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2006年9月の7件の記事

2006/09/24

浮き上がるロジックの美しさ 『アンダースロー論』 渡辺俊介 / 光文社新書

275【人差し指が最後にボールから離れる】

 オーバースローから投げ下ろすストレートが汗の匂いとフィジカル(肉体的)な存在感で場を圧倒するなら,アンダースローから繰り出される浮き上がるストレートはメタフィジカル(形而上)な美を具現化する。それは緊密なロジックに基づいているからだ。

 たとえば,阪急の剛速球投手,山口高志は,文字通りのオーバースローで,投げ終わると一球ごとに後頭部と背番号14がバックネット裏から見える,そんな腹筋背筋の利いたフォームだった。活躍したのは数年の間にすぎなかったが,プロ野球史上最高の速球投手と評価するファンも少なくない。そんな彼がサイドスロー,アンダースローに挑戦していたとしても……おそらくあれほどの活躍,存在感は見込めなかったに違いない。
 一方,巨人,ヤクルトで活躍した左腕投手,角盈男。彼は,オーバースローの速球派投手として5勝7セーブで新人王を獲得したものの,翌年はコントロールの悪さばかりが目立ち,四球押し出し投手として悪名をはせた。そんな彼がサイドスローに転向してリリーフエースとして君臨したことは記憶に鮮やかだ。ひじを曲げた独特のサイドスローから繰り出されるクセ球はうなりを上げ,並み居るセリーグの好打者たちを文字通りきりきり舞いさせたものだ。

 サイドスロー,アンダースローに向く投手,向かない投手がいる。

 間接の柔軟さ,腰の回転,肘の角度。
 アンダースローは変則ゆえに変化球投手のイメージが強いが,実は高めの延びる球で三振をとれるフォームでもある。野田浩司(オリックス)に破られるまで,1試合の奪三振記録(17)を長年保持していたのはアンダースローの足立光宏(阪急)だった。

 だが,山田久志,上田次朗,金城基泰,仁科時成,松沼博久ら,往年の大投手,好投手が引退したのち,アンダースローの系譜は閉ざされてしまう。目指すべき高い目標がなければ野球少年たちは真似るスターを見失い,選手が枯渇すれば指導者は育てるノウハウを忘れてしまう。

 そんな中,突然変異のように現れたプロ野球一軍ただ一人のアンダースローピッチャーがロッテの渡辺俊介である。それも,2005年には15勝,2006年にはWBC(ワールド・ベースボール・クラシック)で活躍するなど,堂々たる戦歴だ。

 渡辺俊介のピッチングフォームは美しい。力が抜け,右手手首が地上すれすれからすうっと延び,最後は腕ごと体に巻きついていく。力感とスピードには乏しいが,高めのストレートには,120km代とは思えない強烈な意思が感じられる。

 本書『アンダースロー論』は,その渡辺俊介が,アンダースローについてさまざまな角度から語ったもの。
 とくに「バッターから一番見づらい,わかりにくいのは<前後の距離感>」というポイントからアンダースローのフォームやタイミングを語った投球術論は得がたく,これまで野球ファンとして漠然とながめていたものに突然光が差す,そんな思いがする。

 たとえば……「上げた足をそのまま斜めに踏み出すのではなく,まずは真下に下ろし,両足のくるぶしが触れ合う状態を一度作ってから,打者に向かって踏み出す」……。頭の中でフォームを検討してみると,この足さばきがいわゆる「開き」を抑えるための大きなポイントだということが理解できる。
 あるいは,「アンダースローは手が下にあるので,ボールが手の上にのって」いるため,カーブを投げるとき,「指に強い力を入れて握らなくても」「腕の振りよりボールのスピードを遅く」できるという指摘。言われてみればそのとおりなのだが,指摘を受けて驚く。
 グラブやスパイクについても,無駄な動きを防ぐために重いものを使う,「グラブを持つ手を前に伸ばしてしまうと,身体の重心のほかに,グラブの重さが遠くにあって,重心が二カ所になって」しまうので「足下に真っ直ぐに自然に垂らし」,また「網み目の部分は,握りを見られたくないので,一切隙間がないタイプにして」いる,など,など,理にかなった詳細な記載が目を打つ。
 
