フォト
無料ブログはココログ

« 2009年3月 | トップページ | 2009年5月 »

2009年4月の2件の記事

2009/04/27

どこか「昭和」に似た深い緑 『東欧怪談集』 沼野充義 訳 / 河出文庫

190_2 【西欧の高度に洗練された文化の形式が東進するにつれて次第に崩れていき、それが完全に崩れて「無形式」の虚無に落ち込む一歩手前で踏みとどまっているのが東欧】

 昨年10月5日に有明コロシアムで行われたAIGジャパン・オープン・テニス選手権決勝では、チェコのトーマス・ベルディハがアルゼンチンのデル・ポトロを破って初優勝した(準優勝のデル・ポトロはお腹をこわして残念でした)。
 さてこのベルディハ、テレビや新聞、テニス雑誌などでいまだその呼び名が落ち着かない。いわくベルディヒ、いわくベルディフ、あるいはベルディッチ、もしくはバーディッチ、よもやのバーディック。誰ですかそれ。
 セルビアのトッププレイヤー、ジョコビッチも、NHKでヨコビッチ呼ばわりされてテニスファンを驚愕させた。
 東欧と日本の間には、それだけ距離があるということか。

 河出文庫の国別「怪談集」シリーズ──いずれも品切れ絶版──は、編者の思い切りに任せたそれぞれの取捨選択具合が変幻自在で独特なのだが、その1冊、『東欧怪談集』もなかなかに素晴らしい。
 「東欧」で「怪談」といえば思い浮かぶのがトランシルバニアのドラキュラ伯爵、しかしこれはアイルランド人ブラム・ストーカーによる創作。歴史上のドラキュラと吸血鬼には直接は関係がない。ドラキュラ城が想起させる土着、未開といったイメージは、一種のエキゾチズムだったのだろう。いうなれば「生産地偽装」である。
 本『怪談集』は、その意味では「現地調達」、「産地偽りなし」。
 東欧各国のさまざまな作家の手による短い怪奇譚を現地の言葉から直訳することによって、東欧の「匂い」を正しく伝えようという試みである。化繊が混じっていないため、非常に手触りがよい。

 目次を見てみよう。

 ●ポーランド
   「サラゴサ手稿」第五十三日 トラルバの騎士分団長の物語 ヤン・ポトツキ
   不思議通り フランチシェク・ミランドラ
   シャモタ氏の恋人 ステファン・グラビンスキ
   笑うでぶ スワヴォーミル・ムロージェック
   こぶ レシェク・コワコフスキ
   蠅 ヨネカワ・カズミ
 ●チェコ
   吸血鬼 ヤン・ネルダ
   ファウストの館 アロイス・イラーセク
   足あと カレル・チャペック
   不吉なマドンナ イジー・カラーセク・ゼ・ルヴォヴィツ
   生まれそこなった命 エダ・クリセオヴァー
 ●スロヴァキア
   出会い フランチシェク・シヴァントネル
   静寂 ヤーン・レンチョ
   この世の終わり ヨゼフ・プシカーシ
 ●ハンガリー
   ドーディ カリンティ・フリジェシュ
   蛙 チャート・ゲーザ
   骨と骨髄 タマーシ・アーロン
 ●ユダヤ
   ゴーレム伝説 イツホク・レイブシュ・ペレツ
   バビロンの男 イツホク・バシヴィス(アイザック・シンガー)
 ●セルビア
   象牙の女 イヴォ・アンドリッチ
   「ハザール事典」ルカレヴィチ、エフロシニア ミロラド・パヴィチ
   見知らぬ人の鏡「死者の百科事典」より ダニロ・キシュ
 ●マケドニア
   吸血鬼 ペトレ・M・アンドレエフスキ
 ●ルーマニア
   一万二千頭の牛 ミルチャ・エリアーデ
   夢 ジブ・I・ミハエスク
 ●ロシア
   東スラヴ人の歌 リュドミラ・ペトルシェフスカヤ

 ベルディハ、ジョコビッチ同様、現地の正しい発音、アクセントの見当もつかない名前が並んでいる(母親たちは夕暮れ時に彼らをどんなふうに呼んでいただろうか)。
 ロシア、ポーランドはともかく、ハンガリー、セルビア、マケドニアとなると、文芸作品そのものになじみがない。専門分野を紹介できて「チャンス到来!」とばかり踊るような訳者勢の意気込みが熱気をはらみ、またそれを吟味し取捨選択する編者のコンダクターぶりも楽しそうだ。
 全体に「怪談」「ホラー」というよりは「奇妙な味」、「SF」テイストなもののほうが多い、ないし記憶に残る。

 これだけ広々とした国、作品から選ばれた選集に、感想も何もないものだが、東欧というとこれこれのイメージだが実は本当は──といわれてこわごわ匣を開けてみると、意外や昔から想像していたとおりの東欧の色(個人的には非常に深い緑)が現れ出てきたことが嬉しく、また頼もしい。西欧、近代、科学、都会、といった文化に向かいつつ、かつそれだけでは語れないところに本領をおく、そんな点で日本の「昭和」という時代と似た匂い、「昭和」のネガ(ポジ?)にあたる構造というか、そういうことも感じられた。

 やや気になるのが、作品のタイトルに、含み、屈折が感じられないことだ。直接的、即物的(この場合、モノではないのだが)で、これは怪談としても文芸作品としても、少し素朴に過ぎるのではないか。

2009/04/20

素焼きの手触り? 『唐宋伝奇集』(上・下) 今村与志雄 訳 / 岩波文庫

962_2 【そう言うなり、子供の両足を持ち、頭を石に叩きつけた。】

 『捜神記』『剪燈新話』『日本霊異記』『今昔物語集』などなど、昔の説話集をぱらぱら散策するのは楽しい。洗練された磁器ではなく、素焼きの陶器の魅力である。多少の説教臭さなど、現代人フィルターが勝手に濾過してしまうので平気だ。

 岩波文庫『唐宋伝奇集』には唐代宋代の説話が、見目よくいえばバラエティ、有り体にいえば脈絡なく雑多に収録されている。蒲松齢『聊斎志異』と異なり、作者も時代もまちまちなので、長さ、味わいもそれぞれだ。

 下巻巻頭には牛僧孺作とされる「杜子春」が収録されている。いうまでもなく芥川龍之介「杜子春」はこの翻案である。
 元祖「杜子春」も芥川のもの同様仙人に無言の行を命ぜられ、艱難辛苦に耐えに耐え(父母は出てこないが、妻が脚を一寸刻みに斬り落とされる)、口をきかないまま女に生まれ変わり、あげくに夫に自分の子を殺されたところで初めて声を上げる。その後は救いもなくただ放り出されるだけだ。

 ついつい、のちに書かれた芥川版のほうがよりテーマを突き詰め、人間の相克を描いているに違いないなどと考えがちだが、牛僧孺の原作のほうがよほど厳しく深く、また超絶的なものが感じられて好もしい。繰り広げられるエキセントリックな拷問の数々の尖り具合、杜子春が女に生まれかわるなんていう奔放さに加え、登場人物個々の関係と目的意識が鮮明で、早い話が芥川よりよほど現代的なのである。素焼きなどとは失礼千万、色絵も細密な青磁の出来だった。

« 2009年3月 | トップページ | 2009年5月 »