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2010年5月の4件の記事

2010/05/28

紙だからこその厚み、手触り、色遣い 『漂流教室』 楳図かずお / 小学館

Photo 【おかあさん!!】

 今日、6月28日は国内でのiPadの発売日である。世界的に生産が間に合わないため発売される店舗が限定されている、とか、すでに徹夜で並ぶ者がいる、とかいった話題も耳にしている。

 iPadはタッチパネルディスプレイを搭載したハンドヘルドコンピュータだが、電子書籍ビューアとしての機能に(妙に)注目が集まっている(電子書籍販売に乗り気の版元が多いようだが、流通マージン、返本リスクが大幅に軽減されるのだから当然だろう)。とはいえ、iPadが今後読書界を征するのかどうかはわからない。レーザーディスクのように一過性のものとして、さらに次の世代の機器に乗り越えられてしまうかもしれない。ただ、いずれにせよ、電話やミュージックプレイヤー同様、本を読むという行為も、iPadのようなネットワーク機器に移っていくことは間違いないだろう。
 いずれ、本というものは、1冊1冊手元に置くものではなく、ネットワーク上に仮想図書館のようなものがあって、必要に応じてそこからページを表示させるだけで済むようになるに違いない。本を作るという行為は、1つのデータの塊を編集して、ネットワーク上に置くだけでよい。紙の無駄使いはなくなり、返品や廃棄などの面倒かつ金のかかる作業も不要、読み手の少ないマイナーな作品もきちんと保存されていく。メリットは多い。

 その一方、喪われていく「大切なもの」も少なくないだろう。
 音楽の販売形態の中心がレコードからCDに、さらに着うたダウンロードに移りつつある今、たとえば『クリムゾン・キングの宮殿』のジャケット、サウンドが一体となった圧倒的な迫力はもはや伝えようがない。それに類似したことが、本についても起こっていくに違いない。

 ここに赤、緑、青の奇妙で分厚い本がある。

 『漂流教室』は、楳図かずおの代表作の1つだ。否、この数十年の間に描かれたコミック作品の頂点の1つと言って過言ではないと思う。
 大和小学校の862人の子どもたちが突然学校の建物とともに荒涼と砂漠化した未来世界に放り出され、次々と襲い掛かる困難に死んでいく。『十五少年漂流記』などとは比較にならない、不信と狂気にあふれたその世界では、大人はパンのために子どもを絞め殺し、妄想の産んだ巨大な怪虫がザザザと迫り、病は蔓延し、父や母を求めた一年生がぽたぽたと屋上から落ちる。悪夢としかいいようのない展開が2242ページにわたって間断なく続く。

 もともと、楳図かずおという作家には、失敗作がほとんどない。常になにかしら新しい恐怖を、高い水準で提供してくれる作家なのだが、この『漂流教室』はその中でも不条理と論理のバランスのとれた、その分息苦しい、密度の高い作品となっている。狂気と暴力の描写も凄まじいが、それに向かい合う子どもたちの姿も、楳図作品としては珍しいほどに強く正面から描かれている(怪虫と闘い抜く池垣少年の最期は、陰惨ではあるが読み手を打つ)。

 『漂流教室』は1972~1973年に少年サンデーで連載され、すでに何度も単行本化、文庫化されているが、2007年の暮れに発売された3巻セットが凄い。
 1巻は赤、2巻は緑、3巻は青。カバーだけではない。6方向すべてにべったりとインクが塗られ、手元の、ページをめくる側にも作品中の一場面が印刷されている。カバーには「漂流教室」の文字が大きくざらざらと刻印され、カバーの裏、カバーの内側の表紙にも奇妙な色遣いでカットが描かれ、目次にあたる厚紙は意図的に折れ曲がったかのごときフェイクになっている。
 つまり、この3冊は、厚さ、手触り、色遣い、すべてにおいて楳図作品ならではのエキセントリックな味わいをかもし出しているのである。気の弱い小学生ならページをめくる前に泣き出すのではないか。

