうだうだ言い訳で覆い尽くす愚痴マンガなのだ。

 誤解を懼れず(誤解を愉しみに)言うなら、福満作品の面白さは、各コマに充満する論理性ではないだろうか。
 彼の作品は、愚痴っぽく見えて、いや、実際に彼自身の言動は失敗と言い訳にまみれているのだが、それがマンガのコマに反映されたとき、描かれ方がいちいち読者への問いかけとなっているのである。漫画アクションの編集者が連載タイトルを『うちの妻ってどうでしょう?』としたのは慧眼ではないかと思う。福満のコマには、随所に「どうでしょう?」が用意されているのだ。

  編集者からせっかく電話がかかったのに
  よその出版社から依頼を受けた話をしてしまった
    ⇒ どうでしょう
  「妻」は椅子に座るとき足の親指をうち側にまるめている
    ⇒ どうですか
  バイト先の110円ショップにスラーっとした女子大生が
    ⇒ どうでしょう
  隣の部屋の新聞受けのすきまから小バエが!
  なのに「妻」はとりあってくれない
    ⇒ どうですか

Photo_4  どうでしょう、は作者の意識に常にとぐろを巻く疑問符でもある。作者は内向的だが、内向的な者は往々にして他人に厳しい。「まあそんなものでしょう」などという曖昧な回答は許されない。作者は次のコマ、もしくはしばらくして「ダメだ…」「よし」と自分なりの回答を提示することもあれば、さらにそれを覆すこともある。問題だけ投げてコマを打ち切ることもある。いずれにせよ、読み手は作品と相対する間中、明確な回答を求め続けられるのだ。

  あんな私生活もエロマンガみたいな人に……
  どんなエロマンガを描けばよろこんでもらえるんだ……
    ⇒ どうでしょう
  一度もライブをやったことないのに
  武道館でライブをやるのが夢だという友人
    ⇒ どうですか
  頭に比べて小さな帽子に
  小学生のように紐を縫いつけた「妻」
    ⇒ いかがでしょう

 問いをちぎっては投げちぎっては投げするような数コマ(四コマとは限らない)マンガから、「どうでしょう」をつないで(つまりなんらかの事態に作者が煩悶に葛藤を重ねて)展開する十数ページのストーリーマンガまで、読み手は大小の命題を提示され続け、頭の中で「それはあり、だろ」「ないない」「うーん、正しい。いやしかし?」と答えを追い続ける。頭の中のモーターがブーンとうなり続けるような塩梅だ。

 福満しげゆきという人物は、不器用ではあるかもしれないが、常に論理的思索、の人なのではないか。福満作品の多くが、ぐちゃぐちゃ陰気な私小説的空間を描きながら、読後に妙に明快で工学的な印象が残るのは、そういった構造によるのではないか。
 ⇒ どうでしょう。

2010/11/22

電子書籍について気になるいくつかのこと その五

 既存の、とくに大手出版社は、今後の電子書籍の時代に生き残ることができるだろうか。厳しそうだが、おそらくコンテンツ提供者ないし整形者としてWeb企業と提携し、生命維持をはかっていくことになるのだろう。

 一つ言えることは、「編集者」という生き物には(平均すれば)極めて生きづらい時代が訪れるだろうということだ。

 なにより、「本」を発行する/しないの決定権を独占できなくなるのだから、内容に関する特権はまず維持できなくなるだろう。
 紙の「本」では求められて当然だった彼らの仕事は、どんどん失われていく。
 前回書いたとおり返品処理が必要ないのだから発行数の管理も不要だ。月刊、週刊の雑誌に初出という形態が必須でなくなれば、締切という概念、スケジュール管理という仕事の質も変わっていくだろう。電子書籍においては、ページデザインや文字フォントの扱いなどは端末(ハードウェア)やビューアー(ソフトウェア)や読み手の選択に委ねられる。したがってレイアウトの細かい作業は不要となり、それらは発表の場(サイト)やツールの選択、つまり作家の側の業務分掌となる。400字詰め原稿用紙やケント紙1枚換算だった原稿料の扱いも変わってしまい、文字校正さえ、原稿作成時のアプリケーションがある程度面倒をみてくれることだろう(Wordの波線は意外と優秀だ)。「本」の広告・宣伝も、ネット上ではノウハウがまるで違う。
 要は、作家サイドが自由に「書籍」を制作でき、好きな場所から配布できる時代に、従来のような門番かつ裁判官としての圧倒的な権勢はふるいようがないということだ。

