フォト
無料ブログはココログ

« 2006年2月 | トップページ | 2006年4月 »

2006年3月の7件の記事

2006/03/26

ヴァン・ドンゲン,ビュッフェ

 GoogleYahoo!がそれぞれ「イメージ検索」,「画像検索」機能を装備したおかげで,気に入った画家の名前でイメージ検索したり,「Tower Babel」「Magdalene」で画像検索したり,そういったことが思うさま簡単にできるようになりました(グラビアアイドルの名前でキュートなビキニ写真を,といった用途にも大変便利。ただし,その方面に突っ走る場合はコンピュータウイルスやスパイウェアにくれぐれもご注意を)。

 最近,烏丸はこのイメージ検索のおかげで,これまで著名な美術サイト,名画サイトでもあまり見られなかったヴァン・ドンゲン(Kees Van Dongen,1877-1968)やベルナルド・ビュッフェ(Bernard Buffet,1928-1999)の画像をしこたまコレクションできて,そこはかとなく幸せなのであります。

 ヴァン・ドンゲンは,キャバレーのデコラティブなマダムを太い筆でぐいぐい描くような画風。ビュッフェはいかにも絵葉書向けのパリやイタリアの名所を,輪郭線を強調したくっきりしたタッチで描きます。
 2人ともそれなりにまあ著名ではあるものの,少なくとも今のところ,美術全集で1巻を占有するほどの大家ではありません。素人目にも,新しい絵画の潮流を切り開くとか,そういった大物感はなく,作品も天文学的価格というほどではない雰囲気。インターネットの画商サイトをうかがえば,サイン入りリトグラフ程度ならサラリーマンでもなんとか買うこともできるようです。

 しかし,この2人の画風は,そういう価値とは別に,どこか懐かしく,目を慰めてくれるんですね。
 ヴァン・ドンゲンは,ずいぶん以前,まだ中学生のころのことだったと思いますが,地方の小さな美術展で作品をいくつか見る機会がありました。そのときは「いかにも日展や二科展にありそうな油絵」という身もふたもない印象でしたが,つまりはヴァン・ドンゲンというのは,アマチュアやセミプロの画家が絵筆をふるってとりあえず到達したいという,それはそれでひとつの境地なのかもしれません。

 ビュッフェに「絵葉書」のイメージが強いのは,初めて出会ったのがまさしくその絵葉書の図案だったため(それだけでもないとは思いますが)。ヴァン・ドンゲンを初めて見たよりもっと前の,多分小学校高学年のころ,ある日父親が土産に買ってきた絵葉書セット,それがビュッフェの作品群だったのです。研修旅行か何かで訪ねた先に展覧会でもあったのでしょうか。一枚一枚を鮮明に覚えているわけではありませんが,南の保養地の白っぽい光景を描いたその絵葉書は,なんという印刷技法なんでしょう,輪郭線の黒いインクの部分のみがぽってりと厚みをもっていて,指でふれてもプルプルする,そのようなものでした。輪郭線を強調するビュッフェの画風にいかにもなじんで,この指がインクの光を覚えています。

 これらの画家について,当時,父親とどのようなやり取りをしたのか,もうまるで覚えていません。絵葉書セットもどこかに行ってしまいました。そのうち小金をためて版画の一枚も,というのは,あまりに感傷が過ぎるでしょうか。

