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2005年7月の6件の記事

2005/07/31

最近の新刊から 『頭文字D(31)』 しげの秀一 / 講談社(ヤングマガジンKC)

8251【敵ながらあっぱれと言うしかない・・】

 購入するまでもなく,この巻はもう必要ないとわかっていたのだが,カバンに持ち歩いている活字本を読むのが少しつらい日があって,ついうっかり買ってしまった。
 結果は予想どおり,いや予想を格段に下回っていたわけだが,ここまできたら逆にある種の作品の陥る傾向の典型的な資料として貴重かもしれない。

 帯に書かれた「高橋啓介(FD)VS.星野好造(R34)」において,この最新巻は200ページを費やして1アイデアを除きほとんど何一つ展開がない。ゴワアアアとかギャアアッとかいったおなじみの効果音の手描き文字が目につくばかりで,ストーリーは何も進まないのだ。対決モノのマンガでは連載開始当初に比べてだんだん1バトルの展開が遅くなり,ページを費やすようになる傾向があるが,あの『アストロ球団』ですら,1試合は長引いてもイニングごとのイベントはたっぷり用意されていたものだ。

 今回描かれる車は,1冊を通してバトルしている当人たちの操る2台のみ。ほかの登場人物によるセリフもたまに出てくる程度。主人公拓海は2コマに顔を出すだけでセリフなし。
 あとはただ,暗い峠の公道を2台の車がドギャア,ドン,ギャアアと走るばかり。同じコマをコピーで三度ずつ使っていると指摘されてもわからないほどだ。

 目次を見ると,ヤングマガジンの連載も,1号につき10ページ程度しか掲載できていないことがうかがえる。毎週,8ページとか10ページ,ゴワアア,ドギャギャだけしか載っていないわけだ。

 辞めたいのに辞めさせてもらえないのか,辞め方がわからないのか。
 辞め方がわからないなら,作者急病のため,でペンを置いてしまえばよいのだ。このまま作品の価値を落としていくよりはよほどマシに違いない。

2005/07/25

最近の新刊から 『大阪100円生活 バイトくん通信』『百鬼夜行抄(13)』

243 マンガの紹介が続いている。マンガばかり読んでいるわけではないのだけれど,最近読んだ本,たとえば小沼丹『椋鳥日記』,幸田露伴『幻談・観画談』,中野孝次『ブリューゲルへの旅』,はては『トーベ・ヤンソン短編集』,マンディアルグ『大理石』と,もうどう取り上げてよいのかまるでわからない。
 いずれも,それなりに動機や知りたいことがあって手にしたものなのだが,正面から語るには荷が重く,隅つつきして済ますのは畏れ多い。ゴメンナサイゴメンナサイと十回拝んで本棚に戻っていただく。
 コミックにしても,あの清原なつの久々の新刊をはじめ,取り上げていない作品が……。

 言い訳はほどほどにして,本題に入りましょう。

『大阪100円生活 バイトくん通信』 いしいひさいち / 講談社

 いしいひさいちの新刊は無条件に購入する。ハズレなど考えられないからだ。

 それでも,比較すれば「なんじゃこりゃ」という単行本もないわけではない。
 本書『大阪100円生活』は,百数十冊にわたるいしい作品の中でも,ワースト5,それも上位を争うのではないか。黙って4コマを並べておけばそれで十分なのに,以前の『となりのののちゃん』といい,朝日新聞社刊行の一部の経済ネタ本といい,編集者が張り切って企画を策すとロクなことがない(『不肖・宮嶋の一見必撮!』もそうだった!)。

 本書では,4コママンガ数ページあたり1ページ,「バイトくん通信」と称するいしいひさいち本人の学生時代の思い出や,冨岡雄一による時代考証テキストがそえられている。
 大きなお世話だ。そんな説明などなくとも,仲野荘は,バイトくんたちの生活は,十分に騒々しく,情けなく,物悲しい。それ以上に何が必要だろう。

