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2009年7月の3件の記事

2009/07/30

最終回は切り抜いて永久保存 『お茶にごす。』(現在9巻まで) 西森博之 / 小学館少年サンデーコミックス

140 【でも、船橋(アイツ)は 人のためにしか やらないんだよ。】

 続けてもう1つサッカーマンガを取り上げるつもりだったが、今日発売の少年サンデー、西森博之『お茶にごす。』の最終回があまりにも瑞々しかったので急遽方向転換。

 西森博之は『天使な小生意気』がお気に入りだったのだけれど、『天使……』は嫌な予感が当たって最後のほうはなんとなくおさまりの悪い印象だった。今回の『お茶にごす。』は後半ややダレた面もなきにしもあらず、しかし最後はあっと胸のすく見事な着地である。

 本作は、実は優しい心の持ち主なのに、悪魔的な外見で通りすがりの人々にまで恐れられ、不良たちと喧嘩ばかりしてきた船橋雅矢(まークン)が高校に入って平和な生活(ロハス?)を求め、勢い余って茶道部に入り、隣のアニメ研を巻き込み……といった話。
 よくある設定なのだが、まず主人公まークンの外見が本当に凶悪。こんな目つき口元の悪い善玉主人公はちょっといない。しかも無表情、感情の起伏に乏しい、空気読まない、人の話聞かない。
 そんなまークンが茶道部に入って生活が改まるかといえばそんなはずはなく、最終回の直前まで、トラブルの連鎖が続く。主人公自身、暴力と優しい行為の区別がまったくつかないのだから仕方がない。

 『お茶にごす。』は、基本的には、ディスコミュニケーションに起因するトラブルをギャグとして描く残酷な作品なのである。
 ところが、それが嫌味にならない。
 ディスコミュニケーション→トラブル→ギャグ、ディスコミュニケーション→トラブル→ギャグ、ディスコミュニケーション→トラブル→ギャグ、これが繰り返される合間に、ときどき、切れたはずの透明電球にパシッと灯りがともるように、人間関係が煌めく瞬間があるのだ。それは「ほのぼの」とか「癒し」とかいう安穏なものではなく、登場人物の誰かの、研ぎ澄まされた、清冽な言葉が誰かを深く突き刺すことによって唐突にもたらされる。すると、ギスギス、混乱、暴力沙汰、川の水にまみれた高校生活が、まるで蒸し暑い森の底に昨日の雨のしずくが垂れるように、瞬時に清涼で信頼に満ちた空間が出現するのだ。あああ、甘露。

 それにしても、マンガ人口の高齢化が進んだといっても、少年サンデーの読者の大半は小中学生だと思うのだが、『お茶にごす。』のそれぞれの場面はどのくらい理解されているのだろう。
 最終回は、大学の入試問題に出してもそこらの文芸作品に遜色ないと思われるくらい、主人公たちの屈折した心を、少ない台詞とシンプルな線で描き上げた見事なものだった。
 同じ茶道部の夏帆(脇役にしておくのは惜しいいいキャラだ)がまークンをいきなり川に蹴落としたのはなぜか(説明は可能だが非常に複雑)。まークンのダチの山田が無意識に涙を流したのはなぜか(言葉で説明するのは非常に困難)。まークンが大学に向かう道々「怖い」と思ったのはなぜか(これはわりあい簡単)。ハナの奥が痛くなったのはなぜか(含みをどこまで読み取るか、難しい)。ヒロインの元部長が何コマか登場するが、それぞれの微妙な表情の違いは何を表すのか(選択肢があれば選べるが、文字数制限ありの記述式でまとめるのは難度高)。などなど。

 ともかく、先週号から今週号にかけて、夏帆がまークンを川に蹴り落としてから最後のスタッフロールまでのほんの数十ページ、文学でいえば詩の領域の精度で描かれたコマ、コマ、コマ。
 この魅力を味わうためだけに単行本を1巻からそろえたとしても決して損はない。強く!推奨。

2009/07/21

今が旬、と思っているうちに10巻まできた 『GIANT KILLING ジャイアントキリング』(現在10巻まで) 著作 ツジトモ、原案・取材協力 綱本将也 / 講談社モーニングKC