2006/03/23

パペットマーケット

 微妙にプライベートなことを書く。

 全国の人形劇のイベントや団体を紹介する手作りの情報誌「パペットマーケット」というものがある。全ページ手書き文字でぎっしり綴られたこの小冊子,2002年の夏から途絶えていたのだが,つい数日前,郵便受けにひょいと届いていた。4年ぶりだ。
 「パペットマーケット」の発行者は和気瑞江さんといって,たいへん巧みな人形劇の実演者である。
 東京学芸大在学中に「麦笛」というサークルで人形劇に手を染め,その後いくつか小さなグループを組織したり,大きな劇団と合同公演したり,プロとして活躍して久しい。電話を受ければ素材をかかえて幼稚園などを訪ねる「一人人形劇団」としてNHK教育テレビで取り上げられたこともある。
 東京の中野を拠点としていたが,数年前,ご尊父の入院にともない郷里の香川に戻り,それとともに「パペットマーケット」も届かなくなっていた。ご尊父の和気俊郎先生は香川県の私立校で長年生物の教鞭をとられた方だが,県内の植物の研究でも知られ,新種の発見も少なくない。先生は,2003年に亡くなられた。
 和気さんがその間,どのような思いでいたのかは,賀状以外とくにやり取りがあったわけではないのでよくわからない。復活した「パペットマーケット」は,表紙から裏表紙まで休刊のお詫びだらけで,発行できなかった間,当人がずいぶんと心を痛めていたことがわかる。
 妙な言い方だが,とりあえず当方に限ってはまったくノープロブレムだ。「パペットマーケット」が復刊して和気さんの独特な手書き文字が見られるだけで嬉しい。表紙のイラストカットのぽこんとした丘のような山のようなものが彼女の郷里に穏やかな姿を見せる飯野山,通称讃岐富士なのも楽しい。
 なにしろ僕は……和気さんが人形劇と出会うよりもっとずっと以前,正確にいえば1970年の春以来,そこらの少女マンガ家より美麗な彼女のイラスト,躍る手書き文字,切ない詩文集,アクロバティックな切り紙,ユーモアあふれる話術,それらを合わせたキャラクターの大ファンなのだから。

2006/03/16

コンピュータウイルス潔癖症候群

【インターネットにつないだら必ず手を洗いましょう。】

 最近,42歳の無職の男が高校3年の時の恨みから元担任を刺殺──という事件があった。

 「キレやすい若者が増えている」といってもなにしろ42歳。どうにも理解のたがを超えている。殺された元担任が担任時にどんな先生だったのは知らないが,20年以上経ってから刺しにいくのはさすがに尋常とは言いがたい。なんらかの心の病にとらわれていたのだろうか。

 このケースは違うかもしれないが,一定の思い込み(不安)がひどくなり,気にする必要がないと理性ではわかっていても気になって気になって頭から離れず,ほかのことが手につかなくなるような心理を強迫観念というらしい。
 ガスの元栓をしめたかどうか気になって出かけられない,とか,バイ菌が心配で繰り返し手を洗う,とかがその一例。日常生活に支障をきたすようになると強迫神経「症」となる。

 話題はどんどんすべっていくが,もしもこの強迫神経症の傾向のある方がコンピュータウイルスを気にし始めたら……これはツラい。

 知人からメールが届けば,ウイルスが添付されてないか気になって開けない。
 かくかくしかじかで開けないと返答して,今度は自分が相手にウイルスを送りつけたのではないかと疑心暗鬼にとられる。
 ホームページを見たらスパイウェアがひそんでいそうですぐ「戻る」をクリックしてしまう。
 つないだままだとワームが入り込んできそうでケーブルから目をはなせない。

 強迫神経症はわりあい当人に「馬鹿げている」「そんなことはない」という自覚があるだけ,インターネットをあきらめる,アクセスしない,というほうに話は進まない。だいたい,仕事かなにかでインターネットから離れられないからこそ不安が募るのである。

 アクセス時以外は頻繁にネットワークケーブルをはずす。しょっちゅうバックアップをとってハードディスクをリカバリする。バックアップしたCD-Rがウイルスで汚染されている気がしてしようがない。ウイルス対策ソフトを複数インストールしてシステムが不安定になり,ウィンドウズの当たり前のポップメッセージが開くたびにウイルス感染かとパニックに陥る。漏洩して困るような情報など保存していないにもかかわらず,自分のプライバシーがネット上にばらかまれ,際限なく転載されていくような気がしていても立ってもいられない。はては「コンピュータウイルスの実態はプログラムなのだからありえない」と思いつつ,キーボードやディスプレイの裏側までごっそりウイルスが張りついてぼふぼふと増殖を繰り返しているような……。

