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2006年5月の6件の記事

2006/05/31

最近の新刊から 『艶捕物噺 唐紅花の章』『ドラゴン桜(13)』

919『艶捕物噺 唐紅花の章』 深谷 陽 / リイド社 SPコミックス

 深谷陽の新作は,生き別れた双子の兄弟が「兄は切れ者 奉行所与力 弟は美貌の花形女形」に長じ,二人揃ってお江戸の悪を暴くという捕物帳仕立て。
 設定,展開は趣向に満ちてなかなか面白い。ただ,深谷作品に慣れたファンにはともかく,初めての読み手にはこのこってりした目鼻立ちや背景の描き込みが少し濃すぎるかも。アクションシーンもやや重め,「あですがたとりものばなし からくれないのしょう」のタイトルも少しくどい。要するにマンガのマンガたる所以のマンガ度が低いのだ。
 山手樹一郎や池波正太郎など,広く読まれた時代小説では,よい意味での手抜きが作品を軽くしている。深谷得意の食べ物シーンが少ないのも,まだ余裕がない表れではないか。

『ドラゴン桜(13)』 三田紀房 / 講談社モーニングKC

 新キャラの家庭教師 本田が受験生の矢島に語る人生訓が連載開始当時の桜木の台詞と相似形の軌跡を描くのはとてもいい。作者の受験勉強や社会に対するピッチングフォームが一定しているということだ。
 今回の第13巻は,世界史の勉強のしかた,数学,国語のセンター試験対策など,受験に縁のない者とうに済ませた者にも凝り固まった固定観念を砕いてくれるツボへの刺激満載だ。要は,ことにあたって問題を認識し,解決の手法を探るフォームなのである。
 本書に問題があるとしたら,人生のどの時点でこれと出会うかということだろう。多分,早すぎてはいけない。手遅れでも,もちろんいけない。

2006/05/25

『心霊写真 不思議をめぐる事件史』 小池壮彦 / 宝島社文庫

918【要は写真を「見る側」の問題である。】

◆読了前

 『心霊写真 不思議をめぐる事件史』なる本を読んでいます。
 タイトルだけ見ると,夏になるとどこの本屋にも平積みになる「あっ,こんなところに顔が」本の一種のように思われますが,これがお立ち会い,実は日本における心霊写真報道とそれに対する反証の世相史をとことん資料を立てて語り尽くそうとする,上に「バカ」を付けたいほど生真面目なドキュメントなのでした。

 なぜこの本を手に取ったかと言えば,「もしやこの国の心霊写真史は今,大きな曲がり角にきているのではないか」という思いにかられたためです。
 最近,久しぶりにいわゆる「カメラ屋」に赴き,家電量販店でデジタルカメラが売れているのは知っていたものの,カメラ専門店においても従来のフィルムカメラがほとんど販売されていないことを知って驚く,ということがありました。
 レンズ付きフィルム(いわゆる使い捨てカメラ)や趣味の高級一眼レフなど,一部には(たとえばアナログレコードプレイヤーのように)フィルムカメラも残っていくのでしょうが,家庭用フィルムカメラがデジカメにすっかり置き換わってしまうのはもはや時間の問題のようです。
 さて,そうなったとき,「顔が,手が,光が」の心霊写真はどうなっていくのでしょうか。

 もちろん,今後も,誰かが自殺した崖のデコボコが人の顔に見えるといったことはデジカメで撮影したJPEGファイルでも同じように起こることでしょう。

 しかし,デジタル画像の場合,ネガフィルムに比べればその修正は格段に簡単です。岩の影がちょっと人の顔っぽく見えたなら,それをお絵描きソフトで強調したり,特定の人物に似せたりといったことはすぐにも誰にでもできそうです。
 「専門家」(何の?)が見ると,データに手を加えたことがバレることもあるでしょうが,逆にその「専門家」が腕をふるえば,修正の判明しづらい画像を作成することもまた可能でしょう。
 しょせんデジタルデータですからね。ドット単位で微調整するなら何でもありです。

 つまり,デジカメの普及によって,心霊写真はその信憑性を失い,怪しい顔が手がと主張しても鼻で笑われて終わる,そんな時代が訪れつつあるのではないでしょうか。

◆読了後

 そんなこんなを考えつつ,読了。
 思ったより格段に,「硬派」なレポートでした。

 著者は徹底的に「幽霊が写真に写る,念がフィルムに写る」ことを否定しています。心霊写真の原因は,焼付けミス,もしくは意図的な二重焼き,偶然,目の錯覚などのいずれかにすぎないという判断のもとにすべての例にあたります。
 本の帯の「写ったのは 本物か? 否か?」などというキワモノキャッチは,これだけ過去の資料を網羅して論旨を展開する作者に対し,失礼というものでしょう。むしろ,これほど実証主義な著者がテーマとして心霊写真を選んだことのほうが不思議に思えるほどです。
 口裂け女や女性客の消えるブティック,ハンバーガーミミズ肉説などの都市伝説を扱うに,扇情的な怪談とする本と社会学として収集,検証する本があるなら,この本は明らかに後者に属すわけです。

