フォト
無料ブログはココログ

« 2009年5月 | トップページ | 2009年7月 »

2009年6月の3件の記事

2009/06/18

飲むことのはじまりにむかって 『一杯では終われません』 梅吉 / 講談社モーニングKC

397 【私にとってお米は飲みモノです】

 ちょっと外回りな話から。

 絵画というものが、しょせんキャンバスや壁などの平面に絵具を塗りたくっただけのものにすぎないという地点に至ったのはようやく20世紀になってからのことだった。これが、どちらが上だか下だかよくわからない、いわゆる前衛美術の基点といえば基点である。マンガはさすがに遅れてやってきただけにそのあたりはすでに折り込み済みで、かなり早い時期から、作者がコマの枠線を引くという行為そのものを表現の中に取り込んできた。手塚作品によく見られた、殴られたキャラがコマの枠を突き破ってふっ飛んでいく、キャラがコマの枠にもたれる、爆発シーンでコマも粉々になる、コマの枠やキャラを描く作者の手やペンがコマの上にそのまま描かれる、などがそれにあたる。コマの枠を無視してしまうのは「24年組」以降の少女マンガによく見られる手法で、たとえば有吉京子『SWAN』ではほぼ全ページにわたってコマどころか紙面の外枠をはみ出して絵が描かれており、単行本の断ち切り面が黒い。

 つまり、(ことさら主張してもそれほど意味のないことではあるが)コマの枠で仕切られたマンガは、そのスタート時点から前衛であり、メタメディアだったのである。

 マンガの読み手は今ではすっかりスレてしまって、こういったマンガ家の手法をごく当たり前のことのように素通りしてしまう。絵画でいえばキャンバスをはみ出して背後の上下左右の壁に絵の続きが描かれる、といったかなり過激な作法がごく日常的になされていると考えれば、マンガの無頓着かつダイナミックな前衛度合いが理解できるのではないか(そういえば、いしいひさいちの作品に、巨大なキャンバスに油絵を描いている画家に「大作ですね」と世辞を言うと、実は展覧会で小さなサイズに切り売りされていた、というのがあった。マンガ家でなければ思いつかないギャグかなと思う一方、印象派の作品の販売は本来そうあるべきだったかもしれない、とも思う)。

 絵画や文学では、思い切り気張って前衛ぶらないとできない(逆に、やったが最後、前衛がハナについて鬱陶しい)手法を、マンガはエンターテイメントの顔を崩さず軽々とやってのける。たとえば、ペンで描くという行為そのものを木版画にリプレイスした唐沢なをき『怪奇版画男』。表紙、目次から後書きならぬ「あとぼり」、初出一覧、奥付まで含め、全ページ「マンガを版画で彫る」ことをギャグに彫りつくしている。内容は細部にわたるまで徹底的だが、普通の読み手からすれば読み捨て連載ギャグマンガに過ぎない。これはすごいことだと思う。

 さて、ようやく今回の本題。

 「私にとってお米は飲みモノです」「つまみは炙りものちょっとでいいよー」「ここらで記憶断絶」という真性の酒好き(35歳 性別女)が全国の酒造を飲んでまわるサマ(業?)を描いたエッセイマンガ『一杯では終われません』は、全ページ、キャラ、コマ、文字も含めてすべてデザインナイフを用いた切り絵で構成されている。驚いたことに、最近の連載『35歳のハローワーク!』によると、作者はペン画もスクリーントーンも、つまり普通のマンガ原稿作成の経験がまったくないのだそうだ。

 『一杯では終われません』には、『怪奇版画男』のように版画や切り絵という作成行為そのものをギャグに取り込むといったメタ構造はない。エッセイマンガとしての深み、ギャグの冴えも、正直、そう優れているとは思えない。
 だが、それにもかかわらず、このデジタル一辺倒の時代に、こうして単行本1冊、まるごと切り絵で構成されているのを見ると、それだけで呆然としてしまう。
 ある種の技術は、それが技術であるということだけで、見る者触れる者を圧倒するのだ。
 そして、切り絵専業作家を取り込んでなおかつマンガとして成立させてしまうマンガというメディア、そのフトコロの深さはやはりあなどりがたい。

 ところで、梅吉は、上記2作品よりも以前から、モーニング誌巻末の目次ページに、『そこもまた魅力』という1コマコーナーを持っている。ほかの作家の作品を切り絵で持ち上げたりくすぐったりする小品なのだが、自身のキャラと各連載の登場人物を1コマの中にうまく配置して、実に面白い。ここでもマンガのメタメディアとしての……いやそんなことはどうでもよくて、大量生産されないだけにいつになるかわからない次回単行本だが、発刊の折にはぜひ『そこもまた魅力』も全作収録していただきたい。どうだろう。

2009/06/10

無闇に労作 『バガボンド』 井上雄彦 / 講談社モーニングKC

【(手元に単行本がないので引用、画像ともなし)】

 これだけ売れた作品にどうこう言ってもしょうがない。逆にいえば一人二人ネガティブな読み手がいてもバチもあたるまい。
 良作、労作だとは思うが、とくに面白いと思わない。

