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2005年9月の7件の記事

2005/09/30

オバケの本 その三,四 『江戸怪奇草紙』『新編 百物語』 志村有弘 編訳 / 角川ソフィア文庫,河出文庫

487【いよいよ本式に祟ってきましたよ】

 『江戸怪奇草紙』(角川ソフィア文庫)は,日本近世の怪談5篇を収録したアンソロジー……なのですが,5篇という収録数,220ページ余りというボリュームも中途半端なら,編者の意図が見えてこないのも「ハテ?」な印象です。

 そもそも『江戸~』なるタイトルにふむふむと読み進むと,突然「汽車に乗る金もなし,歩いてゆくより仕方がありません」(「怪談 青火の霊」)で脱線転覆。久留米まで汽車が走るたあ,どこの国の江戸時代じゃ。
 また,「牡丹灯籠」「稲生物怪録」と超のつくスタンダードが巻頭巻末を飾るので大物古典主義かと思えば,その間に発行年も著者名も不明なマイナー作品がはさまっている。ではB級もとりそろえて恐怖を決め手に選んだかといえば怪談「累ヶ淵」の底本となった「死霊解脱物語聞書」は史実に基づいた仏教説話。そんなこんなで怪談としての色合いもまとまりません。

 もちろんアンソロジーの収録作品が長さまちまち内容まちまちなのは別に珍しいことではありませんが,その中にどのような編者の意図,こだわりが込められているか,そこがポイントかと思います。それが,感じられないのです。

 結局,主旨のはっきりしない掻き集め企画本としか伺えず(各篇のタイトルに底本にない「怪談」「妖怪談」を付けているのもなにかこしらえたふう),さりとて有名どころの怪談の資料とするには,編訳者いわく「随所に読物風の工夫を凝らした」点が気にかかります。
 訳出にあたってそれぞれどのように手を加えたかは,あとがきに「勧化的色彩の濃厚な部分や作者の感想なども一部省筆」「誤植・誤記と思われる箇所の訂正や小見出しを短くするなどの補綴」等おおまかに記されています。しかし,アンソロジー全体の意図がはっきりしないだけに,なにか不安がつのるのです。たとえば「人口に膾炙している」からと「死霊解脱物語聞書」の登場人物の名前を「塁」とするのは翻訳の節度を踏み越えていないでしょうか。これでは「稲生物怪録」にどんなオバケが何種類出てきたか,オバケのありさまは原文に忠実なのか,そういった資料としても不安が残ってしまうのです。

 志村有弘氏は中国の志怪本から捕物小説集まで,膨大な書物の翻訳,編纂にかかわってこられた方ですが,どうも全体に焦点が鮮明でなく,アンソロジーにも「ほこりっぽい」手触りが否めません。田舎のバス停横の雑貨屋の菓子棚のように,古い商品が多いだけでなく店主の志向性が見えない。翻訳,編纂作業の中から,オバケや時代小説に対する愛情,夢,恐れといったものが艶として立ち上がってこないのです。

 『江戸怪奇草紙』と同じくこの夏に文庫で刊行された『新編 百物語』(河出文庫)についても,印象は同様。
 本書では『今昔物語集』から『耳嚢』にいたるまで,有名どころの古典から,「鬼篇」「幽鬼篇」「予兆怪奇篇」「人魂篇」など八つに分けて百篇の怪異譚を紹介しています。
 しかし,あとがきによると「伝えられている『百物語』関係書からは敢えて話を取ることをしなかった」とのことなのですが,ではどういうものを選んだのか,そこが判然としません。それが読みとれないのです。

 怪談の古典を紹介する,既出作を避けて新しくアンソロジーを組む,そこまではよいのです。その選択や翻訳翻案,その折り折りの所作ににじむべく「やむにやまれぬ」もの,それがもっとページから伝わるべきだと思うのです。

 そのためでしょうか,「百物語」と称しながら百の一つ手前で留めたり,一篇分だけ通し番号を避けたりする書物が多い中,『新編 百物語』はまことに無造作に百篇に達しています。……が,通読後,天井から手が降りてきたり,奥の座敷でお女中が首を吊っていたりということはとくにありませんでした。