 本書によれば,写真技術が導入されたころは,乾板をきちんと綺麗にしなかったために人物が二重写しになるということが多発していたようです。その一部がのちに幽霊の写真と騒ぎを招くようになり,その後も世相や技術の変遷に応じて心霊写真はさまざまな形で巷をにぎわすことになります。
 たとえば「心霊写真」という言葉が最初に使われたのはいつ,誰によるのか,とか,初期の心霊写真はむしろお守りのように大切にされたのに,「霊障」や「御祓い」が話題とされるようになったのはなぜか,など,著者の指摘は心霊写真を中心に縦横に展開します。
 それにしても,興味本位の雑誌などならまだしも,大手新聞が心霊写真を再三にわたって(トピック扱いとはいえ)けっこう大きく扱ってきたことには驚かされます。

 本書では,この国で最初に心霊写真が話題になった当時から,(妖怪博士 井上円了らによって)論理的,科学的にはそれが否定されてきたこと,それにもかかわらず,心霊写真が再三再四大きなブームとなったのは,心霊や念の存在を意図的に語りたい者がいたからであるとし,各時代のさまざまな写真,事件,主張を細かく取り上げていきます。
 さらには,おそまつな(たとえば誰が見てもカメラの下げ紐が写り込んでいるにすぎないなど)心霊写真を否定しても否定してもブームが去らないのは,結局のところそこに「何かを見たい」者がいるため,と作者は指摘します。
 自殺した岡田有希子の幽霊騒動の際には,幽霊が映ったとされるビデオテープが視聴者からマスコミに届けられ,その結果として「幽霊は映っていない」のではなく,「見える人には見える」という声が残ったのがその顕著な例と言えるでしょう(その当時の若者間のオカルトブームがのちのオウム真理教事件に影響を及ぼしたという指摘は,検証を必要とはするものの,重いものを感じます)。

 つまるところ,著者も最後に簡単に触れているように,デジカメの時代になっても,何も写ってないところに何かを見たい者がいる以上,心霊写真は存続し続け,夏になれば書店の棚で暗い顔や白い手がうごめき続けることになるのでしょう。

2006/05/17

大人のマンガ,を考える 『誰も寝てはならぬ』(現在5巻まで) サラ イネス / 講談社ワイドKCモーニング

855【さあー 俺もイキオイでもろてんけど 何かにできるか? コレ  できません】

 サラ イネス作品の魅力を直截簡明に語るのは難しい。
 以前(やー,もう6年も前のことだ)『大阪豆ゴハン』を取り上げた際も瑣末事ばかり話題にして番茶を濁した覚えがある。まだ,若かったのだ。違うって。

 『誰も寝てはならぬ』に登場するのは,赤坂のデザインオフィス「寺」に出入りする,少し浮世離れしたデザイナー,イラストレーターとその周辺の人々。個々のキャラが前作『大阪豆ゴハン』の脇役たちと少しかぶっていて懐かしい。

 この作者の一連の作品によく貼られるレッテルが「脱力系」だが,それだけでは瓶からこぼれるものが少なくない。作品全体を覆うかなり濃密な「大人」テイストの源はどこにあるのだろうか。
 登場人物たちは太平楽に◇と口を開いた高等遊民(死語かな)に見えるが,実はいずれもけっこうビジネス手腕にたけ,とくにバブル経済華やかなりしころにはそれぞれ忙しくも美味しいめに遭っている。業種もデザイン,イラスト,報道,オシャレな飲食店経営など,いずれもカタカナ自由業ないしその近隣,ランクも自営社長レベルである。安く手に入れたブランド品をさらりと着こなし,車はマニアックな外車,住まいも通勤の便利さなどより趣味嗜好を優先している。要するにヘンな生活を営めるだけの経済的余裕があるのだ。
 そういったいわゆる「ハイソ」感が強く表に出ないのは,太いペンでラフに描かれた温帯性能天気な絵柄にもよるが,基本的に誰もが金勘定に頓着ない風を示していることも大きい。早い話,いずれもええとこのボンボン,ご令嬢様なのである。その育ちのよさ,鷹揚さは,上目遣いと見下ろし目線の交錯するモーニングの読者層を考えればイヤミすれすれ,かなりアクロバティックなバランスのうえに成り立っている作品ともみなせる(人気があるようにみえて過去の単行本がいずれも絶版であったり,文庫も『大阪豆ゴハン』の抜粋3冊分しか発刊されなかったりというのは,そのあたりと無関係ではないかもしれない)。

