フォト
無料ブログはココログ

« 2006年12月 | トップページ | 2007年2月 »

2007年1月の4件の記事

2007/01/29

絶句 『舞姫(テレプシコーラ) <10> 第一部完結』 山岸凉子 / メディアファクトリー(MFコミックス)

895【自分の身体能力を越える踊りを振り付けることがいかに恐ろしいことか…】

 驚いたことにこの「くるくる回転図書館」で『舞姫(テレプシコーラ)』の第1巻を取り上げたのが2001年7月。もう5年半という年月が過ぎていました。

 『舞姫(テレプシコーラ)』がどのくらい売れているのかは知りません。『日出処の天子』のときのように大きな話題になっている気配もありません。
 連載が始まった頃には主人公篠原六花(ゆき)はまだ小学5年生,同級生の須藤空美に配された設定こそ苛烈極まりなかったとはいえ,全体には小さなバレエ教室の中の嵐,そんな印象でした。空美が六花の前から消えてからは,舞台での小さな事故や学校でのいじめ,プリマを目指す少女たちのダイエットの悩みなど,いずれも地方都市のバレエ教室にありそうな事件ばかり……。

 そして,その,どこにでもありそうな出来事の積み重ねが,どんなに惨い代償を生むかか,どれほど人を変えてしまうか,この第10巻はこの物語がやはりただならぬものであることを突然あらわにし,読み手を動揺させます。顔色を失わせる,と言い換えてもいい。
 第1巻のときに記したことを,改めて書いておくことにしましょう。
 山岸凉子という作家の制限(リミット)は,やはりどこかほかの作家と異なるようです。

 第一部完結となる本巻の最後の数ページに得られるカタルシスは,その作者が登場人物たちに科した重荷が過酷であるがゆえに圧倒的です。
「その恐怖を押さえ込んでまで振り付けたいものが 自分の中にあることを発見したのだ」
 ここにおいて『舞姫(テレプシコーラ)』は,ようやく表現者の物語として幕を開けました。そして,山岸凉子が淡白な筆遣いで描くその道程は,なんと恐ろしいもの,であることか。

2007/01/22

『マンガの深読み,大人読み』 夏目房之介 / 光文社 知恵の森文庫

034【(日本のマンガ文法では)挑戦する「未来」は,常に左方向にあるのだ。】

 夏目房之介には『消えた魔球 熱血スポーツ漫画はいかにして燃えつきたか』という,それはもう実にエポックメイキングな著書がある。
 そこでは,古今のスポーツ漫画の名シーンを夏目本人が模写し(実に巧い),その作業の中から作者のペンが語るものを浮き彫りにするという手法がとられた。漫画が作画という「技術」の上になりたっている以上,その「技術」を経てしか語れない部分,それを徹底的に洗い出したわけである。この好著が単行本,文庫本ともに絶版で入手困難なのは,理解できない。ニッポンはダメだ。

 それはともかく,その後も手塚治虫論などさまざまな形で漫画を語り続けてきた夏目房之介だが……本書『マンガの深読み,大人読み』にいたっては,同じ漫画を語るにしても,もうなんとなく別の世界,時代の人,と感じてしまった。

 一つには,彼が最近推し進めている,きちんとした研究としての「漫画学」だが,これについてはいまだ「テイスト」としか言いようのない頼りない手ごたえしか感じられない。
 夏目本人に限らず,「学」というスタンスで「技術」としての漫画を研究する者が点在といえるほどにもおらず,その成果が線に結びついてないような印象なのだ。
 たとえば,
   チビ太が歩く後の砂ぼこりのような吹き出しを最初に描いたのは誰?
   超能力の「目から光」を最初に描いたのは誰?
   爆発音の「ちゅどーん」を最初に用いたのは誰?
といったことさえきちんと整理されていないレベルで「学」と言われてもなぁ,といった感じである。
(ちなみに「ちゅどーん」は田村信『できんボーイ』だそうだが。)

 また,本書の最大の柱が第2部「『あしたのジョー』&『巨人の星』徹底分析」なのだが……こちらは,「分析」と称しながら,正味は当時の作者やアシスタント,編集者のところをインタビューして回ったという内容にすぎない。「なるほどそういうことだったのか」は多々あるのだが,どうも自分の知りたいことはそうではなくて,という空回り感が強かった。

 それにしても,『あしたのジョー』にしても『巨人の星』にしても,(現在より分業が進んでなかったであろう環境の中,しかもほとんど休載の許されなかった時代の週刊連載で)そのテクニカルな工夫にあふれることは驚くばかりだ。
 たとえば,夏目が発見したことだが,『あしたのジョー』の力石の死のシーンで,力石の控え室に関係者が黙って立っているシーン,全員背後に影が描かれていてその影の伸び方を見ると光源は力石の死体となっている,とか。『巨人の星』の最終回のさまざまなコマが,飛雄馬の最後の1球の投球フォームが半透明になっていて,その向こうに打者の伴やキャッチャーが見えているのをはじめ(いかんせん,アンダースローピッチャーの視点から見れば,伴の位置や身長は遠近法的におかしいのだが),当時としては前衛漫画といえるほどのコマが続いている,などなど。

