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2006年2月の7件の記事

2006/02/28

最近はイマイチ 『サム・ホーソーンの事件簿IV』 エドワード・D・ホック / 東京創元社(創元推理文庫)

915【一九三六年の夏はそういうふうにして終わったんだよ。】

 いかなトリックの達人といえど,三十作四十作と続けるとなるとクオリティ維持は容易でないらしい。不可能犯罪を扱ってアクロバティックな冴えを見せた『サム・ホーソーンの事件簿』もいまやシリーズ4冊め,犯人をあっさり予測できる作品やトリックを説明されてもそうびっくりしない作品が少なからず占めるようになる。

 今回の収録作の中には「呪われたティピーの謎」のようにある植物の名前が出てきたとたんタネが割れてしまう作品もあったし(同じ創元推理文庫『毒薬ミステリ傑作選』収録のミリアム・アラン・デフォードの短編と同工異曲),「重態患者の謎」のように病人が死んだ状況だけですぐ凶器が読めてしまう作品もあった。いずれもミステリでは使い古された手だ。

 それでも,ホーソーン医師の穏やかな人となりやアメリカ東部の町ノースモントのほっこりした雰囲気,あるいは「青い自転車の謎」や「革服の男の謎」などの練られたプロットはやはり楽しい。初期作品に比べれば水準が落ちたとはいえ,ホックの場合ヴァン・ダインやクイーンと違ってレトリック(ダイイングメッセージに表れた英語の方言?)で犯人当てをするような無理押しもなく,あくまで心理トリック,物理トリックできっちりカタをつけようとする技術屋気質が心地よい。

 ちなみに『サム・ホーソーンの事件簿』各編では,何年に起こった事件なのか冒頭で必ず明言されているのだが,この第4巻に描かれた12の事件は1935年から1937年にかけてのもの。第二次世界大戦の前と後とで,アメリカの田舎町もまた変わったのか,そうでもないのか。

2006/02/26

『ムンクを追え! 『叫び』奪還に賭けたロンドン警視庁美術特捜班の100日』 エドワード・ドルニック,河野純治 訳 / 光文社

756【絵一枚ですんでよかったじゃないか】

 外塀には高圧電流,中庭には猛犬ドーベルマン。展示室内は赤外線トラップが縦横に張り巡らされ,ケースにピンが落ちただけで警報が鳴り響く。赤外線スコープを頼りに壁に渡されたロープを少しずつ手繰って進む怪盗。額の汗が床にしたたると,高圧電流でジュッと弾けた。警備員が再び巡回してくるまで,あと,15分。

 『ルパン三世』や『キャッツアイ』ではおなじみの緊張のシーンだが,いかんせん世界の名だたる美術品たちはそれほど厳重な警備の恩恵を受けているわけではないらしい。

 盗難車で乗りつけ,ハシゴを上り,一度足をすべらせて(おっとっと)落っこちるがまた上り,2階のガラス窓を叩き割って入り込み,額縁ごと持ち出してドロン。以上。
 これが1994年にオスロのノルウェー国立美術館からムンクの『叫び』が盗まれた際の手口である。……って,こんなのを「手口」と言うか? 防犯ビデオは回っていたが新米警備員は気がつかず,画質は犯人特定の役に立たなかった。コンビニ強盗でももう少しシリアスだって。

 本書は,盗まれた美術品の回収を専門とするロンドン警視庁美術特捜班の囮捜査官,チャーリー・ヒルほかほんの数人のスタッフがいかにして『叫び』を取り戻すかを描いたノンフィクションである。
 全体はせいぜい10ページ程度の小さな章から構築されており,『叫び』が盗まれてからの経過,警察の対応,過去の名画盗難事件アラカルト,不敵な犯罪人たちのプロフィールなどなど,さまざまなシーンがカットバック的手法で行きつ戻りつ提示されていく。ムンクやゴヤ,フェルメールなど,盗難に遭った画家やその作品の紹介も要所要所に織り込まれ,飽きずに読み進めることができるが,逆にいえば中盤までは一気呵成に読み切ませる勢いには乏しい。

 先にも書いたとおり,世界的名画というのは,オークションにかければ何億,いや何百億円などと言われる割には,どうやらこと「防犯」に関してはさほど大切にされているわけでもないらしい。美術館は維持が精一杯で警備や保険に大金をかけられず,大富豪は家が大きすぎて(建物正面(ファサード)の横幅二百メートル以上の住居!)警備しきれない。何度も襲われた美術館,豪邸,何度も盗まれた名画があるのはそのせいである。

