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2005年11月の9件の記事

2005/11/26

これにとどめの「映像化不可能」の話 その三 『やまなし』 宮沢賢治

【クラムボンはわらつたよ】

 そうそう,もう一つ,やはり本当に「映像化不可能」そうな作品を思い出しました。
 宮沢賢治の「やまなし」という短い童話です。

 この「やまなし」は

 二疋の蟹の子供らが青じろい水の底で話てゐました。
『クラムボンはわらつたよ。』
『クラムボンはかぷかぷわらつたよ。』
『クラムボンは跳てわらつたよ。』
『クラムボンはかぷかぷわらつたよ。』
 上の方や横の方は,青くくらく鋼のやうに見えます。そのなめらかな天井を,つぶつぶ暗い泡が流れて行きます。
 (以下略)

という作品ですが,この「クラムボン」が何を表すかについて,水の泡説,仲間の蟹説,沢の光説,アメンボ説,賢治の妹トシ説など諸説フンプンおイモはデンプンいろいろ長年議論されており,いまだいっこう説が定まりません。

 まあ,教育テレビで放映する程度なら,カニの子供二匹の影絵を表示して「クラムボンはわらったよ」と女優さんに朗読してもらえばいいのでしょうが,それでは「やまなし」を映像化したことにはならないでしょう。

 映像化をかぷかぷあざわらう謎のクラムボン。ところが賢治はこの短い作品を「私の幻燈はこれでおしまひであります」で締め,あたかも映像化を前提にこさえてみせたかのような書きっぷり。
 やまなし,もとい,なやましい話です。かぷかぷかぷー。

 ところでクラムボンとはいったい何(誰)か。
 泡や光やトシというのは,結びつけるにもあまりに根拠がない気がします。蟹のことを英語でcrabというのでそれかなと思ったのですが,同じ蟹のことを言っているようには思えない。そこで最近は,クラムチャウダーのclam,つまりハマグリの意から,沢にいる二枚貝がかぷかぷ貝殻を開け閉じすることかな,という案がお気に入りです。
 もっとも,ではそんな二枚貝がなぜ(誰に)殺されたのかとなると,二疋の蟹の兄弟同様,
『知らない。』
『わからない。』
ですが。

2005/11/24

これはさすがに「映像化不可能」の話 その二 『家畜人ヤプー』 沼正三 / 角川文庫ほか

283_2【いろいろな生体家具の使い方】

 さて,『姑獲鳥の夏』,『マークスの山』,『ハサミ男』,『音楽』以外にも,『指輪物語』や『亡国のイージス』,『トータル・リコール』,『魁!!クロマティ高校』などなど,「映像化不可能といわれた」はずなのにその実あっさり映像化された作品は少なくありません。

 その一方で,今のところ本当に映像化できていないのが沼正三『家畜人ヤプー』。
 この稀代のエログロマゾヒズム小説は,確かに映像化が難しそうです。

 『家畜人ヤプー』の場合,(1) CGや特殊メイク,アニメーションを駆使しないと,奇形生体家具化されたヤプーが描けない,(2) 作中で詳細に触れられてない未来世界の生活,建築様式等をどう映像化するか判断,デザインが難しい,さらに (3) 作中に描かれた状況や行為をそのまま映像化したらわいせつ裁判に問われるおそれがある,さらにさらに (4) 日本人を民族まるごと被虐対象,性的玩具に落とし込む内容にマスコミ等が騒ぎ,極右などから攻撃を受けるかもしれない,などなど,高いハードルが連発です。さりとて,CGでリアルな○○○や×××を描写しても,それにモザイクかけてしまったのでは,見に来るマゾヒストの腰が引けてしまうことでしょう。

 ことほどさように──そもそも映像化の話も出ないようなマイナー作品は別にして──本当に映像化が難しい作品の筆頭は,この『家畜人ヤプー』かもしれません。

 ちなみに,この沼正三の一大マゾヒズム叙事詩は,石ノ森章太郎,江川達也によって一部マンガ化が進められています。出来については,正直よくわかりません。2人とも,各コマとも人物の描写が中心で,(2)はうまく逃れているようです。

