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2008年9月の4件の記事

2008/09/28

大人の距離、大人の眠り 『シマシマ』(現在2巻まで) 山崎紗也夏 / 講談社モーニングKC

401【僕はただの添い寝相手ですから 抱き枕と一緒ですよ】

 山崎紗也夏(沖さやか、山崎さやか)は、青年誌らしい、コマ割りや時制のはっきりした明瞭なペンタッチと、女性作家ならではの不定形、情感あふれる心理描写力を合わせもつキメラ的作家である。小奇麗なコマ運びに油断していると足を掬われる。

 沖さやかと名乗っていた初期には描きたいことのクオンティティが作家としてのクオリティを上回って、ともすれば白っぽい稚拙な線画にハードな内容を詰め込み過ぎ、たとえば『マイナス』という作品では掲載誌の回収騒ぎを巻き起こしている(ハイキングで道に迷った女教師が、同行の女児が頭を打って死んだのをいいことに躊躇なくそれを焼いて食べるシーンがそのまま載ってしまったのだから、回収騒ぎ以前に編集部や印刷所のチェックを通り抜けたことのほうが不思議だ)。

 しかし、気がついてみればこの作家は圧倒的な筆力を身につけ、山崎さやか名義の『NANASE』ともなると、その画力はもはや爆圧的だ。筒井康隆の『七瀬ふたたび』をベースにしたこの単行本4冊、ストーリーはほぼ原作にならいながら、あらゆるコマ、あらゆるキャラクターが読み手を圧倒し、ここでは初期とは逆に、ストーリーより見開きそのものが暴走するかのごとき事態が発生している。マンガ作品としてすさまじいものでありながら、バランスに欠け、安易に推奨しづらいのもそのためだ。

 その後作者の技量はさらに変遷し、モーニングに掲載誌を変えて連載開始された『はるか17』では、意識的にか無意識にか、絵柄もストーリーの突飛さもむしろ凡庸なほどに抑えられ、それゆえ人気連載として作者の作品中で最長の作品となった。『はるか17』はありがちなタレント成長物語ではあるのだが、数週に一度エキセントリックなコマが発露する、掲載の待ち遠しい連載ではあった(はるかが舞台で人形を演ずるシーンには、比喩でなく鳥肌が立った)。

 さて、現在モーニングに連載中の『シマシマ』だが、これがまた、凄い。

 アロマエステ「グリーン」のオーナー・箒木汐(シオ)。彼女にはもう一つの顔がある。それは、眠れない女性達に添い寝相手の青年達を派遣する<添い寝屋>「ストライプ・シープ」の店長。……

 添い寝屋といえば、吉本ばなな初期の名品『白河夜船』を思い出す。『シマシマ』の主人公も眠りに振り回されてはいるが、『白河夜船』ほど設定は暗くない。観念的でもない。

 『シマシマ』というタイトルは、主人公シオの
  隣に寄り添いはするものの 決して交わらない平行の関係
という添い寝屋としてのポリシーによる。
 つまり、この作品は、シオとイケメンでオシャレな「ストライプ・シープ」の4人のメンバー(ガイ、ラン、リンダ、マシュ)、シオと元・ダンナ、シオとエステの客、添い寝屋のメンバーと眠れない女性客達、などなど、登場人物同士のつかずはなれずの「距離」の物語である。そのあたりをクール、かつ手札を隠さず描いてみせる作者の手腕は冴え冴えとして見事。また、その気になって読めば、大小のあらゆるエピソードやセリフがこの「距離」をテーマにしていることが伺えるのも天晴れだ。

  警戒されて当然…… でも…… こっちだってトラブルは避けたい
     (添い寝客に事前カウンセリング)

  どれくらいぶりだろ男の人と寝るの…… あっこれこれ…… この感じがいいかな……
     (添い寝客がガイと同衾して)

  肌に触れていくうちに こっちのエネルギーをどんどん吸い取ってしまうような人がいる……
     (エステの客について)

  男の子4人がしょっちゅう泊まっていって 一度も色目で見られたことがない……
  コイツらって…… 植物?

