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2005年5月の6件の記事

2005/05/27

最近の新刊から 『のだめカンタービレ(12)』『OL進化論(23)』

689 定番2本。いずれも毎回楽しみにしている作品である。
 だが,連載初期と違って「読むのがツラい」面があるのは確かだ。なぜだろう。少し考えてみよう。

『のだめカンタービレ(12)』 二ノ宮知子 / 講談社 Kiss KC

 舞台はフランスはパリに移り,千秋とのだめは相変わらず愉快で素っ頓狂な……。

 そうか? 書評サイトなどでは「やっぱり笑える」「のだめの奇行,ますます」といった評価が少なくないが,本当にそうなのだろうか?

 連載当初を思い起こしてほしい。

 千秋,のだめは言うにおよばず,すべての登場人物が見当違いな,片恋には罵倒,技術には嘲笑,世界への道には飛行機恐怖症と,あらゆる事象があらゆる方角にすれ違い合い,ディスコミュニケーションが満ちあふれ,そのくせそれら登場人物が狭くるしいオモチャ箱のような音楽大学の日常にひしめいていたあのホットさ,あのクールさを。

 今回,25ページ左下,のだめのアップが象徴的だ。背伸びして技巧に走るのだめの演奏を止めようとする千秋に向けたのだめの目は言うなれば「正気」の目だ。連載開始当初の,どこからどこまで浮世離れした“あの”のだめの目は,ここには,ない。

 なぜだろう。27ページ中段ののだめのセリフがそれを説明している。
 「千秋先輩ひとりが(わたしの演奏を)好きだって仕方ないんですよ!」
 「もおっ 的はずれなことばっかり!!」

 彼らは,コンクール,留学を経て,音楽の世界,もしくは世界の音楽と正面から向かわざるを得なくなった。世界的な指揮者が訪れるとはいえ,日本の音楽大学,所詮それはヒヨコたちの「巣箱」でしかない。しかし,だからこそ成り立つストーリーがある。リズムがあり,ファッションがあり,魅力がある。

 音楽の世界,世界の音楽──つまりは「巣箱」から「社会」──に立ち向かうとき,あののだめさえが「的はずれ」,つまりディスコミュニケーションにあえぐ。
 あれほどホットかつクールにバラバラだった登場人物たちが,それぞれ自分を見つめざるを得なくなったとき(今回はそんなテーマばかりだ),そこに展開するのは百年前も千年前も繰り返されたおなじみの若者たちの物語だ。

 パリに舞台を移した『のだめカンタービレ』は変わらずすごい作品ではある。ではあるのだが,もはやあの『のだめカンタービレ』ではない。

『OL進化論(23)』 秋月りす / 講談社ワイドKCモーニング

 クオリティが落ちたようにも見えないのにここ数冊妙に重いなと思ったら,どうやら「35歳で独身で」ネタに比重がかかっているためのようだ。

 前回『OL進化論(21)』を取り上げたときは,美奈子やジュンちゃんたちが働くオフィスのシーン(コマ)が連載開始当初に比べて大幅に減っていることを指摘したが,やはり連載開始から15年も経つと,どうしても作者のオフィス観,OL像は古いものとならざるを得ない。

 たとえば──現在中堅どころの企業のオフィスやそのアフターファイブを描いて,これほど携帯電話や電子メール,パソコンが現れないのは一種異様ですらある。携帯電話やメールを介さない美奈子やジュンちゃんたちの距離感は,「お客様のおみやげ」「社封筒手にしてのおつかい」という古風な風物の中でサザエさん的無限ループを繰り返す。

 こうして,時代に即した変貌がとげられない以上,自然,素材として古色ゆかしき「結婚」「未婚」ネタが多くなるのはやむを得ないのかもしれないが……。

 それにしても昨今の35歳は,この作品で描かれるほどに「結婚」にばかりとらわれているのだろうか。35歳で独身であることの生むペーソスを否定するわけではないが,これほどまでに「結婚」が人生の至上命題であるかのように繰り返されるとさすがに息が詰まる。笑えない。