2005/11/22

これでいいのか「映像化不可能」の話 その一 『音楽』 三島由紀夫 / 新潮文庫

094【……私の体で,私はえもいわれぬ幸福感を以て,あの『音楽』をきいたのです】

姑獲鳥の夏プレミアム・エディション(2枚組)
by 京極夏彦(作・演)
11月25日発売。映像化不可能といわれた大ベストセラーを豪華キャストで映画化。
12月22日には特典ディスク付きの京極堂BOXも発売

 少し前に紀伊國屋BookWebのトップページにあった『姑獲鳥の夏』のDVDの広告文面です。この「映像化不可能」,映画やDVDの紹介中によく目にするものですが,実はかなりへんてこりんな言葉かもしれません。
 なにしろ「映像化不可能」という言葉は,たいてい,映像化されてしまった作品の紹介時に使われているのですから。

 僕がこの「映像化不可能」なる表現を雑誌で初めて目にしたのは,三島由紀夫原作の映画『音楽』の紹介記事においてでした。調べてみるとその映画は昭和四十七年(1972年)に公開されています。つまり,「映像化不可能といわれた」というキャッチコピーは,少なくとも三十年以上前からすでにあったということになります。

 しかし。
 インターネットで検索してみると,「映像化不可能といわれた」作品が山ほど見つかるのですが,『マークスの山』や『ハサミ男』がなぜ「映像化不可能」なのかはよくわかりません。叙述ミステリで「犯人は実は○○だった」「登場人物のAとBは実は同一人物だった」といったような設定のものはなるほど難しそうですが,たとえばカメラをAの視点からまわすなどの工夫でなんとかなるはずです。また,そういった工夫こそが映像作家の腕の揮いどころではないでしょうか。

 「映像化」とは要するに「映画配給」のことであり,この「不可能」も実際は「そこらの映画より手間がかかる」「知恵が要る」「カネがかかる」程度のことにすぎません。
 つまり,「映像化不可能といわれた」とは,「製作費もかかったし,苦労もしたのだから,一人でも多く見にくるように!」という脅しのこもった煽りにすぎないということになります。

 ものは試しに三島の『音楽』を読んでみましたが,冷感症の女性の性的快感を「音楽」にたとえる艶笑コメディ(違うのかな?)にとくに「映像化」への障壁は感じられません。昭和四十年代としてはエロチックな内容が懸念されたのでしょうか。とはいえ別に露骨な性描写があるわけでなし,精神分析療法シーンで語られる夢もとりたてて特撮が必要なほどとは思われず,よくわかりません。当時のテレビ番組「キーハンター」あたりの映像技術やエロス表現で十分まかなえたのでは?

 ちなみに,小説としての『音楽』は,(個人的に得手とはいえない三島作品の中では)暗喩の少ないこざっぱりした文体で,ライトなサイコミステリとして楽しく読めました。ただ,もし「同傾向,同水準の作品がほかにもあるけどいかが?」と奨められたら,「一冊でけっこう」と答えて逃げ出しそう。
 一つ苦笑いしたのは,作中,語り手の精神分析医が,一方では自分の患者(映画スターやプロ野球選手)のプライベート厳守を自慢げに嘯きながら,一方でヒロインたる患者の治療や私信の内容を,ヒロインの恋人(家族ですらない)に,しかも外で饗応を受けながらペラペラと喋ってしまうことです。現在ならこれだけで,個人情報漏洩問題医師としてワイドショーものかも。

2005/11/20

『まるで天使のような』『ミランダ殺し』ほか マーガレット・ミラー

901 前回の続き。
 ちなみに,いくつか辛口な評になっているように見えるかもしれませんが,品切れ・絶版をせっせと集めて読んでいる,そのくらいお気に入りである,ということはご理解ください。