 あっという間にパニックものの短編小説が一つ書けそうだ。技術や用語がナマモノなので,一,二年もすると内容が陳腐になってしまうかもしれないが。

 さてでは,主人公をさんざんいたぶったあげくの結末は。

 メールの返答はおろか電話にも出ないことを心配した友人が主人公の部屋を訪れると,自分の肉体にまでコンピュータウイルスが侵入するように思いつめた主人公が,目をつぶし,耳,鼻をそぎ落として……という陰惨なものから,パニックのあげく,逆に自分のあらゆる情報を掲示板やメールで撒き散らして強迫観念からはすっきり解放されるが,その代わりその情報を悪用した詐欺やローンの取り立てに追われまくる。こちらも陰惨か。
 ほっと一安心のハッピーエンドを書けないのは,わかってはいるのだけれど悲惨なエンディングしか思い描けない当方の強迫観念が暗いほうに悪いほうにエグいほうに危ないほうに。ううう。

2006/03/14

転倒ポップ

【ポップ,ステップ,ジャブン】

 サインペン文字をラインマーカーで彩った書店店頭の「手書きポップ」,ブレークのきっかけは新潮文庫の『白い犬とワルツを』(テリー・ケイ,兼武 進 訳)の手書きポップによる大ヒットとされている。
 6,7年前のことだったか。

 近頃ではどこの本屋もポップだらけ,ポップのせいで隣の平積み本のタイトルが見えないほど。
 ポップブームも初期のころは書店店員の苦労のあとがうかがえたり,思いがけずいい本と出会えたりということもあったが,昨今は同じ書店内で嗜好が統一されていないなど,無理やりこさえたアテにならないポップが多く,ただもう邪魔なばかり。

 最近も新潮文庫の『診療室にきた赤ずきん』(大平 健)というのがやたら文字の多いポップ(サイズも文庫本くらい)を立てていてうるさく思っていたが,今日買ったほかの新潮文庫にはさまれた「新潮文庫 今月の新刊」には爆笑してしまった。
 この『診療室にきた赤ずきん』を紹介するのに,
   この書店店頭POPが目印
 あんたねぇ……。

 手書きポップってのは,出版社サイドの画一的売らんかなパンフでないところにありがたみがあったのに,わざわざタネを明かしてどうする。
 このポップにまつわる新人社員の「美談」も聞いてはいるが,本文庫の発行は2004年9月。「埋もれていた」というほどでもなく,美談にしても薄い。単なる営業活動だろう。

 主客転倒ポップ。

2006/03/10

ぐいぐいノンストップ 『13階段』『グレイヴディッガー』『K・Nの悲劇』 高野和明 / 講談社文庫

626【目を閉じて頭をごしごしと擦っているうち,手が一本多いことに気づいた。】

 期せずしてテレビドラマの脚本家や演出家による作品が続いているが,今週の半ばは高野和明三昧だった。

 講談社から『13階段』(乱歩賞受賞),『グレイヴディッガー』,『K・Nの悲劇』の3冊が文庫化されているが,最新の『K・Nの悲劇』の表紙がなんとも言いようのないムンクの女の顔で,こんな本には触りたくないなぁとついつい手を出して(?)……それからほぼ3日で3冊読了。

 『K・Nの悲劇』はキヨハラ,ノリに過大な期待をかけてしまったオリックスのその後の……ではなく,駆け出しのフリーライターがうっかり新妻を妊娠させてしまったところ,その子供を堕ろさせまいと死霊が妻に憑依して,というお話。
 などと,枠組みだけ取り上げると「ホラー?」「それとも人情モノ?」とジャンルが気になるところだが,実際はどうにも追い詰められた雰囲気,新築のオシャレなマンション内に誰かいる気配など,ひりひりする恐ろしさに「どうする,どうなる」とページをめくるうち,ふと我に返れば1冊読み切ってしまっていた。しいてジャンル分けすればホラーサスペンスということになるのだろうが,分類抜きに単に「怖くて面白い小説」の印象。

