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2009年2月の4件の記事

2009/02/24

怪物たちに酩酊する 『ヒストリエ(5)』 岩明 均 / 講談社 アフタヌーンKC

729【すまんな エウメネス】

 岩明均『ヒストリエ』の新刊。

 酔った。まっすぐに歩けない。

 3巻、4巻が最初の2巻に比べるとやや冗漫な印象で、さほど期待せずに読み始めたのだが、全ページ岩明テイスト炸裂だ。
 電車の中で読み始めて一巡、途中下車してコーヒーを飲みながらもう一巡。クールダウンにほかの本を少し読んだあと、もう一巡。だめだ。寝る前に1巻から通して読み返そう。

 主人公をはじめ、登場人物の唇を表す :-) あるいは :-( といった表情の線一本一本に青白い幽気がこもっている。
 涙を誘うウェットな場面と岩明得意のカラクリに対する興趣を描いたシーンが同じ重さで屹立する。「そうか そりゃよかった」「さようなら 兄さん……」といった他愛ないセリフが強い。
 殺陣は理と利にかない、権力は黒く、笑いは白い。

 『ヒストリエ』はマケドニア、アレキサンダー大王の書記官エウメネスを主人公として古代地中海世界の歴史を描く作品とのことだが、違う。そうではない。『ヒストリエ』が描かれる現在(いま)が歴史なのだ。

 「ヘビ」ね。「ヘビ」か。

2009/02/22

追想のアンドレ・ブルトン その三

673 「アンドレ・ブルトン集成」は完結に至りませんでしたが、収録を予定された作品のうち、『狂気の愛』は思潮社から(のちに『カラマーゾフの兄弟』をベストセラーに仕立て上げた光文社古典新訳文庫にも収録)、『秘法十七』は晶文社、のちに人文書院から、『シュルレアリスムと絵画』は人文書院から、『魔術的芸術』は河出書房新社から(普及版と完全版あり。完全版は29,400円…)、『黒いユーモア選集』は国文社から(のちに河出文庫に収録)、という具合にそれぞれ発行され、ブルトンの著作のかなりの部分が翻訳本として読むことができるようになりました。
もっとも、肝心の「アンドレ・ブルトン集成」の既刊6巻は今や絶版で、いずれにせよブルトンの著作を日本語でそろえるのはやはり非常に困難な作業となっています。

さて、アンドレ・ブルトンの作品ですが、これがいずれも難しい。アンドレ・ブルトン本人が「くねくねと蛇行する、頭がへんになりそうな文章」(シュルレアリスム宣言)と評したとおり、長い針金をくしゃくしゃにからませたような、ごく当たり前のことを書くのにもわざとややこしくしているかのような表記が並びます。

パリで出会ったエキセントリックな女性をシュルレアリスムの顕在化とみなして自らの情動をさらけ出す『ナジャ』など実はまだわかりやすいほう。続く『狂気の愛』にいたっては光文社古典新訳文庫の続刊案内に「過去の邦訳では通読不可能と言われてきた」と紹介されるほどです。『狂気の愛』は訳者によれば
  表記が波乱に富み、破綻に満ち、論理的な文章のはずが、いつの間にか燦爛するイマージュの詩的言語にすり替わっていたりする
書物なのだそうです。「通読不可能」で「破綻に満ち」。困ってしまいますね。

アンドレ・ブルトンの著作から有名どころをいくつか抜き出してみましょう。

  生きること、生きるのをやめることは、想像のなかの解決だ。生はべつのところにある。(シュルレアリスム宣言)
  美とは痙攣的なものだろう、さもなくば存在しないだろう。(ナジャ)
  愛のどんな敵も、愛がみずから讃える炉で溶解する。(狂気の愛)
  眼は野生の状態で存在する。(シュルレアリスムと絵画)
  この自由、そのために火そのものが人間と化したのだ。(サド侯爵について)

それぞれ何を表しているのか、などと問われても困ります。アンドレ・ブルトンを(日本語で)読むということは、とにかくこういうことなのです。

こうしたアンドレ・ブルトンの作品を七転八倒して読み切ったところで振り返ると、実は、案外他愛ない発見や、無理やりなこじつけの山? と思われることもないわけではありません。
通常のセンスをもって冷静にアンドレ・ブルトンの主張、作品を評価すると、少なくともさまざまな価値観がさらに変遷、崩壊した現代から見て、低い評価をする方がいても、それは仕方ないのかもしれません。

