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2006年1月の6件の記事

2006/01/29

「F(フレーム)式蘭丸」もしくは「フレームで少女が子犬と」(大島弓子,萩尾望都論への1アプローチ)

595_3【よせるいつわり かえす真実】

 添付画像の上左,上右は,四方田犬彦『漫画原論』(ちくま学芸文庫),伊藤剛『テヅカ・イズ・デッド ひらかれたマンガ表現論へ』(NTT出版)でも引用された,大島弓子「海にいるのは…」,萩尾望都「小鳥の巣」の,それぞれハイライトシーンである。

 四方田,伊藤は,それぞれマンガ表現論者の視点から,これらいわゆる「24年組」の少女マンガの作家たちがマンガの「コマ」の「フレーム」を破断していることに着目している。
 しかし,いずれの論者も,逆に言えば指摘どまりで,大島弓子や萩尾望都が,なぜ,何のために「フレーム」を破断しているのかについては明確な目的,理由を示していない(どちらかといえば,マンガにおける「コマ」や「フレーム」の機能について語るためにこれらのページを持ち出した印象のほうが強い)。

 そこで,ここでは「24年組」の作家たちがどのような場面でこうした「フレーム」破断を行ったのか,またそれによってどのような効果が得られたのか,作例をもとに少しばかり考えてみたい。

(ただし,上右の「小鳥の巣」は,萩尾望都の代表作の1つ,連作『ポーの一族』の1作ではあるのだが,作者が目を病み,「トーマの心臓」の週刊連載でペン(線)が荒れた時期の作品であり,必ずしも最良な例とは言いがたい。ここでは主に上左の「海にいるのは…」を例に語りたい。ただし,「小鳥の巣」でも概ねは同様なので,適当に変換してお読みいただきたい)。

 まず,このような抒情的なページに対してあまりにも直接的なたとえで申し訳ないが,マンガ家がコマの中に登場人物を描く際,それをどんどん大きくしていったらどうなるだろうか。当然,その人物はコマをはみ出し,フレームを破って描かれることになるだろう。
 添付画像の上左,これは「海にいるのは…」のクライマックスシーンであり,まぎれもなくそのようなページである。そのページにいたるまでの登場人物たち(とくにオーガスティン,そしてヒルデガード)の奇異な行動の理由から主人公の生い立ちまで,過去から現在にいたるもつれた糸がすべて一気にほぐれて,主人公アレクサンダー少年の心に大きな熱い思いが浮かび上がる……まさしくそういうシーンなのだ。文字通りの「あふれる思い」がそのままフレームを破断しているのである。

 ここで,ポイントは,マンガにおける「コマ」や「フレーム」が,「空間」と「時間」を区切るものだということである。
 つまり,従来,手塚治虫らのストーリーマンガのコマが,フレームによって「空間」「時間」を区切ることで読者に状況とその展開を示し,了解させたのに対し,「海にいるのは…」の作者は,作品の要所においてそのルールを逆手に取り,「空間,時間をバーストさせるほどの感情の氾濫」を描いて見せたということになる。

 また,このページで破断されたフレームが,単に「空間」のみならず「時間」まで混濁させていることにとくに注目したい。
 「海にいるのは…」,「小鳥の巣」,いずれの引用ページも,過去の登場人物&事象と,現在の登場人物&事象が破断されたフレームの中で並立し,融合し合って同一のページの中で一種のパノラマ現象を引き起こしている。
 つまり,従来のストーリーマンガが,本来人間の住んでいる3次元(空間),4次元(時間)の状況を,「コマ」「フレーム」という手法を用いて無理やり2次元の紙の上に定着させようと辛労してきたのに対し,「24年組」の作家たちはむしろ逆に,そのマンガのルール,共通認識を利用して,(飛び出す絵本のように)そのページから3次元,さらには4次元への一気の広がりを描いてみせようとしたわけである。

 この描写法は,作家の描写力はもちろん,読み手にも相当に高度な読み取り能力を要求する。
 その作品のその手前までのページを熟読し,さまざまな登場人物の言動,関係,時代背景などなど,そういったものすべてを咀嚼してクライマックスのページに反映しなければ,満足な読み込みにいたらず,最大限の感動を得るができない。
(大島弓子,萩尾望都といえば,昨今でこそ少女マンガの大御所として評価が安定しているが,この2作が発表された1970年代当時には読みづらい,難しい作家として少女マンガ誌の最大公約数的読者からはむしろ敬遠されていた。現に「海にいるのは…」では,オーガスティンを主人公の実の父親と誤読した読み手が少なくない。)