『見知らぬ者の墓』(創元推理文庫,榊 優子 訳,1960年)
 未読。

『まるで天使のような』(ハヤカワ・ミステリ文庫,菊池 光 訳,1962年)
 ツキに見放された私立探偵クィンは,荒野で禁欲的な共同生活を営む小さな宗教集団に迷い込んだ。彼はそこで知り合った信者の一人から,ある人物の所在を調べてほしいと依頼される。だが,訪ねた人物は5年前の嵐の夜,車で出かけたまま消息を絶っている。豪雨の川で発見された車には,当人のものと見られる血痕のついたシャツが残されていたという……。
 最後のページで明らかになる真相には論理的な矛盾があるように思われたのだが,どうだろう。ミラー作品の中では翻訳(とくに会話文)が平板なのもやや気になる。

『心憑かれて』(創元推理文庫,汀 一弘 訳,1964年)
 かつて幼女に対して事件を起こし──どんな事件かは明かされない──精神病の治療を受けた気弱な青年チャーリー。今は文具店の倉庫番として,兄と密かに暮らしている彼を中心に,当人や周囲の戸惑い,彼が学校の校庭でたまたま見かけ,目をはなせなくなってしまった少女の失踪を描く。
 昨今のサイコホラーのように過激な展開にはいたらず,登場人物たちのありとあらゆる「静かな勘違い」が折り重なって苛立たしさがいや増していく。サスペンスとしてはよくできているのだろうが,四十年前ならともかく,現在の社会では自動的に陰惨な物語になってしまうことが読めてしまい,すんなりとは作品世界に馴染めない。

『明日訪ねてくるがいい』(ハヤカワ・ポケット・ミステリ・ブックス,青木久恵 訳,1976年)
 未入手。

『ミランダ殺し』(創元推理文庫,柿沼瑛子 訳,1979年)
 カリフォルニアのとあるビーチクラブには,匿名の中傷文の執筆にいそしむ偏屈な老人や,マフィアにコネがあると嘯く粗暴な少年,傍若無人極まりない三十路の姉妹など,奇妙な会員たちがただ暇を持て余している。ミランダはそのクラブで生活する,かつては美貌をほこったが,今は寄る年波に必死の抵抗を試みる──それしか頭にない──中年の未亡人。ある日,そのミランダの行方が知れなくなる。すると彼女が死体となって……と思っていると,彼女の亡き夫の遺言を行使しようとする若い弁護士にあっさり発見される。ではミランダが殺されるのはいつ……と読み進むと,別の人物の死が伝えられる。などなど,読み手の予想が次々と覆される,いわばつっけんどんなテーブルマジックのような作品。……と思っていたら最後に読者に突きつけられる真実は。
 と,サービス精神に富んでいるのか単に意地悪なのかわからないまことにやっかいな作品。ただし,世評があまりに高かったため,期待過多で『殺す風』ほどには没頭できなかった。また,この作品については「ユーモア」ということがよく言われるが,どこが笑いどころなのか,まるでわからない。

『マーメイド』(創元推理文庫,汀 一弘 訳,1982年)
 法律事務所を訪れた風変わりな娘クリーオウ。失踪した彼女を探すことになった若手弁護士は……。
 潮の香りあふれる,ハードボイルドの枠組で描かれたちぐはぐな青春小説。この時期,ミラーはすでに視力を喪い,口述で執筆したのだろうか。だとするとこれだけの長編を書けたということは脅威的。ただ,ところどころ印象に残る場面はあるが,『心憑かれて』同様,誰もが「正常」を少し(ないしたくさん)踏み外しており,誰にとっての悲劇なのか,とっちらかった印象。読み流して終わる。

2005/11/19

『眼の壁』『殺す風』ほか マーガレット・ミラー

997 先月末に取り上げたマーガレット・ミラー,『これよりさき怪物領域』(1970年)以外の既訳作品について,思うところを少しずつ書いておきます。数字はアメリカでの発表年。