 ……いや。この3冊を手にとって涙を流すのは、本当に心の底から本が好きな者たちなのかもしれない。箱入りハードカバーの新刊小説がこの数十年で失われたように、十年後にはもうこのような豪華なコミックは出版されないかもしれない。しかし、十年後に『漂流教室』が電子書籍として入手可能になっていたとしても、この装丁、この厚みを手放すことはできないに違いない。レコードプレイヤーのない部屋の隅に、それでもアナログ版『クリムゾン・キングの宮殿』が静かに立てかけてあるように。

2010/05/17

忘れられた画家たちの遠いかすれ声 『魔術的リアリズム─メランコリーの芸術』 種村季弘 / ちくま学芸文庫

Photo 【エレボーの正確な発音のほかに私が知り得たことはこれだけだった】

 「魔術的リアリズム」といえば、ガルシア・マルケスをはじめとするラテン・アメリカ文学を想起するのが常かもしれないが、本書では「1920年代ドイツ。表現主義と抽象全盛の時代に突如現れ、束の間妖しく輝き、やがてナチスの『血と大地』の神話の陰に消え去った、幻の芸術」(惹句より)の一派のことを指す。目次には、アントン・レーダーシャイト、アランツ・ラジヴィル、アルベルト・エレボー、カール・グロスベルグなど、あまり目になじみのない画家の名が並ぶ。
 「魔術的リアリズム」あるいは「ノイエ・ザハリヒカイト(新しい即物性)」と称されるこの一派は、しかし、ダダのツァラ、シュルレアリスムのブルトンのような押し出しのいい広報担当者を得ず、ほんの数年で消え、忘れられていった。

 著者種村季弘は、プライベートなドイツ旅行を基点に、彼ら「ノイエ・ザハリヒカイト」の画家たちの軌跡を丹念にたどり、その作品と意図を解きほどいていく。その作品群は対象の無骨なリアリズムにあふれ、結果として硬くて重い幻想的世界を構築している。しかし、彼らの多くは明確な北極星を見出しえないまま、キリコたり得ず、ある者は画風を控え、ある者は無名の闇に消えていった。

 「ノイエ・ザハリヒカイト」の作風は、本書に掲載されたモノクロの写真を見た限り、個人的には好もしいものではない。息苦しさが興趣を上回るのだ。しかし、種村の手馴れた解剖学的ペンが彼らを描くとき、そこには優れたミステリの連作短篇集のように、小さな謎から大きな謎が浮き上がり、解かれ、また巨大な謎の沼に沈んでいく。種村の本の多くがそうであるように、10年ばかりして読み返すと、またいっそうの、あるいはまったく別の読み応え、感興が待ち受けているに違いない。

 それにしても。澁澤龍彦とうになく、種村季弘もいなくなったこの先、私たちはこういった知的でノーブルで密やかな楽しみを誰に求めればよいのだろうか。

2010/05/06

喪われていく技術の記録 『ことばの海へ雲にのって 大漢和辞典をつくった諸橋轍次と鈴木一平』 岡田文良 / PHP研究所

Photo 【「紙っ、紙型を、もってきたのか?」】

 (もう昨日になってしまったが)こどもの日にちなんで「課題図書」から1冊。

 『ことばの海へ雲にのって』は、第29回青少年読書感想文全国コンクール小学校高学年の部、課題図書。
 課題図書と称して子どもに本や感想文を押しつけることの功罪はさておき、本書を教育がらみの仕事で薦められて読んだのは、思い起こせばもう25年以上昔のことである。とてもよい本だと当時大いに感動したものだが、最近になって今では絶版となっていることを知り、古書として入手した。この1冊はずっと手元に置いておきたい、そう考えたためである。

 本書は、大修館書店の労作『大漢和辞典』にかかわった諸橋轍次と鈴木一平の努力と苦難を描いた伝記的作品である。『大漢和辞典』全十三巻が完成に至るのは、大修館書店社長 鈴木一平が諸橋轍次にはじめて出会い、その編纂を依頼してから35年を経た1960年のことだった。総ページ数一万四千八百六十七ページ、のべ二十五万人がかかわった大事業だったのである。