 今回収録された130編(いしいひさいちの単行本としては破格の少なさである)の4コマ作品が,そういった編集企画を知った上で描かれたものかどうかはわからない。
 だが,その多くがどことなく説明的で,いしい作品ならではの吹っ切れたところがないように思われるのは,余計な枠組みのせいだけだろうか。

『百鬼夜行抄(13)』 今 市子 / 朝日ソノラマ 眠れぬ夜の奇妙な話コミックス

 10ヶ月ぶりの新作である。

 このシリーズ,購入して一読した時点では,たいてい「今回はあまりよくなかったかなー」と思う。
 ところが,「この作者の絵は人物の区別がつきにくいからな」「相変わらずコマ運びがぐにゃぐにゃで,現在と回想のシーンがまぎらわしいな」と読み返し読み返ししているうちに,「今回はなかなかよかったな」と転ずることがまた少なくない。だから新刊が発売されると必ず買ってしまう。

 さて,新しい13巻はどうだろうか。

 実は,今のところまだ「今回はあまりよくなかったなー」が続いている。
 なんというか,話がばたばた落ち着かない感じで,怖いとか,哀しいとか,頭では理解できても,体の細胞がそのようには反応しない感じなのだ。

 しばらく前から,主人公・飯嶋律の叔父,開という人物が登場しているのだが,この人物が余計に思われてならない。彼は,飯嶋家の血筋だけあって,主な登場人物のさまざまな要素を持ち合わせている(たとえば妖魔が見える,それをある程度コントロールできる,無愛想,顔が律に似ている,など)。その結果,主人公の律を含め,ほかの登場人物との役割分担があいまいになり,話が収束しないのだ。

 そのせいだろうか,開が頻出する今回,いつも活躍する司や尾黒,尾白がほとんど登場しない。それがまた寂しい。

2005/07/18

『史上最強の弟子 ケンイチ』(現在16巻まで) 松江名 俊 / 小学館少年サンデーコミックス

534【ボク,兼一です ……… 白浜兼一です!!】 ← 2巻のこのページ,大好き

 ここしばらく,少年マガジンより少年サンデーのほうが格段に面白い。その理由の1つが,この『史上最強の弟子 ケンイチ』だ(以後『ケンイチ』と略すことにする)。
 ストーリーは『はじめの一歩』や『ホーリーランド』と大同小異の,「いじめられっ子だった主人公が格闘技と出会って強くなっていくと同時に新しいライバルが次々と…」というものだが,笑えて力が入って,ともかく問答無用に楽しめる。

 読書(マニュアル本!)と花を育てるのが好きな,心優しい少年白浜兼一は,進学した高校でいじめ対策に空手部に入るが,そこでも理不尽ないじめが待っていて,部をやめさせられそうになる。そんなとき,彼のクラスに転校してきたちょっと(かなり,かな)奇妙な女の子,風林寺美羽(ふうりんじみう)が,彼に武術の手ほどきをしてくれる。
 実は美羽の家は

   ここは梁山泊!!
   スポーツ化した現代武術に溶け込めない豪傑や武術を極めてしまった者の集う場所!

なるとんでもない道場であり,そこを訪ねた兼一には

   哲学する柔術家 岬越寺秋雨(こうえつじあきさめ)
   ケンカ100段 逆鬼至緒(さかきしお)
   裏ムエタイ界の死神 アパチャイ・ホパチャイ
   あらゆる中国拳法の達人 馬剣星(ばけんせい)
   あらゆる武器の申し子 香坂しぐれ