 高価な本ではない。数時間もあれば読み終えるボリュームである。
 どうか,全国の中学,高校の野球部の指導者の方々は,本書を手に取り,オーバースローで伸び悩んでいる若いピッチャーたちの指導に活かして欲しい。
 本書には,アンダースローに挑戦するにはまたとない高度な意図が満ちている。それは単なるテクニックではない。本書で取り上げられているのは,おそらく野球理論で常に話題にされながら伝達のひどく難しい,「体の開き」と「間」についての問題なのだ。渡辺俊介が目指すものは,実はオーバースローピッチングでも,バッティングでも応用がきくものなのではないか……。

 「啓蒙の書」という言葉はお説教臭くて好きではないが,本書は正しく「啓蒙の書」といえるだろう。お奨めである。

2006/09/19

この夏読んだその他のホラー 『本当にあった呪いの話』『都市伝説セピア』『蟲』

959『本当にあった呪いの話』 三木孝祐 / ハルキ・ホラー文庫

 「実録怪談」系でヒットの少なくないハルキ・ホラー文庫にこのタイトル──期待して手に取ったのだが,落ちる球を引っかけて注文通りのショートゴロゲッツー,チェンジ。残念でした。
 タイトルの「本当にあった」というくだりは必ずしも嘘でなく,取り上げられているのはかつて新聞に載ったような大小の事故,事件である。問題は,それらに無理やり陰陽道の呪符や修験者の加持祈祷を結びつけるそのやり口だ。
 ことに胡散臭さを増しているのは登場人物に再三警察官を持ち出していること。警察という組織は,徹底したリアリズムの徒である。事件現場に落ちた呪符や藁人形にとらわれる刑事まではともかく,その調査を認める上長まで描いたらいくらなんでもやりすぎだろう。
 おまけのように記された陰陽道や修験道についての薀蓄もなにやら散発的で,全体に信用できない。修験者,神社仏閣に取材したというのは本当かもしれないが,その方角にまとまった威力が感じられない。
 ハルキ・ホラー文庫の他の「実録怪談」は事実に基づいているのに本書は違う,と,そういうことを言っているのではない。実録怪談の編著者たちは,彼らの信じる何やかやに従って描くべきことを描いているのである。本書の著者は加持祈祷のご利益や呪符,祓い,式神,方忌みといったものごとを本当に信じているだろうか。そうではないだろう。それならそこから書くべきなのである。

『都市伝説セピア』 朱川湊人 / 文春文庫

 『花まんま』で直木賞を受賞した朱川湊人のデビュー作。
 芥川賞は久しくよくわからない受賞作が続いているが,直木賞選評の目は比較すれば確からしい。この短編集も,作者の掌の上での転がされ具合が心地よい。
 素面で相対すると赤面してしまいそうな,若いというか青臭くエモーショナルな展開も少なくないのだが,それでもストーリーテリングの妙で最後までつるりと滑っていく,この面映ゆさ,この手腕は,デビュー当時の宮部みゆきを思い出させる。
 同じ公園で幾度となく友人の死と直面する少年を描く「昨日公園」は,最後の数ページが切なくてよかった。都市伝説を扱った「フクロウ男」,死者をめぐる苛烈な三角関係を描いた「死者恋」はいずれも設定が巧い。「アイスマン」は少し味付けが甘すぎ,「月の石」は散漫でよくわからなかった。

『蟲』 坂東眞砂子 / 角川ホラー文庫

 子猫殺しで話題になってしまった坂東眞砂子のデビュー当時の作品。
 昨年の夏,『夢みる妖虫たち 妖異繚乱』を読んだ後,虫を素材にしたホラーを探しては購入してそれっきりになっていた1冊。
 夫が拾い帰った古い石には「常世蟲」という文字が刻まれていた。その日からめぐみは怪しい夢に悩まされ始める。夫にとりついた巨大な緑色の「蟲」とは?
 ……という,作者の得意な古代と現代を結ぶ伝奇ホラーなのだが,いかんせんどこをどう怖がっていいのかわからないままずるずると読了してしまった。妊婦の心理を陰陰滅滅と描いた部分への評価もあるようだが,悪阻(つわり)の時期の女性の言動はもっとずたずたざくざくしたところがあって,この程度ではすまないような気もしないではない(女性にもよるだろうが)。
 最後のページに至るあらすじだけみれば,こういった作品は,たとえば昭和四十年代なら「ホラー」でなく「SF」の中篇として書かれ,発表されていたに違いない。いずれにしても,「SF」としては凡庸,「ホラー」としては本スジがよくわからない。なにしろ「蟲」が,「蟲」として,怖くも気色悪くもないのだから。

