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2008年11月の2件の記事

2008/11/17

「退屈な話」「かもめ」「ワーニャ伯父さん」「三人姉妹」「桜の園」ほか ──アントン・チェーホフ

597【わたしは訊きたい、《それじゃ、ぼくの葬いにはきてくれないの?》】

 ここしばらく、チェーホフばかり読んでいた(最近取り上げているミステリは、少し前、あるいはずっと以前に読んだものです)。

  『チェーホフ・ユモレスカ 傑作短編集1』 松下裕 訳 /新潮文庫
  『カシタンカ・ねむい』 神西清 訳 / 岩波文庫
  『かわいい女・犬を連れた奥さん』 小笠原豊樹 訳 / 新潮文庫
  『退屈な話・六号病室』 湯浅芳子 訳 / 岩波文庫
  『たいくつな話・浮気な女』 木村彰一 訳 / 講談社文芸文庫
  『かもめ』 中村白葉 訳 / 角川文庫
  『かもめ・ワーニャ伯父さん』 神西清 訳 / 新潮文庫
  『桜の園・三人姉妹』 神西清 訳 / 新潮文庫

 読み始めたらもうとまらなくなった──別にそういうわけではない。
 手元にあったものをぽつぽつ読み返し、未読を取り寄せるうちに、ほかの本が騒々しく思え、煩わしくなってしまったのだ。
 (もともとほとんど見ないのだが)とくにテレビが耐えられない。ドラマ、報道、バラエティに限らず、音が聞こえるだけでしばらくするとどうもざらざらした心持ちになってしまう。

 チェーホフは短篇小説にせよ、戯曲にせよ、似たような舞台設定、雰囲気の作品が多い。なので、一気にたくさん読むわけではない。
 やはり、「かもめ」「ワーニャ伯父さん」「三人姉妹」「桜の園」の戯曲、とくに「かもめ」がとてもよかった。
 小説の中では、今回、「退屈な話(たいくつな話)」が心に沁みた。二十代であの老人の諦念を描けるものか。

 事件そのものより登場人物の心情の流れが主眼となる作品では、翻訳者による言葉遣いの違いが気になる。
 
 わたしは努めてグネッケルのなかにわるい特徴ばかりを見つけようとし、間もなくそれを見つけて、彼の花婿席にわたしの仲間のそれでない人間が座っていることをくるしむ。彼がそこにいることはまた別の点でもわたしにわるく影響する。

は岩波文庫「退屈な話」(湯浅芳子訳)。これはあんまりだ。同じ部分を講談社文芸文庫「たいくつな話」(木村彰一訳)で読むと、ようやく何を言っているのかわかるような気がする。

 私はグネッケルのわるい点だけを見いだそうとつとめる。それはまたすぐに見つかる。そして私は自分の仲間でもない人間が花婿候補者の座にすわっているのを見て煩悶するのである。グネッケルを見ると胸がわるくなるのは、もうひとつ理由がある。

では湯浅訳はまるで駄目で木村訳のほうが万事万全かといえば、そのようなこともない。同じ作品の(非常に重要な)最後の一段をみてみよう。

 いやちがう、振り返らなかった。黒い服が最後にちらりとみえて、足音はきこえなくなった……さようなら、わたしのまたとないひとよ!

 いや、彼女はふり返らなかった。黒い服がちらりとひらめいたのが最後の見納めで、やがて足音もしだいに消えた……さようなら、私のたからよ!

