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2005年12月の7件の記事

2005/12/31

心の中で読み 心の耳で聞け 『ドラゴン桜(11)』 三田紀房 / 講談社モーニングKC

301【いいか矢島… 本当の自由とは… 自分のルールで生きるってことなんだよ】

 応援してしまう。作品も,登場人物も。

 ダメダメだった主人公がある日「師(マスター)」と出会ってふっと目覚め,七転八倒七転び八起き,やがて大きな目標目がけて一大奮起する。ババババーン! ……従来は野球(甲子園)やボクシング(チャンピオン)などを素材にしてきた,マンガメディア得意のストロングスタイルである。
 そこに「東大入試」をもってきた『ドラゴン桜』は偉い。

 ドラマ化だとかこの教育手法を取り入れた高校が現れたとか今年の東大受験者数が2割増しだとか,リアル社会での話題が先行しておりキワモノ扱いされるのはやむを得ないかとは思う。しかし,ここではともかくマンガ作品としての抜群の面白さを推奨したい。実際,連載1回めから,どはずれて面白いんだこれが。
(ついでにいえば,作画が三田紀房なのも結果オーライ。お世辞にも巧いマンガ家とは思わないが,この人の画風でなければ阿院修太郎先生や芥山龍三郎先生は照れて描けないだろ,普通。)

 たとえば,暴走族だったという前科のある,ヒゲの弁護士・桜木がいい。
 先に相手に主張させるだけ主張させ,返す刀で少なくとも二段,三段の論法を駆使する彼の受験観,人生観の明快さはそこらのスポーツマンガの投球,打撃,格闘理論を数段上回って切れ味,説得力抜群。何より無用な価値観の切り捨てから語り始めること,東大進学の意義について強い信念をもって語れることの2点がいい。こんな先生のいる学校は手ごわいぞ。
 個人的には,国語の芥山先生のファンだ(5巻がいい!)。彼の国語の授業は,とかく雰囲気でしか語られない現代国語を定量化し,学習に明確な指針を与えてくれる。興味深いのはこの芥山先生の指導が受験のテクニックとして極まれば極まるほど,受験を離れた読書や創作,いや,ふろしきを広げるなら「日々の人生の生き方」そのものへの大きな示唆に広がっていくことだ。こんな先生のいる学校は目うろこの連発で楽しいぞ。

 もちろん,この作品で示された受験必勝法がすべて正しいなんぞと主張するつもりはてんからない。マンガの魔球や必殺パンチより多少はリアリティがあるかも,程度に考えておけばよいだろう。大切なのは,たとえば,「教育の現場はサービス業である」という意識,そのうえで教師は何をどのようにサービス提供すべきか,生徒の側はそのサービスを受けて自分がなにを目的に,何をすべきかを,それぞれ常に前向きに自分で「考える」ことだ。
(ちなみに。書評サイトなどで,本作のリアリティ,あるいは受験必勝法への辛口の批判を目にすることがある。その多くは,どうやら「応用」という発想なしに判定を下している気配だ。もしかすると学校や塾の指導のままに勉強してきたタイプの方ではないかと思う。『ドラゴン桜』はまさしくそういう姿勢を笑う。)

 誤解を恐れず言うなら,よりよく受験することはよりよく生きることであり,より強く受験することはより強く生きることだ。
 大勢の受験生の一部でもよい,この作品から少しでも受験の目的を考え,受験の楽しみを発見し,受験の成果を得ることを,心から祈りたい。2割増しなんてまーだまだ,もっと大勢が東大を目指せばよいとも思う。東大でなくてもいい。大学受験でなくてさえよい。この作品で主張されていることは,甲子園でも武道館でも国会でも東京証券取引所でも「応用」の利くことばかりだと思う。

 ちなみに『ドラゴン桜』,最新の11巻は通常版と限定版があり,限定版のほうには価格は少々張るが「東大2次試験予想問題」「鉛筆2本」「お守り」の合格祈願セット付き。受験なんて三十年も前に済ませてしまったのに,思わず買ってしまった。

 頑張れ受験生諸君。とりあえずあと数ヶ月,ポジティブに行こう!