 わかりにくいのは,どこまでが作者の実体験で,どこまでが作り事か,ということ。
 前作『大阪豆ゴハン』連載中には,「梅田近辺で安村家を発見した」という投書が相次いだという。デビュー連載『水玉生活』から新作『誰も寝てはならぬ』まで,同じ設定のキャラクターがあたかも作者の年来の知己であるかのように登場することから,作者周辺の実在人物がモデルと推察されるコマが少なくない。だが,一方で作者の企画力はかなりしたたかで,すべてまったく見事なコシラエゴトらしきフシもある(『大阪豆ゴハン』の登場人物の数人が名称もしくは容貌においてラリードライバーを模したものだった,など)。
 このあたりの虚実の皮膜,どちらとも断定できない底知れなさが,単に「脱力系」ギャグなどという言葉では蔽い切れないほろ苦さにつながっているのは間違いない。

 もう一点,「大人度」のポイントが,登場人物の多くがバツイチ(以上)だったという設定だ。
 『誰も寝てはならぬ』の主人公,ハルキちゃんはバツイチ,ヤーマダくんもバツイチ,ゴロちゃんにいたってはバツ3である。オフィス「寺」にわけなく出入りする魅力的な女性陣も,せんじつめればなにやらアンニュイな過去がなきにしもあらず。ただ,それなりにそれなりの経験を背負った彼ら彼女らは,同時に作品中では常にサバサバして引きずらない。このサバサバ度合いが大人なのである。
 ただし,サラ イネスの描く登場人物が「大人っぽい」かといえば,そういうわけでは全然ない。むしろ年齢からすれば子ども子どもしているといってもよい。それが,あのペンタッチに乗るとそこらのマンガよりよほど「大人」感を示す不思議。……結局,よくわからない。

 こんなややっこしいことなど考えず,ただノンシャランな世界を楽しめばよい,という親切なご指摘も当然あるだろう。だが,心のどこかに,それはちょっともったいないことじゃないかと囁く声がする。それがサラ イネス作品の奥行きなのである。

2006/05/12

大人のマンガ,を考える 『沈夫人の料理人』(全4巻) 深巳琳子 / 小学館ビッグコミックス

435【美味しい物が 私には ふさわしいんだよ。】

 大人のマンガなどというとすぐエロとか18禁とかに意識の指が伸びそうだが,そうだろうか。
 要は大人と子供をどう区別するか,だ。18歳,20歳の経度にある赤い点々の日付変更線などどうでもよろしい。子供のくせに大人っぽい,大人のくせに子供っぽい,この「大人っぽい」の「ぽい」のあたりから漂うアヤシゲな気配こそがよくも悪しくも「大人」の領分なのだ。むしろエロに過剰に反応するのこそ実のところ子供のしるしであって……いや,いや。エロならエロに,大人らしく書いたもの,子供が書いたものがあり,大人向けに書かれたもの,子供向けに書かれたものがあって。
 など,など,など,など。

 こういう議論はそれはそれで楽しそうだが,今日はパス。もうちょっと単純に「大人でも楽しめる」「大人ならではの楽しみが得られる」,そういうマンガをいくつか紹介したい……今回はその程度の試みである。
 ちなみに,1960年代以降,文芸誌,週刊誌等に掲載されたいわゆる「大人マンガ」はここでは対象としない。個人的に好みではないため。

 さて。なにはさておき,最近4巻で完結したばかりの『沈夫人の料理人』だ。

 『沈夫人の料理人』は料理マンガである。
 ……と,たとえば『美味しんぼ』『ミスター味っ子』『クッキング・パパ』,最近なら『喰いタン』『焼きたて!!ジャぱん』あたりと比較できるなら話はケンタッキーフライドチキンなのだが,ことはそれほど吉野家,マクドナルドでない。
 確かに,『沈夫人の料理人』の各話とも,旨そうな中華料理のレシピは描かれている。中華というよりラーメン屋のメニューを並べた『中華一番』などに比べても格段に本格的だ。だが,個々の料理はいうなればボードゲームのカードに過ぎない。
 この作品は明代の江南の都市を舞台に,「主人」である有閑夫人が「主人」であることをかさに,料理人を思うさまもてあそぶ(←ここ太字)物語である。料理人の李三は無骨で馬鹿正直で料理の腕は抜群,沈夫人を優しい高貴な女性と崇拝しているが,沈夫人はその李三に婉曲に(←ここも太字ね)無理難題を吹きかけ,困り果てた李三が饗する料理こそが最高に美味と知っている。