     (ストライプ・シープのメンバーについて)

  ホっとする…… あれ以上自分のペース乱されるのすごく嫌……
     (意中でない男に食事に誘われて)

  会わなきゃいけないのか……
     (振り捨てた男について)

  僕はただの添い寝相手ですから 抱き枕と一緒ですよ
     (添い寝客に)

  いろいろこらえて笑ってくれたじゃないですか
     (添い寝客に)

 そしてもう一つ、この作品を読み返すたびに感じることがある。
 マンガ作品についてはよく「キャラが立つ」という言葉が使われる。たとえば新人の投稿作品について、技術はないがキャラは立っている、ストーリーはよくまとまっているがキャラが立ってない、と言われたりする、あれだ。
 『シマシマ』に登場する人物はいずれもすっきりキャラが立っている。シオもクールなら、添い寝屋に招かれた学生4人もそれぞれ手本にしたいようないい出来だ。だが、それだけではこの作品のリアリティは説明できない。
 キャラ以外に、もう一つ立っているものがある。この作品のあらゆるコマに描かれた「モノ」である。たとえば、眠れない女性の部屋にあふれるブランドの紙袋。食器。スリッパ。カーテン。シオが用いるエステ用の小物、大物。缶ビール、グラス、目覚まし時計、ソファ、蛍光灯のヒモ。それらすべてに意味があり、何一つおそそかにされていない。こういうことに悩む女はこういう部屋に住み、このような衣服を選び、こういう値段の、こういう小物を集め、このように扱う。
 それらの「モノ」が質、さらに量においてすべて的確に描かれなければ伝えられないもの、この作品はそういった精度の上に成り立っている。

 『シマシマ』については、おそらく、もう少しエピソードが溜まると日テレあたりからドラマ化のオファーがかかるのだろう。テレビに詳しくなくても、シオ、ガイほか、登場人物達の配役が容易に予測できる。だが、現在の幼児化したテレビドラマの手腕で、この大人の作品は描ききれるだろうか?

2008/09/21

名探偵、虚実とりまぜること悪魔のごとし 『硝子のハンマー』 貴志祐介 / 角川文庫

236【純子は、とうとう我慢しきれなくなって訊く。「何か、つかんだの?」「まあ、いろいろと」「もったいぶらずに教えて」】

 あまり大きな声では言えないが、ミステリは嫌いなほうではない。
 我が家の二階の納戸、一階のクローゼットからあふれ出し、寝室まで占拠しつつあるミステリ本の土石流。その土ぼこりの向こう、つり上がった目、尖った角……も、もちろん今のは目の錯覚に過ぎない。

 かくのごときミステリ好きではあるが、洋の東西、古今、快作駄作を問わず、納得がいかない、というより許しがたい場面がある。
 それは、巻も半ばを過ぎ、ワトスン役が名探偵に犯人の名を問うと、まるでそれが聞こえないかのように虚空を見つめた名探偵、「もう一つ、それさえ確かめられれば」などと考え込み、その合間に真犯人がどこかで新たな犠牲者の胸にナイフを突き立てる、あのおなじみの展開である。
 理解できない。そこで考え込むヒマがあるなら「犯人はこいつかこいつ、どっちか。まだ調べたいことがあるので逮捕は無理だけど、これ以上被害者が増えないよう見張っててください」と言えばすむことなのだ。探偵が「ほうれんそう」(報告・連絡・相談)と情報共有の責務さえ果たしていれば、新たな被害者が1つしかない生命を奪われることもなかった。中間管理職なら降格だし、経営陣だとしても株主総会か取締役会で責められること必定。探偵と役人だけが甘やかされてよい理屈はない。