『眼の壁』(小学館文庫,船木 裕 訳,1943年)
 交通事故で視力を失った富豪の娘ケルジー。彼女はピアニストとの婚約を一方的に解消しながら,それでも彼を離そうとしない。ケルジーが懼れるもの,そして悲劇の真相とは……。
 デビューが1941年とのことなので,かなり初期の作品。プロットはミラーならではのものだが,トリック先にありき,人物が少し遅れてそれを羽織って,という印象。逆に,ミラー作品としての味わいを求めないなら──つまり少し古風な叙述ミステリとしてなら──この結末はなかなか滋味に富む。とくにサンズ警部の最後の判断はいい。
 気になるのは小学館文庫の校正の品質で,誤植や段落・改行の送りミスが随所に見受けられる。例を挙げるなら,303ページ「彼女もう決して降りて来なかった」,304ページ「もう臭い匂いがしたきたわ」,305ページ「男はすわなち重要な存在のだから」,306ページに改行抜け(「アイダがむっつりして言った。」の後で改行しないと語り手と地の文が噛み合わない),など。本文中の強調用の太字フォントも選択ミスではないか。

『鉄の門』(ハヤカワ・ミステリ文庫,青木久恵 訳,1945年)
 未入手。

『狙った獣』(創元推理文庫,雨沢 泰 訳,1955年)
 ホテル暮らしのオールドミス,ヘレンに,ある夜かかった一つの電話。エブリン・メリックと名乗るその声は最初は穏やかに友情を語り,やがてはヘレンを呪い,その死をほのめかした。エブリンはヘレンの周囲に悪意のこもった電話をかけ続け,やがて……。
 メイントリックのみに注目すると,のちにB級類似サスペンスが多発,またストーカーやサイコパスの話題があふれかえる現在では展開そのものがやや生ぬるい印象。ただ,文章が練り込まれているため,小説としての読みざわりがとてもいい。翻訳もよし。

『殺す風』(創元推理文庫,吉野美恵子 訳,1957年)
 若く凡庸な実業家,ロン・ギャラウェイ。彼はいつものように妻と言い争い,いつものように二人の息子に土産を約束し,いつものように疲れた体をひきずって友人たちの待つ別荘に向かい,そのまま消息を絶った。やがて死体となって発見されたロン。事故か,他殺か,自殺か。登場人物たちと苛立ちを共有しつつ読み進み,最後に真相が明らかになったところで,それ以外の結末があり得なかったことに気がついて愕然とする。表向きの展開の中に,入れ子のようにおさまった別の苦い物語。数年経ってからまた読み返したいオトナのドラマ。お奨め。

『耳をすます壁』(創元推理文庫,柿沼瑛子 訳,1959年)
 未読。解説のページを開こうとして,うっかり本文最後の1行を読んでしまった。大失態。痛恨。打ち身切り傷ヤケド冷え性腸捻転。忘れるまで読み始めることができな~いっ!

(つづく)

2005/11/15

オバケの本 その十一 『稗田のモノ語り 妖怪ハンター 魔障ヶ岳』 諸星大二郎 / 講談社

824【あそこにいますよ あなたたちの 見たいものが…】

 このところバッドチューニングが舌に楽しい『栞と紙魚子』や中国の志怪に想を得た『諸怪志異』など洒脱な奇譚集が続いたため,諸星大二郎が本来怖い作家であるということをうっかり失念していた。迂闊だった。

 新作『魔障ヶ岳』は,そんなつもりで軽く読んでしまうと足をすくわれる。どのページも薄気味悪い。無闇に怖い。
 スプラッターなエグさ不気味さ,幽霊の蒼白い恐ろしさなどとは少し違う。なにかもう少し原初のというか,「祟り」の領域,境内の裏手で踏んではいけないものを踏んでしまったような怖さ。

 山伏も避けるという難所「魔障ヶ岳」の,さらに奥にある忘れられた古代の祭祀遺跡「天狗の秘所」。調査に訪れた稗田礼二郎たちがそこで出会ったものは……。
 今回の『魔障ヶ岳』は「枠組み」の堅牢さに特徴があり,その枠の中でさまざまな事象が複雑に絡み合い,220ページを読み終えるとすぐ最初のページに戻って読み返したくなる。僕の場合,電車を途中下車してドトールコーヒーに飛び込み,結局都合3回続けて読んだ。

