フォト
無料ブログはココログ

« 『暴れん坊本屋さん(1)』 久世番子 / 新書館 UN POCO ESSAY COMICS | トップページ | オバケの本 その十一 『稗田のモノ語り 妖怪ハンター 魔障ヶ岳』 諸星大二郎 / 講談社 »

2005/11/09

〔非書評〕 テレビはどれほど駄目になっているか 『ご臨終メディア 質問しないマスコミと一人で考えない日本人』 森 達也,森巣 博 / 集英社新書

Photo【じゃあ日本テレビはニュース項目を数字で決めているの? と誰かが聞いたら,当たり前でしょうと】

 楽天 三木谷氏がTBSとの経営統合を目論むも,外野からうかがう限り,失敗に終わる可能性が高い。
 失敗に終わるならその理由は明白で,十分な資金を用意できていない状態から「敵対的買収」を図ったためである(「敵対的」であることには議論の余地もない)。総資産が1兆円といっても,当たり前だが売りにかかれば株価は下がる。現金で1兆円用意できるわけではないのだ。本気でTBSの経営権を得るつもりなら,すぐ自由になる資金が最低でも3千5百億円程度は必要だったと読む。楽天1社にはまだその力はない。
 したがって,三木谷氏に同情はしない。市場のロジックで敵対的買収をはかるにあたり,市場のロジックで弱点があれば負ける。負けなら長期戦にメリットはない。早急に撤退すべきである。

 ただし,その──三木谷氏の挑戦を受けたTBSにも,同情はまったく感じない。

 昨今,放送局に対する敵対的買収やプロ野球球団の存続について,やたら「放送は公共的な存在」「プロ野球の公共性」といったことが口にされるが,なにか勘違いがあるに違いない。

 プロ野球については,公共性,国民的人気ということにあぐらをかいた結果が近年の凋落である。ハゲタカファンドが手を出してけしからぬと声を荒げる前に,手を出せば即ゆるぐ程度の「戸締り」しかしてなかったこと,そもそも今やハゲタカファンドにとってしか魅力ない素材になり下がっている事実を先に反省すべきだろう(TBSは果たしていつまでベイスターズという荷物を保持できるだろう?)。

 一方フジテレビ,TBSなど放送局については,株を買われて困惑するならそもそも株式を上場すべきではなかった。
 株式の上場,公開とは,極言すれば経営権の切り売りである。株主は少しずつ投資せよ,経営には口をはさむな──そんな都合のよい理屈は株主に対して失礼というものだろう。

 (「会社は誰のものか」という命題がある。この命題は抽象的で「会社は株主のものである」とする考えにはさすがに首肯できない。しかし「上場会社における経営権は誰のものか」という命題ならば回答は自明である。経営権は株主のものだ。誰かが株式の過半数(ないしそれにあたる信任)を得たなら,その者が経営権を支配できる議決権を持つ。これは株式というもののもつ,本質的かつフェアなルールである。)

 フジテレビ,TBSは,自社の株式を取得した堀江氏,三木谷氏に対して批判的だったが,外野からみれば,フジテレビ,TBSこそは,彼らが公共性が高いと主張する放送局の経営権を株式上場することで危険にさらした責任を負う。

 さてでは,フジテレビ,TBSなどは本当に公共的なメディアなのか。

 (先に,2つばかり命題を提示しておきたい。数だけをみるなら,カローラやカップヌードルやオセロは利用者が多い。これらは公共性の高い製品として保護されるべきだろうか? メディアに限定しよう。少年ジャンプも週刊ポストもLEONも広辞苑も2ちゃんねるも部数やアクセス数が多い。これらは公共性の高いサービスとして保護されるべきだろうか?)

 現在,民放各局の主業務は,電波を視聴率で切り売りし,広告による売り上げをあげることである。ドラマ,ワイドショーは言うにおよばず,ある1日に事件が10件あり,10分のニュース番組でそのうち5件を扱うといった場合ですら,選択の基準は視聴率である。彼らにとって,売れないニュースは放送に値しないのだ。
 ちなみに筆者は朝昼のワイドショーと夕夜の報道番組の区別がつかない。煽りの大小はあれ,肝心なことが切り捨てられていることについてはまったく同じにしか見えない。記者クラブを対象とする(都合の悪い部分を隠蔽した,あるいは捻じ曲げた)「公式」発表を内省なく垂れ流すのなら,インターネット上のポータルサイトのようにニュース提供元を明確にして垂れ流してくれたほうがよほど(隠された事実の輪郭が)わかりやすい。発表元を不明確にし,あたかもそれが最大多数向けの重大事実であるかのように放送することのほうがよほど危険が大きい。かつて,そのようなものを「大本営発表」と言わなかっただろうか。