しかしそれでも、アンドレ・ブルトンは魅力的です。
批評の目と時代が洗っても、流しても、それでも胸踊り、ときめくものが水の底にさりさりと残るのです。雲のようにむくむくと湧き上がるのです。
それは、彼が一見机上の「批評の人」「選択の人」に見えながら、実はあくまで創作という「行為の人」だったからではないかという気がします。彼は眺める人ではなく、最初から最後まで同じ角度で高みに至ろうとした人でした。
だから、彼の作品は、(あれほど読むにあたって難解、晦渋であるにもかかわらず)何か新しいものを書こうとする者に元気を与えるのです。

最後に。
初代ウルトラマンに登場する四次元怪獣ブルトンの名称はアンドレ・ブルトンに由来し、その存在、その攻撃が超常的だったのは多分に「シュルレアリスム」を意識したものだったそうです。ウルトラマンには三面怪人ダダという宇宙人も登場しました。粋な脚本家もいたものですね。

ブルトンについてはまたいつか。

2009/02/18

追想のアンドレ・ブルトン その二

675アンドレ・ブルトンは、中高い、押しの強そうな顔をしていました。ハンサムな白クマのイメージです。

シュルレアリスムはマン・レイという恰好のカメラマンを得て、そのおかげでメンバーのさまざまな(すごくかっこいい!)写真が多数遺されているのですが、どの写真をみても、ブルトンの顔はすぐわかります。最初から最後まで、「シュルレアリスムの法王」として君臨し得たのは、エリュアールでもアラゴンでもスーポーでもなく、ブルトンでしかあり得なかった、それはもうしょうがないと思わせる、他を圧倒する風貌です。
道ですれ違ってもカラヤンやオザワはすぐわかる、そんな感覚。

そのように、モッブ写真を撮ってもすぐ目立つブルトンは、その独裁性、傲慢さでも知られており、シュルレアリスムというあまり科学的とは言いがたい運動に生涯を捧げた面と、単なるパリのジャイアンという面を併せ持ち、評価もあい半ば……というより、昨今ではあまり話題にされません。マルクス、エンゲルスやサルトルだって以前ほどには目にしませんが、それにしても「シュール」という言葉の蔓延度合いに比べると、その提唱者としてはまったく忘れられているに近い印象です。

そのせいか、アンドレ・ブルトンについては、日本では完結した「全集」もありません。もともと「作家」というより「運動家」の要素の高い人物だったせいでもあるのでしょうが、その「読まれなさ」は不思議なほどです。

もちろん、「全集」にあたるものを出版しようという機運もなかったわけではありません。人文書院による「アンドレ・ブルトン集成」がそれです。B6版の小さな版型、黒い箱にグレイのカバー、本の表紙は濃いグレイの布張りという非常にシックな造り。全12巻の構想で1970年代にぽつりぽつりと発刊されたのですが、半分の6巻分まで発刊されたところで沙汰やみになってしまいました。
以下が人文書院「アンドレ・ブルトン集成」の内容で、○印が実際に発行されたものです。

  ○第 1巻 ナジャ/通底器
   第 2巻 狂気の愛/秘法十七
  ○第 3巻 詩篇 I
  ○第 4巻 詩篇 II
  ○第 5巻 シュルレアリスム宣言集ほか
  ○第 6巻 失われた足跡/黎明
  ○第 7巻 野をひらく鍵
   第 8巻 シュルレアリスムと絵画
   第 9巻 魔術的芸術ほか
   第10巻 黒いユーモア選集
   第11巻 対談集
   第12巻 政治・芸術論集

もう少し続きます。

2009/02/17

追想のアンドレ・ブルトン その一

670 ウィキペディアふうに記すなら、
《この「アンドレ・ブルトン」は、フランス文学に関連した書きかけ項目です。この記事を加筆・訂正などして下さる協力者を求めています》
といったところでしょうか。
だらだらした文章ですが、お時間のある方はご笑覧ください。

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1970年代の日本で、シュルレアリスムという文芸思潮がブームになったことがありました。
ブームといっても、パンダやユリ・ゲラーや紅茶キノコに比べればささやかなもので、せいぜい書店の海外文学の棚にコーナーが設けられる程度のものではあったのですが。
最近になって文庫化された(誰が読むのだか想像もできない)シュルレアリスム関連の書籍には、その当時に出版されたものが少なくありません。