2006/09/17

あっぱれ 化け物の良い座興 『夢幻紳士【逢魔篇】』 高橋葉介 / 早川書房

857【僕の名は 夢幻です 夢幻魔実也というのですよ】

 久々に女たらしで怠惰怠慢,人でなしでロクでなしの青年版「夢幻紳士」の面目躍如。あゝ,嬉しいことだねえ,やあ,楽しいねえ。

 ときは大正か昭和のはじめ。なにしろ主人公夢幻魔実也は全編を通してただ料亭で呑んだくれているだけなのに,妖怪たちが勝手に現れては蹂躙されていく。
 前作「幻想篇」では脇役に甘んじ,また柄にもなく守護聖人じみた役割を演じた反動か,今回魔実也はいつに増して性酷薄,人も性根も悪い。夢幻紳士はこうでなくってはよひろみ。
 狂言回しに登場する中高い顔の料亭の女将,先見や千里眼を生業とする“手の目”もいい味を出してあゝ面白いねえ,やあ愉快だね。

 ところで,高橋葉介の『夢幻紳士』にはいくつかバリエーションがあり,ときどき文庫で復刊される「冒険活劇篇」は同じ魔実也でも元気のいい少年探偵が活躍する話。とことんスラップスティックなドタバタコメディで,それはそれで底抜けに楽しい佳品だが,「逢魔篇」を含む青年版の魔実也とはおよそ人となりも作風も異なるため,片方に魅かれてもう一方に手を伸ばすと驚いたり呆れたりするハメに陥るのでご注意ください。お子様の手の届かないところに保管してください。目に入れたり,炎症のある皮膚へは付けないでください。もし誤って目に入った場合はすぐに大量の冷水で洗い流して専門医にご相談ください。ご使用の前には商品に添付された説明書をよくお読みの上,専門医の指示でご使用ください。

2006/09/15

拾っては,いけない。……確かに。 『オトシモノ』 福澤徹三 / 角川ホラー文庫

Photo【おまえもいつかマグロを拾うぜ】

 福澤徹三の怪談について書いていたら,書店に新刊が積まれていた。

 「駅でオトシモノの定期券を拾った人々が,次々と行方不明になる(中略)ヤエコという名の女性の霊が関係していることを突き止めた女子高生奈々は,姿を消した妹を救うため呪いを解こうと奔走するが……。」

 この9月30日に封切されるホラー映画の,ノベライズだそうである。ノベライズには概してロクなものがない。本作も御多分に洩れない。
 かみくだいて言えば,映画のパンフレットの「あらすじ」をうっかり最後まで書いてしまった,そんな程度だ。
 このストーリーに福澤徹三らしさを求めるのは酷だし,そもそも柳の下の貞子を狙ったこんな設定で企画が通る映画界とはいっそうらやましい。うっかり買ってしまったこのオトシモノ,もといオトシマエ,ええどうしてくれよう。映画館に沢尻エリカの憂い顔,見に行くしかないか。

2006/09/13

『再生ボタン』『怪の標本』『怪を訊く日々』『廃屋の幽霊』『亡者の家』 福澤徹三

688 いしいひさいちの『コミカル・ミステリー・ツアー4』,さらには新刊『ホン!』の,いずれでも取り上げられた福澤徹三。

 『コミカル・ミステリー・ツアー4』では『廃墟の幽霊』という作品に想を得た5コママンガ……これが,どこが面白いのかさっぱりわからん。『ホン!』では『亡者の家』という作品に対し,「福澤さんの描く怪異は,現実ではありえない,と言い切れない雰囲気を発散して,現実と物語の境界線をすんなりと越えて,圧倒させてくれます」などというベタな高評価。つまるところ,福澤徹三を読まぬわけには。

※ちなみに『ホン!』のタイトルは,同じ徳間書店の『フン!』を受けてのもの。犬マンガと書評マンガ,およそ内容を異にしながら,反骨の匂いがこってりそっくりなのはすがすがしくもいしい大人,天晴れの捻転返し。