 しかし、本書『ことばの海へ雲にのって』が絶版となり、文庫化もされていないことを惜しく思う理由は、そういった「プロジェクトX」的感動作であるから、というだけの理由ではない。
 本書には、『大漢和辞典』の発行という一大事業にかける人々の物語だけでなく、もう1つ、そもそもの「印刷」「出版」という工程の技術、歴史が描き込まれているのである。
 関東大震災に際して、出版社にとって何より大切な「紙型」(現在ならマスターの文書ファイルだろうか)を火災から守った話。あるいは第二次世界大戦の東京大空襲に際して、活版印刷の組版が焼け落ちる次のようなシーン。

 いちだんと強い炎の風がふくと、ものすごいうなりをあげながら屋根や柱や壁が落ちた。同時に、二階にびっしりとつめてあった、大漢和全十三巻、一万四千ページ分の組版も、木箱もろとも、もえくずれるようにして階下に落下した。鉛がとけ、まっかな滝となって流れ落ちていく。
 その総重量、二万五千貫──キロになおして、九万三千七百五十キロ──、十トンづみの大型トラックで約十台分である。

 この巨神兵の暴走もかくやの、黙示録的な滅びの映像は、ただ『漢和大辞典』の膨大な組版が喪われただけでなく、同時に、グーテンベルグ以来数世紀にわたって引き継がれた、鉛を用いた活版印刷技術の(少なくとも日本国内での)終焉でもあった。国内の印刷技術は、こののち、『大漢和辞典』も最終的にはそちらを選択する「写植(写真植字)」に急速に移っていく。

 現在では、鉛の活字を用いた活版印刷や、それを再版するための紙型の技術や器具はほとんど失われ、新刊に用いられることはまったくと言っていいほどない。和文タイプと写真を組み合わせたような写植の技術すら、短期、文書ファイルをロボットで出力する電算写植に移り、さらにはTeX(テフ)といった組版ソフトウェアを横目に見ながら、今ではMacintoshやWindows上のビジュアルなDTP(デスクトップパブリッシング)ソフトウェアがごく当たり前のものとなり、少しパソコンに習熟した者なら誰でも出版デザイナーを名乗ることができるようになった。
 さらに近年にいたっては、iPadやKindleといった電子ブックリーダーが登場、普及しようとしている。

 こういった技術の変遷そのものは、多分、とてもよいことなのだろう。少なくとも、文字を組み合わせた情報を作成しページに配置する労力は、活版印刷とは比較にならないほど軽減された。バックアップ、配布という点についてもディジタルメディアの優位は圧倒的だ。

 だが、誰かが忘れてしまったとしても、「活版」「紙型」「写植」などこつこつと文字を配置する技術が長い間出版文化を支えてきたこと、これは紛れもない事実だ。若干でも紙の印刷、出版にかかわってきた者としては、ときたまであれ『ことばの海へ雲にのって』を思い起こしたいと思う。ただ古い技術を懐かしむため、などではない。鉛のバーに込められた文字の重さを、忘れない、忘れてはならない。

2010/05/03

宴は続く 『のだめカンタービレ(24)』 二ノ宮知子 / 講談社 KC Kiss

Photo 【向いてるのか そうでないのか…】

 おやおや。
 最終巻が出てから半年、印刷機も乾かぬうちに新刊の登場である。それも「アンコール オペラ編」と番外編を装いつつ、内容はまるきりの続編、新キャラまで配して1、2巻で終わりそうな気配ではない。「もう少しだけ続きます」のドラゴンボールみたいなことになってしまった。

 世評は割れているようだが、作者が楽しそうに描いているうちはお付き合いしたい。いや、むしろ、上へ上へと息の詰まったパリ編に比べれば、R☆S(ライジング・スター)オケ当時を思い起こさせる今回の軽いノリは気楽に笑えて心地よい。どんどんオペラしてください。

 気になるのは……「最終楽章 後編」とまで銘打って大々的にフィナーレを迎えた実写版まで再開されるのかどうか。オペラは金がかかりそうだ。
 もう1つ、ターニャは居酒屋で「あ──…… 実はわたし……」の後、何と言おうとしていたのか。もはやはらはらする必要のない千秋やのだめに比べて、気がかりなのはもう娘のようなターニャの行く末。ベッキーもグリーばかりやってちゃダメだぞ。

P.S. 明日は家人とシネマです。

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