 先の『生首に聞いてみろ』の際にも取り上げたが、名探偵なるもの、往々にして推理力をほこる割には目の前の犯罪に弱い。「問題を最後まで教えてください。そうすればたちどころに解いて見せましょう」、これでは足の速い連続殺人事件には対処のしようがない。というより、数少ない状況証拠からほかの誰も気づかない真相を暴き出すという彼の特殊技能をこそ、先の展開は否定する。情報を上げ膳据え膳でそろえてもらえるなら、あんたでなくとも犯人くらい特定できるわ、と世界中のレストレード警部たちも声を大に主張したいに違いない。

 要するに、あれだ、殺人鬼が跋扈跳梁するコテージで、一人シャワーを浴びてみたり湖に漕ぎ出したりするお嬢さん、それとどっこいレベルの振る舞いが「もう一つ、それさえ確かめられれば」展開なのである。死体が増えればサスペンスは増すかもしれないが、その分探偵は無能に見える。
 もちろん、探偵が自分の推理を常にオープンにワトスンに語ってしまっては大団円前に犯人が割れてしまう。ワトスンに、そして読者に手の内を明かさないなら、それは、探偵が「実は無能」以外の、何か別の理由が必要となるに違いない。それに回答はないのか。その回答に基づいたミステリはないのか。

 回答はある。「探偵は意地悪」、これだ。

 さて、本題。
 『硝子のハンマー』は、『黒い家』などで知られるホラー作家貴志祐介の(おそらく)初めての本格推理長編だ。
 『硝子のハンマー』は2005年に日本推理作家協会賞を受賞するなど、発表時期、評価、ボリュームなどいろいろな面で『生首に聞いてみろ』と酷似しており、角川もこの2作を「ペア」ととらえているふしがある。同月同日に文庫化された両作品には解説の変わりに貴志、法月両作家の座談会が相互のインタビューという体裁で掲載されている。
 だが、当然ながら2作で違う点も少なくない。その最たるものは、登場する探偵のキャラクター、そして資質だ。

 『硝子のハンマー』では、エレベーターの暗証番号や廊下の監視カメラなどによって二重三重に閉ざされた密室で上場直前の介護会社の社長が殺される。人に危害を加えないようプログラムされた介護ロボットを組み合わせたパズル趣味、探偵役に怪しげな「防犯コンサルタント」を持ち出すアイデアが秀逸だ。
 そしてこの探偵役の榎本径がまた、実に素敵に「意地悪っ」なのだ。彼は目的達成のためなら多少の逸脱など躊躇しない。「探偵」より今どき珍しい「悪漢」という言葉が似合うかもしれない。榎本は自分の推理の途中経過をよく喋るが、それには必ず裏に隠された目的がある。隠すときには隠す意味、隠さないときには隠さない意味がある。本作ではワトスン役としてそれなりに有能な女性弁護士、青砥純子を配しているのだが、榎本のさばきが巧みすぎ、相対的に相手にならない。
 探偵とワトスンのあり方は、こうでなくては。

 本作のメイントリックは魅力的だが、わかりやすいヒントも随所に用意され、読み手が推察するのも困難ではない。また、犯人も意外とか驚愕とかいう按配ではなく、どちらかといえば唐突な印象のほうが強い。つまり、本作ではハウダニット、フーダニットに強く焦点が当てられているように見えて、実はそうでもない。作者は事件の真相については、読者が読み当てることをむしろ期待し、そのためにヒントをばらまいた気味がある。
 では、読み終えてすぐ再読したくなるような本作の魅力はどこにあるのだろう。それはまさしく主人公の「探偵ぶり」、そのテイストではないだろうか。意地悪で悪漢、口は軽いが本音はうかがわせない……。
 探偵のあり方は、こうでなくては。