シュルレアリスムというと、一般に、ダリの絵のようなわけのわからない絵画作品をイメージされる方が多いのではないかと思います。もともとは第一次世界大戦の後、ダダという従来の芸術や価値をとことん壊しちゃいましょうというムーブメントがあり、それに次いで現れたものでした。

ダダにおいては、たとえば音楽でいえば、帽子の中に五線譜に書いた♪をちぎって入れておき、無作為に取り出して、それを順番に演奏する、といったパフォーマンスがなされたそうです。作曲するという行為からとことん意味や意識を剥ぎ取ってしまおう、という考え方ですね(ちなみに、説明のために持ち出しましたが、ダダ、シュルレアリスムともに「音楽」にはほとんど敬意を払っていません)。

ダダはルーマニア出身の詩人トリスタン・ツァラ(1896-1963)らが発案したと言われていますが、なにしろやることが無茶苦茶なので、歴史的な意義はともかく、素晴らしい作品が残されているわけではありません(ツァラの詩も、フランス名詩選に選ばれるといった形での評価はされていません)。
近代兵器による世界大戦によってそれまでの世の中のいろいろなルールが崩壊した時代に、芸術の分野でもリセットボタンが押された──と、そう考えれば、興味を持ちやすいのではないかと思います。

さて、後発のシュルレアリスムは、「なんでもご破算」のダダに比べると、フロイトのいう無意識から言葉を繰り出したらどうなる? とか、無関係なものを結びつけたらその効果は? など、もう少し意図、志向性のあるものでしたし、また過去のあらゆる芸術作品からシュルレアリスム的なものを見出しては評価する、という体系的な面も持ち合わせた運動でした。

その目指すところを無理くりざっくりまとめると、「既存概念や理性にとらわれず、思考を自由に解き放つことによって、現実に内在する『より高い次元の現実(超現実)』を再発見し、新しい真の人生を達成する」、といったものとなるようです。ここだけ読むと、どこかの新興宗教の教義のようですね。
とまれシュルレアリストたちは、そのために、たとえば、意識下の赴くまま高速にペンを走らせる「自動記述(オートマティスム)」、事物の意外で唐突な出会いによる効果「デペイズマン」、造形美術上の手法である「コラージュ」「フロッタージュ」「デカルコマニー」などを発見、考案し、実践していくことになります。

シュルレアリスムは、アンドレ・ブルトン(1896-1966)という人物が中心となって提唱、推進したものです。この人は言うならば相撲協会理事長と横綱審議会と大関(うーん、横綱ではないんですね)を一人でやっちゃうような人で、パリで「シュルレアリスム宣言」という文章をぶち上げてシュルレアリスムを定義する、率先して実践(詩作など)もしてみせる、シュルレアリスムを広めるために徒党は組むけれど、ともかくメンバーも自分で選ぶ、首を切る。「君は以前はしっかりシュルレアリストだったのに、近頃はちっともシュルレアリストじゃないっ!」、シュルレアリスムの法王と呼ばれた所以です。

逆に、彼の著書において「この作品ときたらそれはもうとってもシュルレアリスム!」と評されたものは、作者にそんなつもりがなくてもシュルレアリストの作品として再評価されることになります。
たとえばロートレアモン伯爵(イジドール・デュカス)の『マルドロールの歌』という難解な作品は、その「ミシンと洋傘の手術台の上での不意の出会いのように美しい」というデペイズマンな一節がシュルレアリスムの精神を体現したものとして当時シュルレアリストたちにもてはやされました。しかし、デュカス本人は1870年、つまりブルトンたちが生まれるより前に亡くなっていますから、当然ながらシュルレアリスムなんて運動を知っていたはずないんです。

シュルレアリストたちに「発掘」され、祭り上げられたロートレアモン伯爵など実はまだマシなほうで、『シュルレアリスム宣言』には次のような一節さえあります。

  それぞれの成果を表面的に見るだけならば、ダンテや、全盛期のシェイクスピアをはじめとして、かなりの数の詩人たちがシュルレアリストとみなされうるだろう。

おやおや。

アンドレ・ブルトンらは、こんな具合に、過去の文学、絵画作品からどんどんシュルレアリスムのイメージを見つけ出し、いわば架空船団を組んで世の中に高らかに宣言し続けたのです。

この項、続きます。

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