 そして,問題は,ここからだ。

 ではいったい,大島弓子や萩尾望都は,この「フレーム」破りによって登場人物やさまざまな事象を3次元(空間),4次元(時間)の領域まで増幅,氾濫,乱立させて,結局のところ,いったい何をしてみせようとしたのか。
 強調,動揺,抒情,感動。……もちろんそうなのだが,それらだけでは説明がつかない。

 再度指摘しよう。「フレーム」の破断は,読み手の意識を「空間」のみならず,「時間」の領域にまで引き上げる。
 ……思うに,この「フレーム」破りは,本来紙媒体の上では決して表現し得ない,時間芸術たる「音楽」表現へのチャレンジだったのではないか。「24年組」のマンガ家たちの作品に対する,「詩的」「抒情的」といった評価の源は,この「音楽」への挑戦にあったと言い換えることができないか。

 「24年組」の作家たちの「音楽」への希求は,たとえば萩尾望都「精霊狩り」「キャベツ畑の遺産相続人」などにおけるプチミュージカル仕立て,大島弓子の描く常に風にそよぐ樹木などからもうかがうことができる。

 再度テクストを手にとってみよう。

 大島弓子「海にいるのは…」は,「24年組」のマンガ家たちが達成した,いかにも「24年組」らしい秀作の1つだ。この作品に目を通してみれば,

   海にいるのは男たち

   よせるいつわり
   かえす真実

   よせる真実
   かえすいつわり

という高名なフレーズをはじめとして,海辺のシーン,雨のシーン,いずれも詩的な雰囲気に満ちている。
 だが,当然ながら,2次元の紙媒体がリアルな(=耳に聞こえる)音楽を伝えられるわけはない。

 ただ作品の最初から,音楽への「予感」だけが繰り返しページに提示され,最後に添付の「フレーム」を破断したクライマックスシーンにおいて,読み手は自分の心の中にそれまでに「予感として蓄積した音楽」を高く低く聴きとることになるのだ。

 それは,戦後ストーリーマンガが志向した「映画のようなマンガ」に対する回答の1つであり,同時にそれは結果として「映画にできないマンガならでは」のマンガ表現が打ち立てられた瞬間でもあった。

 大島弓子の(最近の淡々としたエッセイ風作品は別として)作品に魅かれる者は,さわさわと描かれた紙のページから立ちのぼる大島弓子の弦楽奏にたまらなく魅かれ続けてきたに違いない。……少なくとも,この僕はそうだ。

◆付: 石森章太郎『ジュン』における「コマ」「フレーム」の扱いについて

 この「音楽」について,同じく抒情性を高く評価され,作者自身が「詩集」と称した『章太郎のファンタジーワールド ジュン』を読み比べてみると面白い(添付画像下)。
 マンガについてのありとあらゆる実験的手法に満ちた『ジュン』だが(手塚治虫がこの作品に対して嫉妬のあまり「これはマンガではない」というコメントを口にし,のちに謝罪したことは覚えておいてもよい),この作品において石森はついに「コマ」「フレーム」そのものを軽んじることはできなかった。
 その結果,『ジュン』では,「時間」や「音楽」をテーマにする短編が少なからず収録されているにもかかわらず,極端なまでにフキダシを使用しないなど,むしろ絵画的な静謐と沈黙をもって大半のページが描かれることになった。
 だが,結局のところ言葉や音がすべて読み手にゆだねられるこの<パントマイム的>な手法では,読み手の心に「音楽」をかき鳴らすことはできず,『ジュン』の世界は硬質なガラス,ないし宇宙空間的な真空の向こうにあって,いっさいの音は読み手にまで届かない。
(『佐武と市捕物控』でも,目の見えぬ市は往々にしてコマの中に放置される。本来行為の流れであるはずの市の斬撃は,相手を倒した後の停止として描かれる。石森は基本的に音のない静止空間について本領を発揮するタイプの作家だったのかもしれない。)

