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2006年6月の8件の記事

2006/06/28

しっ静かに。恐ろしくて悲しいものが過ぎる。 『ZOO 1』『ZOO 2』 乙一 / 集英社文庫

9401【その部屋でも多くの人が殺されたのだから,そうしなければいけない気がした。】

 帯に大きく「何なんだこれは。」の賛辞。北上次郎といえば「本の雑誌」の目黒考二,さすがさくりと的確。

 『ZOO 1』『ZOO 2』は乙一の短編集。
 乙一(オツイチ)なる著者名が人を食ったようなら,『ZOO』はオツゼロゼロとも読めてさらに食われた気がつのる。

 『ZOO 1』には5編,『ZOO 2』には6編の短編を収録。いずれも予想外の展開,説明のつかない読後感。
 ……考えてみればそれはよくできた短編小説の条件に過ぎない。

 意外性のみならず,再読にも耐える。
 「何なんだ」かは容易に言葉にしがたいが,それだけのものはある。ワカモノ文化ふうに見えて,そこらの自称文学作品に比べても文章が細やかで巧い。あり得ないシチュエーションに思えて,一つひとつが理にかなっている(上の【 】の引用部など,なまなかに出てくるフレーズではない)。

 拉致監禁された姉弟が少しずつ知る事実──残虐のきわみが比類ない切なさに転化する「SEVEN ROOMS」が抜群にいい。読み手のやり場のない焦燥に一点ガス抜きの穴を穿つ「カザリとヨーコ」,その逆に読み手の安穏など一顧だにしない「冷たい森の白い家」「神の言葉」もいい。表題作「ZOO」は乱歩や久作のある作品と同工異曲で乙一にしては凡庸。「陽だまりの詩」はメロウが勝ってよくわからないが映像化したいという欲求はよくわかる。

 などなど。

 若干の夾雑物はあれど,遠く余香漂う自由。

2006/06/24

強い玄人は目で語れ 『哲也 雀聖と呼ばれた男』 さい ふうめい 原作, 星野泰視 画 / 講談社漫画文庫

6731【まさかあの時 儂が見たと思ってたのは・・ 貴様に 見せられていたのか・・・・】

 少年マガジンでこの連載が始まったときは,驚いた……いや,あきれた記憶がある。
 麻雀ブームが九種九牌で流れて久しく,青年誌においてすら麻雀漫画が聴牌(テンパイ)できるとは思えないご時世に,天下のメジャー少年誌,まして若き日の阿佐田哲也(=色川武大,井上志摩夫)が主人公である。ストーリーは『麻雀放浪記』などの阿佐田作品の裏スジで,古くさい絵柄と合わせて「妙な連載が始まったな。すぐにハコ割って打ち切りかな」と思われたものだ。
 ところがどうだろう。
 『哲也』はその後,マガジン連載陣でもしぶとく浮き続け,西入北入の長期連載と化した。基本は「強力な敵の玄人(バイニン)が登場,それを運と力で打破」のワンパターンだが,たまに旅打ちに出る以外はやたらと手牌を欲張ることもなく,随所に初期の重要人物(房州,印南)を迷彩にからめ,西場北場はさすがにダレたものの,なんとか大きく破綻することなく哲也がアウトローの世界から小説家を目指す海底(ハイテイ)までメンゼンで描き切った。

 本作は連載中もかかさず読んだし,単行本も読んだ。場所を食うので単行本は売りさばいてしまったのに,漫画文庫化されたところでまた山を積んで読み直す。馬鹿だ。
 ギャンブルマンガとしての緻密さ深さには欠けるかもしれない。捨牌から牌勢を読む奥行きや打牌の機微は阿佐田作品や専門の麻雀マンガに及ばない。強運任せのツモり合戦という『哭きの竜』顔負けのタコ1級戦も少なくない。……それでも,何度読んでも面白い。役満は無理でも,タテホンにドラが載ってダマであがれたときの痛快さが繰り返される感じだろうか。