2005/12/27

まだまだ楽しむクリスマス 『夜明けのフロスト クリスマス・ストーリー 『ジャーロ』傑作短編アンソロジー(3)』 R.D.ウィングフィールド ほか著,木村仁良 編,芹澤 恵 ほか訳 / 光文社文庫

017【なんとまあ】

 複数の事件が次から次と同時進行的に発生し,それを警官たちがみんなでわいわい追っていくタイプのミステリを,「モジュラー型」の警察小説というそうです。

 ロンドンから少し離れた田舎町,デントンを舞台としたR.D.ウィングフィールドのフロストシリーズは,まさしくその「モジュラー型」警察小説。

 創元推理文庫に『クリスマスのフロスト』『フロスト日和』『夜のフロスト』の3作が翻訳済みですが,いずれもかなりの長尺で,あらすじや主な登場人物なんぞとても書ききれない乱雑雑多な筋立てとなっています。
 たいていは雪か雨のうんざりするような天候のある日,残虐な殺人事件から喧嘩にこそ泥,怪文書,子供の失踪,婦女暴行,酔っぱらいからかっぱらいまで,よくもまあ,とため息をつく隙もないほどさまざまな事件がデントン警察署に襲いかかり(?)ます。それをジャック・フロスト警部はじめ仕事中毒(ワーカホリック)な現場の面々が一つひとつ解決,いや,解決しようと右往左往するうちに日はかげり,夜は更け,もつれた糸はますますこんがらかってああもう!(ラジオドラマの脚本を手がけていたというこの作者の頭脳と精神はいったいどうなっているのでしょう?) どこまで続くぬかるみぞ,全部片が付くなんてあり得えないだろうと不安通り越して諦観に近い思いでただ苦笑い浮かべるばかり。
 ところが,これがフロスト警部と一緒に(ときに怒り,ときに呆れ,ときに嘆きながら)犯人を追いかけるうちに,あっという間に最終章,さまざまな事件もまあなんとか下手くそなオセロのように白は白,黒は黒でぱたぱたと片付いてしまう。最後のページでは事件決着の爽快感などより,奮戦,爆走するフロストたちと別れるのがぐっと寂しい気持ちになる,この読後感はうまく説明できません。なんともね。

 今回発刊された『夜明けのフロスト』は,光文社「ジャーロ」(GIALLO)誌に掲載されたクリスマス・ストーリー7編を収録したミステリ・アンソロジーですが,エドワード・D・ホックやピーター・ラヴゼイのかっちりした短編に加え,巻末の中篇『夜明けのフロスト』が出色。「夜明け」は,「クリスマス」や「日和」に比べれば短いながら,フロストシリーズの「事件も止まらない,読み手のページを繰る手も止まらない」高速タバスコスパゲッティ感が手ごろに味わえる楽しくも美味な作品に仕上がっています。
 なお,文庫の出版社がいつもと違うので,フロストファンは要チェック。

 ところで,ちょっと疑問なのは,作中,フロスト警部が,署長のマレット警視などから疎んじられ,いわゆる「ダメ警部」の烙印を押されていることです。確かに,デスクワークやスケジュール管理においてはだらしない,口をつくのはきわどいジョーク,目つきはセクハラ,仕事はその場しのぎと,当節風エリート警察官に比べれば難点ありありでしょう。しかし,怠け者とは当人の口先だけだし,酒など飲む暇がない。また,意外や細やかな気配りと人情の人で所轄の警官や市民のウケもよく,タフで走り回ることを厭わない団塊の世代タイプ。この手の人材は警察,ゼネコン,雑誌編集部など「モジュラー型」の「現場」ではむしろ貴重な戦力とみなされるべきではないでしょうか。

 実際,フロスト警部は,細かな失態こそしでかすものの,膨大な事件を処理,粉砕する手腕では人後に落ちません。手当たり次第,出たとこ勝負に見える捜査方針も,「網羅」と「直感」の組み合わせはあなどれず,いくつかの難事件を解決に導いたのは必ずしも僥倖ばかりとは限りません。
 こういう愛すべき軍曹タイプの部下に現場を任せられるのは,本部本庁,上層部から見れば実は非常に頼もしく,ありがたいことじゃないかと思うのですが,いかがでしょう……。おっと。キャリア官僚のあなた様には聞くだけ野暮でしたか。失礼。