 ちなみに「稗田のモノ語り」「妖怪ハンター」「稗田礼二郎のフィールド・ノートより」などという(主に営業サイドの都合と思しき)サブタイトルの山が示すとおり,本作は異端の民俗学者稗田礼二郎が巻き込まれた怪事件を描く「妖怪ハンター」シリーズの新作だ。同シリーズには『海竜祭の夜』『黄泉からの声』『天孫降臨』などがあり,作者の代表作の1つとなっている。
 「妖怪ハンター」は元々少年ジャンプに連載されたことからおじゃらけたシリーズタイトルが付されているが,元々のテーマは「妖怪」レベルでなく,もう少し「神話」に近い領域のモノが扱われている。

 今回驚いたのは,小道具として「旧石器捏造事件」「ラップミュージック」「イラク自爆テロ」「若者のケータイ文化」など,ここ数年の事件や若者文化が違和感なく使われていることだ。
 この作者は元来古文書や土着的な伝承から素材を借りることが少なくなく,作中に今風の風俗を描き込むタイプではなかった。今回は珍しくそれを取り入れ,またなんら違和感なくストーリーに溶け込んでいる。いや,見事に活かされている。
 もちろん「ラップミュージック」や「ケータイ」はあくまで小道具にすぎず,作者の本領たる古代からこの国の闇に伝わる怪しくも恐ろしい存在,しかも「祟り神などではない」モノを描いては余念がない。
 久しぶりに重厚かつ上質なホラー漫画を読んだ気分である。通常の意味でのおどろおどろしい場面も怖いが,それ以上に,すべてにかたがついた後の静かな黒いコマが怖い。

 モノは試し,ご一読をお奨めしたい。あなたならこのモノをどうするだろうか。

2005/11/09

〔非書評〕 テレビはどれほど駄目になっているか 『ご臨終メディア 質問しないマスコミと一人で考えない日本人』 森 達也,森巣 博 / 集英社新書

Photo【じゃあ日本テレビはニュース項目を数字で決めているの? と誰かが聞いたら,当たり前でしょうと】

 楽天 三木谷氏がTBSとの経営統合を目論むも,外野からうかがう限り,失敗に終わる可能性が高い。
 失敗に終わるならその理由は明白で,十分な資金を用意できていない状態から「敵対的買収」を図ったためである(「敵対的」であることには議論の余地もない)。総資産が1兆円といっても,当たり前だが売りにかかれば株価は下がる。現金で1兆円用意できるわけではないのだ。本気でTBSの経営権を得るつもりなら,すぐ自由になる資金が最低でも3千5百億円程度は必要だったと読む。楽天1社にはまだその力はない。
 したがって,三木谷氏に同情はしない。市場のロジックで敵対的買収をはかるにあたり,市場のロジックで弱点があれば負ける。負けなら長期戦にメリットはない。早急に撤退すべきである。

 ただし,その──三木谷氏の挑戦を受けたTBSにも,同情はまったく感じない。

 昨今,放送局に対する敵対的買収やプロ野球球団の存続について,やたら「放送は公共的な存在」「プロ野球の公共性」といったことが口にされるが,なにか勘違いがあるに違いない。

 プロ野球については,公共性,国民的人気ということにあぐらをかいた結果が近年の凋落である。ハゲタカファンドが手を出してけしからぬと声を荒げる前に,手を出せば即ゆるぐ程度の「戸締り」しかしてなかったこと,そもそも今やハゲタカファンドにとってしか魅力ない素材になり下がっている事実を先に反省すべきだろう(TBSは果たしていつまでベイスターズという荷物を保持できるだろう?)。