 ことほど左様に,いずれも尋常小学校の国語の教科書のような怪談集。オタク度,マニア色は弱いのですが,しいていえば妙なこだわりがない分,読みやすいのが長所といえば長所でしょうか。

2005/09/27

オバケの本 その二 『聊斎志異』〈上・下〉 蒲 松齢, 立間祥介 訳 / 岩波文庫

189【世間には人に害をあたえない狐はいるけれど,人に害をあたえない幽鬼はいないというのは,陰の気が盛んだからよ。】

 言わずと知れた中国清代の怪異短編小説集ですが,この『聊斎志異』をはじめ,ここ十年ばかりの間に,岩波文庫の新刊や改版本がずいぶんと読みやすくなりました。

 五十刷,六十刷という古典の珍しくない岩波文庫の場合,もともと最近の文庫に比べて活字が小さいということもあったでしょうが,それ以上に「紙型」を用いることの弊害が大きかったような気がします。
 戦前の印刷物の多くは,頭に凸状に文字を刻印した鉛のバーを並べることで組版されました。いわゆる「活版印刷」です。版を保存する際は,活字を組み合わせて作成されたページを「紙型」といって特殊な厚紙にぎゅっと押し当てて凸凹の形で残し,増刷する際はその紙型に再度鉛を流し込んで版下を作成する,そんな手法で再生産を実現していました。鉛でできた活字には欠けや位置ずれがありますし,紙型には乾燥による縮みが発生するため,古い文庫では増刷を重ねるたびに活字が乱れて読みづらくなってきていたのではないかと思います。
 腰の重かった岩波書店も,さすがに印字の品質が気になってか,近年は古い文庫の活字を組み替えたり,翻訳を新たにして再発行したり,といった工夫を進めているようです。
(最近の岩波文庫が写植活字を用いているのか,一気にDTPまで進んでいるのかは,フォントに詳しくないのでわかりません。ただ,『聊斎志異』などの印字並びのクオリティの高さを見る限り,なんらかのDTP(デスクトップパブリッシング)システムを用いているのではないかと思われます。)

 DTPに用いられるPageMakerやQuarkXPressなどのレイアウトソフトは,早い話がワープロの編集機能を高度にしたようなツールですが,これらを利用すると入稿や編集作業が安直簡便な分,活版や写植に比べて,出版社,編集者の「版下」に対する思い入れが失われはしないか,そう心配するベテラン編集者もいるそうです。
 実際,新雑誌を創刊するにあたって,ベースとなるページレイアウトすら検討せず,ただテキストと画像ファイルをメールでデザイナー宛に入稿し,あとはお任せモードの編集者がいて,驚いたこともあります(細い罫線,太い罫線をそれぞれ「オモテ罫」「ウラ罫」というのは活版の鉛活字の仕様から出た言葉なのですが,最近は,その由来どころか「オモテ罫に」という指定がDTPオペレータに通じないことすら珍しくありません)。
 とはいえ,DTPが導入されれば,レイアウトや活字について,その程度の知識でも十分雑誌ができてしまうのも事実です。そのため,最近の雑誌の表紙や記事にはいかにもPhotoShopで文字にエフェクトをかけただけといったタイトルや見出しが目につきますが,目的に合致しているなら効率を喜ぶべきなのでしょう。

 宮沢賢治『銀河鉄道の夜』で主人公ジョバンニが巻頭の「午后の授業」の帰り,家計を助けるために「活版処」で「小さなピンセットでまるで粟粒ぐらいの活字を次から次と拾」うのが活版印刷の活字でした(別役実脚本のアニメ映画でも静かで大好きなシーンです)。しかし,グーテンベルグ以来のそんな活版印刷の文化や技術も,少なくともこの国では事実上滅びてしまいました。今や「紙型」をとる工具も技術者も,ほとんど残っていないそうです。
 是非はいろいろ議論もあるところでしょうが,こと岩波文庫においては,ただでさえ流して読めない思索系カテゴリーの本が多いだけに,最近の新刊の読みやすさは歓迎したいと思います。

 岩波文庫の『聊斎志異』が読みやすいもう1つの理由は,立間祥介氏の訳文の流暢さによるものが大きいと思います。枯淡にして鮮やか,月明かりの下の明晰さ,志怪の気配を上品に伝えてくれて実にもう心地よいのです。また,登場人物たちの会話をいかにも古典といった強張ったものにせず,現代風にさらりと流したのも好感がもてます。