 ピカソの『ゲルニカ』は防弾ガラスで覆われていることで有名だったが(1995年に撤去)、これは同作品がスペインの内乱をテーマにしたもので,テロの標的になる危険があるとされていたため。逆に言えば,そこまで明白な理由がなければ『ゲルニカ』級の作品でもガードなしに公開されるということだ。
 たとえばフィレンツェのウフィツィ美術館では,レオナルドの『受胎告知』やボッティチェルリ『春』『ヴィーナスの誕生』など超のつく名画がガラスのガードもなく,手を伸ばせばすぐ届くところに展示されている。展示室の開けっぱなしのドアの外の廊下には開いた窓から風が吹き込み,これまでよくぞまあご無事で,と天に感謝せずにはいられなかった。思うにイタリアの古都なんて名所旧跡だらけで,絵の1枚からガードしようとしてもキリがないのかもしれないが。

 本書で何度も強調されるのが,名画を盗む犯罪人のバックに,盗みを依頼する大富豪ドクター・ノオのごとき影の黒幕などいないということだ。犯罪人たちはあるときは単なる金もうけ,あるいは泥棒としての名声欲,あるいは国家権力(警察)に対する反抗心から名画を盗む(目立ちたがり屋のルパンたちは意外とリアルなのかもしれない)。対する警察は,名画盗難にはあまり経費と労力を割こうとしない。殺人やテロ事件に比べれば,美術品など,金持ちの資産のごく一部にすぎないからだ。したがって,一部の美術盗難の専門家を除くと,名画の奪還にはそう力も入れないし,また犯人が捕まっても意外なほど重い罪には問われない。

 そんな犯罪人たちや乗り気薄の警察機構に対する,ベトナム帰りの囮捜査官,チャーリー・ヒルがいい。
 少し肥満気味の一匹狼,周囲に頓着なし。自分なりの美学で仕事に徹するあたり,ジーン・ハックマン演ずる『フレンチ・コネクション』のポパイ(ドイル刑事)はじめ,映画中の名刑事を髣髴とさせる。ヒルはプライベートでは気短か,散漫,傲慢な人物なのだが,こと名画をめぐる囮捜査となるととことん演技に徹する。アメリカ人を演じる際は口にする単語,ジョーク,アクセント,服装,テーブルマナーまですべてアメリカ人になり切って相手を信用させる。ショットガンを首に押し付けられた経験もあるが,何度も機転で突破してきた。その手法,失敗,トラブル,逆転,成功。そして『叫び』を盗んだ犯人たちは彼の網に乗ってくるが,そのときよりにもよって……チャーリー・ヒルたちは無事『叫び』を奪還できるのか。
 と,こう,まるきりサスペンス小説のノリだが,あくまで本書はノンフィクション。そう考えるととんでもない。本がすごいのか,事実がすごいのか。

 読み進むうちに,囮捜査官が,こんなに細かな手法,当人の写真までさらして大丈夫なのかと気になったが,その点は本書を最後まで読めばまあ納得。
 ちなみに,2004年8月にオスロのムンク美術館から盗まれたのは,同じムンクの『叫び』でも別作品。こちらはいまだ未解決。ノルウェーに旅したら,あたりに目を配っていただきたい。バスターミナルの老人の足元の厚紙が『叫び』かもしれない。安宿の棚のボロ布が,『マドンナ』かもしれない。だが,もし,ちょっと肥満気味のアメリカ人の富豪がそれを手に入れたがっていたなら,間違ってもその邪魔はしないことだ。

2006/02/22

『裁判大噴火』 阿曽山大噴火 / 河出書房新社

503【弁護人「今日喋れば明日も喋らせてくれるって。よかったね」】

 nikkansports.comに昨年8月から毎週月曜掲載されている阿曽山大噴火の「裁判Showに行こう」が面白い。

 たとえば今週は,プロを目指すアマチュアバンドのメンバー3人が,ギター担当の男性に,練習しない,準備が悪いなどと言ってロープで縛って殴る,下腹部にライターの火を押し付ける等の暴行を加えたという事件。
 事件そのものもショボいが,そのショボい事件の裁判から漂うマヌケさが切なさに転じて,なんとも不思議な味わいをかもし出している。

