フォト
無料ブログはココログ

« 2010年6月 | トップページ | 2010年8月 »

2010年7月の3件の記事

2010/07/29

聡明という名の剣 『毒薬としての文学』 倉橋由美子 / 講談社文芸文庫

Photo 【恐しく鈍感な人間でなければ傍点の部分のような文章は書けないはずですが】

 初期、もう少し具体的にいえば『パルタイ』から『スミヤキストQの冒険』あたりにいたるまでのおよそ10年間の倉橋由美子の小説、それも短編におけるそのきりりとした美しさは一体何に譬えたらよいのだろう。一つひとつのセンテンスが明晰に起立し、最近はあまり使われなくなった「男前」という言葉を振ってみたくなる。
 後年の桂子さんシリーズなどは、それに比べると、若書きの力み、青臭さこそへずられたものの、おっとり物分かりがよすぎてどうにも食い足りない。テロリストの美青年の生首を水栽培して楽しむ『ポポイ』など、初期の攻撃的な筆致で書かれていたならどれほどのものになったか、など溜め息の一つも出てしまうわけである。

 「倉橋由美子エッセイ選」とサブタイトルの付された『毒薬としての文学』は、バラバラバタバタした印象もあるが、エッセイストとしての倉橋由美子の魅力をさまざまな角度から伝えてくれる。『パルタイ』を上梓した学生時代の文章はさすがに気負いがまさった印象だが、作家として油の乗った時期のいくつかのエッセイは見事な攻撃力を示す。
 ことに痛快なのが、(あの)長編『死霊』の埴谷雄高を論じた「『反埴谷雄高』論」一篇だ。

 たとえば、次のような一説。

 そこで私にできるのは、自分とはあまりにも違った人間について語ることを強要された時その人間が自分とはいかに違った人間であるかを語るということでしかなくて、「反」とか「否定」というのもただそれだけのことを意味します。

 言葉の定義を明確にするだけで、文章はこれほど美しくなり得るのだ。そして、このように研磨されたとき、「ただそれだけのこと」と卑下された「反」や「否定」が十分な高みをもって埴谷雄高を容赦なく打ち据える。
 なにしろあの当時、あれほどに何やら凄いものと扱われた(あの)埴谷雄高についてである。それを倉橋は研磨された言葉で虚偽の皮をスパスパと削ぎ落とし、曖昧模糊とした長文の雲に覆い隠された埴谷の姿をあからさまに剥いでしまう。

 文体が晦渋だというのなら精神も明快な形をしていないということになります。

 精神を眠りに誘うような長い序奏などないほうがましだということになります。

 要するにこれらは思想とは別のものに到達する精神の運動に属します。

 つまるところ倉橋は、埴谷の著述は「思想」ではなく「本気になって相手をするがのばかばかしい玩具のよう」な「新規な観念の操作」にすぎないと切り捨てていくのだ。

 そして後半、東大安田講堂における機動隊と学生の抗争について語る埴谷のエッセイに対しては、その脇の甘さもあって、もはや虐殺、ジェノサイドの印象。埴谷の紡ぎ上げたもやもやした言葉群が悉く弑され、倉橋本人とともに読み手もただ失笑を禁じ得ない。

 ・・・ところで、この「『反埴谷雄高』論」の初出は、(『埴谷雄高作品集 第六巻』一九七二年二月)とある。はたして、河出書房新社の編集者の余裕なのか、蛮行なのか。

2010/07/15

野田地図第15回公演「ザ・キャラクター」

 池袋の東京芸術劇場で、野田秀樹作・演出『ザ・キャラクター』を見てきた。

 ポスターやパンフレット、公式Webサイトを見ても、あらすじなどとくに公開されていないようなので、ここでは「ある事件を素材にしている」とだけ記しておく。

 午後2時開演。
 少し傾斜のついたステージの奥からわらわらと役者たちが起き上がる。幻想的なオープニングに続き、一転、タイトでリアルな掛け合いがスピーディに展開する。ベテラン、若手の一糸乱れぬテクニカルな演技は笑いとショックを随所に配置し、きびきびして気持ちがよい。ハイブロウ。とくに演出の「間」が本当に素晴らしい。大小の舞台装置の活用も納得だ。
 主演の宮沢りえ、かつてのはかなげな美少女のイメージなどかけらもない、堂々たる役者ぶりである(正直、なかなかその役者が宮沢りえであるとわからなかった)。野田の筆による実際の事件を神話の体系に置き換える設定は巧みだし、その設定の中で事件を再構築していく裏返しに次ぐ裏返しの展開も素晴らしい。引き込まれる。