 この上下巻で『聊斎志異』全体の全491篇分の91篇だそうですが,ちょっと印象としては「幽鬼」や「なんとかの精」との恋愛譚の比率が高いような気がしないでもありません。思ったより「怖い話」の比率が低い印象。こんなものでしたっけ。
 「幽鬼」とは日本でいう「幽霊」のことなのですが,当時の中国の死人は,滅するのではなく,幽鬼の世界に移行し,そちらで役人になって働くなど,生活感あふれるものだったようです。こちらの世界と幽鬼の世界を行ったり来たりは当たり前,若い女の幽鬼はハンサムな学生に言い寄られれば「あれぇ」と歓を尽くし,焼き餅はやくわ,子供は生むわ,もうどこが死人なのという大騒ぎです。同じ中国の『剪灯新話』を元とする「牡丹灯籠」の粘着質な幽鬼などむしろ例外的な印象で,アンハッピーエンドな作品においても,さっぱりした大恋愛を楽しむ幽鬼のほうが多数派です。

 そして,その大恋愛において,多くは主人公の若い男が天女のような幽鬼と出会い,愛の行為にいそしむのですが,この表現が,原文がそうなのか訳者の工夫か,バラエティに富んでまことに楽しいのです。ちょっと(悪趣味かもしれませんが)そのいたすところを抜き出してみましょう。

 いきなり抱きしめると,かたちばかり抗ってみせただけだったので,その場でねんごろになった。

「壁画の天女──画壁」

 夢に思った仙女とほんとうに褥をともにして,月の宮居は雲の上と限ったものではないと思ったものであった。

「美女と丸薬──驕娜」

 董は相好をくずして着物を脱ぎ,一緒に寝たが,まるで天にも昇るような心地であった。
 擦り寄って戯れかかられ,ついその気になってまた交わってしまった。

「女狐と二人の男──董生」

 歓を求めたところ,拒む色も見せなかったので,喜んで情をかわした。

「侠女──侠女」

 すると,女がひょっこりやって来たので,また愛をたしかめあった。

「二人妻──蓮香」

 「でも人の精血を受け入れなければ,生き返ることはできないのです」(中略)と言うので,ともに歓を尽くした。

「夜毎の女──連瑣」

 「色気違い。良くなったかと思うと,もういやらしいことを考えるなんて」と言うのを,「せめてものご恩返しですよ」と,ひとつ床に入り,心ゆくまで楽しんだ。

「山中の佳人──翩翩」

 上巻のみざっと見ただけでこんな感じ,どれ一つとして同じ言葉遣いがありません。
 幽鬼も狐の精も,ともかく鬱々とせず,現世の歓を求めて縦横に現れ,語り,褥をともにするか,別れに涙をくれるか,ともかく「いきいき」の一言です。
 全体に,一部を除いて情けなくも受身の貧乏男が多く,勝気で溌剌とした女(の幽鬼や狐の精)が多いのも『聊斎志異』の特徴のような気がします。

 小学生向けジュブナイルから今回の岩波文庫版まで,さまざまな『聊斎志異』の訳本を手にしてきましたが,なんだか年を経るにつれて,ますます現代的な内容であるように思われてなりません。『捜神記』などに通じる素っ頓狂な志怪の面白さもありますが,現代に通用する上質な「短編小説」としての軽妙な味わいがあるのが『聊斎志異』の魅力ではないでしょうか。

 その意味で,今回の通読では,どれ一篇とは決めかねますが,ある程度の長さをもち,ある程度の起承転結を明らかにし,なおかつどこかぽっかり説明の欠けた作品を最も楽しく読みました。
 唐突に現れ,また唐突に去っていった「おきゃん」な幽鬼の娘たちを思い,胸のどこかに穴が空いたような心持の今日この頃です。

2005/09/24

オバケの本 その一 『日本妖怪変化史』 江馬 務 / 中公文庫BIBLIO

822【これが実在しょうがせまいが,かくのごとき枝葉の穿鑿は無用のことで,過去において吾人の祖先がこれをいかに見たか,これを実見していかなる態度を取りこれに対したかをありのまま,毫もその間に仮作の凜入なく材料を蒐集して組織的に編纂すれば風俗史家の能事を終れりとすべきである。】

