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2006/01/29

「F(フレーム)式蘭丸」もしくは「フレームで少女が子犬と」(大島弓子,萩尾望都論への1アプローチ)

595_3【よせるいつわり かえす真実】

 

 添付画像の上左,上右は,四方田犬彦『漫画原論』(ちくま学芸文庫),伊藤剛『テヅカ・イズ・デッド ひらかれたマンガ表現論へ』(NTT出版)でも引用された,大島弓子「海にいるのは…」,萩尾望都「小鳥の巣」の,それぞれハイライトシーンである。

 

 四方田,伊藤は,それぞれマンガ表現論者の視点から,これらいわゆる「24年組」の少女マンガの作家たちがマンガの「コマ」の「フレーム」を破断していることに着目している。
 しかし,いずれの論者も,逆に言えば指摘どまりで,大島弓子や萩尾望都が,なぜ,何のために「フレーム」を破断しているのかについては明確な目的,理由を示していない(どちらかといえば,マンガにおける「コマ」や「フレーム」の機能について語るためにこれらのページを持ち出した印象のほうが強い)。

 

 そこで,ここでは「24年組」の作家たちがどのような場面でこうした「フレーム」破断を行ったのか,またそれによってどのような効果が得られたのか,作例をもとに少しばかり考えてみたい。

 

(ただし,上右の「小鳥の巣」は,萩尾望都の代表作の1つ,連作『ポーの一族』の1作ではあるのだが,作者が目を病み,「トーマの心臓」の週刊連載でペン(線)が荒れた時期の作品であり,必ずしも最良な例とは言いがたい。ここでは主に上左の「海にいるのは…」を例に語りたい。ただし,「小鳥の巣」でも概ねは同様なので,適当に変換してお読みいただきたい)。

 

 まず,このような抒情的なページに対してあまりにも直接的なたとえで申し訳ないが,マンガ家がコマの中に登場人物を描く際,それをどんどん大きくしていったらどうなるだろうか。当然,その人物はコマをはみ出し,フレームを破って描かれることになるだろう。
 添付画像の上左,これは「海にいるのは…」のクライマックスシーンであり,まぎれもなくそのようなページである。そのページにいたるまでの登場人物たち(とくにオーガスティン,そしてヒルデガード)の奇異な行動の理由から主人公の生い立ちまで,過去から現在にいたるもつれた糸がすべて一気にほぐれて,主人公アレクサンダー少年の心に大きな熱い思いが浮かび上がる……まさしくそういうシーンなのだ。文字通りの「あふれる思い」がそのままフレームを破断しているのである。

 

 ここで,ポイントは,マンガにおける「コマ」や「フレーム」が,「空間」と「時間」を区切るものだということである。
 つまり,従来,手塚治虫らのストーリーマンガのコマが,フレームによって「空間」「時間」を区切ることで読者に状況とその展開を示し,了解させたのに対し,「海にいるのは…」の作者は,作品の要所においてそのルールを逆手に取り,「空間,時間をバーストさせるほどの感情の氾濫」を描いて見せたということになる。

 

 また,このページで破断されたフレームが,単に「空間」のみならず「時間」まで混濁させていることにとくに注目したい。
 「海にいるのは…」,「小鳥の巣」,いずれの引用ページも,過去の登場人物&事象と,現在の登場人物&事象が破断されたフレームの中で並立し,融合し合って同一のページの中で一種のパノラマ現象を引き起こしている。
 つまり,従来のストーリーマンガが,本来人間の住んでいる3次元(空間),4次元(時間)の状況を,「コマ」「フレーム」という手法を用いて無理やり2次元の紙の上に定着させようと辛労してきたのに対し,「24年組」の作家たちはむしろ逆に,そのマンガのルール,共通認識を利用して,(飛び出す絵本のように)そのページから3次元,さらには4次元への一気の広がりを描いてみせようとしたわけである。

 

 この描写法は,作家の描写力はもちろん,読み手にも相当に高度な読み取り能力を要求する。
 その作品のその手前までのページを熟読し,さまざまな登場人物の言動,関係,時代背景などなど,そういったものすべてを咀嚼してクライマックスのページに反映しなければ,満足な読み込みにいたらず,最大限の感動を得るができない。
(大島弓子,萩尾望都といえば,昨今でこそ少女マンガの大御所として評価が安定しているが,この2作が発表された1970年代当時には読みづらい,難しい作家として少女マンガ誌の最大公約数的読者からはむしろ敬遠されていた。現に「海にいるのは…」では,オーガスティンを主人公の実の父親と誤読した読み手が少なくない。)