 二の二の天和,ツバメ返し,ドラ爆,エレベーター等々,11PMや麻雀マンガでなじみのイカサマ技や『麻雀放浪記』でも謎が解かれることのなかったガン牌,さらにはいかにも怪しげなコンビによる通し技など,繰り出される技やイカサマの数々とそれを打ち破る主人公坊や哲の読み。房州や印南など,マンガのキャラとしては信じがたいほど情けない容貌であるにもかかわらず,その笑顔がぐっとくる。その死に,目頭が熱くなる。
 全体にこれ以上ない荒唐無稽な勝負の連発なのだが,ドサ健との対決など最も重要ないくつかの対決ではサマなし,ヒラでの勝負に徹するのも味があり,テンポがいい,リズムがいい。終戦直後の泥臭さをまとったまま堂々単行本41巻分描き切って,気がつけば読み手はハコテンだ。もう百点棒もない。

2006/06/22

『コンシェルジュ(6)』 原作:いしぜきひでゆき,漫画:藤栄道彦 / 新潮社BUNCH COMICS

Photo_2【おれは あいつの人生には 何の役にも 立たなかったわけだ】

 コミックバンチに連載中の『コンシェルジュ』,新進ホテルの総合世話役というかよろず相談承り係たちの心配りを描く読み切り短編集の新刊。

 連載開始当初に比べて人物造形のデフォルメが極端になり(丸いかとんがるか),またストーリー的にもワンパターンというかマンネリ化が明らかで……とソファに寝転がって流して読んでいると,巻なかばでいきなり重量級のショックを受ける(かならずしも主人公たちのコンシェルジュ業務に直接かかわる挿話ではないのだが)。やられた。

 どうもこの作者は,とくに人の生き死にについて,妙に透徹した表現力を持っているようだ。ときどき,数冊に一度程度だが,長い刃物,あるいは大きな翼で刺し通されるような気分になる。それは作品として決して不快なものではない。

2006/06/18

苦いか甘いか 『コーヒーもう一杯(2)』 山川直人 / エンターブレイン ビームコミックス

261【はい ブラックでしたよね】

 ストーリーの小道具として必ず珈琲が登場するほろ苦いショートストーリーズ,第2巻。太い描線が木彫の人形劇を見るようで,登場人物の思慕や郷愁の情がごつごつしたタッチで静かに描かれる。

 この作者は新聞,雑誌などでまれに取り上げられるが,取り上げられるとなるとたいへん評価が高い。その高評価の理由を少し意地悪な目線で考えてみよう。

 昨今はアシスタント制や作画のディジタル化が進んで複雑な図柄の作品が少なくないが,かつて,こういった手造り感のあるマンガは少なくなかった。あまりにも安易で,できれば使いたくないレッテルではあるが,この作品の印象を言葉一つで共有するなら,やはり「叙情的」ということになるのだろう。こういった素朴な叙情性には,現代でも,多数派ではないにしても,一定のニーズはあるのだろう。
 ただ,煎じ詰めれば,一部の作品はわたせせいぞう,一部の作品は西岸良平と同じ枠の中で描いているかとも思われ,つまりは「俗っぽい叙情性」を珈琲に託した短編集,という見方もできないわけではない。いくつかの短編にいたっては,もし文章やほかの絵柄で描かれていたならひどく甘すぎるか,ひどく不快なものになりかねない。だが,この絵柄で描かれたからこの作品はこの作品なのである。

 結局のところ,書店店頭でぱらぱらめくって,この絵柄に期待し,購入した読み手にはまず間違いなく絶賛されることだろう。書評においても同様,本書を取り上げる書評家はその魅力を語り,否定的な書評家はそもそも本書を取り上げないに違いない。

2006/06/16

最近の新刊から 『のだめカンタービレ(15)』 二ノ宮知子 / 講談社 Kiss KC

235【僕は 演奏するよ】

 パリに行ってからはなんとなく登場人物のあの人やあの人の「ちょっと心あたたまるいいお話」集になってしまっていた『のだめカンタービレ』,今回は久しぶりに,もう,まっすぐにいい気持ち。おいしゅうございました。