 これぞまさしく認識体系を再調整し,火照った頭を鎮静化してくれる好著。
 1976年に文庫化されたあと,久しく品切になっていたのですが,昨年,装いも新たに「中公文庫BIBLIO」の1巻として復刊されました。

 もともとは著者江馬務の本業たる風俗史研究の一環として,さまざまな妖怪変化を,古今の膨大な資料から掬い上げ,通覧しようとしたもの。
 文庫,モノクロという制限はありますが,豊富な図版も魅力的です。ひまむしょ入道や山地々,雛の僧など,あまりメジャーでない妖怪変化のぬらくらした図版がなんとも言い難い妙味をかもし出しています(京極堂でおなじみの鉄鼠やのっぺらぼうも図入りで紹介されています。その他,いろいろなホラー作家の元ネタが本書ないし本書の系譜から得られていることがうかがえます)。

 しかし,本書の一番の魅力は,そういった妖怪変化の羅列,いわば「オバケ図鑑」にあるわけではありません。

 「八百万(やおよろず)の神」「百鬼夜行」「魑魅魍魎(ちみもうりょう)」「百物語」などの言葉に示されているように,この国では神やオバケは「たくさん」「いろいろ」いるもの,現れるもの,とされてきました。狐や獺(かわうそ)や河童,鬼や鵺(ぬえ)やろくろっ首……つまり,野や川や市中に偏在,点在するのです。そのためか,古今のオバケ本では,(悪くいうと)ともかくいろいろなオバケを列挙し,それぞれを漫然と論評するような作りが少なくありません。

 それに対し,本書『日本妖怪変化史』は,柳田國男以前の大正十二年に書かれたにもかかわらず,極めて冷静に,妖怪変化をその「容姿」から細かく分類し,位置付けを明確にしています。

 「妖怪」は得体の知れない不思議なもの,「変化」はあるものが外観的にその正体を変えたものと解したらよいであろう。

どうでしょう,これは当たり前のようでその実いまだ新鮮な指摘であり,なんというか目を洗われるような気がします。著者はこの視点に立脚して「妖怪変化」をその「本体」から明哲な系統樹にちゃきちゃきと割り振っていきます。
(見開きページに系統樹として掲載されたものなので少しわかりにくいかもしれませんが,妖怪変化の全体を「変化」と「妖怪」に分け,「変化」はそれぞれ「人間」「動物」「植物 器物」に,「人間」は「現世的」「来世的」,「現世的」は「精神的」「具象的」……,また「妖怪」は「単独的容姿」と「複合的容姿」に,……といった按配。)

 のちに柳田國男も妖怪を分類しましたが,その大項目はたとえば
   山の怪
   道の怪
   木の怪
   水の怪
    :
   動物の怪
といった具合でした。江馬分類のほうに格段に妖怪変化そのものをきちんと切り分けようとする意思を感じます。

 たとえるなら,骨董の焼き物について,「皿か壺か」「陶器か磁器か」とストレートに用途や製法から仕分けようとしたのが江馬流,「織部か古九谷か」「窯変が綺麗寂が」とそのものの由来や品質にこだわったのが柳田流でしょうか。前者は学者のやり方であり,後者は蒐集家のやり方,という気がします。
 どちらがよい悪いの話ではありません。ただ,現代科学にはそぐわない素材だけに,後者に傾いた流れは留めがたく,柳田以降のオバケ研究は,フィールドワークを重視する民俗学の手法にのっとって,まずともかく用例をかき集め,フラットに並べる作業工程に偏ってしまったように思われてなりません。……門外漢がこうまで言い切るのも無茶とは思いますが,つまりはそんな印象です。
(妖怪変化の分類に努めた本書が,コレクションとしても魅力的なのは皮肉といえば皮肉です。)

 本書に図版が豊富なのは,著者のビジュアル嗜好ゆえではなく,妖怪変化の「容姿」を分類する資料として,リアルな図版がまたとない典拠となっているためではないでしょうか。この分類,分析への理性的な意志ゆえに,本書は本来おどろな怪異を語りながら,芯からすがしくなるような読み心地を提供してくれています。