 ただ,いずれにせよ,作者がどう苦労したかは,作品の価値とは無関係と考えているためかもしれないが,当時の作者と編集者のやり取りなど知っても「だから何」という思いのほうが強い。それよりは,作品が示すもの,描くものを正面から論じてほしいのである。

 結局……自分で読むしかないのか(当たり前だって)。

2007/01/11

我もまた檻の獣なれば 『ZOOKEEPER』 青木幸子 / 講談社イブニング(2007/01/23 No.03)

【個体数を回復できても 最速の特性をなくしたとしたら ……それはチーターなのか】

 手放しで,という言葉がある。

 それを通り越して,脳みそ放し状態。頭のはちが開いて大脳が四方八方に踊りながら伸びていくような気分。目からはぼたぼた涙があふれ,鼻水垂れ,よだれ腹を伝う。
 めったにないことだけれど,この時のために音楽を聴いたり本を読んだりしているのだ,だ,だっだっだだだだだだだっっと黒板にチョークを叩きつけたい。キスしよう。電車を待つ乗客全員ヒザかっくんだ。

 ことほどさように,今週のイブニング『ZOOKEEPER』は,よかった。

 『ZOOKEEPER』は独楽動物園の新米飼育員が,動物たちの飼育や展示にまつわる難問をゆっくりじっくり解決していく隔週連載だ。主人公楠野香也は「温度の変化が見える」特殊能力の持ち主だが,そういったマンガ的設定抜きでも十分面白くなり得たのではないか。そう思えるだけの取材と人物設定が厚みのあるストーリーを産んでいる。個人的にはフレンドパーク担当アカネちゃんのファンだ。

 新章「チーター編」は予想外のまとまった予算が市からおりることになった独楽動物園で,飼育員たちが自分の担当する動物の展示企画を競う話。新しいサブキャラとして極端に無口な陸上競技選手(アスリート)と園の飼育係を両立する青年桑崎を配し,さて,ということになる。

 そして,最後のページだ。

 マンガで脳みそがジョウントしてしまうシーンというのは,たとえば苦戦の末の勝利であったり,思いがけない得恋であったり,いろいろあるのだけれど,その章のテーマを示されただけで全身がブルってしまうことはそうはない。めったにない。いや,はっきり言って記憶にない。

 香也の「(チーターは)今のまま飼育を続けたら 速く走れなくなったりしませんか?」という素朴な問いに黙ったまま全身を緊張させた桑崎が,途方に暮れる。

 そして,最後のページだ。途方に暮れた桑崎が走る。走りながらうろたえる。

    チーターは今や
    食べるためではなく
    チーターであるために
    走るべきなのか

      チーターの
      疾走は
      展示する事が
      できるか!?

 でりーしゃす。マンガが好きで,よかったと思う。

2007/01/08

今さらたしなめてどうなるものでもないが 『テレビ標本箱』 小田嶋 隆 / 中公新書ラクレ

431【思えば和田アキ子は,「本音」「毒舌」を売りにしながら,いつでも強い者の味方だった。】

 テレビはあまり見ない。年末番組,正月番組の類も,ほとんど見なかった。
 見なくともとくに不自由しないので,必要ないということなのだろう。

 例外的に見ているのが日曜午後の「開運!なんでも鑑定団」(再放送),これは骨董や美術品についての薀蓄と,その真贋に一喜一憂する(もしくはその感情を圧し隠そうとする)鑑定依頼者たちの表情が楽しい。
 年末の放送では,ゲストとしてこぶ平改め林家正蔵が招かれていたが,言葉のはしばしにシャレと済ませがたい「名門」意識が感じられ,おさまりが悪かった。結局持ち込んだ品は番組としては最低ランクの500円という値づけだったのだが,正蔵が「笑われ」役をうまく演じきれない感じで,最後まで鬱陶しい印象が残った。
 この感じはどこかで,と思ったら,そうだ「画伯」を呼ぶことを周囲に強要するようになってからの鶴太郎のねっとりした喋り方がこれに近い。
 年が明けて同じ「開運!なんでも鑑定団」の新春スペシャル,こちらは司会の島田紳介がゲストと「目利き」対決する趣向。坂東英二や九重親方に接戦ながら連戦連敗のあと,最後に日本画について重々しく知識を口にする鶴太郎にだけ完勝したのだが,その展開になんとなく薄ら寒いものを感じた。
 こういった番組がまったくシナリオなしに進むとは思えない。落語家が持ち込んだ陶器が500円だったのも出来レースなら,ほかのゲストに負けて悔しがる神介が最後に一勝して喝采を得るのもある程度織り込み済みと見るのが妥当だろう。
 つまり,当初お笑いで重宝した鶴太郎を,続いて「画伯」として便利がったテレビが,ここにいたってとうとう貶めることに使い道を見出してきたのではないか。そう見えたのだ。
 テレビ側に悪意,善意があるわけではない。悪意なしにとんでもない非人道的なことを平気でしてしまうのがマスメディアなのだ。

