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2005年10月の9件の記事

2005/10/31

『これよりさき怪物領域』 マーガレット・ミラー,山本俊子 訳 / ハヤカワ・ポケット・ミステリ・ブックス

072【事故と呼ばれるものをよく調べてごらんなさい。決してただの偶然じゃあないってことがわかりますよ。】

 通りの向こうで誰かが弾いているバイオリンのような味わい。音色はあるときは苦く,あるときは遠い。

 ……などと情緒寄りの比喩で書き起こすのは,おおむね,「面白いのだけれど,紹介の仕方がうまくまとまらない」場合である。これなんかまさにそんな本ですね。

 マーガレット・ミラー(1915-1994)はアメリカを代表する女流ミステリ作家の一人。ロス・マクドナルドの妻でもあったそうだ。
 作品は強いて分類すれば心理サスペンス。あらすじや結末だけ見るとTVのサスペンスドラマと大差ない。ただし,楽器の質が違う。
 登場人物の「失踪」をモチーフとすることが多く,その失踪と同時に触れてはいけない日常のカードが一枚一枚さらけ出され,最後のカードがめくられたところで真相が明らかになる。猟奇的な殺人事件を重ねる昨今の作品より,ある意味で残酷な結末。残された者の漠とした苛立ちがユーモアさえ交えて静かに描かれる,中期から後期にかけての作品が好ましい。

 作品の多くは絶版ないし品切れで,新刊での入手が難しくなっている。これまで一番心に残ったのは創元推理文庫の『殺す風』だが,今回たまたま手に入った『これよりさき怪物領域』もとてもいい。届いたその日のうちに読んでしまったが,何年か経ったらまた読み返したくなるに違いない。ストーリーはざっと次のようなものだ──。

 メキシコとの国境に近いサンディエゴの片田舎,オズボーン農場の若い農場主ロバートが一夕失踪してしまう。大量の血痕や血のついた飛び出しナイフなどから,彼はすでに死んでいるものとみなされるが,懸命の捜索にもかかわらず死体は発見されない。物語はその1年後,待つことに倦み果てた新妻のデヴォンが州裁判所に彼の死亡認定を求める時点から始まる。デヴォン,ロバートの母アグネス,農場マネジャーのエスティバール,近隣の農場主レオ・ビショップ,警官バレンスエーラたちの会話からロバートの姿がゆっくりあぶり出され,事件の意味が少しずつ書き変わっていく。そして──。

 探偵が鮮やかな推理を見せるわけではない。ヒーロー,ヒロインが犯人を追い詰めるわけでもない。
 展開に際立った起伏はないし,結末の意外性も昨今から見ればそれほど強烈なものではない。
 ただ,残された者たち,一人一人の微妙な感情──痛痒とでもいうか,それがじわじわと染み広がり,読み手の部屋の空気まで変えてしまう。

 ミステリとして物足りなさを指摘するのは容易だろうが,上質な映画を見る気分が得られることを思えば枝葉に過ぎない。もちろん,作家が映像化を前提として長編を書き散らすようになる前の,古きよき時代のよき映画についての話である。

2005/10/28

〔プロ野球雑感〕 新リーグ案再燃

 巨人・渡辺恒雄球団会長(79)が24日夜,オリックス,村上ファンドを球団,もとい糾弾,さらに一方でライブドアによる広島カープ買収計画も暴露して,「ハゲタカファンドの運営するハゲタカリーグと,正々堂々と試合をする反ハゲタカリーグを作ればいい」と巨人を含めた数球団による新リーグ創設プランを口にした。

 ……という報道を元に,それでは新リーグはどのような顔ぶれになるか,ひとつ考えてみよう。

 今回,渡辺氏が怒ったのは,野球協約では球団の二重所有を禁じているにもかかわらず,オリックスが村上ファンドの株式を45%保有しており,その村上ファンドが阪神,横浜,西武の株主となっているということだ。また,楽天がすでに球団を持っているにもかかわらず,横浜の親会社であるTBSの筆頭株主となったという構造である。

 そこで。
 氏の言う「ハゲタカ」を,会社の売買(M&A)で利益を上げる投資会社,もしくは氏の嫌いな小口無担保の消費者金融を身内に持つ企業と定義してみよう。すると新プロ野球リーグは

  ハゲタカリーグ:
    オリックス,阪神,横浜,西武,楽天,ソフトバンク

  反ハゲタカリーグ:
    巨人,中日,広島,ロッテ,日ハム,ヤクルト

と,ちょうど6チーム同士に分かれることになる。

 しかし。
 もし,ライブドアが広島の買収に成功すると,その均衡はあっけなく崩れる。

 さらに。
 もし,ハゲタカリーグ側が「ボビーマジックでいちやく人気のロッテは欲しい」「新庄の日ハムは外したくない」「古田はうるさいので手元で監視したい」と考えたとき,楽天・三木谷,ライブドア・堀江,ソフトバンク・孫各氏のいずれかがロッテ,日ハム,ヤクルトの株を数十億円分ばかりも取得すればよいのである。そうすれば,反ハゲタカリーグ加盟球団協約(?)の規定によって,それらの球団は自動的にハゲタカリーグに移行してしまうことになる。