 また、編集者として自由になる経費も激減するだろう。
 Web上で雑誌のようなものを発行したとしても、なかなか紙媒体ほどには広告収入は得られないに違いない。なにしろWeb上にはいたるところに広告スペースがあり、その宣伝効果は自社サイトへのリンクないし注文ページへの誘導数に換算可能という点でフラットだ。だから、なにも売れるか売れないかわからない電子書籍に「事前」に取材費や交際費を使わせる必要はない。クライアントはさまざまな場所に広告リンクを張っておき、効果があった分だけ広告料を支払えばよい。「この本は売れるはずなのでPR出稿いかがですか」と広告費をかき集め、それを充てにロケ隊を組む、といった従来のやり方は成立しなくなる。宣伝効果のあったクリック数だけ広告費を支払うという、ある意味自然な経費の流れは、出版における新たな挑戦、言い換えれば出版社としての投資、冒険の蓋をふさいでしまうかもしれない。

 今回書きつらねてきたことは、編集者の受難であると同時に、そもそもの出版社不要論でもある。
 タイトで厳しい薄利多「クリック」(今後は多「タップ」か)のネットビジネスの世界では、従来と同じ数だけの編集者(=アドバイザー)を食べさせる余裕はない。極端な話、廉価に発注できる「作業屋」さえ少数いればよいのだ。もちろん、電子書籍においてもつんくや秋元康のようなプロデューサーが登場し、活躍する素地は十分ある。しかしそれは極めて特殊な例にとどまるだろう。

 問題は、その一方で、編集者がいなければ決して形にならない作品もこの世にはある、ということだ。

2010/11/13

電子書籍について気になるいくつかのこと その四

 既存の出版社にとって、この「本が売れない」時代に、電子書籍は再浮上のきっかけとなるかもしれない。インターネットやケータイメールに没頭する若者たちを、もう一度「本」の世界に引き戻せるかもしれないから。

 残念ながら、それはおそらく、かなりの確率で甘い夢のまま終わることだろう。

 リアルの世界において、無名の素人が自分の「本」を売るのは、つまり「作家」になるのは、なかなかに難しい。まず、既存の出版社のいずれかに「売り物になること」を認められ、本を発行していただかねばならない。金をつんで自費出版する手もなくはないが、よしんば1000部10000部製本したところで、出版社からトーハン、日販などの出版取次への流通に乗せられなければ、全国の書店に本を送り込むのはまず不可能。ちなみに大手取次の資本出資者は老舗の大手出版社である。出版の世界は外から見える以上に閉じているのだ。

 では、電子書籍についてはどうだろうか。
 オンラインで電子書籍を発行する際、「本」の置き場所は「書店」サイトである必要はない。極端な話、ホームページにPDFファイルをアップすればよいのであり、今現在だって誰にでもできていることである。素人の手に負えないのは「課金システム」だ。1冊50円、100円で、と思っても、その50円、100円を受け取るのが非常に難しい。
 逆にいえば、AppleやGoogle、Amazon、Yahoo!のようにネットに特化した企業が自社の課金システムを提供したなら、「本を売る」ことは誰にでもできるということになる。ちなみに、パソコン用のソフトウェア(プログラム、データ)の世界ではこのモデルはすでに出来上がっており、アマチュアからプロまで、有料・無料の(←これが素晴らしい)膨大なソフトウェアがWeb上のサイトから配布されている。