 本書は,最近の文庫本としてはやや薄手で,そのうち本編「日本妖怪変化史」はさらに120ページ程度にすぎません。にもかかわらず,大部の冊子を読み終えたような手応えがあるのは,文章に無駄がなく,短い中に妖怪変化が一つひとつ端的に紹介されていること,さらに加えて,函をきちんと見立て,類の中から典型を選ぶ目があれば,ボリュームなくともより多くを語れるからではないでしょうか。
 私たちも本書の理知的な精神を糧に,ただ脈絡なく右往左往堂々巡るばかりの妖怪談義は慎み,冷静な目と耳をもって妖怪変化を語りたいものです。……って,別にみんなしてオバケを論じなくたっていいっちゃいいんですが。

2005/09/23

オバケの本

 紹介の順番が前後しますが,7,8月は怪談本の何冊かで「無聊を慰め」ました。

 この夏の夜のお気に入りは,ひやひや怖い心霊モノやぬちゃぬちゃキモいスプラッタより,中国や日本の古典的な怪異奇談集のほう。当初からはっきりした心づもりがあったわけではなく,その種の文庫の新刊・復刊を引き金に,読まないまま放置していた書棚の片付けが続いた,そんな感じです。

 それにしてもたとえば『聊斎志異』や『雨月物語』,『耳袋』を読む楽しさ,これは何によるのでしょう。

 最近発刊された蜂巣敦『実話怪奇譚』(ちくま文庫)の前書きには

 つまるところ,本書は,扇情的な事象に惹かれながらも絶えず現実からの逃避を試みるという,気の弱った〝病人〟のためのものなのだ。人生の〝負け犬〟のための書物ととらえてもらってもかまわない。

とありました。さすがに少々へりくだりが過ぎる気がします。
 一方,同じちくま文庫新刊の柴田宵曲『続 妖異博物館』の西崎憲の解説によれば,

 「不思議」は人に「驚異」の感覚をもたらす。「驚異」には効用が多い。……(中略)……大袈裟に言えば,驚異を感ずる度にわたしたちの世界は新生するのである。なぜか? もちろんわたしたちの認識体系がその瞬間再調整されるからである。

とのこと。こちら(とくに「新生」「再調整」!)により本手に近いものを感じますが,いかがでしょう。

 ただ,同じ怪異を扱っても,『新耳袋』や稲川淳二らの現代の怪談と,『聊斎志異』や『耳袋』などの古典では明らかに様子が違います。
 もちろん,後者の,菊の精と契ったり,仙人が悪戯したり,猫が鳩を逃がして残念なりと言ったりとかいう話を今さら信じる者はいないでしょう(いたら失礼)。方や前者の,午後二時にエレベーターで後ろ向きに立つ白い女,自殺者の相次ぐ部屋,髪の長い死者が逆さにぶら下がるトンネルなどは,ひょっとしたらありそうな気もしないではありません。
 しかし,そういった「信じる」「信じない」とは別に,前者は意識の攪乱・動揺を誘い,後者は鎮静・収束を招くという違いがあります。興奮剤と鎮静剤。同じ怪異を扱いながら効果が真反対なのが不思議です。

 このひと夏は,通して,鎮静剤のほうを静かに楽しく読みました。読んだ順も覚えていないいい加減さですが,いくつか取り上げてみたいと思います。

2005/09/18

元気でなにより 『のだめカンタービレ(13)』 二ノ宮知子 / 講談社 Kiss KC

212【近づいたかち 思うたら 離れてく……】

 最近はあれこれ難癖つけて「そこらのマンガに比べればよっぽど面白いのにね」と心の中でごめんなさいしていた「のだめ」だが,新刊は久しぶりにおなかいっぱい。笑えたし,先の展開も気になった。
 つまるところこの作者,この作品,すれ違いが甚だしければ甚だしいほど読み手の琴線に訴える,らしい。良い子はマネをしないように。今回の千秋への天の配剤は,並の人間にはかなりツラいぞ。

 新刊は立ち寄る本屋という本屋で,平積み通り越してヒラひらヒラの三段,四段積みだった。
 「初版限定キャラコレしおり」つき,何十万部刷ったか知らないが,アニメ化,ドラマ化の話題なしで東京ドーム何杯分という領域に入りつつあるこの作品。
 オーケイ,かまやしない。どんどん刷ってどんどん売っておくれ。音楽を描き,人と人の距離を描くこの作品がいくら売れても,そのせいでこの国が悪くなることは決してない。