979 【これがクラブだよ 後藤】

 「giant killing」とは「大物食い」「番狂わせ」といった意味のスポーツ用語で、相撲でいうところの「金星」みたいなものらしい。
 本作の主人公 達海猛はかつて日本代表にまで選ばれたサッカー選手だったが、今はイングランド5部のアマチュアクラブの監督として、チームをFAカップでベスト32に導く手腕を見せる。彼は「弱いチームが強い奴らを やっつける(GIANT KILLING) 勝負事においてこんな楽しいこと他にあるかよ」という志向性の持ち主だ。プレミアリーグのクラブを一時は3-2と逆転、リードした達海だが、結局は敗北、旧友の招きに応じてかつて自分が所属していた日本のプロクラブETU(East Tokyo United)の監督を引き受けることになる。低迷するETUのベテラン選手やサポーター達は、ETUを見捨てて海外に移籍した達海の監督復帰に激しく反発するが……。
 ここまでで1巻の半ば。なかなかスピーディーな展開である。その後は、達海率いるETUの1年間の奮戦ぶりがぐいぐい描かれて現在10巻。

 この作品のポイントは、脇役キャラクターの魅力(椿やジーノ、黒田、夏木といったETUのメンバーはもちろん、日本代表監督ブランとか名古屋ブラジルトリオとか)やスピーディーな試合展開はもちろん、監督を主人公におくことで、サッカーというスポーツの特質である「フォーメーション」をさまざまなアングルから描いてみせたことにある。
 何より、紅白戦からキャンプ、プレシーズンマッチ、リーグ戦、カップ戦にいたる、一つひとつの試合や場面に意味を持たせる展開が巧い。キャプテンシーの意義、FWのあり方、DFのモチベーション、負けグセからの意識の切り替え、ベテランの活性化、サポーターやクラブのあるべき姿、そういったテーマを一つひとつの試合やイベントに結びつけ、それぞれをどうすることが勝利につながるか、「特定の選手にスポットを当て、達海がその選手のプライドや思い込みを打ち砕き、結果的にその選手の活躍につながることによって当人の意識、技量を再構成する」ことを繰り返し、結果的にETUは少しずつ強くなっていく。
 スポーツマンガとしての勝った負けたがごく普通に面白いのに、それに加えて全体の骨組みが学習参考書のように主題中心の構成になっているわけだ。このことが作品に立体感を与えている(連載ではこの後、スポンサーやスカウトのあり方についても扱うらしい。「律儀」、と評してよいだろう)。

 本音の読めない達海の戦略にのせられ、踊らされ、風に舞う落ち葉のように翻弄されるのは読者も同様。そうこうするうちに気がつけばETUのサポーター気分でドキドキハラハラ、あげくに達海の作戦がツボにはまり、くすぶっていた古参あるいは若手選手が強敵相手にゴールをあげ、ベンチの監督やコーチがぐいぐいガッツポーズ、この展開は何度読んでもたまらない。申し訳ないがこのところのJリーグの試合などよりよほど面白い。添付画像は8巻の表紙だが、ガッツポーズをしながらも顎を引く、これは勝負師にとって大切なことだ。

 ところで、かのウィキペディアでは本作について「サッカー漫画では未知の領域である監督をテーマに描く」と持ち上げている。しかし、未知の領域といえばさらに一歩先をいったサッカーマンガがあった。それは……。

2009/07/04

腐った箱のキャベツ集団 『「朝日」ともあろうものが。』 烏賀陽弘道 / 河出文庫

692 【「朝日ともあろうものが」「天下の朝日」「エリート集団・朝日」】

 2001年の秋、廉価なブロードバンド環境がようやくこの国に普及し始めた頃、たまたま知り合いのマスコミ人からインターネットについて電話取材を受ける機会があった。その中で「5年もしたら朝日のような大手新聞はほぼ壊滅しているはずなので」といったことを口にすると、相手は当初の慇懃な口調を「ふん、ふふーん」といかにも不快そうな相槌に変え、最後は黙って電話を切ってしまった。
 考えてみれば彼も大手マスコミの社員。たいへん申し訳ないことをした。僕の予測は間違っていて、朝日新聞は2009年の現在もまだ存続している。

 でも、箱の中のキャベツはみんな腐っているんですよ、と、八百屋の丁稚が内情暴露してみせた本が本書『「朝日」ともあろうものが。』である。

 いろいろな意味で、細部まで面白い。
 「朝日は偏向していて」等々のイデオロギーまわりはまったく触れられていない。「押し紙による実売数隠蔽」という当節流行りの話題もない。本書で扱われているのは、著者本人の「まえがき」に次のようにわかりやすく列挙された類の、現場の諸相である。

 経費やタクシー券をチョロまかす同僚であり、記事の捏造を部下に強要するデスクであり、「前例がない」と言って原稿をボツにする上司であり、社用ハイヤーで奥様とフランス料理を食べに出かける幹部なのだ。