 もし、オンラインで電子書籍の発行、販売にサーバーを開放し、課金システムを提供するサービスがあったなら、おそらく作家としてデビューするところ「まで」は誰にでも可能となるだろう。書き上げた文章を電子書籍の形式に変更するアプリケーションは今後いくらでも出てくるだろうし、個人やその制作物をそれなりの規模で宣伝するのはインターネットの得意技の一つでもある。なにより、間に出版社や出版取次のマージンがないこと、通常の出版物のように返本のリスクがないこと(これはものすごいことだ)、それらを想像しただけでもハードルはとんでもなく低い。
 電子書籍発行サイト側にしても、利益はバナー広告で得るか、あるいはその書籍のアップロード時に一種の入会金を取るか、あるいは電子書籍の売り上げにほんの数%をかければよいのだから、玉石混交でも書籍数を増やすことは客集めの材料にこそなれ、デメリットにはならない。あとは、話題作が口コミで広がるのを待ち、ベストセラーがいくつか育ったら、サイトのトップでがんがんうたえばよい。こういった電子書籍サイトは、しばらくは乱立して過当競争を招くだろうが、その大半はネット上のビジネスサイトがそのノウハウやツールを電子書籍発行に流用するだけで、要するに本業さえしっかりしていれば電子書籍販売だけで社員全員の稼ぎを叩き出す必要はない。

 既存の大手出版社は、はたしてこういった電子書籍発行サイトが乱立する時代に対抗しうる、ネット上のノウハウを持っているだろうか。おそらく、持ってないだろう。ここでいうノウハウは、よりよいコンテンツを制作するノウハウとはまったく別モノなのだ。

 レコードがCDにとってかわっても、レコード会社は(その業界内部での競争、再編はあったにせよ)同じ業態で存続し得た。これは、ミュージシャンの囲い込みが重要であることにおいて、レコードもCDも変わらなかったためだと思われる。しかし、「本」から電子書籍への移行については、同じことは起こらない。作家の囲い込みは困難だからだ。おそらく、もし早い時期に、既存の出版社以外の発行サイトから、無名の新人の電子書籍がブレークしたりすると、現在の大手出版社は一気に苦戦を強いられるようになるに違いない。その可能性は、非常に高い。

 もちろん、既存の出版社には、膨大かつ上質な書籍資産がある。だが、それらをオンラインで再販するには、さまざまな権利問題や、高い印税が障壁となるに違いない。また、出版社のかかえる社員、スタッフの人件費も半端ではない。ほんの数人の技術スタッフだけで、とりあえず相当大きなビジネスモデルを起業できる(カスタマーサポートや営業などは規模に合わせて外注すればよいのだ)ネットの世界で生き残るには、手も足も自分で食べさせなければならない既存の出版社など、すでに巨大すぎる恐竜なのだ。

2010/11/10

電子書籍について気になるいくつかのこと その三

 昨日書いたことは、言ってしまえば読み手個々人の問題にすぎず、新しい時代には新しい「本」のあり方があればよいし、おそらくは誰もがそれに慣れていくことだろう。

 今日書きたいことは、もう少し深刻である。

 オンライン提供される電子書籍では、書物の内容を印刷せず、通常、サーバー上に置いてそれを配信する(カード型のメディアで配布されるもの、ピアツーピア型ネットワークで共有されるものもあるが、ここは話を簡単にしよう)。読み手は、サーバー上の書籍データを手元の端末にまるごとダウンロードしてピュアーで表示させるか、部分部分をダウンロードしては順次表示させるか、そのどちらかをとることになるだろう(YouTubeなどの動画配信も、このいずれかの方法を採っている)。
 つまり、極端な話、「本」のデータファイルは1つあれば事足りる。その1つのファイルを、読み手があちらこちらからダウンロードすればよいのである。実際には複数のサーバーにコピーが置かれ、それぞれからダウンロードされる、ということになるのだろうが、基本的な構図は同じことだ。

 一方、従来の「本」は、次のような手順を踏んで作られてきた。
 著者が(手書きであれワープロであれ)原稿を書く。フラットなその文書を、活字を組み合わせてページのイメージに組み直す。これを紙に印刷したものが「初校ゲラ」と呼ばれるもの。この「初校ゲラ」に編集者や著者が赤字を入れて、誤植や内容の漏れを整える。その赤字を修正して印刷したものを「再校」という。書籍など、丁寧に編集する場合は「三校」「四校」とこの作業を繰り返す場合もある。そして、これ以上直しはきっとありません、もう許して、これで印刷してくださいとなったとき、そのページを「校了する」。そのページは印刷機で大量に印刷され、束ねて製本され、ここにいたってようやく書籍や雑誌が完成する。