 さてこそもののこの八,九月,ここまで読んだ福澤徹三は,とりあえず文庫化されたものから以下の五冊。

 『再生ボタン』 幻冬舎文庫
 『怪の標本』 ハルキ・ホラ-文庫
 『怪を訊く日々』 幻冬舎文庫
 『廃屋の幽霊』 双葉文庫
 『亡者の家』 光文社文庫

 『再生ボタン』はデビュー短編集『幻日』に筆を加え,再編集したもの。
 「夜ひとりで厠(かわや)にいるとき,牡丹の花の折れるところを想像してはいけません」なる,モノカキを志す者なら誰しもお好み焼きの上のカツオ節よろしく身悶えそうな一行で始まる,デビュー短編集と思えない見事な粉の溶き具合。いずれも短編アンソロジーに選ばれて遜色ないクオリティだ。ただ,ここに見られる作品の志向性は「怪談」というよりは「幻想文学」に近く,青い文学臭が鼻につく面も否めない。老成しているが青春文学なのである。

 『怪の標本』は『再生ボタン』と同じ路線だが,一言でいえば冷めたお好み焼き。

 『怪を訊く日々』は木原浩勝や平山夢明の著作に近い,いわゆる実録怪談モノ。平山ほどの切れ味はないが,1つの素材に対する執着が微妙に重く,全体に田舎暗い。

 中編『亡者の家』は,残念ながら『ホン!』で絶賛されているほどは感心しなかった。作品中に描かれた「家」の嫌な雰囲気は確かにわかるのだが,怪異そのものがありきたりで,フランスの幻想文学あたりに同じカタストロフィーを見かけたような……と思った時点で恐怖度三割引き。
 この作者は怪談の中でよく入れ替わり,すり変わりを巧みに用いるのだが,その点だけをもって評するなら『再生ボタン』収録の「仏壇」のほうが段違いに怖い。

 短編集『廃屋の幽霊』は,ほかの怪談採話者,あるいはホラー作家にない独特な境地を感じさせる快作,もとい怪作。
 作品中では,「実録怪談」によく現れるような廃屋,いわくありげな借家などが舞台として選ばれる。そして,いかにも「実録怪談」に描かれそうな怪異,心霊現象が語られる。そのくせ読後に残るのは実録怪談の風味を越えて,短編小説のそれなのである。これは,ホラー作品として,ありそうで案外ない。
 廃屋に現れる幽霊の噂をきっかけに嫌な気配がどんどん深まっていく表題作。リストラされた中年サラリーマンの不愉快さが怪談の不気味さと交互にすりかわりながらしこった不協和音を奏でる「庭の音」。古いアパートの住民の不潔感を頭からかぶってしまうような「市松人形」など,など。
 手応えは文学的というのでもない。なんというか,実録怪談が素材のままで怪しさを伝えるのに対し,蒸留して濃度を高めた,密度の高いいとわしさに素手で触る,そんな感じで実にもう嫌だ嫌だ。

2006/09/10

『たまらなく怖い怪談 身の毛がよだつ実話集』 さたな きあ / KKベストセラーズ ワニ文庫

517 採話であるか創作であるかを問わず,怪談の編著者には当人なりの生理的な嗜好があるようだ。

 「さたな きあ」(奇妙なペンネームだ。由来はわからない)の場合,たった今何もないと確認したばかりの空間(ロッカーや保冷車の中)にもやもやと人の髪の毛や顔,腕が見えてくる,というのがお好みのようだ。全体に「もやもや」「髪の毛ずるずる」系である。

 もう一つ顕著なのは,登場人物に神経症の傾向があるなら説明がつくというタイプの話だ。

 たとえば巻頭の「猫が…いる」。
 自宅の内,外にいもしない猫の声を聞くようになった夫。それはだんだんエスカレートして,トイレの便器に多数の猫の首を見るにいたる。
 ここまでなら,疲れた夫の幻聴,幻覚であり,怪談にするよりまずカウンセラーを奨めるべき話にすぎない。この「猫が…いる」で本来最も怖いのは,それを語る妻の衣服から猫特有の匂いがするという後日譚だろう。ところが,著者はどういうわけかそこを素通りして「夫を案じていた夫人の耳にもまた,猫の声が執拗に聞こえ始めていても,おかしくないように思う」などという,なんだかとんちんかんな感想で幕を閉じる。
 違うだろう。これではまるで怖くない。まさかとは思うが,猫の気配や声,姿に翻弄される夫のばたばたした立ち居振る舞いや悲鳴,それをこの怪談の本領ととらえているのだろうか。