たちとの生命が縮まるような恐ろしい出会いが待っていた。……

 実は,この作品には,習作とも言うべき前作がある。「週刊少年サンデー超増刊」に発表された『戦え!梁山泊 史上最強の弟子』である(こちらは以後『弟子』としようか)。
 『弟子』も単行本5巻分が発刊されているが,登場人物,設定など『ケンイチ』とほとんど同じで,これはこれで読み応えのある独立した作品となっている。しかし,『弟子』と『ケンイチ』を比較すると,作者が『ケンイチ』を週刊で連載する際にキャラクターや事件をさっくり料理し直し,より美味しくする工夫を重ねていることがよくわかって実に好感が持てる。またその改善の多くが的確な効果をあげており,ストーリーテラーとしての作者のテクニックをうかがうこともできる。

 『ケンイチ』の作品としての魅力……それは,一見臆病にみえて,その実まっすぐな心を持つ主人公兼一が,人間離れした師匠たちとの出会いと修行によって,知らないうちに力と自信を身につけ,望まずして戦うこととなったライバルたちの心をつかみ,肉体のみならず心をも成長させていくことにある。
 ……と,言葉にしてしまうと,なーんだ少年マンガ毎度のパターンか,と思われそうだが(実際そうなのだが),本作は全編格闘マンガ,ヒーローマンガのパロディに満ち溢れており,ちまちましたギャグと迫力あふれる格闘シーンの合間に,ときに素っ頓狂なばかりの兼一のまっすぐな目が描かれると,読み手の心までざばざばっと洗われる──そんな感じなのだ。

 また,今どきのマンガ家には珍しい,作者の徹底したサービス精神も特筆モノだ。さまざまなイベントは読み手がどきどきわくわくするよう細部にわたって工夫されており,話好きの作者と,それを受け取る読み手との幸福な出会いが味わえる。ヒロイン美羽が必要以上にグラマラスに描かれていることなど,正直いってやり過ぎな面も多々あるが,それもギャグの種にしてしまうことでお色気過剰感が薄められている。単行本の巻末にはおまけの4コマが挿入されているわ,カバーの裏にバラエティあふれるイラストが描かれているわ,ともかく冊子として楽しいのも『ケンイチ』の特徴だ。

 また,格闘技マンガではよくあることだが,本作も心にぐっとくる名言の嵐である。
 ぱらぱらめくって目についたものを抜粋してみよう。

   いいか兼一!
   人生にゃ出来るも出来ねーもねえ!!
   あるのは…
   〝やるかやらないか〟だ!!   by 逆鬼至緒

      頭の中で思い浮かぶかぎりの、
      つらい特訓を考えてみたまえ。
      考えたね?
      そんな物は天国だ!!   by 岬越寺秋雨

   ほのかだけが知っていると思ってた…
   お兄ちゃんの中にある強さ!
   この道場の人達にも
   見つかっちゃったんだね!!   by 白浜ほのか

      たしかに
      百の努力は一つの才に劣るかもしれん…
      だが!!
      千の努力ならどうだ!!
      万の努力なら!!   by ハーミット

 ほめてばかりでキリがないが,5人の師匠をはじめ,敵味方のキャラクターがバラエティに富み,マンガ的にとことん誇張された中にもツジツマが合っているところがまた楽しい。
 たとえば先週発売の号では,秋雨の「岬越寺無限轟車輪!!」なる大技が登場した。これは,十数人の敵をばったばったとねじ伏せて輪っかにつなぎ,「たがいの体重を使って関節をきめてある… 外から他人に外してもらわぬかぎりけっして外れん!」という豪快なワザだ。
 このワザが楽しいのは,単に登場人物の超人的な強さを描くだけでなく,梁山泊のツワモノたちの「不殺」,そしてなかでもこの「哲学する柔術家 岬越寺秋雨」のキャラクターに見事フィットして隙がないからである。

 絵柄,コマ運びには稚拙な面もあり,決してプロとしての洗練度が高いとは言いがたいが,少年マンガらしい楽しさという点で,現在連載中のあらゆる作品の中でもオススメするにやぶさかでない。肩肘張らず,笑って楽しみたい。
 ブックオフなどの大型古本屋で探してもなかなか見当たらず,1巻から16巻までもっぱら新刊で購入しているが,古本屋に出回らないのはいったん読み始めると再読して止まらない人が多いのではないか。なにしろ今夜も1巻から読み返し始めてまた止まらない止まらない。誰か助けてくれ~。