 何を言いたいかといえば、マスターとなるデータが1つという点では本も電子書籍も同じように思われるが、大きく異なる点があるのだ。
 紙に印刷された書物や雑誌では、内容は印刷前にフィックスされ、少なからぬ数、同じ内容のものが巷に配布される。一方、電子書籍においては、サーバー上のファイルを書き換えるたび、その瞬間から内容が変わってしまう。

 たとえば、著者が「右往左往」という熟語の用い方を間違っていたり、「端的」を「短的」と変換ミスしたりしたとしよう(おお、時事的だ)。印刷物なら版を変えない限り、同じ間違いが多数の読み手にそのまま届いてしまう。版を変えるのは手間と経費がかかるため、書籍では何ヶ月いや何年も変えないことが珍しくないし、雑誌にいたっては版を変えるという工程そのものを想定していないのが普通だ。
 しかし、電子書籍なら、ファイルをちょつと修正するだけで版がいくらでも変わっていく。カタログ的な書籍なら頻繁に更新されるべきだろうし、開くたびに展開の変わっていく小説などもそのうち出てくるに違いない。

 さて、四字熟語のミスくらですめばよいが、政治的な問題や個人の名誉にかかわる重大な誤謬があると指摘を受けた場合、あるいは人命にかかわる誤った案内がなされた場合、どういうことが起こるか。著者、発行サイドが、それらの問題を隠蔽し、黙って内容を変更してしまったら、問題は明らかになるだろうか。責任はどこまで問えるだろうか。

 もちろん、きちんとバージョン管理をし、修正箇所を明らかにするなど、真摯な管理がなされる場合もあるだろう。しかし、電子書籍の魅力の1つは、大手出版社の手を借りずとも、誰でも作成、発行に参入できることにある。ある書籍をダウンロードして、内容に科学的な誤りや個人への中傷があったため問題を指摘すると、翌日、何の断りもなしにその部分だけ修正されてしまい、指摘側が逆に抗議される……そんな非道い事態すら起こりかねない。

 電子書籍は、出版社、編集者というまがりなりにも「プロ」の介在した「書籍」を、参加ハードルの低い、その代わり責任のバーも低い混沌に導く暴挙なのかもしれない。

2010/11/09

電子書籍について気になるいくつかのこと その二

 もちろん、電子書籍の利便性を認めていないわけではない。
 たとえば、紙の本ではまず不可能な精度と速度での文字列検索。この作品でこの言葉が何度出てきたか(出てこなかったか)、この作家はこの動詞とこの副詞が好みらしい、等々、用途は広い。おそらく、電話が普及してはじめて「蕎麦屋の出前」が日常生活に入り込んだように、現在の読み手が想像できないような活用法がいずれ読書の世界を席巻するに違いない。
 「本棚」という概念についてみても、ネットにつながっている限り世界中の書店、図書館に自由に出入りできるも同然、という時代が遠からずやってくるに違いない。運悪く通信状態の悪いところにいても、ハードディスクやUSBメモリの一隅にブックデータを保存しておけば、一週間や二週間は読むものに不自由しない、その程度なら現時点でも可能だ。

 しかし一方で、電子書籍では喪われるかもしれないと思われる「読み方」もないわけではない。

 たとえばカラスは、毎晩、何か軽め、うっかり湯に落としてもまあしかたがないと思えるような文庫本を1冊本棚から選んでは風呂場に持ち込み、一通り汗が噴き出るまで湯舟で読み呆ける。
 枕元にはやや難しめ、ただし一章一章は短めの本を積んでおき、適当にぱらぱらめくって眠くなったら放り投げて一日のおしまいとする。
 ちょっと気になったら鉛筆で傍線を引く。書き込みをする。折り目を入れる。

 逆に、何か月も逡巡したあげく、とうとう購入したハードカバーの大作美術論。うっかり食べ物をこぼしたりしないよう、姿勢を正して読む。一段落したら、カバーをかけて本棚にしまう。

 こういった読み方の一つひとつが、電子書籍について不可能なわけではもちろんない。防水端末も出るだろう、しおりやラインマーカーの機能も用意されるに違いない。
 ポイントはその前、本棚や店頭から自分の求める本を選ぶ、これにあたる操作を求められるとき、電子書籍は、人のパターン認識の速度についてこられるのだろうか?