2005/09/15

あなたは試す 読み手を 『長い道』 こうの史代 / 双葉社(ACTION COMICS)

982【荘介どの それを見てごらん】 ← 「早春の怪談」の一場面。そこらのホラー小説よりこわやこわや……

 ある種のことに妙に勘のよい家人が,こうの史代の作品を一切受け付けない。面白いから,といつものオススメ棚に置いておいても,なんだか,とすぐに返してくる。
 その心持ちや,わからないでもない。被爆の悲哀を棍棒で殴るように描いた前作『夕凪の街 桜の国』はおろか,「のほほん」をうたいにお気楽な夫婦を描いた(ように見える)本作『長い道』にさえ,なにやら,よほど怖いものがある。

 「家族」ではなく「夫婦」を描いたコミック作品はそう多くはない。
 とくに4コマからせいぜい数ページのギャグで展開するものとして,著名なものなると
   坂田靖子『チューくんとハイちゃん』
   秋月りす『奥さま進化論』『ミドリさん-あねさんBEAT!!』
   森下裕美『ここだけのふたり!!』
   みつはしちかこ『ハーイあっこです』(初期)
   業田良家『自虐の詩』
   安野モヨコ『監督不行届』
くらいしか思い浮かばない。

 『長い道』は,ギャグマンガでありながら,これらとはどこか違う。表層的なところでなく,根っこから違う。
 『チューくんとハイちゃん』や『ここだけのふたり!!』では──あるいは『自虐の詩』においてさえ──夫婦は(どのように出会い,どうして結婚にいたったかを問わず)今日も明日も夫婦であることが約束されている。それがゲームの基本ルールなのである。
 『長い道』の荘介と道には,そんなルールへのキマジメさがぽっかり欠落している。
 なにしろ一人暮らしの荘介の前に突然現れた道は,酒の場で,父親によって,荘介の父親に嫁としてタダで受け渡されてしまったというのである。貰い子でなくて貰い嫁。人身売買より軽い。

 荘介は,「派手で金持ちでいつもつんけん怒っている女」好きでギャンブル好きで失業好き(?)のゴクツブシである。心の底では道を愛しながら……などというおためごかしでは説明つかないことも二度三度しでかしてしまう。荘介は一個の成人である。高校生の諸星あたるがラム以外の宇宙人や女医を追いかけるのとはわけが違う。
 かたや道のほうも,ノー天気な風情の下に一筋縄でいかないものを抱く。彼女が荘介のところにきた理由は,その町に彼女の思い人がいたからである。もし,荘介に本当に思い合う相手がいたら,彼女の登場はいかなる意味をもっただろう。もし物語の途中でほかの誰かが道を求めたら,それでも彼女は荘介を選んだのだろうか。

 夫婦マンガの大半は,登場人物が夫婦であることを前提としながら,決して夫婦間のセックスを話題としない。『長い道』が,二人のセックスレスを語り,酒の勢いでのセックスを描き,キスシーンで終わるのはゆえなきことではない。キスはセックスより難度が高い。荘介と道は,連載が終わった時点にいたってすら,まだ十分に約束された夫婦とはいえないのだ。書類上は夫婦であっても2人の間は恋愛関係というも危うく,同棲という言葉さえ似合わない。
 本作は,その2人が,夫婦マンガの登場人物として描かれてよいか否か,それを試すような不安定かつアンバランスな時期を描いて描いて描いて唐突に終わってしまう。逆説的にいえば,夫婦と言いづらい2人を描いたこの作品のみが,正しく夫婦を描いたマンガなのかもしれない。

 『長い道』のもう一つの特徴として,各話,各コマが,さながらギャグマンガの一大実験場と化していることがある。全盛期の赤塚不二夫や『カスミ伝』等における唐沢なをきに匹敵する(一度や二度読んだ程度では気がつかないほどの)大小の挑戦が,むしろクラシカルな,60年代を想起させる絵柄でなされているのだ。
 この作者は,アマチュアなのだな,という気がする。悪い意味でのことではない。また,原稿による収入の多寡,テクニックの巧劣についてでもない(テクニックについては,こうの史代はそこらのベテランプロより格段に巧い)。プロというものが生活の糧として職業を選び,そこに安住できることをひとつの指標とするのに比べ,この作者は決してひとつの作品,ひとつのコマに安住しようとしない。
 前衛的というのともまた違う。当人の衝動が,新しい工夫や実験を勝手に誘発するのである。世界に名だたる登山家たちが本質的にアマチュアだった,そんなあり方に近いかもしれない。