 殺人事件の直後に現場近くでバイク事故を起こし,事件前後の記憶がない死刑囚を助けようとするデビュー作『13階段』,根っからの悪党が思い立って骨髄ドナーとなり,見知らぬ子どもを救うため入院しようとしたところで猟奇殺人事件に巻き込まれ,謎の組織と警察に追われに追われる第2作『グレイヴディッガー』。いずれも知力体力たっぷり要求されるサスペンスで,ともかくページを繰る手が止まらない止まらない。

 三者三様ながらどの作品においても一定期間内に事件を解決しなければならない時間制限付きであること,前半に山ほどまき散らかした伏線を最後までにクリアしなければならないこと,メインの謎はとびきりのものでなくてはならないこと,などなど,作者が作品に課した条件の厳しさは大変なもので,その一切をスピード感あふれる展開に押しはめた腕前は天晴れといってよい。
 しいて弱点をあげるなら,複雑な真相を最後にまとめて片付けようとするあまり,登場人物を狭いしがらみに無理やり押し込めていること,さらには偶然の要素も配剤されていることがある(要は若干ご都合主義的ということだ)。また,丁寧に図式化すれば嘘,無理押しの類もそれなりにあるに違いない。
 だが,それよりは読み手の「読んだっ」気分を満喫させてくれる,その力のほうが強い。それは得がたい資質である。

 この作者も映画,テレビの脚本家だったようだが,秦 建日子の『推理小説』がテレビ的「刺激」をばらまいている印象なのに対し,『13階段』『グレイヴディッガー』『K・Nの悲劇』の3冊ではその「刺激」がジェットコースター的線のつながりになっている。少なくとも,サスペンスという意味では,時間処理の巧みさが違う。その結果,中身があるかないかを小ざかしく議論するヒマもなく,読み手はただ小説に引きずり回されるのだ。
 よしんば深みに欠けたり主義主張がかみ合わなかったりしても,この3冊,読書としてはかなり楽しい部類と思うが,どうだろうか。

2006/03/04

従容として逝く 『桃』 久世光彦 / 中公文庫

191【なんだ,それだけのことなんだと頷きながら,私は紅色の漆の筐の中へ落ちていった。】

 三月三日,桃の節句の夜に『桃』を紹介する心積りもなくはなかったが,作者の死を悼みつつ書くことになる算段まではしてなかった。

 久世光彦は,当たり前のように言葉遣いにこだわった。
 大量生産のプラスチック工場のごとき昨今の売文家たちの中にあって,いわば厚手の漆器の手触りを示してくれたものだ。
 その分濫読できず,手間のかかる,疲れる作家の一人でもあった。最近も『桃』や『聖なる春』,『花迷宮』などを読んだが,続けて読もうとは思わなかった。本棚の一隅に雑作なく積んでおいて,探偵小説やゴシックホラー,ノンフィクションに飽いたら鞄に1冊忍ばせる,そんなふうに読む。そのようにしていつくしむ。

 添付画像の『桃』は,タイトルどおり桃の果実の,腐る寸前の匂い立つようなありようを死に喩え,物狂おしくもはかない男女の滅びを謡った短編集。
 熟達の筆で重ね塗りされた作者の文体は昭和の熱っぽい空気,空間を背景に,実体験を織り込んだ私小説なのか,まるきりのこしらえごとなのか,黒い時間を練って捻じ曲げて,そこに桃の色を走らせる。それはまるで柔らかな果肉をこねあげた彫像のように,油断すると腐って崩れてしまいそうな,したたる味の濃密な。