 以前,12巻発刊の際に「変わらず稀有な作品ではある。ではあるのだが,もはやあの『のだめカンタービレ』ではない」と書いたが,これを(喜ばしく)訂正させてもらうなら,15巻は正しくあの『のだめカンタービレ』である。3巻のSオケの演奏シーン以来,久しぶりに全身しびれるような音楽に浸ることができた。
 紙から聞こえる,などという域ではない。紙でしか,描けない音楽。
 これがあるから,二ノ宮知子はあなどれないのだ。

 ところで。
 毎朝毎朝,口をとんがらせてけんけん人のことを叱ってばかりいる桜子ちゃん。ピアノというものは(たとえば)このように弾くものなのだよ。少しは精進なさい。

2006/06/10

とまれ,お前は美しい 『図説 絶版自動車 昭和の名車46台、イッキ乗り!』 下野康史 / 講談社+α文庫

646【同じことをやろうにも,いまのクルマに,確固たる意義や意味なんかないものなあ。】

 クルマ雑誌の編集者を経て現在はフリーライターの筆者が,古いクルマに乗って乗って乗りまくる本である。そのラインナップがすごい。

  いすゞベレット1600GT !!
  日野コンテッサ1300クーペ !!
  ホンダS800 !!!
  トヨタ200GT !!!
  日産ブルーバード1600SSS !!!!
  スバル360スタンダード !!!!
  ダイハツ・ミゼット !!!!
  三菱デボネア・エグゼクティブ !!!!
  マツダ・コスモ・スポーツ !!!!
   :   :   :

 ……実は,こう見えてクルマオタクだった。
 だった,とは読んで字の通り過去形。それもかなり期間限定である。そのため,クルマの歴史に詳しい兄ちゃんや峠の走り屋さんと知り合っても話が盛り上がることはあまりない。

 クルマにどっぷり入れ込んだのは1968年から1970年までの3年あまり。
 はじまりは小学校高学年だった当事,親がスバル360デラックスを買い,週末には家族で出かけるようになったことから。もとより自分で走る投げるよりマブチ15モーター,単二乾電池好きでハンダゴテと糸ノコばかりいじっていたメカ好き子ども心に火がついた。

 なかなか徹底的だった。クルマに関するカタログや広告など,身近なあらゆる資料をかき集める(本書の著者も書いているが,1960年代には新聞の広告も子どもには貴重な資料だった)。路上のクルマは前後左右から見る,触る,覗き込む。当事は鍵も窓も開けっぱなしで放置しているクルマが少なくなかった。垣根の栞戸を開けて,隣近所が縁側まで遠慮なく出入りしていた時代である。
 当時の新車,たとえば三菱コルト何々というクルマは何cc何馬力でディスクブレーキを採用していて,とか,今度のファミリアはスタンダード,デラックス,スーパーデラックス……等々のモデルがあってそれぞれの違いは,とか,そういったカタログスペックをまるごと食べるように頭に入れた。

 ドアノブが,丸いポッチを外から押すタイプ中心だったのが接触事故の際にドアが開いてしまうからと引き手タイプに変わり始めたころである。フェンダーミラーが小学生のランドセルをひっかけて死傷事故が相次ぎ,可動式フェンダーミラーが採用され始めた時代でもある(現在はさらにパタンと閉まるドアミラーに置き換わっている)。
 トヨタがコロナの新ラインナップとしてマークII 2ドアハードトップを発表(当時としては画期的だった新聞2ページの見開き広告が今でも目に浮かぶ!),サニーにはサニークーペ,カローラにはスプリンターが登場してオシャレな若者の人気を競い合った。♪マイサニー,マイサニー,サニークーペ,♪わたしのスプリンタ,と,クルマのCMソングのセンスも格段に進歩した。テレビドラマでいえば「キーハンター」の時代である。