 沈夫人の手腕は,「いじめ」などという子供の領域にはなく,2巻にいたるや思いつく限りの心理テクニックを駆使して「暴虐」「非道」「人非」の域に達する。李三はただおろおろとはいつくばり,身もだえ,涙して許しをこい,肩をふるわせながら呆然と料理を具するばかり。そして,毎話,沈夫人の「あら美味しい!」の美麗な顔をもってあたかもことの顛末が天真爛漫な「いたずら」にすぎなかったかのように描かれてさわやかに(!)幕を閉じる。

 ……およそ舞台も状況もキャラクターも異なるが,この構造は数人の男たちが一人の淑女を調教する『O嬢の物語』に近しいような気がする。
 絵柄,ストーリーは古臭い「艶笑」という言葉をうかがわせながら1巻から2巻へと崖を転がり落ちんばかりにエスカレートしていく。だが3巻,4巻にいたって結局は一話読み切りの「シチュエーションコメディ」として予定調和の平穏のうちに第一部が終わる。ああ,よかった。
 もし。もしも,3巻以降,2巻の勢いそのままに暴走していったなら,果たしてこの国のマンガの歴史はどうなってしまっていたのか。平成元禄のぬるま湯に首までつかった読者はそれに耐えられただろうか。

 少しでもグレーな用語を片っ端から変換候補からはずしてしまったWindowsの日本語変換システム(MS-IME)も,なぜか「奴隷」は平気で変換してしまう。現在では奴隷制度は存在しないため,差別用語たり得ないので,という説があるが,この『沈夫人の料理人』は,「隷属」すること「隷属」させることにこそエロティシズムがあるという一つの例証となっている。
 裸体だとか男女のからみだとか,およそ凡夫がエロティックな行為を想起させるコマは何一つないにもかかわらず,この作品はそこらのアダルト雑誌などよりよほど淫蕩だ。大人のたしなみとして,ぜひ本棚の最上段にこっそり忍ばせたい逸品である。夢見るぞ。

2006/05/04

〔非書評〕重箱の隅つつき その5 『となりの山田くん(5)』 いしいひさいち / 創元ライブラリ

739 いしいひさいちの作品はもちろん「推理小説」ではないが,作者の稀有なミステリ批評眼,ならびにホームズものをはじめとする痛烈なミステリパロディに敬意を表して,あら探しをさせていただくこととしよう。

 作者自身認めているとおり,いしいひさいちの4コママンガには,オチの意味の不明なものが世界の紛争の数ほどある(とくに政治経済モノに多いようだ)。「不条理」を狙ったわけでもなく,2コマめか3コマめでロバのたずなを放してしまって,そのままどこかわからないところにたどり着いてしまったような感じだ。その手の作品の場合,ちゃんとオチているのかどうかさえわからないので,隅つつきのしようがない。

 別の角度,たとえば双葉社の『ドーナツブックス(いしいひさいち選集)』第27巻の作品番号3455と第28巻の3514が,展開もオチもほぼそっくり同じなのに各コマのカットやセリフがよく見ると微妙に違う(本当),とか,同じく第27巻の3407の4コマが,編集工程上のミスによるものか,本来1,2,3,4のコマ順になるべきものが3,4,1,2の順になっている(これも本当)とか……。
 いや,今回取り上げる重箱の隅は,そういったものでもない。

   あの~~ コート買うても ええですか?

 これは『となりの山田くん』の創元ライブラリ版第5巻,朝日新聞では1993年12月10日朝刊掲載分の1コマめで,山田家の主婦まつ子がたかしに話しかけるセリフ。
 この言葉遣いは山田家としては異様である。普段のまつ子のぶつ切りな大阪弁に比べても妙に丁寧ですわりが悪く……早い話が,気持ち悪い。

 このコマ以来,まつ子がたかしに話しかけるシーンに注目しているのだが,少なくともこのような言葉遣いはあまり記憶がない。そもそも,この夫婦にはまともな会話がない。ほとんどが,メシやフロや服装,雨傘についてのやり取りであって,会話という言葉を持ち出すほどのものではないのだ。まつ子は主婦としてはかいがいしいし,無神経なだけで夫婦仲が悪いわけでもないのだが……。
 などなど,山田家について余計なことを考えさせられてしまうという意味でも,先に引用したセリフはまことにキショク悪いシロモノなのである。

