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2010年2月の2件の記事

2010/02/28

昭和エレジイ 『地を這う魚 ひでおの青春日記』 吾妻ひでお / 角川書店

Photo 【笑いも漫画もさっぱりわかんないよ 夢中で描いてるだけ】

 昨夜最終回を迎えたNHK土曜ドラマ、『君たちに明日はない』がなかなか面白かった(全6回、原作 垣根涼介)。リストラ請負会社の面接官を主人公に、さまざまな業種を配して現代における「仕事」の意味を問う。原作のいくつかの短篇を刻んで再構成し、原作以上にご都合主義な面はあるものの、リストラ請負会社社長役の堺正章の怪演もあって、重み苦味を失わないまま最終回まで興趣が持続した。……などとついついぐねぐねした書き方をしてしまうが、いや面白いドラマでした。

 それにしても、いつの間にかこの国では、働くといえば「会社」を抜きには語れないようになってしまった。ドラマの登場人物の一人のように、会社という後ろ盾を失うと、自営業にも移れず、ホームレスまっしぐらという例も実際少なくないのかもしれない。これは転落の構図である。だが、かつて、実入りはホームレスすれすれながら、会社には属さず、無闇に集まり、やがては散じる「仕事」があった。それが今では仕事とは見なされなくなった「若者たち」であり、彼らの仕事人としてのアラワレ方が演劇青年であったり、作家志望であったり、画家であったり、バンドマンであったり、そして、漫画家だったりしたわけである。

 『地を這う魚』は吾妻ひでおの『若者たち』である。
 『若者たち』というのは永島慎二が安アパートに集う若手漫画家たちを群像として描いた作品で、有名な『漫画家残酷物語』『フーテン』と相前後する時期の作者自身を描いたものだ。『地を這う魚』はそれとほぼ同じ、1968年(昭和43年)の東京を舞台に、地方から上京し、漫画家デビューを志す若者たちを描く。作中には永島慎二の作品や同時代の作家たちが実名で登場して興味深い(たとえば主人公は忠津陽子や大和和紀のアパートを訪ね、永島慎二宅では「天才少女」岡田史子と出会う)。

 吾妻ひでお作品としてはギャグはほとんどないし、無闇に美少女が登場するわけでもない。
 しかし、その「コマ」にあふれる空気は、もうどうしようもなくあのアヅマである。
 なにしろ登場人物は、漫画家、友人たち、編集者、いずれも馬、フクロウ、アリクイ、ワニ、サイ、コアラといった動物。街を行くのはロボットや巨大ネコ。そしてなにより空中や地面には、サカナや軟体動物、恐竜や蟲がうようよ浮遊し、這いつくばっている。ごく普通の部屋の中に、常にそういった異生物があふれかえっているのである。そしてさらに恐るべきは、そうした異生物、あるいは友人たちが、動物の姿でありながらいずれも豊かな表情をもちあわせていることだ。怒るサイ、いらだつ馬、あせるワニ。

 ところで、吾妻ひでおの新刊として本書が書店の棚に並んでいるのは気がついていたが、しばらく手に取らなかったのには二つの誤解があった。
 アルコール依存症になりホームレスとなった(どちらが先かは知らない)自身の経験をまとめた『失踪日記』は凄まじい作品であった。すごすぎて、吾妻ひでおはもうこの路線しか書けないのではないかと思われた。実際、その後に『うつうつ日記』『逃亡日記』と続いたのだから、アヅマはしばらくは自分の失踪時期をネタにしたエッセイ漫画路線で行くのだろうと思ってもしかたないところだろう。
 もう一つ、『地を這う魚』というタイトルがまずかった。あの名作「夜の魚」をはじめとした、旧作の傑作集と勘違いしてしまったのである。

 しかし、そうではなかった。これは2005年から2009年にかけて発表された新しい作品集であり、それも同じ世界観の中でいわば連作短篇を最後まで描ききった、アヅマが本当に復活したことを示す作品である。それも、絵柄や空気に破綻のない力作だ。吾妻ひでおは本当に力があるのだと思う。

 それにしても、実名と匿名の区分けがわからない。永島慎二や岡田史子、はよくて坂井れんたろうがなぜ「いててどう太郎」なのか。都立家政が「吐立化成」、阿佐ヶ谷が「畦畔ヶ谷」なのはまだしもなぜ新宿が「臀部」なのか。

2010/02/09

退屈にもほどがある? 『晩夏』(上・下) シュティフター 作、藤村 宏 訳 / ちくま文庫

【去年の夏より、ずっとよく理解できたし、大部分の絵が気に入った】Photo

 真夏の夜にはホラー、冬の午後には重厚な長編文学こそ似つかわしい。
 ……しかし、この冬手に取った「ドイツ文学の至宝」は、リングや新耳袋すら相手にならない、世にも恐ろしいホラーなのであった。
 なにしろ同時代の劇作家フリードリヒ・ヘッペルをして

  この小説を終わりまで読み通した人には「ポーランドの王冠を進呈しよう」

とまで言わしめた作品である(本書解説より)。つまり、その退屈さにおいて世界水準ということだ。しかも、その退屈さが世界的にみてどれほどのものか、測定することもできない。本国オーストリアでの評価はともかく、チェコ語、日本語以外では完訳すらされてないというのだから。