 その結果,新々プロ野球リーグは,

  ハゲタカリーグ:
    オリックス,阪神,横浜,西武,楽天,ソフトバンク,広島,ロッテ,日ハム,ヤクルト

  反ハゲタカリーグ:
    巨人,中日

の2リーグ制となる(新聞社は株式を公開していないので購入できない)。

 すると。
 ああ。確立2分の1でも,オレ流・中日に負け越して優勝できない巨人の哀しさよ。

〔追記〕
 上のように書きましたが,ロッテは株式を公開していません。念のため。

〔さらに追記〕
 と書いたまま,アップをぐずぐずしていたら,今度は「オレの生きている間は12球団2リーグ」なんて言い出しているようですね。まったくあのオッサンは……。

2005/10/24

オバケの本 その十 『夢みる妖虫たち 妖異繚乱』 川端邦由 編 / 北宋社

509【人はこれを虫袋と呼んで恐怖する。】

 ふと。
 密室トリック,鉄道アリバイ,吸血鬼ホラーなど,世にアンソロジーさまざまに競う中で,「虫」にテーマを限定したホラーアンソロジーを読んだ記憶がないことに思いいたりました。

 「虫」の登場する怪奇小説が少ないとは思えません。つまらないとも思えません。十分面白い(気持ち悪い)アンソロジーが組めそうな気がするのですが……。

 一つに,「なぜか突然大発生,ウゴウゴ人を襲う」パニックものが主流で,長編が多いということがあるかもしれません。
 しかし,虫の怖さ,気持ち悪さは,たくさんわらわらという現れ方以外にもいろいろあるはずです。
 たとえば,毒。あるいは蝶や蛾の鱗粉への生理的嫌悪。もしくは虫の側に悪意(?)はなくとも,ぶちぶちと踏んでしまう気色悪さ。

 探してみたところ,北宋社に『夢見る妖虫たち』というアンソロジーがあることがわかりました。収録作品は

   I 羽化(メタモルフォーズ)するもの
      妖蝶記(香山滋)
      タマゴアゲハのいる里(筒井康隆)
      蝉(登史草兵)
      雨祭(森内俊雄)
      虫づくし(新井紫都子)
   II 人を壊(やぶ)る
      泰皮(とねりこ)の木(M・R・ジェイムズ,紀田順一郎訳)
      蜂ガ谷庄(岡本好古)
      いも虫(E・F・ベンスン,平井呈一訳)
      復讐(ジャン・レイ,榊原晃三訳)
      羽根枕(オラシオ・キローガ,安藤哲行訳)
    解題 地より湧きでるものたちの夢(さたな きあ)

という具合で,不勉強にして初めて聞く作家も何人かいますが,なかなか力瘤のうかがえる顔ぶれではないでしょうか。

 ただ,全体にホラー,怪奇というよりは「幻想文学の素材に虫が出てくる」印象の作品が少なくない。
 前半「羽化するもの」に顕著で,筒井康隆「タマゴアゲハのいる里」にしても,期待した崩落感や底なしに黒いギャグはありません。登史草兵「蝉」に出てくる虫は蝉1匹。どちらかといえばその蝉より,ほかのあるモノのほうが妖怪めいて段違いに恐ろしい。森内俊雄「雨祭」も非常にいやな話ではありますが,虫より主人公が直面する不条理な状況,言動のほうに恐怖があります。
 唯一,新井紫都子「虫づくし」こそは正面から虫に挑んだ作品で,個々の虫の描写には透徹した存在感があります。ただ,これだけ密度が高いと,もはや散文詩の領域で,息を止めて数ページが限界,これ以上長いと何か別の縦糸をもってこないと読み切るのがつらいでしょう。

 一方,いよいよ(?)虫が暴れまわる後半「人を壊る」ですが……それぞれ短編小説としては無駄なく緊張感あふれるものばかりですが,こと「虫」の異様さ,気持ち悪さが全面的に描かれているかというと,どうも少し物足りません。
 E・F・ベンスン「いも虫」に登場するいも虫は,ある同音異義語を持ち出すために描かれており,ホラーとしては秀逸ですが,蝶や蛾の幼虫の生態としては少し無理を感じます(なお,この同音異義語は阿刀田高も作品中で扱っていました)。ジャン・レイ「復讐」では,虫はその他大勢の役どころ。オラシオ・キローガの「羽根枕」でようやく間違っても触りたくない虫が登場しますが,この作品では逆に虫以外の怖さがもの足りません(ほんの6ページの掌編とはいえ,被害者の若妻,その夫,医者や女中にいずれも影がなさすぎます。少なくとも夫はもっとエキセントリックであってほしかった)。