 そういえば、(まさしくこの貴志祐介が)法月綸太郎を評して用いた言葉が「マジシャン」だったが、あなたは「マジシャン」という言葉にどのような風貌を思い浮かべるだろう。魔法使い、魔術師、奇術師……いろいろあるだろうが、すんなり連想できるのは、黒の燕尾服、口ひげをくりんと巻いて、得体の知れない笑みを浮かべた、あの躊躇を知らないメフィストフェレス、「悪魔」の姿に近いものではないだろうか。

 「悪魔のように賢い」と人は口にするが「天使のように賢い」とは言わない。元来、天才的犯罪人を凌駕する探偵は、悪魔のごとくあるべきなのである。「しまった」「ぼくの責任だ」などと泣き言を口にする悪魔はいない。いたとしたなら、そんなのは悪魔としても探偵としても三流に違いない。

2008/09/13

名探偵は泣き言の名手 『生首に聞いてみろ』 法月綸太郎 / 角川文庫

027_2【綸太郎は乾いた唇を噛んでうなだれた】

 横溝正史の生成した金田一耕助は、事件にかかわりながら殺人の被害者が増え続けるのを妨げられない探偵として知られている(『活字探偵団』(本の雑誌編集部編 / 角川文庫))。モジャモジャ頭をかきむしりながら石坂浩二が「しまったああ」と顔をしかめるシーンの数々を思い起こせばさもありなんと思う。
 これには異論もあって、『八つ墓村』『悪魔が来りて笛を吹く』など被害者の数がめったやたら多い一部の事件を除けば、金田一の成績はさほど悪くないという。
 だ、と、すると。ことは重大、金田一個人の名誉でことは済まされない。なぜなら、世の名探偵たちは、そろいもそろって、目の前の殺人を防げないこと、モジャモジャ頭の石坂浩二とどっこいどっこいだってことなのだから(ちなみに、『八つ墓村』も『悪魔が来りて笛を吹く』も金田一役を演じたのは石坂ではなかった。よほどまずい)。

 実は、金田一シリーズはまだいい。横溝の作品の多くにおいて、背骨となる主題は、閉ざされた村社会の因習、一族内の利害であって、犯人はその構造の虜となり、反逆者となってその社会に楔を打とうとする。探偵は起こった事象、その意味を後から読み手あるいは観客に説く道化にすぎず、だからこそ事件はことをなし終えた犯人の自殺によって落着し、語り役を終えた探偵はただ去っていくばかり。

 しかし一方、高度な完全犯罪を目論む天才的犯罪者との論理(パズル)合戦を主旋律とする本格推理作品において、探偵が目の前の事件を阻むことができないのはあまり望ましいこととはいえない。それは探偵が未成熟な受験者にすぎないこと、より直裁にいえば犯罪抑止にはまったくもって無能だということを曝け出すのだから。

 さて、本題。
 法月綸太郎の仕事は手堅い。ここでいう「法月綸太郎」は作中の同名の探偵のことではなく、ミステリ作家のほうだが(作中の探偵も本業はミステリ作家。ああ鬱陶しい)、デビュー当時から最近にいたるまで、文体、犯行を詰める論理ともに緻密かつ重厚な手応えは変わらない。のちに探偵の存在意義とかいう解けない迷路にはまり込み、根の暗い短篇や論評を主とするようになるが、その時期にしても文体、構成の手堅さは同世代のいわゆる「新本格派」の中でも図抜けていた。逆にいえば破天荒な勢いに欠け、作風に華がない、そういうことでもあった。
 『生首に聞いてみろ』はその法月綸太郎の久方ぶりの長編で、2005年の「このミステリーがすごい!」で堂々1位を取得している。文庫にして500ページをほとんど1つの事件で費やしているのだが、伏線から謎解きまで乱れず散らさず、みっちりと虎屋の羊羹を積んだような作風で、その犯行の特異性含め、評価を受けるに足る力作、労作であるといえる。