 執筆は阿曽山大噴火(あそざん・だいふんか)。サイトの紹介によると

本名:阿曽道昭。1974年9月12日生まれ、山形県出身。大川豊興業所属。趣味は、裁判傍聴、新興宗教一般。チャームポイントはひげ、スカート。裁判ウオッチャーとして数多くの裁判を傍聴。…(中略)…また、ファッションにも独自のポリシーを持ち、“男のスカート”にこだわっている。定住する家を持たない自由人。パチスロと裁判傍聴で埋めきれない時間をアルバイトで費やす日々。

なる人物。
 写真を見ればスキンヘッドにひげにスカート,はっきり言って「異形」「あやかし」の体だが,意外やその傍聴記は良識と穏やかな目線が身上で,美文とは言いがたいもののごく自然な立ち位置から事件の異様さ,容疑者の愚かさ,被害者への同情,そして裁判官や検察官,弁護人,あるいは傍聴人のおまぬー加減までさらりと描いて秀逸だ。

 同じ筆者による単行本『裁判大噴火』が河出書房新社から出ているというので,遅ればせながら取り寄せて読んでみた。
 やはり面白いのは,さまざまな裁判の傍聴記。
 オウム真理教代表・麻原彰晃こと松本智津夫がスキンヘッドの筆者を信者と勘違いしたか手を振ってきたというエピソードや,その麻原被告のだんまりに苦戦する弁護士団(かたや脱力しまくる裁判官),石原裕次郎の弟を自称する詐欺師と裁判官のとほほなやり取り,痴漢の被告人に対しオーバーヒートする熱血検察官,あるいは方言あふれる地方裁判所の呑気な雰囲気などが出色。

 ただ,一読後食い足りない気分になるのは,本の造りが甘いからだろうか。
 たとえば表紙の写真は日本司法博物館(松本市)の明治時代の法廷を再現したものらしいが,「被告人席」等の文字を読まなければ法廷には見えない。そもそも本の中身が固い内容なのかお笑いなのか,方向性もよくわからない。──つまりは表紙写真として機能していないのだ。
 あるいは,巻頭,裁判所の規定や傍聴の仕方の説明にページを割いているのだが,親切といえば親切,エッジが立たないといえば立たない印象。これらそう面白くない解説部分は後ろのほうにコラム的にでも挿入されていれば十分だったのではないだろうか。
 表紙,掲載順,見出しデザインなど,DTP化の進んだ昨今なら簡単廉価に工夫できたはずのものばかり。編集者に恵まれなかったのだろうか。

 まあそれはともかく,訴訟,裁判というものは,いざ犯罪やトラブルに巻き込まれたときの最後の砦のようなイメージがあるが,阿蘇山大噴火の傍聴記からうかがえるのはいかにも人間くさい,どちらに転ぶも参加者(裁判官,検察官,弁護人)や展開次第だということ。
 もめ事の際にうかつに「訴えてやる!」と騒いでも,それはいたずらに泥沼を招くだけかもしれない。

 ところで,かくいう烏丸も,一度だけ裁判を傍聴した経験がある。
 もうずいぶんと昔……厚顔,もとい紅顔の美少年の頃。社会科の教諭に連れられてわれらいたいけな中学生1クラス,どこへ向かうとも知らず地方裁判所に連れて行かれたあれは晩春の午後だったか。たまたま覗いた刑事裁判の被告人が,剃り込みの後も青々と,ごっつい首のうしろに肉が段々の,いかにもその方面そのスジの方。まだ新品の制服が歩いているような学帽集団であふれる傍聴席をときどき振り向いては「なんやこのガキども」の目つきもすうと細く,途中からの入廷で何がなんだかわからぬもののやがて響いた「刃渡り三十センチ」という裁判官の甲高い声ばかりが今も耳に残っている。被告人はその三十センチでいったい何をなさったのであろう。

 ことほどさよう,裁判はせいぜい本で読むのがよろしくて,できれば当事者にはなりたくないと重ねて思う次第。

2006/02/20

最近のダメダメ 『はやぶさ新八御用旅(二) 中仙道六十九次』 平岩弓枝 / 講談社文庫

329【隼新八郎どのではござらぬか】

 すちゃらか。
 なんでこうなってしまったのか。

 隅田川沿いの宿屋を舞台にした人情絵巻『御宿かわせみ』が好きだ。そこで,同じ作者の時代モノをいくつか手にとるのだが,似たような味わい,完成度となるとなかなかヒットしない。