 一方フジテレビ,TBSなど放送局については,株を買われて困惑するならそもそも株式を上場すべきではなかった。
 株式の上場,公開とは,極言すれば経営権の切り売りである。株主は少しずつ投資せよ,経営には口をはさむな──そんな都合のよい理屈は株主に対して失礼というものだろう。

 (「会社は誰のものか」という命題がある。この命題は抽象的で「会社は株主のものである」とする考えにはさすがに首肯できない。しかし「上場会社における経営権は誰のものか」という命題ならば回答は自明である。経営権は株主のものだ。誰かが株式の過半数(ないしそれにあたる信任)を得たなら,その者が経営権を支配できる議決権を持つ。これは株式というもののもつ,本質的かつフェアなルールである。)

 フジテレビ,TBSは,自社の株式を取得した堀江氏,三木谷氏に対して批判的だったが,外野からみれば,フジテレビ,TBSこそは,彼らが公共性が高いと主張する放送局の経営権を株式上場することで危険にさらした責任を負う。

 さてでは,フジテレビ,TBSなどは本当に公共的なメディアなのか。

 (先に,2つばかり命題を提示しておきたい。数だけをみるなら,カローラやカップヌードルやオセロは利用者が多い。これらは公共性の高い製品として保護されるべきだろうか? メディアに限定しよう。少年ジャンプも週刊ポストもLEONも広辞苑も2ちゃんねるも部数やアクセス数が多い。これらは公共性の高いサービスとして保護されるべきだろうか?)

 現在,民放各局の主業務は,電波を視聴率で切り売りし,広告による売り上げをあげることである。ドラマ,ワイドショーは言うにおよばず,ある1日に事件が10件あり,10分のニュース番組でそのうち5件を扱うといった場合ですら,選択の基準は視聴率である。彼らにとって,売れないニュースは放送に値しないのだ。
 ちなみに筆者は朝昼のワイドショーと夕夜の報道番組の区別がつかない。煽りの大小はあれ,肝心なことが切り捨てられていることについてはまったく同じにしか見えない。記者クラブを対象とする(都合の悪い部分を隠蔽した,あるいは捻じ曲げた)「公式」発表を内省なく垂れ流すのなら,インターネット上のポータルサイトのようにニュース提供元を明確にして垂れ流してくれたほうがよほど(隠された事実の輪郭が)わかりやすい。発表元を不明確にし,あたかもそれが最大多数向けの重大事実であるかのように放送することのほうがよほど危険が大きい。かつて,そのようなものを「大本営発表」と言わなかっただろうか。

 ここで,視聴率を民意になぞらえ,上記のような放送局の姿勢を視聴者の意向の反映とみなすこともできなくはない。だが,民意におもねるバラエティ番組のことをワイドショーと呼ぶ。それは商品としての電波の切り売りのバリエーションの1つに過ぎない。ならば,政府,クライアント,一部の視聴者からの抗議をおそれ,お上の定める放送法に守られ,ただ無難に数字を求める御用メディアになにも今さら「公共」の言葉を冠して尊重する必要はない。

 たとえば,小泉首相の靖国神社参拝について,民放各局が放映するのは,首相が参拝に向かうほんの数秒の画像,あるいは違憲裁判のほんの数行分の判決内容で,せいぜい「内外情勢は厳しさを増すものと」「アジア諸国との関係悪化が懸念され」などの定型コメントを付して終わるというのが通例だろう。これは夏の行楽イベントに対する「ゆく夏を惜しんでいました」コメントと意味のなさにおいて大差ない。
 民放各局は,首相の靖国神社参拝について,靖国神社の特殊性,あるいは首相がアジア諸国の反発をおしてまでなぜ参拝するか,などきちんと報道しているだろうか。討論番組などでの個人発言はさておいて,局として,報道番組としてのきちんとした説明は見た記憶がない。あるいは,違憲という裁判結果について,歴代の首相に強く回答を求めた映像を見た記憶がない(一言尋ね,首相が一言答えてオシマイというのは質疑応答とは言わない。そのレベルのものはジャーナリズムではなく,政権直轄の掲示板と称すべきである。首相が「会話していく」と答えるならせめていつ,誰と,どのように,程度は重ねて追求してほしい)。