2005/05/22

続・コミック誌における「戦い」の諸相について

 同じ講談社のモーニングが,最近少しつまらない。

 理由は明白で,『青春の門』,『亡国のイージス』という,別のメディアですでに大ヒットした作品を原作とした作品を表に打ち出し,しかもそれがいずれもとくにマンガならではの新しい味付けもなく──はっきり言えばつまらないからである。
(ちなみにこの感想は一人筆者のものではないようで,鳴り物入りで連載が開始された割に,二作ともあっという間に巻末モノクロページの常連となってしまった。)

 いわしげ孝,横山仁の力量とは別の問題ではないか。

 コミック誌にパワーがあるときには,よそのメディアから原作をもってくる必要などなく,むしろ連載コミックがアニメ,TVドラマ,映画,ゲームなど他のメディアに浸透し,歴史をかたどっていくものだ。モーニングでいえば『沈黙の艦隊』しかり,『ああ播磨灘』しかり,『ナニワ金融道』しかり,『天才柳沢教授の生活』しかり,『ショムニ』しかり,最近では『ドラゴン桜』しかり。

 原作付きが,だから即ちいけないとは言いたくない。映画化,ゲーム化されるから名作ということもないだろう。
 だが。著名作品を翻案すればよし,というだけでは安直すぎる。井上雄彦『バガボンド』のヒットに味をしめたというのなら,それは,コミックとしての戦いを放棄することだ。
 いかに原作が優れていようと,それだけで人の心を揺らし続けられるほど甘い世界ではないはずである。

2005/05/20

コミック誌における「戦い」の諸相について

 先週,2005年24号の少年マガジンの巻末目次の欄外に,以下のような告知があった。

  「トッキュー!!」,「トト!」,「伝説の頭 翔」は作者取材のため,
  「あひるの空」は事情のため,休載させていただきます。ご了承ください。
  なお、「あひるの空」は次号より再開いたします。

 よくある連載マンガの休載のお知らせに見えて,どこかおかしい。
 「事情のため」?

 この手のお知らせが本当のことを言っているわけではなさそうということなら素人にもすぐわかる。「取材」「急病」と言いつつ,結局は「落ちた」「落とした」ということだろう。
 なかには本当の「急病」もあるだろうが(そのまま亡くなった漫画家もいるとは聞いている),取材旅行が前もってわかっているなら前号に「次号は取材のため休載,続きは○号から!」等と掲載するのが普通である。

 いずれにせよ「事情のため」という表記は珍しい。ましてわざわざ「取材のため」と「事情のため」とを分ける理由が想像できない。

 今週,25号の少年マガジンを開いてみると、再開された「あひるの空」の扉ページに、

  編集に事情説明をきちんと記載して下さいとお願いしたのですが,
  休載理由は「事情により~」の一言が載っているだけでした。
  ・・・うん,まぁ仕方ない。
  そーゆうところだからこそ俺は戦っているのだ。(以下略)

となにやら意味深なコメントが手書き文字で書かれている。
 「詳細は単行本に書こうと思いますが」ともある。何だろう。

 なお,「あひるの空」は若手の日向武史によるバスケット漫画。熱心に読んでいる作品ではないため確証はないが,とくに際立って特殊な……「戦い」に立脚しているようには,思えない。

 同じ少年マガジンに「魔法先生ネギま!」を掲載している赤松健は,堀田純司『萌え萌えジャパン』という書籍に掲載されたインタビューで

  この世界は,固定ファンは存在せず,いわゆる作家性などが必要ないという。
  自分の好きなものより,読者のすきなものを探すのが勝負。

といったことを答えているらしい(週刊現代5月28日号,青山栄評より)。
 マンガを,拡大再生産の可能な工業製品ととらえるようなこの姿勢は好みではないが,だからいいとかいけないとか,即断することは避けたい。赤松健の姿勢を否定することは,ハリウッド映画を映像作家のリビドーの発露と結びついてないからよろしくないと断ずるに等しい。

 詳細は不明だがなにやら怒りのこもった個人的な戦いであれ,シェアとマスをコントロールしようとする戦いであれ,あるいは書けなくなってビニール袋にくるまって眠るにいたる戦いであれ,そこには余人にはうかがい知れぬ作品,描くこととの戦いがある。