2006/01/23

へんです 『またまた へんないきもの』 早川いくを,絵・寺西 晃 / バジリコ

163【やだ、卵産みたくなってきたわ。】

──前回もへんな本だったのですが,今回は前回よりますますへんなんです。
──ちょ,ちょっと待ちたまえ,エリカくん。へん,へんって,いったい何の話だか。
──失礼いたしました,教授。前回と申しますのは早川いくをの『へんないきもの』のことであり,今回と申しますのは同じく早川いくをの『またまた へんないきもの』のことです。
──なるほど,すると君が言いたいのはつまり『へんないきもの』はへんな本であったが,『またまた へんないきもの』はさらにへんである,と,そういうわけなんだね。

 キリがないのでこの2人は研究室においておいて,話を進めましょう。
 『またまた へんないきもの』は,実際,『へんないきもの』よりもっとへんで……全然話が進みませんね。

 ともかく,前回も今回も,とても楽しい。へんてこりんないきものでてんこ盛りです。
 左ページに文章,右ページにイラストの見開きベースで,そんなんありか,ウソだっしょーっ,えぎーっ,というようないきものを,とくに学術的な厳密さにこだわるでもなし,ただこんなのもおります,あんなのもいますねえ,と淡々タンタカタンとブルクミュラーに取り上げていきます。

 前回がベストセラーになったことでちょこっと自信がついたんでしょうか,今回の『またまた』は前回に比べてこっそり織り込まれたギャグにも余裕があってそれが楽しい。ときどき思い出したようにイラストのはじっこに描き込まれたプチイラストがこれまた可笑しい。

 紹介されるへんないきものは,不気味なものから愉快なもの,長大強大なものからバクテリオファージまで,バラエティに富んでいます。

 目から血を発射して敵を威嚇する「ツノトカゲ」。
 鯛の口の中に夫婦で寄生して子を育て上げるまで添い遂げる「タイノエ」。
 フセインが操るイラクの巨大グモ「ヒヨケムシ」は兵士が眠っている間に麻酔を注射して肉をかじりとる。子どもみたいな叫び声をあげながら,2メートルもジャンプして襲い掛かる(いずれもウソ)。
 状況に応じて24もの活動形態に変異,神経毒を放出して魚類を食い殺し,霧状化して人体に入れば神経障害を起こす有毒微生物「フィエステリア」(これは本当!)。
 体長40メートル,シロナガスクジラより長い「クダクラゲ」
 海底からあなたを祟る自縛霊「メガネウオ」。(左のリンクは怖いからクリックしないほうがいいかも?)

 今回はスペシャルとして,回虫博士・藤田紘一郎博士との対談,絶滅生物についてのわりあいシリアスなエッセイがありますが,それにも増して「へんないきいもののへんななまえ 命名者出てこい!」が爆笑モノです。
 たとえば,「ヨーロッパタヌキブンプク」。「タヌキ」に「ブンプク」はともかく,それに「ヨーロッパ」。
 あるいは,ハードSFにおける反物質を想起させる「トゲアリトゲナシトゲトゲ」。
 「ポンポンメクラチビゴミムシ」は京都に実在するポンポン山に実在するのだから言葉狩りされても困ります。
 「シネミス・ガメラ」が暴れれば「ウルトラマンボヤ」がヘアッしてアワッしてデュウワッ!!(左のリンクは可愛いのでぜひクリックしてみてください。)

 これらがみんな,(前回の「ツチノコ」を除いて)実在するいきものなのだから嬉しい。
 理由はとくに追いません。地球は楽しい,まずはそういうこと。

──教授,教授はどうお考えなのでしょう。
──いや,エリカくん,急に言われてもだね。
──へんですか。そんなにへんですか。
──いや決してその,すごくへんというわけでは。うう。デュウワッ!!