 『はやぶさ新八』シリーズは,江戸町奉行根岸肥前守鎮衛の内与力(直属の家臣)を勤める隼新八郎が命を受けてさまざまな難事件を探索する長・短編集。当初は大奥にうごめく男女の愛憎や武家の傲慢を描き,『かわせみ』に比べてどろどろした重い話が多かったのだが,最近はすっかりすちゃらかになり果ててしまった。

 『御用旅』編では,主人公新八郎が東海道五十三次を上って京に参り(一巻),禁裏にかかわる贈賄事件を解決して中山道六十九次を下る(二巻)。
 ところが,事件の謎解きも,恨みを買っての道中も,ともかく要所要所に知人が現れて一事が万事こんびにえんと。連れの子どもが熱を出せば「もしや新八郎様」と親しい医者の娘が現れる。街道で切り合えばその地の用心が「何事」と現れ「これは新八郎どの」と処理してくれる。

 『課長島耕作』を思い出すが,あちらは超大企業の課長“ごとき”がたまたま手を出した女のコネで万事結果オーライという御伽噺だった。奉行の威を借りて下にもおかれぬ内与力が「これはありがたい」の連発では読み手も民草も救われない。

2006/02/16

痛々しさの末裔 『漫画家超残酷物語』 唐沢なをき / 小学館ビッグコミックススペシャル

012【そうそうこう描くと、こういう絵になるんだよ】

 問題は(というのもヘンだが),唐沢なをきだ。

 永島慎二の『漫画家残酷物語』がいかに読者を熱狂させたといっても,40年も昔の,それも(毎度おなじみ)朝日ソノラマ版の絶版で最近まで「幻」と呼ばれた作品だ。直接目にした読み手は多くなかったろうし,ましてや今も漫画誌を愛読している者となるとさらに少数だろう。
 だから,唐沢版『漫画家残酷物語』の目指すものがパロディだったとは思えない。

 実際,『漫画家残酷物語』は永島版『漫画家残酷物語』のパロディのふりをしつつ,個々の短編はいずれも単独で読めるものとなっている。
 巻頭の「サムソン」こそ永島版「うすのろ」を登場人物,コマ運びまでそっくりパクった構成になっているが,その内容はエロマンガ家たちの暴走と哀愁を情けなく描いたもの。その後のパクり度の低い各編となると,おそらく永島版を知らないで読めばいつもの唐沢ギャグに過ぎず,違和感を抱くこともないだろう。
 ……だが,いつもの唐沢ギャグに見えながら,妙な読後感が残る。なぜか。

 近年の唐沢なをきは,メカフェチ,2次コン,ロリコンなど,いわゆる「おたく」を素材に,その生態を揶揄する作品を書き続けてきた。本作に登場するおかしな漫画家,編集者,マニアたちも,そこから遠く外れてはいない。ただ微妙に違うのは,それが作者本人が所属する漫画界を舞台にしていることだ。

 そのためか,苦笑いして読み進むうち,それぞれのギャグがひょっとしたら本当にあった話,実在の人物を描いたものでないかという疑念がコップの中の積乱雲のように湧き起こる。そのとき垣間見える痛々しさは,意外なほど永島版と遜色ない。いや,永島版から40年を経て,漫画界,出版界が産業として巨大化すると同時に硬直し(あえて成熟とは言うまい),少年誌と青年,レディース誌,商業誌と同人誌などのセグメント化が進んだだけ,ますます身動きならない,救いのない業態になっているようにも見える。
 いやしかし,いくらなんでもそんな読みはないだろう,各ページにはおたわけギャグが並ぶばかり,こんなものにシリアスな作者の本音がこめられているとは……と,まるでオセロの盤面のように何度も白黒反転する読み応え。
 いじられているのは,漫画家なのか,読み手なのか。

 それでも,いくつかの作品で,唐突に永島版の登場人物やコマがぱっくりと再現されているのを見ると,スコーンと足元が抜けるような思いにかられる。
 『漫画家残酷物語』は青春だった。『漫画家残酷物語』は,言ってしまえば黒い冬。ちぇっ。