2005/07/11

〔プロ野球雑感〕 清原という選手について

 プロ野球について言いたいことはいくつかあります。

 たとえば,交流戦の始まった今年,6月7日は,プロ野球史上,「巨人以外のセ・リーグのチームは全部勝ち!」という,アンチ巨人ファンにとって夢のような1日でした。
 かと思えば,6月11日には,首位の阪神以外のセ・リーグチームは全部負け,という,阪神ファンにとってこれまた夢のような1日。
 このような組み合わせ,試合結果が見られるだけでも,交流戦は成功だったのではないでしょうか。
 来年からはこのセ・パ交流戦,試合数は今年と同じでも,春先と秋の二回に分けて実施してはどうでしょう。セ・パともに首位争いは独走気味で,交流戦を交えたほうがほどよく楽しそうです。

 さて,今回取り上げたいのは,交流戦とは別の話。

 プロ野球の戦績について,よく,「○○がホームランを打った試合は◇戦無敗」と言うことがあります。この○○には清原とか金本とかが入るわけですが……。
 ふと思うに,これは別に清原であれ金本であれ,あるいは松中であれズレータであれ,平均的なホームランバッターならかなりの確立でそうなのではないでしょうか。

 たとえば,当たり前の話として,0点に完封されて負けていれば清原も金本もホームランを打てたはずがありません。
 逆に,相手ピッチャーがB級,あるいは調子が悪くて10点以上取れれば,その試合に勝っている確立は高いだろうし○○がホームランを打っている確立もまた高いでしょう。
 ひるがえって,一発屋の○○がホームランを打てるくらいの相手なら,ほかのアベレージバッターも打てるから負けないだろう,という皮肉な見方もできます。

 その意味では,○○がホームランを打てば無敗,のホームランより,負け試合(つまり相手ピッチャー好調)で放ったホームランのほうが,技術的にも,観客サービス的にも,価値が高いかもしれません。

 こんなことを思ったのは,ジャイアンツの清原について,2つの事件が気にかかったからです。

 1つは2001年5月22日の巨人-ヤクルト戦において,ヤクルトの新人ピッチャー藤井に対して清原がヤジを飛ばした事件。
 この日,終盤まで8対1とヤクルトが大量リードの9回表,2アウトランナー3塁の場面で打席に立ったピッチャー藤井は高いバウンドのショートゴロを打ち,全力疾走で1塁ベースを駆け抜けたものの間一髪アウトとなりました。このプレイに際し,巨人の1塁を守っていた清原が,大量リードしたチームのピッチャーは最終回の打席ではバットを振らないという球界の暗黙のルールを知らないのか,と藤井を非難した,というものです。
 藤井はこの非難に泣き出してしまい,9回裏のピッチングは散々でした。

 もう1つ,これは今年の事件。

 8点リードされた4月21日の巨人-阪神戦,7回2死満塁で藤川の内角フォークに空振り三振した清原が藤川に対して「ケツの穴小さいなぁ。チン○コついとんのか」と発言したというもの。
 つまり,点差がついた試合では,しちめんどくさいフォークなど放らず,ど真ん中にストレート放ってこいや,ということですね。
 ちなみに,最後のボールこそフォークでしたが,藤川はフルカウントまではストレートで勝負しています。三振くらうまで清原が打てなかっただけの話。

 この2つの事件から透けて見える清原という選手は,球界内の現場ルールに安住して,常に真剣勝負を期待する観客を捨て置き,勝負といえないだらしない環境を容認し,それどころか相手にまで強要している,ということになります。

 つまり,清原が打てば連勝,の陰には,大差がつけばど真ん中にストレートを投げてくれる呑気な相手ピッチャーがいるということであり,彼の511本のホームラン記録の一部はそうして作られたと自分で白状している,ということです。