2006/01/22

すこーしだけ考えてみる 『生協の白石さん』 白石昌則,東京農工大学の学生の皆さん / 講談社

128【そうですか。まだ春、来ないですか。】

 今さらだけど,以下に示すような指摘はあまり記憶にないため,書いておきたいと思った。

 東京農工大の生協職員,白石さんの「一言カード」での顧客応対が非常にユニークで心を潤すものだということについては,個人のブログ「がんばれ、生協の白石さん!」などで以前より話題になっており,白石さんをはじめとする生協職員の「一言カード」の履歴も楽しく目を通してはいた。
 本書は,その「一言カード」の中から,とくに愉快な,あるいは巧みな,もしくは心に染みる対応をダイジェストしたものなのだから,つまらないわけはない。

 ……だが,同時に本書は,別の角度から見れば,ある意味脆弱で,つまらないものでもある。

 「一言カード」とは,生協の店舗や食堂に出入りする学生が,要望や商品の感想を生協の職員に伝える投書カードである。白石さんはじめ生協の職員たちは,それに一つひとつ手書きで応答し,掲示板に張って商品の品揃えをはかったり,トラブルに備えたりする。
 それは,まごうかたなき日々の業務である。「一言カード」による対応を実施しているのは東京農工大の生協に限ったことではないし,また同大学の生協で回答を書くのも白石さん一人ではない。本来,ウケを狙う場ではないのである。

 講談社が単行本にまとめた「一言カード」はあくまでごく一部で,白石さんを含む多数の職員による,文具や食材についての過不足ないシンプルなやり取りが長年続いてきたことを忘れてはならない。それらの中に,まれに,ユーモアやペーソスを含んだ質問や回答が現れるとき,そこに誰もがふっと頬を緩めるような瞬間が訪れる,それがもともとの「生協の白石さん」の魅力である(ネット上で話題がのぼったころは,白石さんの性別や年齢も不明なままだった)。

 単行本となった本書には,その業務としてのバックグランドがない。ただ,穏やかだが冴えた切り返し,ほわっと愉快な質疑応答が並ぶばかりで,ダイジェストゆえコメントの平均的な品質は高く見えるものの,本としてみればテレビのバラエティのように,必然性に欠ける笑いが中心になっている。
 それが,本当に白石さんのしたかったことなのだろうか。本当に白石さんのコメントの魅力なのだろうか。

 ここには,出来事の「現場」と,そのダイジェストを消費する出版社や新聞社等,マスメディアの構図の問題が垣間見える。リアルな日々の業務がこつこつと処理されていく手ごたえ,それが分母だった。インターネット上の東京農工大のサイトは,現場の売店の掲示板ほどではないにしても,その全容(ほかの職員の応答など)をちゃんと伝えてくれているのに,本書ではその大半が削除され,背景はただ付録エッセイのような形で「説明」されているだけである。
 もちろん,背景の切り捨ては,あらゆるテキストの宿命でもある。しょせん程度の問題にすぎないのだが,東京農工大の「一言カード」と本書との間には,あたかも路上ライブと,携帯用着メロくらいの距離があるように思われてならない。

 『電車男』や『生協の白石さん』をはじめ,インターネットやiモードサイトのイベントやログが紙媒体に再編集され,ヒットする現象が多発している。これは今後も続くことだろう。だが,その編集の工程でこぼれ落ちるものがある。
 『生協の白石さん』という書籍1冊についてみれば,美味しいキャンディのケース詰めのような印象で,こぼれ落ちたものがあまりに大きいような気がしてならない。

 今回「発見された」このコミュニケーションが,本書のベストセラー化によってただ消費,浪費されてしまっているように見えない理由は,まったくのところ(稀有なことに)白石さん個人の資質にすぎないのだ。

2006/01/18

事件にまみれた一日

◇証券取引法違反の疑いで,ライブドア本社,夜を徹しての家宅捜索。
 ライブドア関連各社はもちろん,IT企業各社もあおりをくらっていずれも株価を下げ,日経平均株価も大幅安。
 とことん,うるさい奴。 > ホリエモン