2006/02/11

痛々しさについて 『漫画家残酷物語』 永島慎二 / 朝日ソノラマ サンコミックス(ふゅ~じょんぷろだくとより復刊)

Photo【メシつぶを残すな カレーライスくったあとで】

 人は往々にして,「痛々しいもの」を目の前に突きつけられると批評精神を棚上げしてしまう。これは心理というよりほとんど反射の領域で,ある種のポスターやドラマへの反響が手放しで「感動」という言葉に自動変換され,真に優れた表現作品かどうか検証されないままに終わることが多いのはそうした背景による(※1)。

 永島慎二の作品は「痛々しい」。なかでも昭和30年代に発表された『漫画家残酷物語』はこの国の漫画史上もっとも「痛々しい」作品の1つかもしれない。
 『漫画家残酷物語』には老若さまざまな漫画家が登場し,デフォルメされた絵画的筆致で(※2)愚直に漫画を語り,あるいは口をつぐんで描き続ける。ある者は商業主義に反発し,ある者は自らの描きたいものを見失い,病に,貧しさに,一人ひとり磨り減っては消えていく。
 斧で割られたような傷だらけの漫画家たちが直接的,間接的に作者を反映しているかと思うと,漫画を描く行為そのものの険しさ,切なさが若い読み手を締めつけ,放さない。

 確かに,こんなものを若いうちに読んでしまうと,無条件に「かぶれ」てしまうのはやむを得ないかもしれない。いしかわじゅんは本作を「はしか」と位置づけた。
 いずれにせよ,『漫画家残酷物語』は当時,漫画を新しい表現形式として見据えようとする若者たちのバイブル,指標となり,同時に強い足枷となった。

 永島慎二の作品は,商業主義にひた走る時代の漫画が失いつつあったものについてすぐれて批評的だった。批評的ではあったが,それは必ずしも新たな創作にはつながらない。実際,漫画が「描けない!」痛みについてはあれほどの迫真性を示しながら,理想に燃えた漫画家が描き続ける漫画,あるいはその作品がヒットする展開はいずれも道徳の教科書のように作りごとめいて白々しい。

 あるいは。この作品に何度か登場する,誰か特定の個人(故人)のために心をこめて描くという漫画のあり方はどうか。ストーリーは感動的だが,考えてみれば個人に向けて描いた作品を社会に向けて出版するのは極めて贅沢かつわがままな行為である。そうして描かれた作品(漫画,小説,フォーク,ロック)がごくまれながらヒットすることは否定しない,しかし職業的,継続的な創作活動とはまた別の話だろう。
 「漫画家」を名乗り,継続して作品を描き続けるなら,そこに職業人としての苦さ,厳しさがあるのは当然である。「残酷」を口にし,痛々しさを訴えることが甘えでないとは限らない。

 結局のところ,『漫画家残酷物語』の恐ろしく強烈な魅力は否定しないが,同じ漫画家を主人公としながら説教臭さを感じさせない『若者たち』(※3)のほうが今は懐かしく,好もしい。
 『若者たち』は,エンターテイメントであることをきちんと表明しているのに対し,『漫画家残酷物語』は,「痛々しさ」がエンターテイメントであることを隠蔽している。そのあたりわかったつもりで原酒を氷で割るように少し薄めて読むのが『漫画家残酷物語』との正しいつき合い方ではないか。どちらにしても酔うはめには陥るわけだが。

※1 逆に,極めて痛々しい状況を描きながら,そういった条件反射を招かぬよう抑えた表現に努めた作品は,単に主題のみならず作品として深みのある感動を与える場合がある。反戦ものでいえば樹村みのり「海へ」,こうの史代「夕凪の街桜の国」など。

※2 永島慎二はエコール・ド・パリの画家,とくにモジリアニが好きだったのだろうか。イラストカットや木炭による素描を思わせる描写には,ピカソやシャガールの闊達さへの憧憬も感じられる。60年代の熱情がストレートに伝わらなくなった今も,本作のデフォルメされた人物造形の魅力は変わらない。

※3 『若者たち』はのちにドラマ化されて放送された(NHK銀河テレビ小説シリーズ「黄色い涙」,1974年)。出演は森本レオ,岸部シロー,下条アトムほか。主題歌「海辺の恋」は佐藤春夫の同名の詩に小椋佳が曲を付けたもの。荒井由実「晩夏(ひとりの季節)」と並ぶ同ドラマシリーズの音楽的成果の1つ。

2006/02/02

「作家。をプロデュース」 芥川賞がダメダメな理由?