 町中のクルマオーナーから見たら,毎日うろうろしてはクルマを覗き込む怪しい小学生だったに違いない。珍しいクルマ,たとえばロータリークーペに出会ったら,しばらくそのまわりから離れなかった。たいがいの国産車なら,ヘッドライト,テールライト,もしくはドアノブを見るだけで,車種を当てられた。ダイハツ コンパーノのトラックタイプのドアノブの形状をラフで説明できるというのは相当に不気味な子供だったに違いない。もちろん,小学生のことだから,運転できるわけでもない。エンジンや足まわりの知識はカタログによるしかなかったし,どんなあこがれのクルマもただ見つめるだけだった(なので,HONDA1300のシャーシがエンジンに追いついていない,とかいう話題にはついていけないし,タコメーターという概念も当事はなかなか理解できなかった)。

 当時,一番好きだったのは117(丸目4灯ハンドメイドモデル)だったろうか。HONDA1300,ロータリークーペなどはカタログスペックだけでも天地がひっくり返るほどショックだったし,当時現役にしてすでに伝説の域に入りつつあったプリンススカイラン,日野コンテッサ,いすゞベレットは妖しい魅力で駐車場にあるだけで空気が揺らぐようだった(ちなみにキャロルはどこでも見られる軽の大衆車でありながら,不思議なことにコンテッサやベレットにつながる妖しさを感じさせた)。
 一方,日産縦ライトセドリック,プリンスグロリア,三菱デボネアなどの重厚感も好きだった。今,カタログスペックを見ると,それらが実は案外小さく,またエンジンパワーも最新のボックスワゴンに比べてもたいしたものではないことがわかる。だが,これら往年の名車が身にまとっていた分厚い空気は,現在,いかなる高級車も漂わせてはいない。

 あこがれは尖がったスポーツタイプ,黒塗りの高級車だけではなかった。トヨタのパブリカ(珍しい800ccカー。36万円はちょうど当時の1000$)はいつ見てもいかにも平凡でつまらない,と思いつつそれでもついつい中を覗き込む。酒屋のスバルサンバーを見ると,自分なら荷台に何を積んで,と夢が転がる。早い話が,クルマなら何でもよかったのだ(プラモデル好きがパンサー戦車,大和にロータスヨーロッパ,ガメラにサンダーバード,はては姫路城まで,何でも作りたがるのと似ているといえば似ている)。

 現在のボックスワゴンにつながる自分のための空間感覚……,いや,それ以上に,子どもにとって,当時のクルマは軽トラ含めてすべて夢の底のほうで「秘密基地」につながっていたのではないか。
 だから,雨の日曜日には,よく,父親のスバルにこっそり一人乗り込んでは日が暮れるまで探偵小説に読みくれたものだ。シートの匂い,ガソリンの匂い。117やコスモなど当時あこがれだったクルマが現役で走っているのを見かけると,思わず目が追いかける。手が伸び,声が出そうになる。初恋の少女が,当時のままの姿で夕日の中を駆け去っていくようなものだ。

 クルマ趣味に浸ったのは1970年まで,と明確に言えるのは,最後に近所の試乗会場を覗きに行ったのが日産最初のFF車,チェリーが発売されたときだったからだ。薄いビニールのコースターをもらって帰ってペン立ての敷物にしたのを記憶している。なんとなく憑き物が落ちたような感じで,そのあたりから新聞記事を集めたり路上のクルマを眺めたりということがなくなってしまった。
 中学に入って通学,勉強に時間をとられるようになったこともある。が,それ以上に,興味の中心が別のメカ,つまり「言葉」に移ったためである。

 クルマについてはさっぱりすっきりそれっきりで,免許を取るのも大学卒業年の夏だったし,数年は親のクルマを借りて走らせていたものの,それ以降20年以上無事故無違反の立派なペーパードライバーだ。なので,本書も,後半の,シティ,ソアラ,MR2,スターレットなど,1980年以降のクルマについてはほとんど何もわからない。もちろん車名やデザイン程度は知っているが,テレビCMで耳に入った,友人が乗っていた,程度の知識しかない。炊飯器や蛍光灯の機種名に興味がないのと変わらない。