 本作について世の書評欄が繰り返し指摘するのが「圧倒的な画力」ということだ。否定はしない。筆を利用した描線は、他の追随を許さないほどリアルで、……だが、「リアルで」と書いたところで、次に書くべきことがない。
 もし、この作品からこの描写力を引き算したら、そこに何が残る。結局、吉川英治の原作の膂力、遡れば講談などで脈々と練り上げられてきた《宮本武蔵伝説》の魅力か。無論、それ以外にも、聾唖の天才剣士、佐々木小次郎の魅力、剣と立身の虚実にもがく若者たちの姿など、本作独自な設定もあるにはある。しかし、一流のスポーツマンガならその程度の味付けはなされて普通だ。逆に勝負モノとみるとテンポが遅い、ストーリーにメリハリがない、独白がくどい。主人公はじめほとんどの登場人物は、ビビる、斬られる、ビビる、斬る、このバリエーションを繰り返すばかりで能がない。絵をはがして読んでみるとそんなものである。

 肝心の「圧倒的な画力」にも疑問がある。
 本作は「どのコマもそのまま絵画作品として評価に値する」と持ち上げられているが(それも否定はしない)、つまりは大半のコマが静止していて、剣士のエネルギー移動を描けていないということでもある。単行本が手元にない今、過去の印象的な場面を思い出そうとすると、登場人物が強敵と対峙して逡巡する場面、切り捨てられて倒れた浪人など、など、剣のふるわれる瞬間の前あるいは後ばかりだ。
 作者は本作において意図的にマンガ的手法、いわゆる効果線、土ぼこり、汗の飛沫などを避けているようだが、その結果、武蔵も小次郎も吉岡一門も、まるで動かない。動いても歌舞伎役者のような見得ばかりだ。たとえば小次郎の剣速のすごみは、対する剣客の喉元にひょいと木切れをつきつけ、相手が絶句するシーンとして描かれる。戦闘としてはすでに止まっているのだ。
 極端な比較で申し訳ないが、サザエにイタズラを見とがめられたカツオのほうがよほど速い。よく動く。たとえば、長方形のコマの中、やや左下に横に三本線を引き、その右上に「ピュッ」という文字を描いてみよう。ついでに三本線の右に2、3、土ぼこりを表す半円を描いてみる。走り去ったカツオの出来上がりである。それがマンガの技法だ。マンガというのは、医学や工学と同じく、他者に伝えうる、再現性のある技術と効果の総体であり、作家の個性はその外側を覆うようにある。『バガボンド』はマンガ的手法を遠ざけた結果、勝れた、しかし動きを失った絵巻物になってしまってはいないか。

 かつて、『バガボンド』と同じように「圧倒的な画力」で大きな話題となったマンガ作品があった。1980年代前半に少年サンデーに連載された村上もとか『六三四の剣』である(こちらもムサシなのはたまたま)。東北の少年剣士の成長とライバルとの対決を描いた純度100%の剣道マンガ(なにしろ父も剣士なら母も剣士、ライバル父子はもちろん恋愛すら剣道を通してしか語られない)である。しかし、その執拗なまでの描線は週刊連載とは思えないほど細密かつ迫力に満ち、当時は新聞などでも「マンガの到達点」などと妙に高揚した持ち上げ方をされていたものだ。
 その『六三四の剣』だが、現在ではあまり省りみられない。
 画力ばかり過剰で、おそらく何かに欠けていたのだ。たぶん、『バガボンド』と同じように。

2009/06/01

祈りのごとく “i trawl the MEGAHERTZ” Paddy McAloon / EMI Records UK

075 【I am telling myself the story of my life.】

 レコードアルバムのジャケットは、CDサイズになって、以来、遊び心も攻撃性も美しさもすっかり喪われてしまったように思っていた。だが、真っ白い地に赤、青、紫の数本の線が走るだけのこのジャケットは、祈りのように美しい。──

 Prefab SproutのリーダーPaddy McAloonのソロアルバム、“i trawl the MEGAHERTZ”(2003年)をようやく手に入れることができた。

 1曲めのアルバムタイトル曲は、22分にわたって主旋律が繰り返される中、女性の声で静かにが朗読される、というもの。その後に並ぶ短い曲目も、いずれも映画のサウンドトラックのような、断片的なものばかり。
 Prefab Sproutファンの予想を覆すだろうこのアルバムは、もはやロック、ポップミュージックというカテゴリからは外れるかもしれない。(もちろん)そんなことはどうでもよい。

 かつて、レコードを聴くということは、息をつめてその盤面にそっと針を落ろすことだった。“i trawl the MEGAHERTZ”はそんなレコードの聴き方を思い出させる。

 Paddy McAloonが紡ぎ出すメロディは、その曲が始まった瞬間から、古い映画のワンシーンやノイズだらけのラジオから流れる懐かしい昔のポップスサウンドを思い起こさせる。そのくせ、あらゆる曲が、Paddy McAloon、そしてPrefab Sproutでなくては作り出し得ない瑞々しさと切なさ、そして思いがけない編曲の妙に満ちあふれている。
 Paddy McAloonは、数年前に、網膜を病み、本を読むこともパソコンでメロディを編集することもできない時期があったという。仕方なくあちらこちらの放送局の番組(聴取者参加型の番組から暗号化された軍事情報まで)に耳を傾ける日々を経てこしらえられたのがこのアルバムだという。
 そのあたりの経緯を記したPaddy McAloon本人によるライナーノーツ(英文)は必読だ。アルバムジャケットのデザインがそうであるように、ライナーノーツとリリックスが記されたジャケットの裏面も、このアルバムにおいては作品の一部なのだ。

 ──深夜に僕は一人でそっとCDをセットする。すると遠くから誰かの声が聞こえ始める。
 どこか遠くで、ここにはいない僕が泣いてるような気がする。

« 2009年5月 | トップページ | 2009年7月 »