 本アンソロジーで,「この味付けがやや弱い」と思われたのは,先にも触れた虫の怖さのさらにもう1つ別の側面,小さいがゆえにヒトの体内に入り込んでしまう,あのおぞましさです。
 たとえば人の皮膚に卵が産みつけられ,孵った幼虫がうごめくのが透かして見える,などという話の気持ち悪さ。あるいは血管を通して脳に入り込む寄生虫のなんともいえない薄気味悪さ。

 もし僕が「虫」をテーマにアンソロジーを編むなら,ぜひとも収録したい作品をいくつかあげておきましょう。とくに最初の2編は,「虫」に対する生理的嫌悪抜きに,ホラー短編としても絶品です。入手が難しい本もありますが,機会がありましたらぜひご一読ください。そして食欲をなくしてください。
    埋葬虫(津原泰水)
    反乱(村田 基)
    虫愛づる老婆(草上 仁)
 長編では『孤虫症』(真梨幸子)が注目です。

2005/10/20

オバケの本 その九 『諸怪志異(4) 燕見鬼』 諸星大二郎 / 双葉社

225【違うね 邪じゃない】

 『諸怪志異』は,北宋末期の中国を舞台に,さまざまな妖異,怪事を描いた作品集。『捜神記』や『剪燈新話』,『聊斎志異』等から拾ったバケモノ噺が中心ですが,いずれも独自のグロテスクな味付けがコクマロで,よい意味での(?)悪趣味至極,絶品です。

 連載開始当初より,道士の五行先生とその弟子の燕見鬼(妖異を見破る能力を持つ。幼名は阿鬼)の二人が怪事を暴く話と,時代や登場人物を限定しない読み切り怪談とが,ほぼ交代で発表されてきました。サニー・トーンズの歌うエンディング「恐怖の町」も魅力的ですね。

    ♪闇を引き裂く 怪しい悲鳴
     誰だ 誰だ 誰だ
     今夜も 悪魔が 騒ぐのか

 ……おっと,これは円谷プロの『怪奇大作戦』(昭和43~44年)でした。ぺしっ。

 さて,『諸怪志異』は非常にゆったりしたペースで双葉社の「漫画アクション」誌に掲載され,1巻めの「異界録」が1989年5月,2巻め「壺中天」が1991年2月,3巻め「鬼市」が1999年10月と単行本化されてきたのですが,その後の「漫画アクション」誌面刷新にともない,続く数話を掲載したところで事実上打ち切りとなっていました。
 今回の第4巻が6年振りの新刊,しかも困ったことに収録作品は一部の書き下ろしを除いていずれも1999年当時の「漫画アクション」やさらにその前に朝日ソノラマ社の「眠れぬ夜の奇妙な話」(ネムキ)誌などに掲載されたもの。これはつまり,6年経っていまだ『諸怪志異』を継続して発表する場がないことを示しています。

 さらに困ったことには,この諸星大二郎,画風作風からしても決して筆が早いほうでなく,『諸怪志異』もこのままでは二十年,三十年がかりの長期連載になってしまうおそれが……いったいいつになったら第3巻の後半から続いている(はっきり言ってそう面白くない)『諸怪志異』初の長編「推背図」編に決着がつくのでしょうか。

 一方,4巻巻末に付録的に掲載された「土中の怪」「麗卿」2編ですが,こちらは実に素晴らしい。
 燕見鬼(阿鬼)がまだ子供の頃の話で,中国の古典的な妖怪や幽鬼を題材に,ただオリジナルをなぞるのでなく,なんとも魅惑的な怪異譚を提供してくれています。

 たとえば──「麗卿」といえば有名な「牡丹灯籠」のヒロイン(幽鬼)名ですが,ここでは設定を変え,視点を変え,「牡丹灯籠」とはおよそ異なる少し切ない恋愛物語となっています。やや読み飽きた気味のある「牡丹灯籠」をこんなふうにアレンジしてしまおうという意欲,発想だけでもう脱帽です。
 もう一方の「土中の怪」は,「媼(おう)」というあまり聞き慣れない名前の,土の中から現れるキショク悪い妖怪を軸に,悪意に満ちた話となっています。とくに,羊のようで犬のようで豚のような「媼」の造形,また復讐を果たす白い服の少女の墓所での立ち居振る舞いがスピリチュアルでなんともいえません。
 作者には勝った負けたの剣劇アクション化した「推背図」編などとっとと片付けて,この2編のような読み切り短編に力を注いでいただきたいと切に願う次第です。

2005/10/17

オバケの本 その八 『あやかし通信『怪』』 大迫純一 / ハルキ・ホラー文庫

966【濡れ雑巾が砂の上を引きずられるような音だったという。】

 筆者の友人,知人が直接体験した恐ろしい話,奇怪な話を取材して書き起こした全46話。

 設定,構成が木原浩勝,中山市朗による『新耳袋 現代百物語』によく似ていますが,これは『あやかし通信』の筆者たる大迫氏が,木原・中山両氏の大学の後輩にあたり,『新耳袋』の企画にも初期は参加していたためとのこと(一部に共通の知人から取材したと思われる話も収録されています)。「あとがき」によると大迫氏が彼らと袂をわかったのには何か「わけあり」だったもようですが,そのあたりは当方の興味の外なのでこれ以上は触れません。