 ここで,視聴率を民意になぞらえ,上記のような放送局の姿勢を視聴者の意向の反映とみなすこともできなくはない。だが,民意におもねるバラエティ番組のことをワイドショーと呼ぶ。それは商品としての電波の切り売りのバリエーションの1つに過ぎない。ならば,政府,クライアント,一部の視聴者からの抗議をおそれ,お上の定める放送法に守られ,ただ無難に数字を求める御用メディアになにも今さら「公共」の言葉を冠して尊重する必要はない。

 たとえば,小泉首相の靖国神社参拝について,民放各局が放映するのは,首相が参拝に向かうほんの数秒の画像,あるいは違憲裁判のほんの数行分の判決内容で,せいぜい「内外情勢は厳しさを増すものと」「アジア諸国との関係悪化が懸念され」などの定型コメントを付して終わるというのが通例だろう。これは夏の行楽イベントに対する「ゆく夏を惜しんでいました」コメントと意味のなさにおいて大差ない。
 民放各局は,首相の靖国神社参拝について,靖国神社の特殊性,あるいは首相がアジア諸国の反発をおしてまでなぜ参拝するか,などきちんと報道しているだろうか。討論番組などでの個人発言はさておいて,局として,報道番組としてのきちんとした説明は見た記憶がない。あるいは,違憲という裁判結果について,歴代の首相に強く回答を求めた映像を見た記憶がない(一言尋ね,首相が一言答えてオシマイというのは質疑応答とは言わない。そのレベルのものはジャーナリズムではなく,政権直轄の掲示板と称すべきである。首相が「会話していく」と答えるならせめていつ,誰と,どのように,程度は重ねて追求してほしい)。

 念のため。ここでは靖国神社参拝の是非を話題にしているのではない。
 問題は,他国の反発を招き,違憲の判決が下りるような行為を,行楽イベントと同列に垂れ流し,それで報道を済ませたつもりでいる現在の民放各局の姿勢である。これは事実上,何も考えていないに等しい。
 靖国神社参詣についてみれば,新聞はテレビ局より多少は報道「っぽい」ところはあるが,いずれ「記者クラブ」の恩恵に属した記者団のやっていることは五十歩百歩に見える。いざというときに質問を重ねて真意を問うことができない──結局は強い者の言いなりである。先の選挙で(自民党が圧勝したことの是非はやはりおいて),小泉自民党のメディア戦略にたあいもなくひねられ,迎合する自称プロのメディアの対応はこっけいですらあった。大手メディアがいずれも和田アキ子にはむかえない若手歌手とかぶって見えたといえば多少はわかりやすいだろうか。

 そのような存在ならば,公共性,報道などといった偽りの看板はいったんおろしてしまってはどうか。公益性ではなく,広告クライアントからの利益を最大目標とする私企業であることを内外に宣言してはどうか。
 堀江氏,三木谷氏が適材であったかどうかは別として,なまじ信用ならない公共性などというものをふりかざす現状の経営陣や現場スタッフより,市場,利益という点から明確に事業を語れる人物に任せるのは1つの判断だろう。
 それは,哀しいことではあるが,現在の放送局の姿,こと「志」において少年ジャンプや週刊ポストにも劣ることを正しく広く提示することにつながるだろう。

 もっとも,ここで書いたような指摘は,すでに手遅れなのかもしれない。

 何がどのように手遅れなのか,ご自身で考えてみたい方には森達也氏と森巣博氏による対談集『ご臨終メディア 質問しないマスコミと一人で考えない日本人』をお奨めしたい。2人の発言がすべて正しいなどとは間違っても言わないし,対談中,マスコミの報道姿勢の問題とその報道内容の(彼らにとっての)是非の切り分けができていないという難点もある。
 しかし,ご一読いただければ現在のマスメディアの問題点についていろいろ思い当たるふしがあるのではないかと思う。そして考えていただきたい。考えていただきたい。

« 『暴れん坊本屋さん(1)』 久世番子 / 新書館 UN POCO ESSAY COMICS | トップページ | オバケの本 その十一 『稗田のモノ語り 妖怪ハンター 魔障ヶ岳』 諸星大二郎 / 講談社 »

テレビ・新聞・雑誌・出版」カテゴリの記事

コメント

コメントを書く

(ウェブ上には掲載しません)

« 『暴れん坊本屋さん(1)』 久世番子 / 新書館 UN POCO ESSAY COMICS | トップページ | オバケの本 その十一 『稗田のモノ語り 妖怪ハンター 魔障ヶ岳』 諸星大二郎 / 講談社 »