 年末年始のテレビでもう一つ注目したのが(見てもいない)NHK「紅白歌合戦」を巡る一連の報道だ。
 言うまでもなく「DJ OZMA」というタレント(初めて聞く名前で,どういう人物かは知らない)がバックダンサーの女性に裸体と見まがうボディスーツを着せて顰蹙を買ったわけだが,この経緯が実にテレビ的で興味深い。
 時系列にインターネット上の表記を追ってみよう。
 12月30日,つまり放送前日のサンケイスポーツによれば,
「最大の目玉といわれるDJ OZMAは「視聴率よりも膨張率。とりあえず脱ぐしかない。出禁覚悟です」と前代未聞の開チン宣言」
 つまり下着まで脱いで男性器を露出するぞと挑発。これに対し,
「北島三郎は「出したら張り倒す!! 遊びと違うんだぞ。ここはストリップ劇場じゃない」と激怒り」
 ところが当日の演出は
「(OZMAが)着地して再び円筒の布に包まれる。最後に布が取り払われると,登場したのは御大の北島三郎(70)。「2007年アゲアゲだぁ~!」と締めると,大歓声が巻き起こった」
 つまりDJ OZMAと北島三郎のいさかいは,もともと耳目を集めるためのサクラだったということになる。もちろん,その経緯をNHKが知らないわけもない。
 ところが,ボディスーツに抗議が殺到するや,一転,
「NHKでは紅白の公式HPトップに「衣装の最終チェックであるリハーサルでは放送のような姿ではありませんでした。今回の紅白のテーマにふさわしくないパフォーマンスだったと考えます」と謝罪コメント」
とDJ OZMAに責任を振って知らぬ存ぜぬのほっかむり。
 子供たちへの教育現場では,「知らなかったは言い訳にならない」が古来よりオトナの側の常套句である。否,そもそも歌いながら下着姿になることがウリのミュージシャン(なのか?)を招いておいて胸モロは「ふさわしくないパフォーマンス」の理屈は通るのか。
 しょせん歌番組は歌番組,お客様をもてなしてナンボの世界。ストリップ劇場とどこが違うのか理解できない。「天下の」「国民的」などと重々しく言葉だけ飾り立てて名門を誇っても腐臭漂うばかりだ。

 ……テレビについてはもっともっと言いたいことがあるが,残念ながらなにしろほとんど見ていないだけに論拠に甘く二の矢三の矢がつげない。
 そこで当節のテレビを手厳しく乱れ打ってくれる本にご登場願おう。

 小田嶋隆は1980年代の「遊撃手」「Bug News」当時から注目していたコラムニストで,当方が雑誌の編集に携わっていた折にはとうとう執筆を依頼する機会を得なかったが,強大な企業を敵に回して睥睨するその攻撃的な筆致は読み手として胸躍るものがあった。
 『テレビ標本箱』は利権への迎合,大物タレントの傲慢など,テレビのタブーをめくっては返し,めくっては返す棘とならんことを志向したコラムであり,その攻撃性は新書としてある程度成功している。
 とくに,最近の報道番組のCMへのおもねりや,テレビ出演者の同調しない者を許さない構造などへの指摘はおおむね的確かつ辛口で,テレビ番組の愚かしさと堕落(今さらだが)を語って切れ味も鋭い。

 ただ,……本書を亡きナンシー関の遺したものと比較してしまうと,さすがにどうしても評価は低くならざるを得ない。
 ナンシー関は,あれほどテレビ番組を見,同じメディア界に属しながら,最初から最後まで一瞬とて同じ匣の中に立つことはなかった。辛口であるとかないとかそういうことではなく,彼女にとってテレビは対岸からウォッチし,解体し,語るものであって,淫するものではなかった。瞬時の油断もなく,柔らかな視線と鞭のような言葉をもって戦い続けたとでも言おうか。

 『テレビ標本箱』は,残念ながらまだまだその域には達していない。
 たとえば,明石家さんまについて,一方(53ページ)で「言われてみれば,私も,最近のさんまの芸で笑った記憶がない」「ゲストのスポーツ選手をパシリ扱いする尊大な態度」と語り,もう一方(135ページ)で「さんまのまんまの面白さは」「さんまが偉いのは,決して立派なことを言わないところだ」と言ったようなことを書いてしまう。内容の是非以前,表現者として脇が甘い。ナンシー関なら決してこのような隙は見せなかっただろう。
(似たようなブレが逮捕前,後のホリエモンに対する評価でも起こっている。)
 つまるところ小田嶋は,まだどこかでテレビを楽しんでいるのではないか。期待しているのかもしれない。その分,甘さが出る。

 それでも,黙るわけにはいかない。ナンシー関はもういないのだ。
 テレビにはもう自浄機能はない。相次ぐ不祥事に対するNHKの反応,紅白歌合戦の一連の流れを見ただけでも,それは明らかだろう。
 『テレビ標本箱』本文からの引用で締めよう。
「誰かがたしなめないといけないんじゃないのか?」

« 2006年12月 | トップページ | 2007年2月 »