 掲載されている怪談について。
 『新耳袋』もそうですが,筆者個人による怪異観の主張がやや五月蠅い面がありますが,それを除くと──つまり収録された怪異譚そのものを見ると,プリミティブというか,取材したものをそのまま削りも磨きもせずに載せた風情です。いったん木綿を水にさらした感のある『新耳袋』に比べて夾雑物が多いだけ,「怪しさ」の塩梅も濃い,そんな感じです。
 ここで「怪しさ」というのは,語り手がどこかで読み聞きした既存の怪談を語っているだけかもしれない,単なる勘違いかもしれないといったいわゆる“眉唾”の「怪しさ」もありますし,一方そうではなくて何か本当におかしなことが起こったのかもしれないといった「怪しさ」もあります。
 本書がインターネット上で話題になるほど怖いとされたのなら,その故はそのあたり洗われていない「怪しさ」の原石のごつごつした手応えにあったのではないでしょうか。

 そういうわけで本書は,『新耳袋』が第十夜で完結してしまったことに無沙汰を覚えている方,あるいは最近の『新耳袋』になにかこざっぱりした物足りなさを感じておられた方にお奨めです。

 ところで,本書『あやかし通信』を読んでいて,ふと,気になったことがあります。

 本書の「第一夜」は幽霊の話で始まります。そこで,幽霊とは

    生臭い風とともに人魂をともなって,ひうどろどろ,と現れる,あの幽霊である。

と説明されています。
 もちろん,その後に続く幽霊譚は平成の実録怪談ですから「生臭い風」などともなわず,「人魂」も……。

 ちょっと待ってください。その,「人魂」は,平成の現在,いったいどこに行ってしまったのでしょう?

 「人魂」といえば,この国の怪談を形作る伝統的な怪現象の一つであり,最近の文庫を見ただけでも,たとえば江馬務『日本妖怪変化史』では「第五章 陰火と音響」,柴田宵曲『妖異博物館』では「人魂」「怪火」,また今野圓輔『日本怪談集 幽霊篇』でも「第二章 人魂考」と,それぞれ紙数を費やして丁寧に取り上げています。少なくとも昭和三十年代後半までは,「人魂を見た」「怪火が飛んでいた」という目撃談が新聞雑誌に載る程度には珍しくない(とされる)怪現象だったのです。
 ところが,『あやかし通信』『新耳袋』や平山夢明の著書をはじめとする昨今の実録系怪談集では,この人魂の類の怪火をほとんど目にしません。これはいったいどういうことなのでしょうか。

 一つには,怪火の多くが科学で説明されるようになってしまったということがあるかもしれません。
 たとえば怪火の一部は「火球」といって,明るい流星にともなう自然現象と説明されています(「火球」は今年の5月にも新聞紙上をにぎわしています)。また,人魂は,墓地で発生するリン(黄燐)の自然発火によるものなのだが,火葬の割合が高くなった最近は見られなくなった──とする説もあるようです。さらには,かつてなら人魂とされたものが,昨今ではUFOの目撃談にすり替わってしまったものもあるかもしれません。

 しかし,誰かの死に際して幽かに蒼く,音もなく飛ぶ人魂は,本当は変わらずすうすうと飛んでいるのだが,もしや昨今のこの国が電灯で明るすぎて人の目に見えにくくなっているだけではないか──そんな思いもないわけではありません。

 昭和三十年頃の父のアルバムには,ただ「はじめて人魂を見た」と,赤と青の色鉛筆で長く尾を引く火の玉が描かれています。
 いつ,どこで見たのか,幾度か尋ねても笑って答えてくれないまま父は亡くなってしまいましたが,彼が死んだときも,病室の外には静かな人魂が低く飛んだのでしょうか。それとも。

2005/10/13

めざせ俳句甲子園 『アカシヤの星(3)』より「僕らは長く夢をみる」 たくまる圭 / 小学館イッキコミックス

658【僕達には伝えたい言葉がある。】

 オバケの話ばかり続くと祟りがあるんじゃないの? とご心配のあなたに(大丈夫! そんなことはめったにありません……多分……),ここらでひとつインターミッション,オバケなんて一切出てこない,すがしい作品をご紹介いたしましょう。

 2001年,ヤングアニマルに掲載された『吉浦大漁節』は,マンガ好きの間でちょっとした事件となりました。
 まわりをぐるり海に囲まれた小さな港町「吉浦」で,両親を相次いで亡くした少年カジメが真っ直ぐな気持ちを失わず健やかに成長する……などと書くとまるきり課題図書の帯ですが,まぁ実際そんなふうなお話です。
 漁師町を舞台にといえば青柳裕介『土佐の一本釣り』があまりにも有名ですが,晩年の青柳作品は,海の男とは,真っ直ぐな心とは,と「べき」を強く追求するあまり,少しばかり肩の凝る展開に陥りがちでした。それに比べて,『吉浦大漁節』は,とことんほんにゃらとこだわりなく少年と周囲の人々を描き上げています。