◇幼女連続誘拐殺人事件,宮崎勤被告の死刑確定。
 それに先立つ16日のasahi.comの記事,
 宮崎勤被告,17日に最高裁判決 「精神鑑定して」
 この記事の結語は,臨床心理士の長谷川博一・東海女子大教授による「パーソナリティー障害と離人症などが交ざった状態とみる。まだ精神状態が解明されたとは言えないのではないか。10年以上前と比べ,鑑定の技術は格段に上がっている。改めて鑑定する必要性を感じた」というコメントなのだが,何を言っているのだろう? 宮崎被告の犯した犯罪同様,理解を絶している。
 改めて鑑定する必要性……。事件は,1988~89年,つまり15年以上前に起きたものだ。あれだけの犯行を起こし,拘置されて15年以上経った人物が,当時と同じ精神状況でいると考えるほうがおかしい。そんな理屈がまかり通るなら,犯罪を犯しても,あとで悩みに悩んでおかしくなってしまえばとりあえず無罪?
 この国では,精神障害で犯罪を起こした人物を抑留する病棟についての規定はないので,場合(症状)によるとすぐ釈放もあり得る。この期に及んで宮崎被告の精神鑑定を繰り返そうという人々の願いは何なのか。
 1988~89年のあのとき,宮崎勤は,多少の錯誤や幻聴はあったとしても,自分が誰を殺し,何をしたかは理解していた。ビデオ機器を操作する理性,被害者の家に遺骨や犯行声明を送り付ける知性も失ってはいなかった。それで十分だろう。

 時代のせいではない。狂気のせいでもない。断じて。

※ ちなみにこの問題は,『ウルトラセブン』の後番組『怪奇大作戦』でも鋭く扱われている(第24話「狂鬼人間」)。「脳波変調機」によって精神異常者になって殺人を犯し,2ヶ月ばかりで回復して釈放されるというシナリオ。設定,岸田森の演技も見事なら,エンディングの悲鳴のインパクトもすさまじい。現在ビデオ等では欠番。

◇耐震強度偽装事件のヒューザー小嶋社長,証人喚問で証言拒否27連発。
 痛い腹をさぐられたくない一部政治家が証人喚問を(報道の集中する)17日に強要したという説あり。埋没ということではこれ以上ない日となったが,この人物の目立ち具合もまた並みではない。これもまた,理解を越えた人。いずれ誰かが「精神鑑定の必要」を言い出すのだろうか。
 最近「朝まで生討論」を見ないが,ヒューザー小嶋vsライブドア堀江とかいう企画はどうか。とりあえず視聴率はかせげると思うが。

◇阪神・淡路大震災から11年。
 関東大震災を,自分はどこで迎えるのだろう。病院かな。

◇芥川賞,直木賞発表。
 よりによってこんな日に,ではあるのだが。
 直木賞の東野圭吾,今までなぜとれなかったか,そちらのほうが不思議。
 芥川賞の絲山秋子,「芥川賞は足の裏に付いたご飯粒のようなもので,とれないと気持ち悪かった」。
 ……素晴らしい! 天下の芥川賞も,足の裏のご飯粒扱い。

2006/01/16

まわれまわれカザグルマ 止まらず走れ 『のだめカンタービレ(14)』 二ノ宮知子 / 講談社 Kiss KC

652【慣れデス ……夫婦ですから】

 さて,では,50代,40代,30代が「面白い」と評価するような作品とはどのようなものか。どのような指標のもとに提供すべきなのか。

 ……と,『テヅカ・イズ・デッド』を受けて書き始めたら,大長文,もうまるでまとまりがつかなくなって,いったん留保。
 素材として扱っていた作品のうち2つが豊田徹也『アンダーカレント』と山田芳裕『へうげもの』だったのが,(『テヅカ・イズ・デッド』も含めて)朝日新聞日曜版の書評欄の後追いをしているようでそれもまた不愉快。
 ちなみに朝日日曜版の吉田豪氏による「コミック教養講座」は著者の目利きが心地よい。朝日の鬱陶しい教養主義が周辺のページを覆ってなければもっと手放しでほめるところだ。

 それはともかく,年末,いや秋口から紹介したいと思いつつそのままになった本,コミックが納戸にうず高く積滞して,下のほうなど化石化して三葉虫かムカシトンボか。ひどい場合など,いざ紹介しようと掘り起こしてみたらすっかり内容を忘れていた(あえて書名はあげるまい)。

 ええ,ここはともかく,今日買ってきたコミックを取り上げてお茶を濁そう。
 回転図書館ではおなじみの『のだめカンタービレ』である。家人がセーターをとかいう買い物につき合って,3店めだか5フロアめだかで限界を越えて同じビルの最上階の書店に逃げ込み,そこではけーん。
 相変わらずのハイテンションだが,しいていえば今回は登場人物が多くて少しほこりっぽい印象。ただ,方向性として,あらゆる人物が誠実に自分にとっての音楽を求めている点ではシンプルにまとまっており,決して(一時のように方向性が分散して)落ち着かないわけではない。