2005/12/25

今からでも間に合うクリスマス 『クリスマスに少女は還る』 キャロル・オコンネル 作,務台夏子 訳 / 創元推理文庫

817【「PLEASE」】

 イヴはいかがでしたか。
 僕のほうは,まあまあかな。このところちょっとブルーだった息子が,「今日はいい一日だったよー」と嬉しそうに二階に上がったのだから,とてもよい日だったのかもしれない。

 イヴにはクリスマスの本をと思いつつ,毎年はたせません。といって来年にまわすとまた忘れてしまいそうなので,紹介だけでもしておきましょう。

 クリスマスをタイトルに冠した本の中で,(たぶん一生)忘れられない作品の一つがキャロル・オコンネル『クリスマスに少女は還る』。
 クリスマスに近いある日,二人の少女が行方不明になる。一人はホラーマニアで,タチの悪いいたずらで悪名を馳せるサディー。もう一人は州副知事の娘で,知性と美貌で誰にも愛されるグウェン。15年前のクリスマスに発生した少女殺害事件で双子の妹を失ったルージュ・ケンダル刑事らが必死で事件の真相を追う一方,何者かに監禁されたサディーとグウェンは奇妙な地下室に潜み,脱出の時をうかがっていた……。

 ミステリ作品の帯や解説には「驚愕のエンディング」「どんでん返し」といったあおりが日常的に記されています。しかし,探偵に説明されるまで犯人が(動機が,犯行方法が,被害者が,アリバイが,密室のトリックが)わからないことはざらでも,明らかになった真相に本当に「驚愕」することは実のところめったにありません。

 『クリスマスに少女は還る』のエンディングには,本当に驚きました。
 あまりにびっくりしたため,作中の個性豊かな脇役たちの印象が全部ふっとんでしまったほど。それをこの作品の欠点とみなすむきすらあるようです。

 僕は……さあ,どうでしょう。このエンディングは……。
 なにはともあれ,メリー・クリスマス。

2005/12/20

オバケの本 その十二 『日本怪奇小説傑作集(3)』 紀田順一郎,東 雅夫 編 / 創元推理文庫

811【オサキサマがお前と一緒に戻るって……】

 最終巻の目次は,以下のとおり。

   近代怪奇小説の変容(紀田順一郎)
   お守り(山川方夫)
   出口(吉行淳之介)
   くだんのはは(小松左京)
   山ン本五郎左衛門只今退散仕る(稲垣足穂)
   はだか川心中(都筑道夫)
   名笛秘曲(荒木良一)
   楕円形の故郷(三浦哲郎)
   門のある家(星新一)
   箪笥(半村良)
   影人(中井英夫)
   幽霊(吉田健一)
   遠い座敷(筒井康隆)
   縄──編集者への手紙──(阿刀田高)
   海贄考(赤江瀑)
   ぼろんじ(澁澤龍彦)
   風(皆川博子)
   大好きな姉(高橋克彦)

 収録作品はいずれも評価の高いもので,読み応えも悪くありません。
 ただし,残念ながら,いくつかの意味で「悪い予感が的中した」ラインナップでもありました。

 まず気になるのが,山川方夫(三田文学。安南の王子,海岸公園だねえ),吉行淳之介,三浦哲郎,吉田健一,赤江瀑といった顔ぶれ。純文学臭というか,芥川賞テイストというか,要するに「文士」「純文」「ご立派」な印象が強すぎ。
 もちろん,この『日本怪奇小説傑作集』は第1巻に漱石,欧外,潤一郎らを登用したように,もともとが「文学」志向の強いラインナップではありました。しかし,明治,大正期から選んだ第1巻と,戦後を対象とする最終巻とでは,方針が異なって当然でしょう。早い話,どうして角川ホラー文庫や井上雅彦の異形コレクションからもっと候補が選ばれなかったのか,それが疑問です。