 これって,相撲でいえば八百長発言に等しいと思うのだけど,どうなのでしょう。
 ホームラン王とか,そういった記録を持たないだけに,引退時もはかりかねている,そんな気もします。

2005/07/06

『新耳袋 現代百物語 第十夜』 木原浩勝・中山市朗 / メディア・ファクトリー

506【「あっ,驚かれませんように。驚かれませんように。」】

 独特な怪異譚を蒐集して人気の高い『新耳袋』,ちょっと寂しいシリーズ最終巻。

 「独特な」というのは,要は
   友達の友達が聞いたという,よく出来た話
よりは,
   自分や自分の家族が直接見聞きした,奇妙な体験
のほうを優先する──そう言えばさほど遠くはないだろうか(ただし,当節多発のサイコな話,ストーカーな話は注意深く避けられている。怪異は怪異でなければならない)。

 そのため,怪談集でありながら,「実はその場所ではかつて○○ということがあったのだった(怪現象はその際に死んだ者の霊のせいだった)」というオーソドックスな因縁話は割合少なく,「自分も家族もちょっと信じられないのだが,実際にあったこと(もの)で,その理由・原因もいまだによくわからない」といった一種突き放した怪奇現象の記述が少なくない。

 たとえば,初期の名作(?),坂道を前転しながらおりていくスーツ姿の紳士や,地下の出入り口のない日の丸を貼った部屋,などがその代表といえる。それらは正体を明らかにされることもなく,また通常の意味での幽霊や妖怪とも結びつかない。
 つまり,よくある怪談の一つと安心してかまえていたら,なんともいえない日常のすきまに落とされて薄ひんやり途方に暮れる,そんな話が少なくないのだ。

 しかし,四巻巻末の「山の牧場にまつわる10の話」を頂点に,『新耳袋』の特異性はやがて目に見えにくい袋小路にはまり込んでしまう。

 『新耳袋』は,木原,中山の二人が知人をつてにインタビューを重ねて怪異譚を蒐集したものだが,おそらく『新耳袋』が(映像,文庫化も含めて)知名度が上がったせいだろう,取材に答える側が「いかにも『新耳袋』に載りそうな」話を語るようになってしまう。「オーソドックスな怪談ではない,自分や家族の見聞きした説明のつかないユニークな経験」が拡大再生産されるようになってしまうのだ。
 となると,怪談としての「落ち」の明晰でないそれらの経験談はにわかに緊張感を喪い,第六,七,八夜あたりとなるとほとんど記憶に残る話がない。第九夜,そして最終巻の第十夜にいたっては,とうとうそういう「ユニークな経験」のコピーにも行き詰った語り手たちが,結局はオーソドックスな怪談,都市伝説の類でお茶を濁しにかかった,そんな印象である。
 今回掲載された新撰組にかかわる話などおよそ『新耳袋』らしからぬ内容で,なぜ最終巻巻頭にこんなものが選ばれたのか理解に苦しむ。

 たとえばこういうことだ。
 第十夜には「手」にまつわる話がいくつか登場する。「黄色い水槽」をかきまぜる手や,「天井」に跡を残す手だ。しかし……『新耳袋』なら,これらの「手」は語り手の目に見えるべきではなかったのではないか。

 「それまでの表情を変えて,それは聞かないで下さい,と黙ってしまった。」(「寺に預けられた理由」)
 「いくら聞いても,知らない方がいいと何も言ってくれない。」(「河原の子」)

 本当に怖いものは,現れて暴れるものより,上の二話のように,語られないものにひっそりとひそむ。そして「中へ入られてもあまり驚きませんように」(「賽銭箱」)と申し訳なさそうに断ったりする。