 ちなみに,山田家の二人の子供,のぼるとのの子は,祖母,山野しげに直接話しかけるときに「おばあさん」と呼ぶ。
 「おばあさん」には「お祖母さん」「お婆さん」の2つの意味があり,正しい正しくない,は別にして,このようにフランクな家庭で小中学生の孫が祖母に話しかけるなら「おばあちゃん」のほうが自然な気がする。「おばあさん」には,「お婆さん」,つまりヨソの老婆に声をかけるニュアンスが強く,つまり同居している祖母に対して用いるにはヨソヨソしさがこもっているように思われてならないのだが,この感覚は少数派なのだろうか。

2006/05/01

〔非書評〕重箱の隅つつき その4 『花の下にて春死なむ』 北森 鴻 / 講談社文庫

438 北森鴻のミステリは,平均して面白い。
 新本格派の若手のように不可能犯罪のトリックに拘泥し,ハナから「小説」を書く努力を放棄したものを読まされる心配はない。その種のパズラーに比べれば,格段に苦味のトッピングが効いている。
 その一方,テレビのサスペンスドラマなどに比べれば,格段にミステリとしての骨格が尊重されている。だから,論理ゲームとしても感情移入抜きに楽しめる。

 裏返せば,さじ加減の難しい長編では,ときに人間ドラマの臭味が強すぎることがある。登場人物の感情反応が強すぎるのだ。香辛料も鼻につくと鬱陶しい,そんな感じ。

 したがって,北森作品では,バランスを調整しやすい連作短編集が安心して楽しめることになる。論理ゲーム的にも1冊で何度も楽しめてお得だ。実際,世評の高い作品には,『メイン・ディッシュ』『孔雀狂想曲』など連作短編集が少なくない。
(個人的には,『凶笑面』『触身仏』など,偏屈な美貌の民俗学者,蓮丈那智のシリーズが好もしい。那智が寡黙であることが先に述べたバランスにつきうまく機能するためだ。那智が全編通して一言も口をきかず,ただ口の端をゆがめて無愛想に証拠と犯人を指差して終わる,そんな作品があってもよい。)

 さて,添付画像の『花の下にて春死なむ』も連作短編集。第52回日本推理作家協会賞の短編および連作短編集部門の受賞作で,作者の代表作の1つとされている。ビアバー「香菜里屋」のマスター工藤が,ちょっとしたやり取りや態度から,登場人物の過去を解き明かしていくというもの。いわゆるアームチェアディテクティブものだが,「香菜里屋」というバーの名称からすでに濃厚に過ぎて……。

 もとい。全体の感想はさておき,お約束の重箱の隅つつきとしよう。今回は次の一節だ。

「片岡さんの故郷は,山口県ですか」
 声の端に確信がのぞいていた。反対に七緒は,あやうくグラスを取り落としそうになった。
「どうして! それを……」

 (中略)
「サニーレタスとムール貝を,酢みそで和えたものをお出ししたんです。片岡さんずいぶんと懐かしそうに小鉢を眺めて,こう仰言いました。『チシャもみ,か』と。『チシャ』はサニーレタスに良く似た野菜だそうです。山口では道端に生えたチシャを摘み取り,酢みそで和えて食べるそうです。古い家庭料理のひとつだと聞きましたが」

 これは……いくらなんでも無理スジ。
 「チシャもみ」あるいは「ちしゃもみ」をググってみよう。ヒットしたページのタイトルをざっと眺めてみると,「チシャもみ」が主に香川,広島,山口の郷土料理として知られていることがわかる。当然,その近隣でも「チシャもみ」を食す家庭は少なくないに違いない。
 ところが,本作では,冒頭に近いところでこの「チシャもみ」を懐かしんだというほぼその一点だけで登場人物の出身地を山口県と特定,しかもそれが物語のその後の展開をかなり決定づけてしまっているのである。
 山口県出身ゆえの思い入れもあったのだろうが,北森鴻の場合,『屋上物語』の凝りすぎたヘンなさぬきうどんといい,こういった(たとえば料理に関する)小ネタにおいてやや無理強いの傾向があるのは否めない。

 平面上で点を特定するためには,少なくとも2つの座標軸を必要とする。アームチェアディテクティブにおいても,小ネタにまつわる推理を確定させるためにはいわゆる「裏をとる」ことでその凄みが格段に増すように思われるのだが,どうだろう。

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