 『吉浦大漁節』におけるたくまる圭の画法は,大ゴマと人物のアップを多用したダイナミックな筆遣いが印象的で──ことに母親の病室のシーンはたった6ページながら大きなプールを一気に磨き切るほどの力で読み手を洗ってくれます──自然,描画に力点を置いた作品と見えてしまいますが,何度か読み返すうち,実は(決して器用ではないが)ナイーブな言葉のやり取りにこそ作者の思いが込められていることがわかってきます。だからこそ,登場人物は大ゴマのアップ,あるいは手足を伸ばしたアクションを思い切り描けばよかったわけです。

 そんなたくまる圭の最新刊が,『アカシヤの星(3)』。
 『アカシアの星』は,さまざまな国から訪れた貧しい人々の集うアカシヤ商店街の幼稚園を舞台とするやや波乱含みの佳作ですが,今回ご紹介したいのはそちらではありません。第3巻に併録されている中篇「僕らは長く夢をみる」のほうです。

 「僕らは長く夢をみる」は,たくまる圭が「言葉」へのこだわりに正面から取り組んだ作品と言えるでしょう。なにしろ,本作は「俳句甲子園」を目指す若者たちを描いた,多分マンガ史上でも初めての作品なのですから。
 愛媛県松山市で年に一度開かれる「俳句甲子園」については,「俳句甲子園ホームページ」をご参照ください。ルールや傾向と対策,第7回大会までの詳細な結果報告,対戦者各人の句まで詳しく紹介されています(うあっ,商店街の路上で予選やってるよ。いいなあ。松山に住みたいねえ)。
 「僕らは長く夢をみる」では松山の「俳句甲子園」そのものではなく,本戦に参加するための神奈川地区予選が描かれています。

 無風流なカラスめは俳句はまったく不得手で,この作品中で詠まれる俳句の一つひとつがどれほどの水準なのか,正直申し上げてわかりません。ただ,松山での本戦を目指す吉橋(部長),前野(マメ),金子の3人の高校生を(多少荒っぽく)描いたこの作品が,なにか非常に大切なことを描いていることはわかります。3人の俳句にかける思いはいかにも幼く,青い,甘いと言ってしまえばそれまでですが,その分得がたい瑞々しさにあふれています。

 万人向けとは言いがたい作風,内容ではありますが,少しでも気にかかった方はぜひとも手にとって読んでいただきたいものです。……と,ここで締めに一句ひねれればよいのですが,なかなかそううまくはイルカのしっぽ。

2005/10/09

オバケの本 その七 『日本怪奇小説傑作集(2)』 紀田順一郎, 東 雅夫 編 / 創元推理文庫

237【ネエ旦那,竿はこっちにあるんじゃありませんか。】

 第1巻について書いているうちに第2巻も発刊,さっそく読んでみました。

   日本怪奇小説の独自性(紀田順一郎)
   人花(城昌幸)
   かいやぐら物語(横溝正史)
   海蛇(西尾正)
   逗子物語(橘外男)
   鬼啾(角田喜久雄)
   幻談(幸田露伴)
   妖翳記(久生十蘭)
   怪談宋公館(火野葦平)
   夢(三橋一夫)
   木乃伊(中島敦)
   人間華(山田風太郎)
   復讐(三島由紀夫)
   黒髪変化(円地文子)
   その木戸を通って(山本周五郎)
   蜘蛛(遠藤周作)
   猫の泉(日影丈吉)

 前回の「蛇」同様,今回の「人花」「人間華」の併録は意図的なものなのでしょう。
 また,1巻2巻通して,海上ないし海浜の保養地を舞台とした作品が目立つように感じます。これは選者の嗜好なのか,そもそも海にまつわる怪奇小説が多いのか。小沼丹の短編など読んでいても海浜の別荘地を舞台にした少し気味の悪い話が出てきたりしますから,書き手にとって「腕をふるいやすい」ところがあるのかもしれません。
 海にまつわる作品の中では露伴の「幻談」が出色で,たまたまこの夏岩波文庫『幻談』を読んだのですが,「骨董」(これがお目当てだった)「魔法修行者」「蘆声」といった他の収録作も該博にして枯淡,さらりとした口述の短編はさながら吟醸の味わいでした。

 興味深いのは,第1巻ではまだまだオバケが怪奇の大半を担っていたのに,本集では,若干の偶然や運命のいたずらを除き,いっさいオバケが登場しない作品があるということです。また,オバケが出てくるにしても,「人花」,「かいやぐら物語」(「かいやぐら」は「蜃気楼(シンキロウ)」のこと),「海蛇」など,オバケに向かい合う人間の側が相当に奇ッ怪至極で,オバケが出てこなくとも十分に怪しい話をこさえられそうなものもあります。
 つまり,この時期の怪奇小説では,恐怖の対象が超常現象から人の心の深遠に移ってきた,そういうことなのでしょう(などと書くとあまりにステロタイプで我ながらアナハイリタガリ症候群を併発しそうですが)。
 その限りでこれらの作品は怪奇小説という括りさえ不要で,オバケが出る出ないにかかわらず,単に文学,小説といってよいのかもしれません。