 

 そして,問題は,ここからだ。

 

 ではいったい,大島弓子や萩尾望都は,この「フレーム」破りによって登場人物やさまざまな事象を3次元(空間),4次元(時間)の領域まで増幅,氾濫,乱立させて,結局のところ,いったい何をしてみせようとしたのか。
 強調,動揺,抒情,感動。……もちろんそうなのだが,それらだけでは説明がつかない。

 

 再度指摘しよう。「フレーム」の破断は,読み手の意識を「空間」のみならず,「時間」の領域にまで引き上げる。
 ……思うに,この「フレーム」破りは,本来紙媒体の上では決して表現し得ない,時間芸術たる「音楽」表現へのチャレンジだったのではないか。「24年組」のマンガ家たちの作品に対する,「詩的」「抒情的」といった評価の源は,この「音楽」への挑戦にあったと言い換えることができないか。

 

 「24年組」の作家たちの「音楽」への希求は,たとえば萩尾望都「精霊狩り」「キャベツ畑の遺産相続人」などにおけるプチミュージカル仕立て,大島弓子の描く常に風にそよぐ樹木などからもうかがうことができる。

 

 再度テクストを手にとってみよう。

 

 大島弓子「海にいるのは…」は,「24年組」のマンガ家たちが達成した,いかにも「24年組」らしい秀作の1つだ。この作品に目を通してみれば,

 

   海にいるのは男たち

 

   よせるいつわり
   かえす真実

 

   よせる真実
   かえすいつわり

 

という高名なフレーズをはじめとして,海辺のシーン,雨のシーン,いずれも詩的な雰囲気に満ちている。
 だが,当然ながら,2次元の紙媒体がリアルな(=耳に聞こえる)音楽を伝えられるわけはない。

 

 ただ作品の最初から,音楽への「予感」だけが繰り返しページに提示され,最後に添付の「フレーム」を破断したクライマックスシーンにおいて,読み手は自分の心の中にそれまでに「予感として蓄積した音楽」を高く低く聴きとることになるのだ。

 

 それは,戦後ストーリーマンガが志向した「映画のようなマンガ」に対する回答の1つであり,同時にそれは結果として「映画にできないマンガならでは」のマンガ表現が打ち立てられた瞬間でもあった。

 

 大島弓子の(最近の淡々としたエッセイ風作品は別として)作品に魅かれる者は,さわさわと描かれた紙のページから立ちのぼる大島弓子の弦楽奏にたまらなく魅かれ続けてきたに違いない。……少なくとも,この僕はそうだ。

 

 

 

 

 

◆付: 石森章太郎『ジュン』における「コマ」「フレーム」の扱いについて

 

 この「音楽」について,同じく抒情性を高く評価され,作者自身が「詩集」と称した『章太郎のファンタジーワールド ジュン』を読み比べてみると面白い(添付画像下)。
 マンガについてのありとあらゆる実験的手法に満ちた『ジュン』だが(手塚治虫がこの作品に対して嫉妬のあまり「これはマンガではない」というコメントを口にし,のちに謝罪したことは覚えておいてもよい),この作品において石森はついに「コマ」「フレーム」そのものを軽んじることはできなかった。
 その結果,『ジュン』では,「時間」や「音楽」をテーマにする短編が少なからず収録されているにもかかわらず,極端なまでにフキダシを使用しないなど,むしろ絵画的な静謐と沈黙をもって大半のページが描かれることになった。
 だが,結局のところ言葉や音がすべて読み手にゆだねられるこの<パントマイム的>な手法では,読み手の心に「音楽」をかき鳴らすことはできず,『ジュン』の世界は硬質なガラス,ないし宇宙空間的な真空の向こうにあって,いっさいの音は読み手にまで届かない。
(『佐武と市捕物控』でも,目の見えぬ市は往々にしてコマの中に放置される。本来行為の流れであるはずの市の斬撃は,相手を倒した後の停止として描かれる。石森は基本的に音のない静止空間について本領を発揮するタイプの作家だったのかもしれない。)

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