 ……だが、理屈ではそうとらえつつも、実際に読んでみるとこれが諸手を踊らせるほどには楽しめない。なぜだろう。被害者、加害者を含め、文字数を費やして丁寧に描かれている割にはなんら人間的厚みが感じられない(たとえば被害者はちっとも気の毒に見えないし、他の登場人物たちも被害者が亡くなったことをさほど嘆いていない。全員、ストーリーのための駒なのだ)、しかし、それだけではない。
 とどのつまり、探偵が、「情けない」のだ。何箇所か抜き出してみよう。

 目の前が真っ暗になった。…(中略)…それどころか、自分は取り返しのつかない大失敗をしでかした可能性がある。

 「(前略)…ぼくの手抜かりです。弁解の余地もありません」
 綸太郎は乾いた唇を噛んでうなだれた。目を伏せているのに、川島の視線を痛いほどに感じる。

 「(前略)…わずか一時間ちょっとの間に、彼女を救うチャンスが二度もあったのに。ぼくはそのチャンスを、二度ともつかみそこねてしまったんだ……」

 ご覧のとおり、「しまったああ」と叫んでモジャモジャ頭をかきむしる探偵と変わるところがない。問題は、この柔弱な探偵が、一方では推理を駆使して事件の真実を明らかにする二枚目探偵の役割を担っていることだ。バランスが悪いのである。それ以前に、そもそも、言い訳がましい。

 単行本のほうの帯の惹句で、有栖川有栖は「お帰り、法月綸太郎! 名探偵の代名詞よ。この事件は、あなたにしか解けない」、貴志祐介は「伏線をたぐり寄せるマジシャンの手際は、驚愕と納得を保障する。」とともに絶賛である。
 帯の惹句などしょせん本を売らんかなのコピーだから眉に唾々するにせよ、「名探偵」にして「マジシャン」が、演出でなく、先の引用のような情けない地をさらしてよいものだろうか?

 金田一は事件が終われば去っていくが、法月は留まって父親の刑事と同居。とことん踏ん切りの悪い探偵なのである。

2008/09/06

日なたと日かげの物語 『オチビサン 1巻』 安野モヨコ / 朝日新聞出版

883【ひとりだって楽しいもの】

 朝日新聞で毎週日曜日に掲載されている『オチビサン』、連載のはじめの頃を見逃していたこともあり、奇麗な単行本にまとめられて、とても、嬉しい。

 登場人物は毎日遊びに忙しい、きりりとした顔つきの「オチビサン」、その友だちで読書家の「ナゼニ」、その友だちの「パンくい」。彼らは昭和の色濃いどこかの町で日々季節をめくる。折々の花。水遊び。柏もち、かき氷、枯れ葉ふみ。日なたの匂い。

 単行本では右ページにグレースケールの英語版が掲載され、作品のリズムやシニカルなやり取りがスヌーピーの『ピーナッツ』によく似ていることがうかがえる。同時に、『オチビサン』の世界が『ピーナッツ』のように明るく乾いた陽光の下にあるわけではないことも、よくわかる。

 子どもと、犬と、老人しか登場しないオチビサンの町は「死者の国」ではないか、ふとそんなことを思う。
 一年を通して(風呂の中でさえ)脱ぐことのないオチビサンの帽子は、ある種の病気、治療の副作用を示すものだったのではないか。

 そうでないなら、何ページかに一度、子どもを亡くした母親のようにたまらなく切なくなる、読み手のこの思いをどう説明すればよいのか。去っていくだけの電車、「どこか遠くの町」にいるという父親、間に合わなかった電話、それらから立ち上る寂しさをどう納得すればよいのか。

 いずれにしても、夕暮れ時に子どもが一人火鉢の前でざぶとんに座って「・・・・寒いな・・・」とりりしく窓を見上げる、それでコマを閉じる作品になどそうそうめぐり合えるものではない。

 四季を描くことは絶え間ない死と出合うこと、などと思ってみたりもする。

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