 綾なす心,出会いと別れ,もはや1冊で序破急,起承転結と簡明でわかりやすいカタルシスを得るのは難しい複雑な作品になってしまった。いつの間にか大河ドラマ,ときどき1巻から読み直さないと登場人物の把握も難しい。
 「のだめ」も,ある日を境に「エロイカ」のように,現役でありながら復習の必要な思い出の作品になってしまうのだろうか。甚だしい単行本化のスピードは,カザグルマがとまらないようにという作者の必死の疾走のようにも思われたり(この品質で息が続くだけでもすごいのだけどね)。

2006/01/08

ミッション:「キャラ萌え」の「キャラ」を「キャラクター」から腑分けせよ 『テヅカ・イズ・デッド ひらかれたマンガ表現論へ』 伊藤 剛 / NTT出版

104【ジョン ぼく 人間だねえ ………】

 伊藤剛『テヅカ・イズ・デッド ひらかれたマンガ表現論へ』は面白い。クリティカルな着眼と説得力にマンガ論者の血がたぎる/血が凍る。

 『テヅカ・イズ・デッド』は,90年代──つまり1989年の手塚治虫の死の前後よりかつての「マンガ読み」たちの多くが口にし始めた「マンガはつまらなくなった」の言説,そしてその一方で90年代こそ実は大部数を誇る多種多様なマンガが続々と生み出されてきた豊饒期であったという事実,その甚だしいギャップに注目する。

 そこで伊藤が提示してみせるのが,「キャラ」と「キャラクター」の違いだ。ここでいう「キャラ」とはプリミティブな図像的要素だけのもの,それに背景や物語性が付与されたものが「キャラクター」である。
 つまり,手塚作品でいえばヒョウタンツギはそのままでは単なる「キャラ」だが,ヒョウタンツギを主人公に天才無免許医の活躍と苦悩を描けば,それは「キャラクター」となり得る。あるいは,ソバカスの白人少女をぬり絵の素材として描いただけなら「キャラ」だが,それにキャンディ何某と名付け,みなし子として出会う人を次から次へと不幸にしていく波乱万丈のストーリーを付与すればこれもまた「キャラクター」となるだろう。

 従来のマンガ表現論では,この「キャラ」と「キャラクター」の使い分けが厳密でなかったとする伊藤の論旨はなかなか明快で起立している。『ぼのぼの』をはじめとするさまざまな実作からの引用も力を発揮する。
 そして問題の,つまり戦後マンガのあらゆる改革にかかわってきたように思われてきた神様・手塚治虫において,この「キャラ」が実は……と論は佳境に進むが,あいにく詳細まではとても書ききれない。廉価,平易な書物とは言いがたいが,マンガ表現論に多少なりとも興味をお持ちの方には必読といえるのではないか。提示された内容の是非を検証,議論することを含め,強くお奨めしたい。

 さて,……以下は,本書の中心線とはちょっとずれた,いわば重箱の隅つつきにあたる個人的感慨である。

 90年代の「マンガがつまらなくなった」言説の大きな原因を「最近のマンガがドラマ性重視からキャラ中心主義となったこと」とするのは(本書ではこれはあくまで出発点にすぎず,この相関が強く主張されているわけではない。念のため)さすがに無理ではないだろうか。単に「マンガがつまらなくなった」と口にしがちな世代に着目すれば,その原因は,年齢的なもののほうが大きくはないか,という気がするのだ。

 マンガを論ずるために描かれたものを「キャラ」と「キャラクター」に分解した発想は(今後のマンガ表現論の可能性を考えても)実に素晴らしいが,従来,マンガというものは,主たる対象を鑑みて,ストーリーマンガとギャグマンガ,大人向けマンガと子ども向けマンガ,少年向けマンガと少女向けマンガなど,さまざまな分類があった。それと同様に,以前も現在も「キャラ」重視のマンガと「ストーリー」重視のマンガがあり,それは今後も拮抗していくのではないか。
 作者は『ぼのぼの』の意識的な手法に手塚マンガ=戦後ストーリーマンガの終わりを見るようだが,それをいうなら実は1970年,谷岡ヤスジという天才の「キャラ」によってマンガはすでにその終焉(アサに近いヨルーッ)を見てしまったはずである。しかし実際のところ,マンガはその後もさまざまな変遷,盛衰を見せた。