どのセンテンス、どの単語を比べても、前者(湯浅訳)がいい。

 神西清訳が総じて安心して読める。中村白葉は古い本で旧かな遣いだが、これはこれでいかにも露文を読んでいる気持ちになって懐かしい。

 チエーホフの作品には、光がある。
 悲惨な話であれ、多少は救いのある話であれ、さらさらした砂地の洞窟の向こうのほうに小さくうかがえるような、ほの白い、細い光。
 自分自身や、自分の眷属、社会はもう駄目かもしれないが、どこか遠く、いつか遠い未来で、ほかの見知らぬ誰かが多少はうまくやれるかもれない、そのようなほんのかすかな期待。
 この光はまた、エセーニンがその詩の中で「明日、早く起こしてね」と母親に頼んだ、その、とうとうやってこなかった朝の薄明と同じ、柔らかな白い色かと思ったりもする。

2008/11/04

名探偵、結末の後も霧の中 『僕を殺した女』 北川歩実 / 新潮文庫

273【……いいえ、もちろん知識としては、記憶喪失後に教えられて、知っていたんですよ。】

 セバスチアン・ジャプリゾの『シンデレラの罠』は、「私は事件の探偵であり、証人であり、被害者であり、そのうえ犯人でもある。いったい私とは何者か?」という名コピーで有名だ。しかし、このコピーを成り立たせているのが「記憶喪失」だと知るや、どうしても興趣は塩水をかぶったナメゴンのようにしぼんでしまう。アンフェアに騙されている気分が最後までぬぐえないためである。早い話、「記憶喪失」モノは苦手なのです。

 北川歩実『僕を殺した女』も『シンデレラの罠』に負けず劣らずの設定である。「記憶喪失」がメインディッシュであることもまた同様。

 「ある朝目覚めると、大学生で『篠井有一』だった僕は、見知らぬ部屋で若い女になっていた。しかも昨日から5年後にタイムスリップして…」というカバーの惹句はご覧のとおりすごい。そしてこの設定に、論理的な理由づけをしてみせようとする志たるや半端ではない。
 最終ページまでに、その試みはほぼ実現されている。
 ……にもかかわらず、どうもすっきりしない、いわゆるカタルシスが得られないのはなぜだろう。

 1つには──設定ゆえしかたないのだろうが──構成に難を感じる。
 先のとおり、物語はある朝とびきりの謎を提示して始まるのだが、その後、さまざまな出会いや出来事によるどんでん返しと説明が繰り返され、読み手はやがて当面のプチ決着に麻痺して驚きもしなければ安心もできないようになってしまう。絶叫マシンの多くが一発勝負なのは理由があるのである。いくつかのどんでん返しの1つで物語が終わるのでは盛り上がるわけがない。

 もう1つ、人物の描写が気になる。
 物語は主人公の視点、「僕」という一人称で語られるのだが、これがどうにも粘着質かつ妙にガラが悪いのだ。「男の記憶」を持つ「女性」として両性の悪いところが剥き出しになった感じだが、どうも主人公に限らず登場人物の言動がそろって粗野で、知的ゲームを楽しむ気分にひたれない。
 キャラクター、とくに男女の描き分けはこの作品では大きな意味を持つだけに、意図的だったとしても成功しているとは思えない。

 しかし、そういった構成や人物描写以上に、「記憶喪失」が問題なのだ。
 ストーリー中に「記憶喪失」アリ、なら、それはつまり記憶の部分的消去が可能だということになる。さらにその記憶に暗示や刷り込みが可能となると、これはもう何が真相であってもよいことになってしまわないか。

 若い女性として目覚めた主人公は、その後の現実の事件や関係者の証言から誤った記憶を少しずつ剥いでゆき、真相にたどり着く(ということになっている)。シーンシーンはある意味「誠実」で、「○○とは書いてなかったから、実は」などといった叙述トリックで騙されるわけでもない。しかし、いかに記述に嘘がないといえ、記憶喪失や都度の暗示が可能なら、今目の前で事実と見えていることはさらに別の暗示によるものかもしれないではないか。
 なので、『僕を殺した女』の最後のページ、決着にいたってなお、「しかし、実は」という別の真実、別の決着があってもおかしくない……そう思えてしまうのである。

 北川歩実は、この後、短篇集を1冊読んでみた。
 今のところ、そのほかの長編を続けて読もうというファイトは沸いていない。

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