 そういった流れから,続く第3巻の方向性の予測をしてみましょう。

 おそらく3巻で中心になるはずの戦後の怪奇小説については,新しい要素の1つとして,いわゆる「不条理」という設定,展開があるように思います。
 江戸から明治にかけての怪談でしたら,オバケが現れ,登場人物がそれに恐怖を覚え,最後には狂い死にしてしまう……それがオーソドックスなおさまりどころでした(時代劇の勧善懲悪みたいなものでしょうか)。次いでは,近代的自我の浸透に伴い,人の心のありよう,ひいては人間存在そのものの怖さを描く時期に入ります。

 戦後の怪奇小説は,オバケの恐怖を描いた作品もある一方,なにやら得体の知れない「状況」があって,それが説明されるわけでもなく,決着がつくわけでもなく,ただ奇妙な,あるいは異様な読後感を残して物語が終わってしまう,そのような怪奇,怪奇といってあたらないなら「不安」が描かれた作品があれやこれや現れてきます。直接間接を問わず,戦後の不条理文学やSF(この場合,Speculative Fictionと読みたい)の影響も無視できないでしょう。

 このような作風の広がりによって,戦後~現在の怪奇小説は,オーソドックスと思わせて不条理,不条理と思わせてオーソドックスな怪異譚,と,あらゆる手段,手法で読み手の「安心」を揺るがすことが可能になっています。
 ただ,あまりにも間口が広がったがゆえに,逆に一つひとつの作品の衝撃は弱まってしまう……ありていに言えば,読み手がスレてしまって,並みの展開では驚かなくなった,怖がらなくなった,それも昨今の特徴です。

 その結果,角川ホラー文庫に代表されるこの10年あまりのモダンホラーは,こと恐怖という切り口においては,誰が何度味わっても総毛立つような原初的な恐怖,つまりスプラッターな惨劇や病魔,拘束,蟲といった生理的な恐怖の連発に走って,かつてのホラームービーへの先祖返りの傾向にある。……最近そんなふうに思えてなりません。

 さて,まだ発売されていない『日本怪奇小説傑作集』の第3巻の収録作品の傾向はどうでしょうか。
 (実は調べればすでに収録作品は公開されているのですが)誰の,どの作品が選ばれているのか,編者の趣味嗜好や出版社から予想して汗かいて「カイジ」ごっこ「アカギ」ごっこするのも一興。僕はこの編者ならあのあたりは避けてあっちのあたり中心じゃないかと思うのですけどね……。

2005/10/06

オバケの本 その六 『日本怪奇小説傑作集(1)』 紀田順一郎, 東 雅夫 編 / 創元推理文庫

981【お父さん,僕はどうしてこうして居るのでしょうか。お魚のようにではないでしょうか。】

 怪談は,実話・体験談と,まったくの創作作品の2つに大きく分かれ……るわけではありません。
 実話と思えば作り話,作り話と思えば体験談,体験談のはずが中国の古い志怪小説に元ネタあり,などなど,そも怪しい談というくらいですからこの世界の裏オモテは難しい。

 『日本怪奇小説傑作集』は,海外ホラーファンには必須アイテムの一つ,同じ創元推理文庫の『怪奇小説傑作集』(全5巻)の日本版を志向したという短編アンソロジー。明治期から現代まで,この百年あまりの怪奇小説を厳選した全3巻で,7月に第1巻,9月に第2巻,この調子なら第3巻も近日中の刊行が期待されます。

 「小説」とあるので先の分類でいえば創作,作り話中心かと思われますが,開いてみればさにあらず,なかには実話・体験談も含まれています。つまり,本集において重要なのは,創作か否かではなく,作品が怪談,怪奇小説として(その時代を代表して)優れているかどうか,その一点につきるようです。

 また,紀田順一郎,東雅夫という当代きってのこだわり派が練り上げた本集は,作品の選択において,一種独特な緊張感を有しています。
 たとえば,明治期の作家として泉鏡花は絶対はずせない。だが,「   」や「   」を選んだのではありきたり過ぎて読書家の期待には応えられない。さりとて「   」では重厚過ぎて他の作家とバランスが悪い。……等々の逡巡,そしての説得力が言外にこもっており,それがこのラインナップに濃密な印象を与えているのです(「   」のスペースにはお好きな作品名をどうぞ)。