 手に取ってぱらぱらめくるだけで、読み物としての軽さ重さがわかる。分厚さ、文字の案配(活字の大小、改行やセリフの多い少ない)。漢字の頻度、挿絵のあるなし。言葉遣い。それだけで読了までにかかるおおよその時間と、自分にとって、今必要かどうかを判定できる。

 読書家の目ぢからは半端ではない。たとえば『ファウスト』の上巻はまだしも、下巻は大変そうだ、という比較判定に、ほんの数分。電子書籍のビューアーが、この速度についてこられるとは正直思えない。

 電子書籍は、1ページ分、もしくは見開き分を読ませる、という点では確かに「本」と同等なことができるかもしれないが、「本」という物体で可能なことがすべてできるわけではない。
 iPhone、iPadでいしいひさいちを読む。これはわかる。伊坂、東野、許容範囲かもね。しかし、水村美苗は、マンディアルグは……さあどうだろう?

2010/11/08

電子書籍について気になるいくつかのこと その一

 考えがまとまっているわけではないので、メモ代わりにとりあえず書き散らしておくことにする。

 少し前に取り上げた内田 樹『街場のメディア論』では、「本棚」は読書家にとってある種「理想我」であり、そこには単に自分が読んだ本、読むつもりの本が並ぶだけでなく、それらを読んだ自分、今後それらを読むはずの自分の「あるべき姿」あるいは「そう見られたい姿」が如実に顕れること、そして来るべく電子書籍の時代には、そのような「本棚」の機能が喪われてしまうであろうということが指摘された。
 なるほどこれはご指摘のとおりで、たとえばLPレコードのコレクター、CDのコレクターの棚にも「理想我」は色濃く顕れる。たとえばときにはクラシックも聴くハイソでインテリな私、たまにはジャズも聴くセンスのよい俺、など、良くも悪しくも一種の「演出」、平たくいえば我をもあざむく「見栄」がこもっているものだ。ちょっと意地悪く書いてしまったがそれは必ずしも悪いことではない。人は自分のありたい姿をめがけて成長するのだから。
 しかし、iPodやWalkmanなどの携帯プレイヤーが普及すると、その日そのときに聴きたい曲さえ持ち運べればよい、そういったリスナーが主流となる。そこに「理想我」の出る幕はない(ところで、音楽配信がネットからのダウンロード中心に移行してしまうと、ミュージシャンが意図したアルバムの曲順や長尺の交響曲などの配信はどうなってしまうのだろう。よくわからない)。
 そもそも、いわゆる「時代の閉塞感」(イージーな言葉遣いで申し訳ない)のためか、本棚やCDラックに限らず、将来の自分のあるべき姿を思い描く、そんな意識そのものがいまや希薄になってきているようにも見受けられる。かつてはごく自然に思われた「いつかはクラウン」という高級車のキャッチコピー、これは最近の若者にはもはや意味すら伝わらないのではないだろうか。

 さて、電子書籍だ。
 あくまで個人的には、だが、少しばかり嫌な時勢が近づいてきているような気がしてならない。

 電子書籍について、現時点では、コンテンツ(本)の提供の仕方(フォーマット)も、端末(ハードウェア)もビューアー(ソフトウェア)もさまざまで、レコードからCDに一気に移ったときのように明確な一本道が示されているわけではない。
 そして、その試行錯誤が続けば続くほどに、フォーマットやビューアーの混在、権利問題の複雑化などのために、たとえば、子供のころにめぐり合った物語を、大人になってふと読み返したいと思い立ったときには、そのデータを収めた端末(たとえばノートPC)は立ち上がらず、ハードディスクからようやくデータを吸い上げてもビューアーはバージョンが変わっていて表示できず、ようやく古いビューアーを見つけてきてもパスワードが思い出せない……といったことがまま起こりかねない。