 要するに,団塊の世代(50代)やそのあとの40代,30代は,昨今の「子供」マンガ,「少年」マンガ,「少女」マンガを読めなくなっただけのことではないか。

 文学やロック,ポップスにしても,実は同様だろう。『二十歳の原点』や『さらばわれらが日々』は今さら青臭くて読み返せないが,10代,20代のころ食指の動かなかった池波正太郎や山手樹一郎にはほろほろと頬がゆるむ。ケツメイシとCHEMISTRYとポルノグラフィティの区別がつかず,ウタダには少し胸がキュンとするもののアユにはついていけない,どちらにしても家族の手前CDを購入するにはいたらないが,クィーンや中島みゆきを買い足す分には抵抗がない。
 30代になってコロコロコミックや週刊プレイボーイに没頭していたら少し心配だが,では少年ジャンプならいいのか,モーニングならいいのか。結局のところ,商業主義とふりかざすまでもなく,幼年,少年,少女,青年,OL,主婦に比べ,30代,40代,50代に向けたコミック作品市場がわかりやすくかつボリュームをもって形成されていないのが「マンガがつまらなくなった」最大理由ではないのか。

 もちろん,この点について,伊藤がまるで検討していないとは思えない。
 ただ,「マンガがつまらない」言説の原因を「キャラ」「キャラクター」論に結びつけるには,読者アンケートなどによるマーケティング調査による立証(言うならばフィールドワーク)が必要だったのではないか。

 伊藤は,手塚治虫の死後,90年代から現在にいたる約15年間を,マンガ表現論の空白期とみなし,その継続性のなさを嘆くが,実のところ,マンガの読み手の断絶は今に始まるものではない。たとえばかつて萩尾望都,大島弓子,山岸凉子,樹村みのりらいわゆる「花の24年組」の登場にリアルタイムに熱狂した世代は,その当時すでにさまざまなマンガ批評が彼女たちをきちんと扱うことができないサマを淡い絶望感と強い軽蔑とともに見てきたものだ。当時のマンガ批評の多くは,戦前の作品や文藝春秋漫画賞対象のギャグマンガから手塚ストーリーマンガまでをつないでみせるのが精一杯で,少女マンガについて目の前に起こっていることをほとんど語ってはくれなかった。

(現在手に入る萩尾望都や大島弓子についての論評の多くが,主に彼女たちの後期の作品を扱っているのは,そういう理由による。ベテランマンガ批評家の多くは,後年単行本にまとまってからの彼女たちの作品しか知らないらしいのである。発表当時の同時収録された作品群との比較なしに初期の「かわいそうなママ」や「ドアの中のわたしの息子」,「さくらさくら」や「鳥のように」の与えた衝撃を語るのは難しい。閑話休題。)

 松商vs三沢の延長18回,箕島vs星陵の延長18回を小中学生,高校生でリアルタイムに見た世代が,松坂や駒大苫小牧の活躍にかつてと同質の熱狂を感じるのは無理なのではないか。花の中三トリオの現役時代を知る者が40代,50代になった今,現役のアイドルにときめけるかと問うのもまた困難というものだろう。
 そういった,年月にともなって自然と減衰するもの,移り変わるものをまずしょっぴいて,そのうえで「マンガがおもしろくなくなった」のかどうかを比較しなければならない。当たり前のことだ。

 ただ……先にも書いたとおり,ここでくだくだしく書いたことはまったく重箱の隅つつきにすぎないことであり,『テヅカ・イズ・デッド』の価値を否定するつもりはまったくない。

 「キャラ」「キャラクター」の切り分けはマンガ表現論において久方ぶりのクリティカルヒットであり,今後この切り分けをもとにさまざまなマンガのあり方についての分析が進められるに違いない。
 素晴らしいマンガ作品をピンでとめてメスで刻むことが正しい行為かどうかは知らないが,必要なことではある。メスで切り分けられたマンガの臓腑には一つひとつ新しい名前が付され,解体と愛とはごっちゃになって世界を美しく醗酵させていくに違いない。

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