 逆に……もし,鏡花の作品として「海異記」以外のものをあてはめたなら,その途端に八雲は「茶碗の中」でいいのか,その後ろは漱石,鴎外でいいのか,と再検討するハメに陥り,漱石の「蛇」を「夢十夜」に差し替えると内田百・「蓋頭子」を差し替えざるを得なくなり,そのうち春夫の「化物屋敷」,いや続巻にいたるまで収録作が入れ替わってしまう……。
 優れたアンソロジーとはそうあるべきものでしょうし,『日本怪奇小説傑作集』が漂わせる気配はまさにそういうものです。ただ,欲をいうなら,そのようなピリピリした緊張感を読み手にまで強いるのはいかがなものか,またそれが3巻まで同じ精度で続けられるのか,そのあたりが少し気になるといえば気になります。

 いずれにせよ,第1巻の収録作品一覧は以下のとおり。いかがでしょう。

   日本怪奇小説の創始(紀田順一郎)
   茶碗の中(小泉八雲)
   海異記(泉鏡花)
   蛇──「永日小品」より(夏目漱石)
   蛇(森鴎外)
   悪魔の舌(村山槐多)
   人面疽(谷崎潤一郎)
   黄夫人の手(大泉黒石)
   妙な話(芥川龍之介)
   蓋頭子(内田百・)
   蟇の血(田中貢太郎)
   後の日の童子(室生犀星)
   木曾の旅人(岡本綺堂)
   鏡地獄(江戸川乱歩)
   銀簪(大佛次郎)
   慰霊歌(川端康成)
   難船小僧(夢野久作)
   化物屋敷(佐藤春夫)

    ※森鴎外の「鴎」のヘンは「区」でなく「區」

 この中では,たった3ページの掌品ながら,漱石の「蛇」が抜群でした。
 滔々とあふれんばかりの水の音,そこにすっくと立つあやかしの声が野太い笛の音のようで,これが文豪のワザかとうならされます。それに並んだ鴎外の「蛇」は,残念ながら小理屈に落ちていただけませんでした。「蛇」で文豪を並べようという意図に,少しばかり無理があったのでは。

 谷崎の「人面疽」は,直接淫蕩な場面が描かれているわけでもないのにたっぷりネイキッドな肌合いに満ち,ものすごく怖いはずの話が白粉の匂いに包み隠されているような,実にもう恐ろしい仕業になっています。そもそも,これをここで終わらせるか。非道。

 夢野久作からは,どうしてこんな作品が選ばれたのでしょう。
 2巻の解説で「難船小僧」のことが一種“引き合い”に出されていますが,そのためだとすると多少「ため」が過ぎるような気がします。角川文庫や現代教養文庫の夢野本の大半が絶版になって『ドグラ・マグラ』以外の入手が面倒になった今,彼の短編作品へのエントランスとしてなにもこんなガハガハとガサツな作品でなくてもよかったのでは。

 川端の「慰霊歌」についても似たようなことがいえますが,こちらは逆にこのような珍品を発掘,展示したことを評価すべきでしょう。ただ,個人的にはこの方面(降霊など)はパス。

 犀星の「後の日の童子」,何の,後の日なのか。
 子供の幽霊の話は海外の怪奇小説アンソロジーにままみられますが,比べる要もない,青磁のような佳品です。そもそも本作を怪奇小説と言ってよいのかどうか。怪奇小説の定義は,妖怪や幽霊が登場すること,ではないでしょう。童子の去った後の蟲等に妖味は幽かに漂いますが,全体として決して奇怪ではありません。一行一行に,どこか遠くで静かに流れる涙があります。過剰に哀切をうたわず,ため息に留める。さりとて,絶望の深さは底知れず。……これが作家の個人的体験から出たというのなら,作家とはなんと哀しい生き物なのでしょうか。

2005/10/01

オバケの本 その五 『闇夜に怪を語れば-百物語ホラー傑作選』 東 雅夫 編 / 角川ホラー文庫

570【百すじの灯心はみな消されて,その座敷も真の闇となった。】

 「百物語」といえば,ご承知のとおり──人々が集って次々に百の怪談を語り,語り終えるごとに用意した百本の灯心もしくは蝋燭の灯を一つずつ消していくと,最後の一灯が消えたところで怪異が現れる──というものですが,こちらはその「百物語」について,短編怪奇小説,対談,突入ルポ(!),お作法(!!),短歌(!!!)まで,総覧的に集めたアンソロジーです。

 突入ルポといっても,当節ワイドショーふうのじゃらかしを想像してはいけません。なんと文豪・森鴎外が,破産寸前の大富豪が道楽に開催した「百物語」に赴き,その模様を語るのです。さらに,それが実際にいつ,どこで行われたものかを確定せんと当時の史料をあたり,その場で配られた弁当まで調べ上げた森銑三のレポートまでそえて,編者・東雅夫の意気込みや並々ならぬものがあります。