 それも、警視庁クラブキャップが情報の見返りに要求してきたものは何、とか、「九州・沖縄サミット」で外務省がプレス向けに用意したお土産(総額二万円ほど)は、「百円ラーメン」の記事を捏造するために記者がしたことは、などなど、さすが元新聞記者、内容が具体的でいい。
 それぞれの真偽や是非、深さはさておき、全ページ、全行、巨大な新聞工場の内側がいかに腐っているかを描いて隠れもない。社用ハイヤーで奥様とフランス料理を(しょっちゅう?)食べに出かけるのは、あの朝刊一面の下のほうの、駄文で知られる名物コラムの著者だそうである(短いわりには論旨と展開がわかりにくいので、大学入試でもよく取り上げられる)。まぁ、天声人語の著者が社費で行楽三昧であることなど、読んでいれば外の者にもおおよそ見当のつくことではあるが。

 さて、プライバシーとてない地方の現場から名古屋市役所の記者クラブ、雑誌(アエラ)編集部まで、さまざまなディテールで朝日新聞の内実を懇々と耕すようにまとめてくれた本書ではあるが、実は、申し訳ないことに一番面白いポイントはそこではない。これほどに朝日の内実を叩いておきながら、実は著者こそが、市井の読者などよりよほど朝日新聞をなにやらリッパなモノのようにあがめている、それがひきつった傷のように読めてしまうことだ。
 たとえば本文の

 朝日に限らず、日本の新聞はどこも「不偏不党」をポリシーとして内外に宣言している。

 企業のポリシーなんぞ普通は誰も信用しない。そんなものが信じられるくらいならこの世に不祥事はない。

 読者が新聞を読むとき、暗黙のうちにこう考えているのではないか。新聞は「知る権利」という「公の利益」を負託されている。だからこそ「公器」を自負している。よって、そこに並んでいる記事は読者への影響や関心だけを基準にニュース価値を判断した結果である。朝日新聞社が、企業としての利益のために記事を特別に大きくしたりする「公器の私物化」はない。

 読者がこんなふうに見ているなどと、本気で思っているのだろうか。

 こちらは報道のために記者クラブにいるのである。読者(納税者)の知る権利のエージェントなのである。

 記者クラブがそのような機能を果たしておらず、むしろ大手マスコミが権力の走狗となるリスクが高いことについては、今さら言われるまでもない。

 なぜ人々は「朝日ともあろうものが」「天下の朝日」「エリート集団・朝日」というふうに、朝日を持ち上げたがるのか。

 いつの時代の話だろう。インターネットで多少モノを見る目のあるサイトやブログで、朝日(に限らず大手マスコミ)がどういう目で見られているか、わかって書いているのだろうか。

 死亡事故取材は「命」「死」をぞんざいに扱っている。

 ぞんざいなのは死亡事故取材に限らない。新聞記事の大半は、発表元(通信社、警察、官庁、企業等)から提示された情報を書き改めた程度のテキストにすぎない(インターネットの普及で、同一のことがらについて複数の新聞の記事を比較しやすくなり、新聞というものがいかに自前の言葉を持っていないか、誰にでも簡単に検証できるようになった)。
 当然といえば当然のことで、専門誌の書き手なら経験を踏み、研鑽を重ねてようやく一人前になるかどうかなのに、新聞記者はジャンルを問わず専門家一人、裏をとってせいぜいもう数人程度への取材で記事を書いてしまう。各界のスペシャリストを納得させる記事がそう簡単にでき上がるはずがない。

 そして、とどめは巻末の「文庫版あとがき」だ。
 最近の朝日新聞のページ構成が、経済危機のあおりを受けて広告面でも苦戦し、かつてなら断っていたであろう通販や健康食品、はてはパチンコや消費者金融で埋められていることを受けて、

 いくら記者が懸命に取材した記事が載っていても、尿モレパンツの隣では惨めに見える。少なくとも「クォリティ・ペーパー」ではない。

 馬脚を露すとはこのことだ。著者はここで、「知る権利」という「公の利益」を受託された「公器」は、「優良企業」の広告しか載せてはいけないと言っているのだ。尿モレパンツの隣では、記事が「惨め」だというのだ。これを大手マスコミの思いあがりと言わずしてなんだろう。
 当たり前のことだが、ジャーナリスムの本領はそんなところにはない。B級新聞、三流エロ雑誌であろうが、真実を記した記事には真実が顕れる。発表の場、隣の広告ジャンルによって変わる評価など、何ほどのことだろう。

 朝日新聞を退職し、これだけ現場の腐敗を描き上げることのできたこの著者にしてこの勘違い、この思い上がり。
 朝日病の根絶はそれだけ難しいということか。

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