 念のため。ここでは靖国神社参拝の是非を話題にしているのではない。
 問題は,他国の反発を招き,違憲の判決が下りるような行為を,行楽イベントと同列に垂れ流し,それで報道を済ませたつもりでいる現在の民放各局の姿勢である。これは事実上,何も考えていないに等しい。
 靖国神社参詣についてみれば,新聞はテレビ局より多少は報道「っぽい」ところはあるが,いずれ「記者クラブ」の恩恵に属した記者団のやっていることは五十歩百歩に見える。いざというときに質問を重ねて真意を問うことができない──結局は強い者の言いなりである。先の選挙で(自民党が圧勝したことの是非はやはりおいて),小泉自民党のメディア戦略にたあいもなくひねられ,迎合する自称プロのメディアの対応はこっけいですらあった。大手メディアがいずれも和田アキ子にはむかえない若手歌手とかぶって見えたといえば多少はわかりやすいだろうか。

 そのような存在ならば,公共性,報道などといった偽りの看板はいったんおろしてしまってはどうか。公益性ではなく,広告クライアントからの利益を最大目標とする私企業であることを内外に宣言してはどうか。
 堀江氏,三木谷氏が適材であったかどうかは別として,なまじ信用ならない公共性などというものをふりかざす現状の経営陣や現場スタッフより,市場,利益という点から明確に事業を語れる人物に任せるのは1つの判断だろう。
 それは,哀しいことではあるが,現在の放送局の姿,こと「志」において少年ジャンプや週刊ポストにも劣ることを正しく広く提示することにつながるだろう。

 もっとも,ここで書いたような指摘は,すでに手遅れなのかもしれない。

 何がどのように手遅れなのか,ご自身で考えてみたい方には森達也氏と森巣博氏による対談集『ご臨終メディア 質問しないマスコミと一人で考えない日本人』をお奨めしたい。2人の発言がすべて正しいなどとは間違っても言わないし,対談中,マスコミの報道姿勢の問題とその報道内容の(彼らにとっての)是非の切り分けができていないという難点もある。
 しかし,ご一読いただければ現在のマスメディアの問題点についていろいろ思い当たるふしがあるのではないかと思う。そして考えていただきたい。考えていただきたい。

2005/11/07

『暴れん坊本屋さん(1)』 久世番子 / 新書館 UN POCO ESSAY COMICS

6841【今欲しい! 今売りたい!! しかも沢山!! 今!! そーゆー本は思い通りに入ってこない事が多い!!】

 思ったよりオバケ本に手間取って,紹介が遅れてしまった。
 表紙がすさまじくてちょっと引いてしまうが──表紙に限らず中身も全ページこのオバQなのだが──この本を早くから平積みしていた書店は信用できる,かも,しれない。

 本書は,マンガ家久世番子が,大型書店で働く日々の出来事を綴ったギャグマンガ。書店業務の大変さ,出版業界のオモテウラを教えてくれる,なかなかにスパイシーなカリカチュアとなっている。

 くどいようだが絵柄は豪放だし(ほかになんと言えばよいのか),ボーイズラブの「あっやだ,びくっ」なイラストは唐突に出てくるし,オフィスや電車の中でおおっぴらには読みづらい。しかし,書店店員の知られざる仕事や工夫,とんちんかんで迷惑な客とのやり取りなど,これまでになかったブラックな笑いがたまらない。

 「『サティ』って雑誌ない?」→「正解:サライ」,「『誠のうわさ』って雑誌……」→「正解:噂の真相」など,お客さんの言うタイトルは「6割がた間違ってるね」話の究極は「新聞に載ってたアレ」「ハリー・ポッターの書いた『ビーターラビット』」だし,店舗オープン準備中にコミック本全部にビニールのシュリンクをかける話には,取次への返品時に袋を全部はずさねばならないというオチがある。新古書店に転売するために売れ筋本を大量万引きするあくどい手口や,ドリルの解答集をなくして書店店頭に答え合わせにくる親子……。