 ただ,いかんせんテーマが限定的だけに,一冊の書籍としてのふくらみにはやや欠ける印象あり。畢竟,「百物語という催しで語られる怪談」ではなく「百物語なる催し」そのものに着目する以上,変格はともかく,正攻法の落としとしては「百物語に招かれていったら,何かが起こった」「何も起こらなかった」,そのどちらかしかないのですから。
 (もっとも,鴎外のルポは,そのどちらでもありません。気になる方は「青空文庫」こちらをどうぞ。)
 テーマをしぼったことによる窮屈さは,収録作品のタイトルをご覧いただいただけでもある程度おわかりいただけるのではないかと思います。

   新説「百物語」談義(京極夏彦&東雅夫)
   蜘蛛(遠藤周作)
   暴風雨の夜(小酒井不木)
   露萩(泉鏡花)
   怪談会(水野葉舟)
   怪談(畑耕一)
   怪談(福澤徹三)
   怪談(杉浦日向子)
   百物語(仙波龍英)
   百物語(森鴎外)
   森鴎外の「百物語」(森銑三)
   百物語(岡本綺堂)
   百物語(都筑道夫)
   百物語(高橋克彦)
   百物語(阿刀田高)
   百物語(花田清輝)
   百物語異聞(倉阪鬼一郎)
   岡山は毎晩が百物語(岩井志麻子)
   贈り物(若竹七海)
   鏡(村上春樹)
   百物語という呪い(東雅夫)

     ※鴎外の「鴎」のヘンは「区」でなく「區」

 実にもう,著者名がバラエティに富んでいるだけに,閉塞感というか,なんともツラいものがありますね。

 細かいことを二,三。
 タイトルだけみても,岩井志麻子が相当に「強い」作家であることがうかがえます。そして,実際に,強いのです。
 概して怖くない話,こしらえた話の多い本書の中で,ほとんど唯一直截に恐ろしいのが「岡山は毎晩が百物語」のラスト数行でしょう。鋭利な刃物で裂くのでなく,生皮も荒い丸太を無理やり腹に突き込まれるような怖さ。

 最近亡くなった杉浦日向子,「その『百物語』の正しい方式をきちんと書いた本が少ないようですので,ここで,正調・百物語をおさらいいたします」などと相変わらず出典も明記せず,どこが正調なのかわかりません(まあ,ここで書かれているのは,だいたいは浅井了意の「伽婢子」からの引用なんですけれども)。いいじゃないですか,ねえ,蝋燭を一本ずつ消す,程度のルールだって。公式なやり方でないとオフィシャルなオバケが現れない,というわけでもないでしょうし。

 森鴎外にせよ,遠藤周作にせよ,都筑道夫にせよ,「百物語」に招かれた作中の語り手がこぞって「け,しようもない」とばかりハスに構えているのが不思議です。ムキになるだけ,余計に青い感じがするのに。祭りにオバケ屋敷が出れば女,子どももろとも飛び入り,「うお」「わあ」と声を上げるくらいでいいじゃないですか。文士の皆さんつまらんところで武張っているなぁ,というのが正直なところです。

 そういえば,「百物語」をテーマにさまざまなジャンルからアンソロジーを組むのなら,マンガにもよくできた作品があっただろうに,という気がします。楳図かずお,高橋葉介,三山のぼる……「怪談集」程度の意味で「百物語」をタイトルに付しているものは除くとしても,探せばもう少しありそうです。

 さらに本書からはずれますが,手塚治虫の中篇に『百物語』という作品がありました。
 『鉄腕アトム』『ジャングル大帝』などの子供向けマンガと,『きりひと賛歌』『奇子』などの大人向けマンガのちょうど中間あたりに位置する作風です。
 主人公,一塁半里はお家騒動に巻き込まれて腹を切るはめに陥り,それを助けた魔女のスダマが,死後の魂と引き換えに3つの願いをかなえてくれる,というもの。もう一度たっぷりと人生をすごすこと,天下一の美女を手に入れること,一国一城の主になること,その3つの願いをかなえるため,一塁は不破臼人という美青年に生まれ変わって戦国の世に挑みます……。
 一読おわかりのように,この設定はゲーテの『ファウスト』にほかなりません(主人公の名前,一塁はファースト,半里はハインリッヒの略,不破臼人もフワウストですね)。手塚は『ファウスト』という作品がことのほかお気に召していたようで,彼の作品中,中長編だけでも初期の『ファウスト』,この『百物語』,そして遺作の『ネオ・ファウスト』がファウストとメフィストフェレスの契約をモチーフとしています(思えば,モブシーンの多い手塚作品を俯瞰して見れば,いずれもなんと「ワルプルギスの夜」的だったことでしょう)。
 それはさておき……実は,なぜこの『百物語』のタイトルが『百物語』なのかは,説明がつきません。ストーリー中にスダマをはじめとする妖怪たちが登場するというだけで,最初から最後まで,一度も人々が集まって怪を語れば怪を招くという「百物語」の催しはかかわってこないのです。
 手塚本人のアイデアの中では,もっと「百物語」にあたるイベントが用意されていたのでしょうか。それとも単に武士の時代,妖怪も登場,という程度の意識でつけたタイトルだったのでしょうか。何か資料が残っているなら,そのあたり確認したいものです。

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