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2007/01/08

今さらたしなめてどうなるものでもないが 『テレビ標本箱』 小田嶋 隆 / 中公新書ラクレ

431【思えば和田アキ子は,「本音」「毒舌」を売りにしながら,いつでも強い者の味方だった。】

 テレビはあまり見ない。年末番組,正月番組の類も,ほとんど見なかった。
 見なくともとくに不自由しないので,必要ないということなのだろう。

 例外的に見ているのが日曜午後の「開運!なんでも鑑定団」(再放送),これは骨董や美術品についての薀蓄と,その真贋に一喜一憂する(もしくはその感情を圧し隠そうとする)鑑定依頼者たちの表情が楽しい。
 年末の放送では,ゲストとしてこぶ平改め林家正蔵が招かれていたが,言葉のはしばしにシャレと済ませがたい「名門」意識が感じられ,おさまりが悪かった。結局持ち込んだ品は番組としては最低ランクの500円という値づけだったのだが,正蔵が「笑われ」役をうまく演じきれない感じで,最後まで鬱陶しい印象が残った。
 この感じはどこかで,と思ったら,そうだ「画伯」を呼ぶことを周囲に強要するようになってからの鶴太郎のねっとりした喋り方がこれに近い。
 年が明けて同じ「開運!なんでも鑑定団」の新春スペシャル,こちらは司会の島田紳介がゲストと「目利き」対決する趣向。坂東英二や九重親方に接戦ながら連戦連敗のあと,最後に日本画について重々しく知識を口にする鶴太郎にだけ完勝したのだが,その展開になんとなく薄ら寒いものを感じた。
 こういった番組がまったくシナリオなしに進むとは思えない。落語家が持ち込んだ陶器が500円だったのも出来レースなら,ほかのゲストに負けて悔しがる神介が最後に一勝して喝采を得るのもある程度織り込み済みと見るのが妥当だろう。
 つまり,当初お笑いで重宝した鶴太郎を,続いて「画伯」として便利がったテレビが,ここにいたってとうとう貶めることに使い道を見出してきたのではないか。そう見えたのだ。
 テレビ側に悪意,善意があるわけではない。悪意なしにとんでもない非人道的なことを平気でしてしまうのがマスメディアなのだ。

 年末年始のテレビでもう一つ注目したのが(見てもいない)NHK「紅白歌合戦」を巡る一連の報道だ。
 言うまでもなく「DJ OZMA」というタレント(初めて聞く名前で,どういう人物かは知らない)がバックダンサーの女性に裸体と見まがうボディスーツを着せて顰蹙を買ったわけだが,この経緯が実にテレビ的で興味深い。
 時系列にインターネット上の表記を追ってみよう。
 12月30日,つまり放送前日のサンケイスポーツによれば,
「最大の目玉といわれるDJ OZMAは「視聴率よりも膨張率。とりあえず脱ぐしかない。出禁覚悟です」と前代未聞の開チン宣言」
 つまり下着まで脱いで男性器を露出するぞと挑発。これに対し,
「北島三郎は「出したら張り倒す!! 遊びと違うんだぞ。ここはストリップ劇場じゃない」と激怒り」
 ところが当日の演出は
「(OZMAが)着地して再び円筒の布に包まれる。最後に布が取り払われると,登場したのは御大の北島三郎(70)。「2007年アゲアゲだぁ~!」と締めると,大歓声が巻き起こった」
 つまりDJ OZMAと北島三郎のいさかいは,もともと耳目を集めるためのサクラだったということになる。もちろん,その経緯をNHKが知らないわけもない。
 ところが,ボディスーツに抗議が殺到するや,一転,
「NHKでは紅白の公式HPトップに「衣装の最終チェックであるリハーサルでは放送のような姿ではありませんでした。今回の紅白のテーマにふさわしくないパフォーマンスだったと考えます」と謝罪コメント」
とDJ OZMAに責任を振って知らぬ存ぜぬのほっかむり。
 子供たちへの教育現場では,「知らなかったは言い訳にならない」が古来よりオトナの側の常套句である。否,そもそも歌いながら下着姿になることがウリのミュージシャン(なのか?)を招いておいて胸モロは「ふさわしくないパフォーマンス」の理屈は通るのか。
 しょせん歌番組は歌番組,お客様をもてなしてナンボの世界。ストリップ劇場とどこが違うのか理解できない。「天下の」「国民的」などと重々しく言葉だけ飾り立てて名門を誇っても腐臭漂うばかりだ。

 ……テレビについてはもっともっと言いたいことがあるが,残念ながらなにしろほとんど見ていないだけに論拠に甘く二の矢三の矢がつげない。
 そこで当節のテレビを手厳しく乱れ打ってくれる本にご登場願おう。

 小田嶋隆は1980年代の「遊撃手」「Bug News」当時から注目していたコラムニストで,当方が雑誌の編集に携わっていた折にはとうとう執筆を依頼する機会を得なかったが,強大な企業を敵に回して睥睨するその攻撃的な筆致は読み手として胸躍るものがあった。
 『テレビ標本箱』は利権への迎合,大物タレントの傲慢など,テレビのタブーをめくっては返し,めくっては返す棘とならんことを志向したコラムであり,その攻撃性は新書としてある程度成功している。
 とくに,最近の報道番組のCMへのおもねりや,テレビ出演者の同調しない者を許さない構造などへの指摘はおおむね的確かつ辛口で,テレビ番組の愚かしさと堕落(今さらだが)を語って切れ味も鋭い。

 ただ,……本書を亡きナンシー関の遺したものと比較してしまうと,さすがにどうしても評価は低くならざるを得ない。
 ナンシー関は,あれほどテレビ番組を見,同じメディア界に属しながら,最初から最後まで一瞬とて同じ匣の中に立つことはなかった。辛口であるとかないとかそういうことではなく,彼女にとってテレビは対岸からウォッチし,解体し,語るものであって,淫するものではなかった。瞬時の油断もなく,柔らかな視線と鞭のような言葉をもって戦い続けたとでも言おうか。

 『テレビ標本箱』は,残念ながらまだまだその域には達していない。
 たとえば,明石家さんまについて,一方(53ページ)で「言われてみれば,私も,最近のさんまの芸で笑った記憶がない」「ゲストのスポーツ選手をパシリ扱いする尊大な態度」と語り,もう一方(135ページ)で「さんまのまんまの面白さは」「さんまが偉いのは,決して立派なことを言わないところだ」と言ったようなことを書いてしまう。内容の是非以前,表現者として脇が甘い。ナンシー関なら決してこのような隙は見せなかっただろう。
(似たようなブレが逮捕前,後のホリエモンに対する評価でも起こっている。)
 つまるところ小田嶋は,まだどこかでテレビを楽しんでいるのではないか。期待しているのかもしれない。その分,甘さが出る。

 それでも,黙るわけにはいかない。ナンシー関はもういないのだ。
 テレビにはもう自浄機能はない。相次ぐ不祥事に対するNHKの反応,紅白歌合戦の一連の流れを見ただけでも,それは明らかだろう。
 『テレビ標本箱』本文からの引用で締めよう。
「誰かがたしなめないといけないんじゃないのか?」

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