 その『晩夏』だが、1ヶ月近くかかったものの、なんとか最後まで通して読むことができた。
 先に、「退屈さ」についてまとめておこう。

 あらすじは、ほんの数行で書けてしまう。主人公の若い学者の卵が、旅の途中、雨宿りに立ち寄った別荘(薔薇の家)でその主人たる老人とその周辺の人々に感化され、人生のあるべき姿や芸術の魅力に目覚め、やがては伴侶を手に入れる。これに昔話として、薔薇の家の主人の過去の失恋が語られる。それだけ。
 目覚ましい事件は起こらない。小さな事件しか起こらない、のではなく、ともかく事件らしい事件は何もないのだ。ただ、誰それが帽子をかぶっていない、だの、父親の絵の趣味は素晴らしいだの、そういった日記のような文章が続くばかり。

 文体が退屈。原文はわからないが、およそ訳文が流麗とは言いがたい。独文の教授が研究室の学生に分担で翻訳させ、そのまま上梓したような印象。たとえば

  石膏は最大限の乾燥状態でした。(上巻413頁)

こんな直訳調があちらこちらに見受けられる。

 登場人物が誰も彼も道徳の教科書(死語か)の登場人物のよう。薔薇の家の主人は雨宿りに立ち寄っただけの若者に(その後数年にわたって)庭仕事のノウハウ、芸術作品の模写や修復の大変さ、尊さを説き続ける。主人公の得恋は父親によって、

  お前の愛情は決して激しい勢いで心を奪う欲求ではなくて、相手に対する尊敬に基づく愛情なのだ。(下巻169頁)

と総括され、そもそも当の若い乙女が主人公に思いを寄せるようになったのも、彼が自分の知人たちを尊敬しており、家族のことを敬愛の心をこめて話し、

  飾るところのない、すぐれた方、そして真面目な方ですから(下巻131頁)

というのである。平たく言えば「あなたは親孝行なので愛しています」と言っているのだ。今どきはNHK教育の脚本でももう少しむき出しだ。

 さて、それでは上・下巻合わせて1000頁近い長編が読み通すに耐えないほどつまらないかといえば、そうとは言い切れないのが不思議なところだ。たとえば何十キロにもわたって田園風景の続く汽車の旅は、退屈ではあるだろうがつまらないとは限らない。そんな印象である。
 ニーチェが再読三読に値する「ドイツ文学の至宝」と激賞した、とか、トーマス・マンが「世界文学のなかでも最も奥深く、最も内密な大胆さを持ち、最も不思議な感動をあたえる──」と評したとか聞いても、正直言葉どおりには信じがたい(ことにマンについては、あの奔放なショーシャを描きながらこの『晩夏』を誉めるか)、それでも何か、最後まで時間をかけて読むに値する魅力、価値、あるいは潤いのようなものが確かにある。それは何なのだろう。

 『晩夏』において作者が称えているのは、おそらく昨今の日本では話題にすらならない「全人」的な人生のあり方である。健全で知性的で美術、音楽に深い理解を示し、人々を広く深く愛する。資産に恵まれて金銭に汲々とすることなく、使用人や御用絵師にも気を配り、誰からも尊敬される。
 作品の主な舞台たる薔薇の家は、そのような「全人」たりえんとする人びとの集う理想郷として描かれる。若い主人公は薔薇の家の主人の知遇を得て成長を遂げ、周囲の祝福を集める。

 本作で不思議なのは、いわゆるドイツ教養小説の多くがそうであるように、主人公に苦難や反省が用意されているわけではないことだ。主人公はすべてをやすやすと手に入れる。「全人」たることは時間が経てばもたらされるのだ。作者がそのあたりの無茶をわかっていなかったとは思えない。薔薇の家の主人の若気のいたりを主に仕立てれば、いくらでも起伏のある普通の小説が描けたはずだ。だが、作者はそうしなかった。アフォリズムにすれば数行に納まるようなことを、何千何万ワードに書き連ねていったのである。
 シュティフターは近代的な闇、人間の悪や運命の悲惨をまったく知らなかった、あるいは書けなかったわけではないだろう。しかし、作中でギリシアの彫像が理想とされたように、(当時としても不評をかこつほどに)『晩夏』においては桃源郷が淡々かつ延々と書き続けられた。それは小説作法というより「写経」あるいは思いをこめた「刺繍」に近いものだったのかもしれない。そしてそれは、小説の動線とは別のロジックでゆるやかに一部の読み手を魅了するのだ。

 一つ思ったこと。
 日本人の脳は、欧米人と違って理性を司るべき左脳で虫の声や雨音を処理するため、そういった音に情感(もののあわれ)を感じ取ることができるという説がある。もしかすると、シュティフターも、そういった日本人に近い脳を持ち合わせていたのではないか。鳥の声の扱いなど、通常の欧米の小説と雰囲気が違うような気がする。
 また、主人公や薔薇の家の主人などに共通する謙虚さを尊ぶ姿勢、これも実に(昔の?)日本的だ。親しい登場人物同士が、何年にもわたって長期宿泊したりともに旅に出たりしていながら、作品の後半まで姓すら名乗り合わない、それを謙虚さ、奥床しさですませてしまう感性も欧米人離れしている。
 オーストリア以外ではほとんど評価されていないシュティフターが日本では比較的よく翻訳される理由の一つに作者のこの日本人的な感性があるとみて、そう大きくはずしてはいないように思う。
 それにしても……退屈は退屈。くたびれた。

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