 一つ思うのは,マーケティングというのは,やればやるほど製品の個性が丸まってしまうことだ。どのクルマ会社も,丁寧にアンケートを繰り返した結果,最もマスのニーズに応えることになった。ずんぐりした背の高いボックスワゴン,セダン,スポーツタイプ……外車も含めてどれもこれも似たような丸いシルエットだらけになった現在のクルマに,往年の「ツラがまえ」「ツラ魂」はない。ウソだというなら,1960年代のクルマのフロントビューと比べてみるとよい。

 だから,本書の次のような一節を読むと,電車の中で人目はばからずぼたぼた泣いてしまう。バカだ。

 いすゞの乗用車開発チームは,このあと,117クーペをつくり,フローリアンをつくり,ジェミニをつくり,ピアッツァをつくり,アスカをつくり,そしてもう,なにもつくらなくなった。

2006/06/05

〔非書評〕重箱の隅つつき その6 『阿寒湖殺人事件』 中町 信 / 徳間文庫

253 70年代に活躍した推理作家は? と問われてすぐ思い浮かぶのは誰だろう。森村誠一。西村京太郎。山村美紗。夏樹静子。あるいは赤川次郎。作風は千差万別だが,いずれどう取り繕ってもおよそ古式ゆかしい「探偵小説」「本格推理」のともがらとは言いがたい。
 当時,本格推理の論理ゲームに餓(かつ)えた一部のミステリファンにとって,都筑道夫,泡坂妻夫,栗本薫らの新作や中井英夫『虚無への供物』の文庫化は,砂漠で巡り会う皮の水袋のようなものだった。それ以外の時間は駱駝にしがみついてSFと海外ミステリの古典ばかり読んでいた記憶がある(ここでいうSFには安部公房や倉橋由美子も含まれる。それはそれで楽しい思い出だ)。

 そんな本格推理不毛の70年代,ぽつりぽつりとトリッキーな叙述ミステリを発表し続けた作家の一人が中町信だ。もとい──知ったかぶりはいけませんね──中町信だった,のだそうです。
 不勉強にして当時はその著作を知らず,ここ数年,初期の作品が創元から文庫化されて初めてそのあたりの経緯を知った。

 ただ……自分の無知蒙昧を冷凍庫に投げ込んで鍵かけて思いっ切り勝手なことを言わせていただくなら,この作者名はあんまりといやぁあんまりだ。「中町信」で本格,それもクリスティの例のアレやアレ,あるいはアレと張り合うようなぶっ飛びアクロバティックな叙述ミステリの作者だなんて想像できっこないじゃないか。
 こなた乱歩,かなた不木,しからば綾辻,よしんば有栖川,あえて京極,はては殊能。本格をうたうなら「ペンネームからして一種奇天烈,古典ひいたか意外なアナグラムか」と紫にけぶる妖しい看板立ててくれなくっちゃ。

 さらに,苦言を呈したいのが作品タイトル。
 創元推理文庫から再刊された『模倣の殺意』『天啓の殺意』『空白の殺意』の3作,最初に単行本化されたときはそれぞれ『新人賞殺人事件』『散歩する死者』『高校野球殺人事件』だったという。
 ……なんというか,こう,緊迫感に欠けるのである。

 ここしばらく,大半が絶版状態の文庫やノベルスを探しては読んでいるのだが,その他の作品タイトルも,
  『「心の旅路」連続殺人事件』
  『女性編集者殺人事件』
  『自動車教習所殺人事件』
  『奥只見温泉郷殺人事件』
  『四国周遊殺人連鎖』
  『山陰路ツアー殺人事件』
  『草津・冬景色の女客』
  『人事課長殺し』
  『信州・小諸殺人行』
  『浅草殺人風景』
などなど,などなどなど。
 トラベルミステリ,ユーモアミステリ全盛の時代に,しかめつらしく本格叙述モノをうたっても売れなかったのだろうが,それにしても……。