 「本」は、場所はとるが物理的には不変である。捨てない限り100年前の本でも読み返すことができる。
 電子書籍は、おそらく、そうはならないだろう。ビューアーが統一され、100%上位互換性が保たれればまだしもだが、おそらくそれは期待できないだろう。カセットテープやベータマックスの資産が無駄になる、そんな事態が今後は多発するに違いない。

2010/11/01

定番の秋 『百鬼夜行抄(19)』 今 市子 / 朝日ソノラマ 眠れぬ夜の奇妙な話コミックス、『もののけ草紙(参)』 高橋葉介 / ぶんか社コミックス

 「定番」の作家、作品がある。
 書店で見つける(最近はインターネットの物販サイトからお知らせメールも届く)。躊躇なく購入する。ひと息にめくり読む。いつでも取り出せるようクローゼット、手前の棚に押し込む。
 必ずしも毎度極上の味わいというわけでもない。それでもよほどのことがなければ買うのをやめたりしない。棚の背表紙を仰ぎ見ればいずれもきちんと帯がついてにぎにぎしい。

 この秋はそんな「定番」の怪奇モノが2冊。

18  『百鬼夜行抄』も気がつけば連載開始から15年、単行本にして19冊め。そうなると、少し前の単行本がどんな内容だったか思い出せない。見かけなくなった登場人物はどうなって消えたのか。ときどきアットランダムに読み返すのだが、元来コマ割りのとらえづらい、つまり時間、空間の行ったり来たりが極めてわかりにくい作風であり(おまけに人物の描き分けが世辞にも巧いとは言い難い)、話を追うのが面倒でなかなかまとめて読み返すにはいたらない。もっともこの作者の描く「妖怪」は姿、かたちはおぼろなまま、時間を跨ぎ越えた「事件」「事故」あるいは「罠」として描かれることが多いので、他の怪奇マンガに比べて読みづらいのはやむを得ない。そのように込み入った「妖怪」を紡ぎ続けてきた作者の想像力こそ高く評すべきだろう。
 最新の19巻は、祖父の蝸牛が悪意の塊のような妖怪赤間(鬼灯)とからむ話が巻末に用意されており、その分空気に一種の厳しさがこもる。ただ、どうしても最近の数巻はバタついた印象が否めず、『百鬼夜行抄』の最も出来のよい巻を★5つとすると、★3つくらいか。
 とはいえ、もう、どれが★5つでどれが低評価だったかなど今さらわからない。一読評価の低かった巻のほうが、読み返して新たな発見をする楽しみもある。
 ともかく一度や二度読んだのでは何が何だかわからない、秋の夜長のためにあるような作品である。

3  高橋葉介『もののけ草紙』の主人公「手の目」は、同じ作者の『夢幻紳士』シリーズにいじられ役で登場し、その後独立した。当節流行りの「スピン・オフ」とかいうアレである。おして知るべし朝日はのぼる。とはいえ、この作者のキャラクターはどれも芸風が似ていて、朝も昼もないのだが。
 それどころか、この二十年ばかり、この作者の短編は、プロットだけみれば同工異曲、いや異曲とさえ言い難い。
 いわく、登場人物の前に何者かが現れる。実はオバケ。グギャーとかいって襲いかかる。主人公は実はオバケの正体なんぞわかっていてそいつをパクリとやっつける。
 冒頭の登場人物が主人公の場合もあれば、別の人物の場合もある。オバケは、妖怪の場合もあれば、人間の醜い心の場合もある。パターンはみえみえ、オバケの暴れ方もバリエーションが豊富というわけでもない。
 それでも、オバケを退治してペロリと舌を出す主人公の妖艶な流し目、それにおひねりを放るよな案配でこの紙芝居観劇はやめられない。
 『もののけ草紙』の3巻も、残念ながら葉介作品中レベルの高いほうではない(この1冊から高橋葉介に入るのはお奨めしない)。それでも、『夢幻紳士』でお馴染みのあの女将に「ああ 本当に久しいね」と優しい目を向ける「手の目」の表情(もちろん女将はいまや亡霊だ)、この1コマのためだけでも単行本を買った甲斐があるというものだ。眼福眼福。

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