 上記の収録作品の大半は,戦後からせいぜい1970年代に書かれたもの。しかもそれ以前の文学の系譜系統を色濃く引き継いだ作家,作品が大半です。また,「お守り」「出口」「はだか川心中」「楕円形の故郷」などの作品の正面の狙いが「怪奇」だったとは到底思えません。これらは「怪奇小説」「ホラー」である前に,(いかにも 文芸評論ふうな物言いをするなら)人の心の深淵を描こうとしたもの──つまり,単にそのままの意味で「小説」だったのではないでしょうか?
(そういった作品が収録されることを否定するわけではありませんが,ボリュームが過ぎるのです。)

 もう1つ,ビビッドな現代作品が抜けていると強く感じる原因は,昨今のポストモダンホラーがここに見られないことにあります。
 角川ホラー文庫をはじめとする当世ジャパニーズホラーは,鈴木光司『リング』でおなじみの「貞子」という,おそらくお岩さん以来のスーパースターを得ました。貞子に代表されるキャラ立ては,一人貞子に限らずここ十年余りのホラーの一潮流ではないかと思います。そういったキャラもの,絶叫系のホラー作品は(個人的には好みではありませんが)現在のホラーブームの大きな潮流の一つであり,無視できないものだと思います。そして,それを排した上記ラインナップは,はなはだしく現代性を逸脱し,二昔ばかり前まで,いわば「戦後文学」から抜き出した幻想小説の佳作に終わっているように思われてなりません。

 もちろん,版権の都合,短編に傑作があったか否かなど,難しい面もあったでしょう。……しかし,『リング』の鈴木光司,『ぼっけえ、きょうてえ』の岩井志麻子,『パラサイト・イヴ』の瀬名秀明,『東亰異聞』の小野不由美,『絹の変容』の篠田節子,『死国』の坂東眞砂子,『姑獲鳥の夏』の京極夏彦,『六番目の小夜子』の恩田陸,『黒い家』の貴志祐介,『蘆屋家の崩壊』の津原泰水,『玩具修理者』の小林泰三などから一人,一作品とて選ばれていないのはどうしてなのでしょう。

 想像するに,二人の選者の間でも,このあたりについては意思の疎通がきちんとなされなかったのではないでしょうか。
 なにより,紀田順一郎の前書き「近代怪奇小説の変容」はタイトルからして「近代」と限定されていますし,昨今のホラーについては「現実社会に対する批評性を失いつつ」「映像面などに見られる画一的な,刺激性の強い風俗描写にも明らか」と否定的であるのに対し,東雅夫の解説は1990年代以降の現代日本のホラームーブメントに「ホラー・ジャパネスク」と名づけ,「この時期,競い合うようにして頭角を現わし,日本の怪奇幻想文学シーンに新風を吹き込みつつあった一群の新進作家たち」とむしろ持ち上げ気味です。
 どちらに与するつもりもありませんが,しいていえば「現代社会に対する批評性」の欠如をもって怪奇小説の出来不出来を語るのはどうも納得がいきません。この第3巻でもっとも面白くまた恐ろしく読んだのは筒井康隆の「遠い座敷」でしたが,この作品は「現代社会に対する批評性」などという,逆にいえば表層的な機能では語り切れない,美と怪奇性と言語実験に満ちています。

 つまり……今回の第3巻は最終巻であるべきではなく,全4巻中の第3巻であるべきではなかったか。いかがでしょうそのあたり,本日ご出席の貞子さん,伽椰子さん,富江さ………ぎゃゎ………(ずぶずぶずぶずぶ)…………(シーン)……………。

2005/12/12

ゼロならではの奇天烈さを久々に満喫 『ゼロ THE MAN OF THE CREATION(54)』 原作:愛英史,漫画:里見桂 / 集英社(ジャンプ・コミックス デラックス)