 実はこの中町作品,文体もいたってのんびりしたもので,目撃者が連続して殺されても,サスペンスに手に汗握るとか,怜悧な犯行トリックが心胆寒からしめるとか,そんなふうにはならない。どちらかといえば売れっ子とは言いがたかった作者を反映してか,移動交通費や有給,食事代を気にしつつのつましい推理活動,関係者の口さがないお喋りを証拠に重ねてのストーリーが毎回ゆっくり展開されていく(そんな呑気な文体,展開にもかかわらず,各作とも「プロローグ」で始まり「エピローグ」で終わる構成にあっと驚きの叙述トリックが隠されていると思うと,それはそれで凄い)。

 ただ,この一連のタイトルについては,作者当人も納得していたわけではないようだ。
 道東めぐりのツアー客が次々と殺されながら,ツアーが中止になるでもなく,作者がモデルとおぼしき推理作家が(細君の尻にしかれつつ)湖めぐりのバスツアーを楽しんだりカニ料理に舌鼓を打ったりしながら推理の試行錯誤を重ねていく『阿寒湖殺人事件』では,ツアーで知り合った初対面の人物に次のようなセリフを口にさせている。

 「この春先にお出しになった『佐渡金山殺人事件』を読ませてもらいましたよ。ストーリーが,それなりに凝っていて,おもしろかったんですが,例によって,題名がちょっと無神経なのが気になりましたがね」

 このあたりの「人の食い具合」がいかにも中町信らしいと言えば言えるかもしれない。

2006/06/02

最近の新刊から 『夏の嘘つき』『大問題 '06』

040『夏の嘘つき』 もりたじゅん / あおばCOMICS

 『化けくらべ』『嘘をつく女』に続く,あおばCOMICS版第3弾。もりたじゅんはもともと集英社畑のマンガ家だが,年に1,2冊しか出さない作家の場合,雑誌や出版社が散るとこぼさないようチェックするのが大変だ。ふう。
 収録作は短編2作,いずれもちょっとした過去のある気の強い主人公が職業人としてのキャリアを踏みつつ年上の男性の魅力に知らぬうちに……ん? この二十年,同じ枠組みばかり読まされているような気がしないでもないが,それがもりたじゅんを読むことなのだからしょうがない。
 ざっくり読み終えて表紙(添付画像)を見直し,さすがに笑ってしまった。タンクトップのうら若い女性,肩から二の腕の線が十代はないとしてどう見てもせいぜい二十代,ところが作中の主人公は実は……。四十代の女性はそれはそれで魅力的なものだが,その年齢を当人が暴露するまで読めないなんて,サバとマグロを取り違えるような男ばかりで大丈夫か。

『大問題 '06』 いしいひさいち+峯正澄 / 創元ライブラリ

 言うことなし。
 何も言うことがない,のではない。何も言うことができないのだ。
 ギャグ作家が,壊れもせずにここまで苛烈な仕事を続けられるというのはとんでもないことではないのか。家というものを描いて自動記述,至高点の域にいたる『ののちゃん』をデイリーで発表しながら一方で政治,経済については対象の臓腑をさくさく裏返すようなメスさばき。
 気になるのは,ぽつぽつと挿入される峯正澄の回顧文が4コマ作品と対照的に感傷的でありきたりなこと。このようなものでもはさんでおかないと辛すぎてのどが渇くのではという編集者の節介もわからないではないが……不要。
 タブチくんやヒロオカ監督がかつてそうであったように,最近,小泉首相,渡辺会長,ブッシュ大統領らは,いしい作品に描かれたものこそが本来の姿に思われてならない。錯覚でも誤解でも不思議でもなく,単なるリアリズムと言ってしまえばそれまでなのだがどんな問題こんな問題。

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