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2010/07/29

聡明という名の剣 『毒薬としての文学』 倉橋由美子 / 講談社文芸文庫

Photo 【恐しく鈍感な人間でなければ傍点の部分のような文章は書けないはずですが】

 初期、もう少し具体的にいえば『パルタイ』から『スミヤキストQの冒険』あたりにいたるまでのおよそ10年間の倉橋由美子の小説、それも短編におけるそのきりりとした美しさは一体何に譬えたらよいのだろう。一つひとつのセンテンスが明晰に起立し、最近はあまり使われなくなった「男前」という言葉を振ってみたくなる。
 後年の桂子さんシリーズなどは、それに比べると、若書きの力み、青臭さこそへずられたものの、おっとり物分かりがよすぎてどうにも食い足りない。テロリストの美青年の生首を水栽培して楽しむ『ポポイ』など、初期の攻撃的な筆致で書かれていたならどれほどのものになったか、など溜め息の一つも出てしまうわけである。

 「倉橋由美子エッセイ選」とサブタイトルの付された『毒薬としての文学』は、バラバラバタバタした印象もあるが、エッセイストとしての倉橋由美子の魅力をさまざまな角度から伝えてくれる。『パルタイ』を上梓した学生時代の文章はさすがに気負いがまさった印象だが、作家として油の乗った時期のいくつかのエッセイは見事な攻撃力を示す。
 ことに痛快なのが、(あの)長編『死霊』の埴谷雄高を論じた「『反埴谷雄高』論」一篇だ。

 たとえば、次のような一説。

 そこで私にできるのは、自分とはあまりにも違った人間について語ることを強要された時その人間が自分とはいかに違った人間であるかを語るということでしかなくて、「反」とか「否定」というのもただそれだけのことを意味します。

 言葉の定義を明確にするだけで、文章はこれほど美しくなり得るのだ。そして、このように研磨されたとき、「ただそれだけのこと」と卑下された「反」や「否定」が十分な高みをもって埴谷雄高を容赦なく打ち据える。
 なにしろあの当時、あれほどに何やら凄いものと扱われた(あの)埴谷雄高についてである。それを倉橋は研磨された言葉で虚偽の皮をスパスパと削ぎ落とし、曖昧模糊とした長文の雲に覆い隠された埴谷の姿をあからさまに剥いでしまう。

 文体が晦渋だというのなら精神も明快な形をしていないということになります。

 精神を眠りに誘うような長い序奏などないほうがましだということになります。

 要するにこれらは思想とは別のものに到達する精神の運動に属します。

 つまるところ倉橋は、埴谷の著述は「思想」ではなく「本気になって相手をするがのばかばかしい玩具のよう」な「新規な観念の操作」にすぎないと切り捨てていくのだ。

 そして後半、東大安田講堂における機動隊と学生の抗争について語る埴谷のエッセイに対しては、その脇の甘さもあって、もはや虐殺、ジェノサイドの印象。埴谷の紡ぎ上げたもやもやした言葉群が悉く弑され、倉橋本人とともに読み手もただ失笑を禁じ得ない。

 ・・・ところで、この「『反埴谷雄高』論」の初出は、(『埴谷雄高作品集 第六巻』一九七二年二月)とある。はたして、河出書房新社の編集者の余裕なのか、蛮行なのか。

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