 いかにも私小説ふうなさまざまなシチュエーションと,凝りに凝ったアクロバティックなギャグ技法が,自分のしっぽを食うヤマタノオロチのように複雑な入れ子になって区別がつかない。『夕凪の街 桜の国』は単に登場人物の悲惨ゆえに読み手を引き込む作品ではなかったが,本作においても,おそらく作品を見せる以外に説明のしようのない効果が読み手の「時間」の色合いを変える。

 それがこの作者の(深い淵の前でつい本気のケンカをしてしまうような)底知れぬ怖さである。
 その力は読み手に「参加」を求める。読み流すことができない。流すくらいなら読み飛ばすほうがまし。ギャグマンガにそのような読み方が妥当とは思えないし,もっと「のほほん」,「ほのぼの」とすましてしまえばよいのかもしれない。しかし,そのようにすますことができない。すませられないのが魅力でもある。
 「のほほん」をキャッチフレーズとするギャグマンガと,あれほどツラい思いに読み手を押し沈める『夕凪の街 桜の国』が,ほとんど同じタッチ,同じ読み応えであるというのはいかなることか。
 ……考えてもおよそ答えに近づきそうにないので,同じ作者のもう少しは気楽に読める『ぴっぴら帳』に手を伸ばし,ソファの上でまた「く」の字になる。

2005/09/11

グッジョブ!! なのだが…… 『恋するA・I探偵』 ドナ・アンドリューズ,島村浩子 訳 / ハヤカワ文庫

718【申し分ない? 何もかもがきわめて違法だし,この情報操作を行うには何人かのいささかいかがわしい人物にいくつもの頼みごとをきくと約束しなければならなかった。】

 鳥シリーズのドナ・アンドリューズの新シリーズ,第1作。
 今朝,私鉄駅の書店で発見,先ほど読了。文庫400ページのボリューム以上に読み応えあり。

 従来の鳥シリーズは,アメリカ南部の田舎町に住む鍛冶職人メグ・ラングスローが,家族,親族,友人,はては近所の人々の身勝手な依頼に翻弄,忙殺され,あげくに殺人事件に巻き込まれるラブストーリー(なのか?)だった。
 その作者の新シリーズとなれば,舞台は違えど似たようなユーモア路線を想像するが……あにはからんや,今回の主人公チューリング・ホッパーは人口知能パーソナリティ(AIP),つまりコンピュータのプログラムなのだ。チューリングはユニヴァーサル・ライブラリー(UL)社のシニア・プログラマー,ザック・マローンの開発した会話型リサーチャー(顧客の検索を手助けするツール)であり,その開発工程でさまざまな名作ミステリをスキャンしてデータとして読み込んだ変わり種なのだが,あるときから人間のような感情を持つにいたる。そして彼女は,ある日,自分を開発したザックが失踪したことを知り,彼の行方を追い始める。

 鳥シリーズに比べ,本作では,手放しで笑える場面はほとんどない。本文の約半分が,AIPの独白によるという面もあるが,そもそもプログラマの失踪を追ううちにIT企業内の陰謀に触れてしまうという設定そのものがシリアスなのである。

  科学の時代は終わった。今は企業の時代にはいっているんだ。

 これは重要な登場人物の一人が後半の一場面で述懐する言葉だが,実のところこの言葉の示すものは重い。

 本作は現在のIT産業の構造や今後の展開についての(風刺をやや越えた)苦い批評にもなっているのだが,正直なところ,このチューリング・ホッパーのようなプログラムの存在を許容してよいのかどうか,難しい問題かと思う。ヒトのクローンの命題に近いかもしれない。
 たとえば,アメリカの企業が容認するAIPと,イスラム国家が容認するAIPは異なるだろう。中国が容認するAIPの権限と,イギリスが認める権限は異なるだろう。あるいは子供の教育にAIPをかかわらせてよいのか。そもそも人間の生活に感情をもったAIPをどの程度加担させてよいものか。本作のエンディングは,いかにもハッピーエンドを装ってはいるが,けっこうとんでもない処理である。個人的にはこんな反オープンソースなエンディングにかかわるのは真っ平御免だ。