【僕らの高校生活とは全く違いますから、読めないんですよ。先に進めない。】

 読売新聞1月19日の文化面に,昨夏の第133回で芥川賞の選考委員を退任した作家・三浦哲郎のインタビュー記事が掲載されている。これが,賞選考の裏面を示してすこぶる面白い。

 三浦は表向きは病気(脳梗塞)を理由に選考委員を辞退したのだが,本音を言えば

・時代が変わって今や作品中の高校生の生活などが理解できず,作品を読み進めることができない。
・自分は本来選考委員の素質がない。人と争って言葉で相手を圧倒するようなことはできない。
・重視すべきは文章,と主張してきたが,段々効力がなくなってきた。編集者も作家も,文章より時代性を重視するようになった。
・自然少数派の肩を持つことになるが,自分の支持したものはいっこうに受賞しない。会心の選考会というのは残念ながら経験がない。

……というのである。

 今週の「週刊ポスト」誌(小学館,2月10日号),「日本の新聞を読む」欄では,ノンフィクション作家・小林照幸がこのインタビュー記事を取り上げ,「候補作の中の高校生の生活が理解できないのは,世代差が本当の理由なのではなく,あらゆる世代が読むに耐え得る文章力で時代性を描き切っていないからである」と三浦に賛同の意を表している。いかにも教科書的な反応だ。

 しかし。小林の読みははたして正しいのだろうか。

 先にクリアにしておきたい。
 芥川賞,直木賞というのは,そもそも,菊池寛が「文藝春秋」誌の売り上げを伸ばし,また新人を発掘するために創設したものだ。その後,受賞作家が広く活躍する例が続き,文学賞の中でも権威あるものとされてきたが,本質的には他社の賞同様,文学や小説の振興という意味合いは含むにせよ,しょせん出版社の都合で開催される廉価なプロモーションツールの一つにすぎない。

 したがって,受賞作品がベテラン作家からみて評価に足る作品であるかどうかは,必ずしも最大要件ではない。容姿端麗な若い女性作家であること,(表層的であっても)刺激的な世相を扱っていること,そういったスキャンダリズムが選考基準として文章の品質以上に重視されたとしても,それは授賞サイドの方針,さじ加減次第だ。
(綿矢りさ『蹴りたい背中』,金原ひとみ『蛇にピアス』の同時受賞は,作品の価値,クオリティを格段に上回る掲載誌の売り上げを計上した。プロモーションツール芥川賞の本領発揮と言うべきだろう。高く売る,もしくはたくさん売る,それがブランド戦略なのだ。)

 ……それにしても,三浦哲郎という人物はひどいというか,とんでもない。

 本人の言葉をそのまま信じるなら,彼は,自分が選考委員にふさわしくないことを自覚しつつ,20余年(!)にわたりその地位に留まり続けたということだ。後進に道を譲るでもなく,賞への疑念を広く訴えるでもなく,退任した今になって自分の推した作品は選ばれなかったと繰り言をこぼす。無責任,老害と言わずしてなんと言おう。

 個人的に,昨今の芥川賞受賞作にさほど興味はない。なるべく目を通すようにはしているが,棚に残すほどの作家にはめったに出会えない。直木賞受賞作家には敬愛する作家が少なくないが,こちらは一種功労賞なので,受賞で話題にならずとも名前や代表作くらいは聞き知っていることが多い。
 だから両賞の運営を今さらどうこう言うスジアイでもないのだが,それにしても,もし選考委員にほかに三浦のような勘違いの御仁がおられるなら,早急にもっと目の利く人物にすげ替えたほうがよいのではないか。
 近年の芥川賞受賞作の問題は,文章より時代性を重視していること,などではない。三浦が言うほどに時代性をテーマにした作品の比率が高いとも思わない。それ以前に,端的に作品としてつまらないのだ。

 芥川賞に今必要なのは,演歌全盛期を懐かしむばかりでアユもヒップホップも聞かない音楽評論家ではなく,「おニャン子クラブ」における秋元康や「モーニング娘。」におけるつんく♂のような才能ではないかと思う。
 文学界に今そのような人物がいるかどうかは知らない。しかし,少なくとも探す努力,任せる度量は必要だろう。

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