 それでも悲鳴は漏れるものだ。

2005/07/03

『赤瀬川原平の名画読本 鑑賞のポイントはどこか』 赤瀬川原平 / 光文社 知恵の森文庫

099【下手な絵である。色が汚くて,筆先が説明ばかりしている。】

 かつて,ギュスターブ・モローの作品の解説文に「モローの絵は『文学的』ということで非難され続けてきた」という一節があり,若干動揺した記憶がある(新潮美術文庫35『モロー』,竹本忠雄解説)。昭和50年とあるから,少しばかり昔のことだ。
 今なら「それのどこが悪いねん」とけろっと反応できようが,当時はモネやルノワールがわからないと口にすることに後ろめたさを覚えるような,そんな紅顔の美少年だったのである。……誰の話だっけ。

 同じ画集によれば,モローは「私は自分の目に見えないものしか信じない」と断言したとある。その言葉だけで十分だったのだ。

 絵画を見る際に,その意味や物語性を重視したってかまやしないだろう。その結果,ほかの鑑賞者と多少,あるいは多々,作家や作品の評価が変わろうが,それがなにほどのものだ。批評家で食っていくわけでもなし。
 自分の目に見えない,永遠で絶対的なサロメを得るために,ワイルドがあり,ビアズレーがあり,モローがある。それでいいじゃない。いや,もっといい加減に,「あのあたり」「このへん」の意味や物語を写した影として絵画にふれたって,別にいいでしょう。

 だが,困ったことに,この「かまわない」というスタンスに立った名画評は必ずしも多くない。ある画家あるいはその一派を持ち上げるために他をこきおろすことはあっても,トータルしてみれば世間をいくつかに割ったそのいずれかの多数派におもねるテキストが大半である。

 たとえば僕はモナリザを美人とは思えない。
 ルーベンスの脂肪はねとついてかなわないし,フェルメールはほこりっぽい。
 レンブラントは暗いばかりでさっぱりわからないし,印象派の大半は……。

 ようやく今回紹介の『名画読本』に少し近づいてきたかな。

 『名画読本』は,赤瀬川原平が古今の名画を取り上げて紹介するというものである。
 取り上げられた画家は,モネ,マネ,シスレー,セザンヌ,ゴッホ,ゴーギャン,ブリューゲル,レオナルド,フェルメール,コロー,ロートレック,ユトリロ,マチス,ルノワール,アングル,の15人。まことにどうも“日本的”な顔ぶれで,これでそれぞれの代表作をざっとほめたたえれば予定調和な『名画読本』の出来上がり……となってないのはさすが。

 著者は絵画作品を見るにあたって肩書きを信じるな,自分の目で鑑賞しようと主張する。そのために,展覧会でわざと足早に作品を見ることを奨めたり,自分が絵を描いた経験をふまえて名画を語ったりする。
 だから,実は先にあげた15人のうち何人かは,なんと名画家であることを否定するために持ち出しているのである。あのレオナルドすら,全否定はされていないものの,ルネッサンスがなぜダメかを主張するために持ち出されているのだ。

 残念ながら著者の趣味,主義,主張と僕の趣味では相容れない面が少なくない。冒頭のモネから,濁った池の水を飲まされるような気分になる。だが,それは望むところだ。一番いけないのは,ただ過去の評価や周辺の声に迎合することだ。既存の評価を繰り返すだけなら念仏でも唱えてもらったほうがまだありがたい(か?)。

 そして,著者は最後に,この国で名画中の名画としてあつかわれているいくつかの作品を切って捨てる。なにしろその各章のサブタイトルが「「名画」という名のヤラセ産物」に「儀礼的に描かれた絵に魂はない」である。よほど虫の居所でも悪かったのか。いや,その主張は一行一行ごもっともで,ただ感情的に書かれたわけでもないらしい。この2章を得ただけでも本書を購入した甲斐があったというものである。

 というわけで,原平さんに500点,ドン。

 ちなみに,これが「原平さんに全部」とならないのは,僕が苦手な印象派の評価が高いこと,もう一点,肩書きを信用するなと主張する書物のタイトルに「赤瀬川原平の」はないでしょう。

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