 作者は,AIPが存在することやその倫理的な権限については十分注意を払っているように見える。そのうえでミステリ,少なくともエンターテインメントとして本作を提供していることは明らかである。
 ただ,ミステリとしてみると,少なくとも本作においてはまだ,主人公のAIPが古今のミステリに長じていることはとくにストーリーに大きな魅力を呈していない。主人公やその友人たち(人間,AIP含む)は開発者の失踪から派生する謎とそれに続く事件の解決をはかるが,どちらかといえばそれは直接自分たちに降りかかってくる災難との戦いであり,多くのいわゆる「本格ミステリ」における探偵たちのように事件に対して第三者的に推理を働かせるわけではない。
 もちろん,ストーリー的にはそれが独特のサスペンスを呼び,作品としては成功しているといってよいと思うのだが,少なくともこのシリーズ第一作については,鳥シリーズほどあらゆる設定が成功しているようには見えない。

 次作品以降に期待,と書きたいところだが,さて果たして次作も読むだろうか? 現時点では留保。肉体派の探偵が主人公のミステリは苦手なのだが,本作はプログラムが主人公でありながら,意外なことにストーリー展開ははっきり肉体派の側に属すのだ。

 以下,雑感。
 
 ソフトウェア業界,あるいはプログラマを登場させるミステリ作品は最近少なくない。本作はその中ではかなりリアリティがあると評してよいように思う。もちろん,(現在のハードウェア環境で)感情を持つAIPというのはSFどころかファンタジーの領域かと思うが,それでも本作においてコンピュータやネットワークシステムが,ハードウェアとソフトウェア,そしてプログラムとデータにきちんと区別して描かれているのは(当たり前のことなのに)けっこう衝撃だ。逆にいえば,その程度の区別もなしにソフトウェア開発者を描いてしまうミステリ作家が少なくないのである。メールそのものと,メールシステムにアクセスしたログとを区別するなど,言ってみれば,この作者はUserではなくAdministratorなのだ。

 ストーリー中で,ことデータ処理とプログラム開発に関しては万能に近いAIPのチューリングが,英語を発声する訓練についてはなかなかうまくいかないシーンがある。しかし,人口知能とは別に,通常の文章をそれなりに発声するツールはすでに何年も前から存在しており(8ビットパソコン時代のBASICにTALKコマンドとして提供されていたものでさえ,文章を聞き取ることはそれなりに可能だった),チューリングほどの,つまり感情を持って自立的に自己プログラムを書き換えてグレードアップできるほどのAIPがうまく会話できないというのは,妙にアンバランスな気がしないでもない。

 技術的にもう一点,いくらなんでもと思うのは,データ転送速度の問題である。専用線を張り巡らした中ならともかく,通常の電話回線を通したダイヤルアップ接続でこれだけの処理は無理。あと,物理的なファイアーウォールはもう少しマシな機能を持つと思うが,これはファンタジーの領域ということでしょうがないか。

 さて,そういった現状の技術的な限界はさておいて,国税庁や電話局をはじめ,あらゆるデータベースに侵入できてデータを取り込める主人公を探偵とするのは,はたしてミステリとしてフェアかどうか? かつてアイザック・アシモフが,未来世界のロボットを刑事としながら,作品内で用意したルールに極めて厳密なミステリを書いたことで知られるが,本作にはそこまで厳格な印象はない。ミステリ40%,ファンタジー45%,SF15%,といったところか。

 今気がついたが,チューリングに一番近いのは,ブリジット・オベールの『森の死神』などに登場する車椅子探偵なのかもしれない。「できる」ことより「できない」ことのほうにサスペンスの重きが置かれるという点で,本作とそれらはまさしく同じ星のもとにある。

 などなど,書きたいことは尽きない。
 読み応えはあったし,面白かったとも思うが,少々疲れたというのも実感だ。ネットワーク上にこんな自己改変,増殖機能をもった巨大なワームがいるかと思うと……。

 できれば次は鳥シリーズがいいな。

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