8171【一杯のカレーライスに全財産を遣う覚悟があるのだな】

 54冊345話もあると,さすがに出来のよい1冊,そうでもない1冊がある。「神の手」を持つ究極の贋作者『ゼロ』のことだ。

 今回は,とてもよかった。

 怠惰と笑われそうだが,帯の内容紹介をそのまま転記させていただきたい。

   ◆大空に散った小説家の死の真相
   ◆黒田清輝の隠された真実を暴く
   ◆ドル札偽造団を欺く脅威のトリック
   ◆伝説の日本人女優の知られざる想いとは!?
   ◆究極のカレーに必要な幻の香辛料に迫る
   ◆ゼロの代理人を名乗る男の陰謀

 これら収録作はいずれもよくできている。読んでいてどこかが踊る。
 サン・テグジュペリの最後の飛行の謎と,書かれなかった次回作を,破り去られたノートの1ページを復刻する試み(ゼロはそのために廃棄された戦闘機P38ライトニングを修復させ,サン・テグジュペリと同じコースを飛ぶ!)から推理してみせる第1作。
 偽ドル「スーパーZ」の,さらに偽物を制作するという設定も絶妙なら,ブラウン神父ばりの逆説的な解決も見事な第3作。
 どこが贋作? と素朴な疑問はさておき,ゼロがコック姿で究極のカレーを供応する第5話(カレーひと鍋,しめて21億7千万円!)。
 黒田清輝,ロダン,トマス・ビューイックらの贋作に挑む他の収録作,いずれもひねりがきいて着地も乱れない。手馴れた描き方はワンパターン,ストーリーは陳腐な人情話にすぎないのだが,新たな素材を見出す努力がマンネリズムを感じさせない。

 もともとコマ内の文字数が異様に多い作品だが,テーマがうまく咀嚼できず,ゼロが提示するアイデアのインパクトが弱いとき,説明に要してさらに文字が増える傾向がある。
 今回の1冊は,プロットが視覚的で,かつサプライズを味わえるものが多かった。作品に占めるマンガ度(?)が高いとき,比例して『ゼロ』の品質もまた高まるのである。

 もちろん,贋作の下地にはX線で調べるまで存在も知られてなかった下絵を描き込むし,展示品の鼎をガラスのこちら側から一望しただけで専門家も検証できない贋作を製作できてしまうゼロのことである,その存在,能力の実現性に厳密を持ち出したらこの作品は楽しめない。
 ゼロが呼ばれる(まきこまれる)にいたるシチュエーション,それに対するゼロのアクロバティックな回答を,美術や料理(笑)の薀蓄を薬味にまったり楽しむのが正しい鑑賞法だろう。

 それにしても,54巻にいたってこの余力。(作者には申し訳ないが)うかつにアニメ化されたり浮かれブームに乗ったりしないで,このまま地味に100巻を目指してほしい。

   「承知した────ッ」

 や,でも,21億は払えませんが。

2005/12/08

こんな竜は竜じゃねえ~っ 『哭きの竜 外伝(1)』 能條純一 / 竹書房 近代麻雀COMICS

490【そんなわけねえ… そんなわけは………】

 ポンポンチィチィ鳴いて騒ぐはタコの証し。先ヅケ,無闇な暗カン明カンもタコの常道。手狭な手牌からリーチに裏スジ叩き込み(根拠なし),たまにカンドラ載せて大騒ぎの輩は河を見ず風を読まず場を乱す大ダコとして古来より嫌忌される。

 ところが。
 かつて,鳴くたびに手が大きくなり,役は先ヅケ,カンドラ載りまくりのスーパートンデモヒーローがいた。發カン白カンから中の対子落とし,それで發白チャンタドラ10でリンシャンヅモ。そんな「運」が東西の極道社会の命運を決するウルトラスペシャルデラックス大ダコ。それが竜,人呼んで「な,哭きの竜ぅ~!」である。

 『哭きの竜』が竹書房のコミック誌「別冊・近代麻雀」に掲載されたのは昭和60年代前半。
 深夜番組でイカサマ技が紹介されたり,逆に一発・裏ドラなどの博打要素を排した厳正な競技麻雀ルールが提唱されたりで人気雀士,人気作家が輩出,隆盛をきわめた第二次麻雀ブームがおおよそ昭和44年から60年にかけて(活字雑誌の「月刊・近代麻雀」からコミック誌「別冊・近代麻雀」「近代麻雀オリジナル」「近代麻雀ゴールド」3誌が派生したといえば当時の隆盛のほどが伝わるだろうか)。麻雀マンガとしては規格外の『哭きの竜』は,第二次麻雀ブームがピークを過ぎ,街中の雀荘も次々と灯りを消し始めた時期だからこそ一世を風靡し得たといえるかもしれない。