 あるいは,ある病人がてるてる坊主を怖がることから書き起こされた一編。
 古いアパートの一室に捨てても捨てても現れる,髪の毛のからみついた櫛。これだけで十分怖い話になりそうなものを,わざわざてるてる坊主嫌いにまで引っ張る必要などあったろうか? ましてや「あの部屋にはつまり,なんていうか,先客がいたってことなんだろうな」「たわごとと思うか思わないかは,あんたの自由だけどね……」などという余計なセリフを付けてまでページを増やす必要はなかった。

 なかには深夜まで浴槽を洗い続ける隣室の中年女など,料理の仕方次第でかなり怖くなりそうな話はいくつもあるのに,余計な演出とセリフでただ大仰な話にしてしまう失敗が繰り返される。
 いや,そういう大味な話術を好む読者がいるのなら,それを「失敗」というべきではないのかもしれないが……それでも。

 たとえば,「四角い箱のなかで 保冷車の場合」の一節はこんな具合だ。

 「白い腕が──髪の下から,ずるっと出てきて──ひっ! なにもなかったのに──どこから,こんなっ。ヒヒッ! かっ,顔が──ひいっ。こっちを向いてる! ヒッヒッヒ! 顔がっ!!」

 これはこの話で一番怖いはずのシーンなのだが,鳥肌より先に笑いが漏れてしまう。

 先にも書いたとおり,十分怖い怪談になりそうな素材が数編あるだけに,惜しい。

2006/09/04

『百物語 第五夜 実録怪談集』 平谷美樹・岡本美月 / ハルキ・ホラー文庫

267 平山夢明の怪談は「実録怪談」,つまり知人か,せいぜいその知人の家族,友人に取材して採話した心霊体験──ということになっている。だが実際どうだろうか。

 たとえば初期の『新耳袋 現代百物語』と平山の編著作を続けて読むとすぐわかることだが,平山はいかにもの「こしらえ話」が混ざることをとくに気にかけない。ルーズな商業主義とかんぐってみたが,そういうわけでもなさそうだ。
 おそらく平山にとってよい怪談かどうかのポイントは,それが「実話」かどうかにはなく,(当たり前だが)それが本当に「怖い」かどうかにかかっている。実録,実話風であることは,こしらえものより怖く読ませるための手法に過ぎない。
 だから,平山のテキストは余計なことには拘泥しない。すべてのセンテンスが短く切りまとめられ,静々ドスンとピュアな恐怖を描いてさっくり撤退する。読み手は怪異の隣に放置されたままである。

 平谷美樹『百物語 実録怪談集』は,様式において,同じハルキ・ホラー文庫の平山夢明『怖い本』に非常に近しい。実録怪談をうたっていること,一編一編が短く,余計な因縁や訓話を持ち出さないこと。いずれも神経の領域で怪談を扱って完結している。
 その試みはおおむね成功しているし,編著者が手馴れることによって,この『百物語』は初期より徐々に品質が向上している。

 ただ……一冊通してみると,やはり平山『怖い本』に一日の長を認めざるを得ない。
 決して,取材・採話した怪談に差があるわけではない──おそらく。『百物語 実録怪談集』と『怖い本』の取材先は,母集団がかなり近いのではないか。波の中に浮かぶ顔など,似た設定,似た怪談も少なくない。

 だが,いつどこで語られているかを感じさせない平山怪談のクールさに比べて,『百物語 実録怪談集』は,微かに古い畳の仏間で語られる風情を残している。甘いと言ってしまうと酷だろうか。数編,数十編に一度にせよ,「当たり」にめぐり合ったときの平山の,言うなれば野生の黒豹が獲物にめぐり合った際の生々しい「舌なめずり」,艶めかしい「小躍り」にあたるものが平谷の編著作には欠けている。

 その代わり,平谷のテキストでは,心霊現象に対して「その場に居合わせた者」「見てしまった者」へのシンパシィが各編に薄くかかり,それが怪談らしからぬぬくもりをかもし出している。さらにはゆがみ,うごめく「その場に現れる者」たちへの慈しみ,哀れみさえも。こういった情緒はただ恐怖のみを追うには余計かもしれないが,それはそれで,悪くない。

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