 1個の職業のノウハウ,苦労話を集中的に描いたマンガには概して秀作が多いのだが,本品はその典型。豪放な絵柄(くどい)ながら,ここに描かれた書店店員たちがいずれも無条件に本好きであることが,読み手にもまた無条件に嬉しい。

 シリアスに見れば『出版大崩壊』や『だれが「本」を殺すのか』でも取り上げられた,書籍流通の問題点の書店側からの検証レポートと読め,本好きなあなたなら手に取って絶対損はないだろう。ただし,「本屋の店員さんはこんなふうに客を見ているのか。すると……」,と,あのあたりのコミックやあのあたりの写真集を買いにくくなっても,当局は一切関知しない。

2005/11/01

『宗像教授異考録(1)』 星野之宣 / 小学館 ビッグコミックススペシャル

159【この目は閉じてる── 見えねえ目だ。】

 宗像教授に解けぬ謎なし。
 『諸怪志異』が6年ぶりなら,こちらは3年ぶり。こっパゲ,黒マントのヒゲおやじ,『宗像教授伝奇考』シリーズ(既刊7巻,潮出版。いずれも潮漫画文庫でも入手可)が,装い新た,発表の場も変えての復活である。

 本シリーズは,民俗学の権威──ただし学会,教授会では異端扱い──の宗像伝奇(むなかたただくす)教授が,記紀や口碑に伝わる「謎」に遭遇してはその都度思いがけない仮説や豪快な推理を示して周囲を圧倒する,というもの。

 楽しみは,なんといっても日本人が古くから慣れ親しんできた伝承や民話をまな板に乗せての奇想天外な謎解きにある。しかも,そのいくつかは宗像教授の専門分野という設定の鉄器文明伝播とからめられ,トータルとしての説得力もなかなかだ。
 各地に昔話の残るダイダラ坊をギリシア神話の巨人族タイタンに見立てる「巨人伝説」,平将門と西遊記の奇妙な一致に天海僧正までからめた「西遊将門伝」,瓜子姫とシンデレラの類似を指摘し、殺人事件をも詳らかにしてしまう「瓜子姫殺人事件」など,いずれも作者の博識,取材に基づいた展開のワザが冴える。

 もちろん,サービス精神旺盛な星野之宣だけに,文字による解説,アームチェアディテクティブに終始するわけはない。
 あるときは日本を縦断するフィールドワークに紀行ガイド,あるときは怨念濃密な土着ホラー,あるときは伝説に綾なす悲恋物語,またあるときは果敢なアクションスペクタクル(現世滅亡をはかるカルト集団に教授がたった一人で闘いを挑むような話まであり)と,一篇ごとに素材を変え,味わい,速度感を変え,エンターテインメントとして間然するところがない。
 テーマの多くはその時代時代の宗教と密着しているが,それを解明する各作には宗教臭が一切ない。それが読み切り中・短編という形式と相まって,前頭葉をほどよく爽快に刺激してくれる。たとえば,信長を酒呑童子に重ねた「酒呑童子異聞」の読後を支配する寂寥感にいたっては,異論もあるだろうが,伝奇漫画における1つの到達点と思われてならない。

 発表の場をビッグコミックに移しての新作『宗像教授異考録(1)』は,既刊の7冊に比べて最もよい出来とは正直言い難いが,新たなライバル(星野ファンならどこかで見た人物である)も登場し,今後しばらくは退屈せずにすみそうだ。まずは喜ばしい。

 ところで,この宗像教授や鯨統一郎『邪馬台国はどこですか?』『新・世界の七不思議』の宮田六郎によって示された古代史の謎解きは,本家の歴史学,民俗学の世界からはどのように見えるのだろう。凡庸な定説や根拠不明瞭な俗説より,彼らの諸説のほうがよほど説得力があるようにも思われるのだが……。

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