 寡黙で陰気で,要所になるとポン!カン!と哭いては倍満,数え役満を上がって場をさらう竜の凄み。各章には当時麻雀を打たない者にまで知れわたった名言がいっぱいだ。

  「……あンた 背中が煤(すす)けてるぜ」
  「竜~~~っ おまえの運をわしにくれや 会長(おやじ)にくれや~~っ」
  「おれの哭きは牌を喰うんじゃない 牌に命を刻んでいく やめなよ …せっかいは」
  「時の刻みはあンただけのものじゃない」
  「オレは己れの運に身をまかせたことなどない ましてや他人の運をあてにする程愚かではない」
  「悪いナ それロンだ」

 当たり前に配牌を読み,極道相手に息巻く駆け出しの雀ゴロが,桜道会甲斐組々長甲斐正三との葛藤を通して急激に神がかり的存在に変じていく1巻から2巻,そして二代目桜道会々長となる石川喬との息詰まる名勝負を描く3巻は異様なまでの迫力に満ちている。カタキ役も含め,ほとんど全ページ,名キャラ/名言/名シーンのカタマリである。全員,タコなんだけど。
 能條純一は作画にコマのコピーを多用する悪癖があり(不肖!宮嶋茂樹の写真を無断コピーした前歴さえある),一雀士の強運を極道界の覇権争いに結びつけたストーリーも強引通り越して無茶苦茶。一説によると作者は麻雀のルールを知らなかったともいう。逆に,だからこそ,常識的な打牌とはまったく無縁な強烈なキャラクターを創出できたに違いない。

 そして。
 それから十数年を経て,復活した『哭きの竜 外伝』。

 しかし,ここに描かれているのは,あの哭きの竜ではない。断じて違う。

 かつて,竜と彼にかかわる極道たちは,端役の雀ゴロにいたるまで,圧倒的な個性,リアリティに満ちていた。
 うつむき,タバコを持つ手の影から,鋭く冷たい上目遣いで対面を見つめる竜。ドスを散らつかせられようがチャカで狙われようが最後の最後にはポンカンと哭いて(そのとき牌が閃光を放つのだ!),相手を粉砕し,フッと鼻で笑う竜。
 強引あるいは理詰めな打牌で一時は点棒を稼ぎつつ,最後は竜の哭きに完膚なきまでに敗れ去り,竜の名を呼びながら死んでゆく極道たち。

 外伝は,そんな正編のおそろしく出来の悪いコピーのようだ。

 竜はこんな目の下に影をつけた,ひ弱な文学青年ふうではない。十年経った設定なのに,正編に比べても若すぎる。(添付の表紙画像のように)横目で人をうかがったりしない。哭くときに体の軸がぶれたりはしない。髪型はぽってり固まってゆるがない。名言こそ口にしたが,軽々しいお喋りではない。
 外伝において,極道,雀ゴロたちの表情はいずれもとんでもなくユルい(とくに視線。大半のコマで両目の焦点が合ってない)。久々登場,桜道会々長三上信也のほっぺたはまるでペコちゃんみたいで緊張感ゼロ。極道のくせに何度も泣くなよ三上。登場人物いずれも唇の色が妙に濃くてカマっぽい。雨宮弟も兄に比べて凄みゼロ。

 能條純一は不思議な作家で,作品は多々あるが再読に耐えるものはほとんどない。ただ『哭きの竜』正編,それも初期のおよそ3分の1のみが抜群によい。
 今さら竜の名を冠した外伝などなぜ出したのだろう。食っていけないなら,ケント紙に将棋マンガか医者マンガのコピーでも貼り付けていればよかったのに。
 もう、あの時代には戻れない。
 竜よ。竜よ~~っ。