 文庫版『桃』の解説で,担当の日和聡子は力尽くして力及ばず,一編一編のあらすじを書きつらねる(大きなお世話!)。『聖なる春』(新潮文庫)解説の清岡卓行も結局は同様。ところが,久世光彦が書いた,たとえば岩井志麻子『魔羅節』(新潮文庫)の解説を見てみれば,ここでなんと久世は志麻子を別れた女の産んだ我が娘に喩え,その娘が男と女の地獄に落ちるさまを嘆きつつ指の間から薄目をあけてうかがうように志麻子の歌を覗き見る。たとえばこのような具合。

 「志麻子を産んだ女のことは憶えている。(中略)抱いた後,眠り呆けている目をむりやりこじ開けて,瞳の中を覗いてみたら,目の中いっぱいに灰色の空が広がっていて怖かった。普段はのろのろと,畳を蛞蝓(なめくじ)みたいに這って歩くのに,布団に入ってくるときだけは,いやに敏捷だった。」

 もちろんこれは文庫小説の解説に用いるべき文体ではない。ではないにもかかわらず,その前後に『魔羅節』各編のタイトル見事に読み込んで,つかずはなれず捧げた岩井志麻子へのオマージュとなっている。その6ページ余りのオマージュそのものが一編の短編小説と化して怪しい。久世光彦は,産業的技術の限りを尽くして昭和と性と死を描いた人でもあった。

2006/03/02

テレビライクな刺激発生装置 『推理小説』 秦 建日子 /河出文庫

037【30代。女性。バツイチ。子持ち。大酒飲み。無駄に美人】

 動機不明の連続殺人,犯行予告,犯人を追う捜査一課の美人刑事……。
 作者は「天体観測」「ドラゴン桜」などのテレビドラマの脚本家なのだそうだ。

 『推理小説』というこの上なく直接的なタイトル,作品内作品として犯行を予告した原稿が扱われることから,いわゆる「メタミステリ」「アンチミステリ」の系譜が想起されるが,そこにこだわると肩すかしをくらう。作品内作品は小道具程度に考えておけば十分だし,実験的作品,あるいはテレビ,出版等のメディアに対する批評的作品というのも(皆無ではないが)あたらない。

 ヒロイン雪平夏見の「いっさい片づけされてないゴミだらけの部屋」「大酒飲みで酔うとしばしば全裸で寝る」「無駄に美人」「警視庁捜査一課で検挙率ナンバーワン」といった設定はなかなか秀逸だし,「被害者が最期に見た景色を見たいとチョーク跡に寝転がる」という行動パターンもエキセントリックで魅力的だ。ただし,これらの設定,行為があとあとなにかに深く結びつくわけではない。

 要は「刺激」,なのだ。多分。
 この作者がどれほど平均的なテレビ人なのかはわからないが,最近のテレビのありようと照らし合わせるとおさまりがよい。
 たとえば犯人の動機はいちおう提示されるが,それはたいした問題ではない。17歳の容疑者を射殺してマスコミの好餌となったヒロインの過去,7歳の娘に「人殺し」と嫌われている現在など,それぞれセンシティブではあるが,次のページをめくればそれまで。つまり,これらはいずれもその場その時点での読み手への「刺激」として配置されているにすぎない。昨今のテレビ番組の多くが,政治も経済も文化も,すべてただ「刺激」の強弱に変換し,カラフルなテロップを付けて濫信していることとほとんど変わりがない。
 つまり,本書がある程度面白いのは,感覚中枢への刺激によるものが主であって,それ以上(以下)のものを求めてもあまり意味がないということだ。香辛料の利いた料理とでも称すればよいか。

 念のため。
 本書が「刺激」レベルであるからよくないとかよいとか,そういうことを言いたいわけではない。精神,情念,論理,世界観等々を描いたつもりの愚作駄作に比べれば本書は格段に爽快だ。小麦粉をこねたような小説,学芸会のごときテレビドラマの類に比べればかなり快適に時間をすごせた。それは否定しない。
 ただ,続編を読みたいかと問われれば,それはどうだろう。大方のテレビドラマ,ワイドショー同様,とくに必要を感じないというのが正直なところか。

« 2006年2月 | トップページ | 2006年4月 »