 ……と、手放しでほめることができるのは前半、開演からおよそ1時間まで。やがて物語はどんどん現実の事件を忠実になぞるほかなくなっていき、最後には起こってしまった事象への(申し訳ないが)かなり直接的で卑小な「評価」を示して閉じる。すると前半への評価が裏返される。神話の体系への置き換えが巧みであるということは、つまり「置き換え」をしてみせただけ、ということである。紙と文字を多用したメタファー転がしは言葉遊びに過ぎない。

 坂道を転げ落ちる雪ダルマがどうなるか、それを語るのはそれほど難しいことではない。問題は、その雪ダルマが、何をコアに、なぜ転がりだしたか、ではないか。それについて、「ザ・キャラクター」は何一つ語らない。時代のせいか、世代のせいか、場の、あるいは特定の人物のキャラクターのせいだったのか。もう一度起こり得ることなのか、二度と起こらないのなら一度でも起こったのはなぜだったのか。

 久しぶりに力のこもった演劇空間にどっぷり身を浸せた満足感の一方で、野田をもってここまでしか迫れないのかとの無念さが残る。少なくともあの日、危うく巻き込まれそうになった私たち、巻き込まれた方を目の当たりにしてしまった私たちは、このような「評価」ごときで物語が閉じるのを許すことができない。
 じっと、一心に、考えることだけが残される。

2010/07/02

したたる違和感 『現代百物語 嘘実』 岩井志麻子 / 角川ホラー文庫

Photo 【もしかしたら妹、実家の二階で死んでるかも。】

 たいした本ではない、ように見える。
 発売されたばかりの文庫本だが、書店からの帰り道、電車の中でほぼ読み終えてしまった。

 なにしろ著者が「小説に使えるかなと、簡単にメモするように記録していた『そこはかとなく不安な話』」、つまりは飲み屋のカウンターでやり取りされるようなちょっと怖い話やエタイの知れない知人の噂、その程度のものをを見開き2ページ×99話並べた、それだけのものなのだ。
 際立ってよくできた怪談、都市伝説、そういった「作品」を期待してはいけない。心霊ネタもいくつかあるが、どちらかといえば、すぐばれるような嘘に嘘を重ねる少し壊れた風俗嬢の話、ちょっとしたストーカー事件の顛末、そういったゆがんだ心の持ち主の話が多い。
 ……ところが、読み終わってみると妙に怖い。周辺の温度がひいやりと下がっている。

 あまり詳しく内容を紹介してしまうのはよろしくないが、たとえば次のような話がある。
 上の子のひどい風邪が脳炎になるまで放置し、中の子が脚の骨を折っているのをそのまま放置し、家出した下の子が全身裂傷だらけになって戻ってきても放置する母親。
 あるいは、四年前に知り合い、のちにある事情から二度と顔も見たくないくらいに関係が破綻した知人。その女が、なぜか、二十年前の浜辺のビーチパラソルの写真の中、自分たちの隣にいる。それもこちらに激しい憎しみの目を向けて……。

 本書は同じ角川ホラー文庫『現代百物語』の続刊。
 同じ人物や事件を違うアングルで書き分けたものも中にはあるのだろうが、99話をとりまとめ、そのたった1年後にまたこれだけのネタを集めることができるというのは、よほど話造りの才にあふれているのか、それともよっぽど素材、すなわち怪しい知人に恵まれているのか。

 岩井志麻子にはホラーやエログロな設定に首までひたったような内容、文体の作品が多い。だが、こういったエッセイをまとめたとき、その視線は意外なほどに穏やかで常識的だ。後味の悪い読了感の一方で奇妙な爽やかさが残るのは、そのためかもしれない。

« 2010年6月 | トップページ | 2010年8月 »