  「フッ 終わったな……」

2005/12/01

信じる者は救われない 『世間のウソ』 日垣 隆 / 新潮新書

489「女児が段ボール箱に詰められて住宅地に放置される異常な事件は、発生から1週間で解決した。」

 上は,今朝(11月30日)の毎日新聞サイトの速報記事の一節。
 容疑者が逮捕されただけで,なぜ「解決」なのだろう。この国は公正な裁判をもってはじめて判断が下される「法治国家」ではなかったのか?
 今回逮捕された人物が真犯人かどうかは知らないが,かつて『東電OL殺人事件』で逮捕されたネパール人(無期懲役)について,いかに無理押しな裁判が行われたか,マスコミは覚えてないとでもいうのか。
 ……覚えていないのだろうな。

 別の話。
 一時期,連日のように全国紙の社会面を飾り続けた「火を噴く三菱車」はどこにいってしまったのだろう。
 三菱自動車の不祥事が話題にのぼる間はまるで鞭打つように暴きたて,騒ぎたて,話題が(文字通り)下火になるとともに紙面から消えてしまった。
 では,はたしてあの時期,三菱製の車は本当に「他のメーカー製の車より出火する頻度が高かった」のか。そして「過去何十年の車社会で,あの時期,車から出火するトラブルは多かった」のか。
 もしそうでないなら(そうではないと思うが)……あれはつまり,マスコミが「リコール隠し」という不祥事を起こした三菱自動車に対し,世間をあおり,断罪,糾弾を繰り返したということだ。違うだろうか。

 などなど,新聞,テレビ,週刊誌などの情報は,少し冷静になればとても奇妙な「ウソ」,ウソと言って言いすぎなら,少なくともかなり「誇張」の含まれたものであることがわかる。

 報道ではないが,フジテレビのバラエティ番組における細木数子の養鶏業者についての発言も,根は似たようなものだ。
 いわく「養鶏場では24時間明かりをつけて夜もない状態にして1羽の鶏に1日あたり2,3個の卵を産ませている」,いわく「鶏卵をはじめ食料のほとんどが薬でつくられている」。日本養鶏協会など11生産者団体が鶏卵生産現場,薬事法上の実情とはなはだしく乖離していると抗議したのも当然だと思うが,ではこの細木発言が抗議を受けたことを知らずにいる視聴者は,養鶏業者についてどういう「知識」を持ち続けることになるのだろう。

 ノンフィクションライター日垣隆による本書『世間のウソ』は,このような「世間を誤らせる構造的なウソ」を取り上げ,一つひとつ検証しようとするものだ。

 自殺は本当に増えているのか。
 六本木ヒルズ自動回転扉事故の報道は的確だったか。
 鳥インフルエンザ「死者最大六億人」という表現は妥当か。

などのマスコミ報道のウソをはじめ,警察の「民事不介入の原則」にまつわるウソ,中学校の部活についてのウソ,さまざまな料金にまつわるウソ,オリンピックをめぐるウソ,裁判に関するウソ,イラク覇兵に関するウソ……。

 ただし,手を広げすぎたためか一つの題材がせいぜい数~十数ページ,読み流すぶんには軽妙洒脱で楽しいが,当然ながら話題一つあたりの検証は甘くなり,著者の皮肉や攻撃性ばかりが目立ってくる。極端な場合,自らの主張のために持ち出した数字が強引で,著者の主張そのものが「世間を誤らせるウソ」になりかねないものもある。

 それでも,テレビや新聞の報道をただ漫然と受け入れることに比べれば,これは格段に知的な作業であり,何もかもが地滑りを起こしかけているこの国にとって極めて重要な指標の1つとなるだろう。

 マスコミ報道を検証し,その検証を検証し,その検証を……。
 常に疑い続けること。本来,それはマスメディア側の仕事のはずだったのだが。

※ 上記本文,『東電OL殺人事件』について,逮捕されたネパール人が無罪判決と,まったく事実と異なることを書いていました(何を勘違いしたのだろう,おバカ……)。謝罪して訂正いたします。12月31日。

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