 日向武史,赤松健,二人の立つところはおよそ違う次元にあるかもしれないが,その作家たちが同じ時代の同じ人気コミック誌に連載をかまえているところが面白い。だから雑誌はいい,と,ここではそれだけを記しておきたい。

2005/05/19

ドーナツブックスいしいひさいち選集 38『ドクトル自爆』 いしいひさいち / 双葉社

790【プルートを散歩させるグーフィーってどうよ,と。】

 おなじみのいしいひさいちアンソロジー,38冊め。通巻の4コマ作品数は4835にいたる。

 単行本が別に用意される「ののちゃん」シリーズを別にすれば,「忍者無芸帖」,「B型平次」,「わたしはネコである(広岡センセ)」,「ノンキャリウーマン」,「バイトくん」,「PNN」,「鏡の国の戦争」シリーズと,今回は特定のキャラクター(たとえば「ワンマンマン」)に偏ることなく,いしいキャラクターたちが少しずつ総出演といった趣だ。
(ゴジラ映画でいえば「怪獣総進撃」あたりか。)

 逆にいえば,その小出しのオンパレードにすら「タブチくん」が入らなくなったことに,プロ野球の凋落をみることもできる。
 プロ野球はいまや地底人並みということだ。

 それにしても,バイトくんが終電に乗り遅れたシーン(4786)に,Andrew WyethのChristina's Worldをもってくるなど,無造作に見えてこの作者の手並みは本当に底が知れない。
 その次のコマ,バイトくんが牛丼屋で夜を明かすシーンの寂寥感。あるいはヒバチにしゃがみこむハチ(4760)や「PNN」における金正男(4816~)など。もはやアヤカシの領域である。

2005/05/14

『失踪日記』 吾妻ひでお / イースト・プレス

245【ダイコンの皮を厚くむくと甘口,薄くむくと辛口の食事になる】

 このところ,新聞の書評欄をにぎわすような,いわば文化人ウケするマンガの単行本が続いて上梓されている。

 その1冊『失踪日記』は,あの“ビッグ・マイナー”吾妻ひでおが,漫画家生活から突然逃亡,自殺をくわだて,そのまま文字どおりの浮浪者生活にうずくまるように滑り落ち,いったんは復帰したものの,配管工の肉体労働からアルコール中毒,強制入院にいたる経緯を淡々と綴った(しいて分類すれば)ギャグマンガである。
 巻末のとり・みきとの対談によれば「全部実話」とのことだが,確かにしのつく雨の中,むしろと穴だらけのシートで眠ってみないとわからないような生活観が全ページに満ち溢れている。
 ただし,当人の弁を鵜呑みにするのは剣呑だ。彼はSFやシュルレアリスム的な手法をもって,ありとあらゆるあり得ない状況をリアルに描いてみせた,現象写生のスペシャリストなのだ。

 『失踪日記』のタッチは従来の作品と同等かそれ以上に淡白で,1巻30篇にわたり,均等な距離から透徹して己を見る目はいってみれば冷静な観察眼のようだ。
 同じ逃避でありながら,親の庇護のもとにひきこもる若者たちとのなんという違いだろう。彼は雨に打たれ,ゴミをあさり,他のホームレスの住まいから酒粕を盗む誘惑に葛藤する。かつて連載作品がヒットし,テレビアニメの原作となった等,マンガ家として脚光を浴びた時代があったということなど抜きに,ここには流水に洗われた木片のように生活の確かな手ごたえがある。

 メジャー誌で活躍当時の吾妻ひでおについて語るのは難しい。
 吾妻ひでおの作品をギャグと思えたことは一度もない。少なくとも笑った記憶がない。
 好きな作家かと言われれば,どうか。家のあちらこちらに,片付けるのを忘れたかのように彼の単行本が落ちており,ときどき手にとるのだが,1冊を通して読むのはとてもつらい。
 吾妻ひでおの描く美少女はちょっと比較するものが思い浮かばないほど魅力的である。魅力的ではあるのだが,作中に登場する美少女はすべて彼のものなのでちっとも楽しくない。
 吾妻ひでおに一見似たギャグマンガ家にとり・みきがいるが,吾妻ひでおに比べれば格段にペンを持つ手が長い印象がある。胸から原稿までに距離があるのだ。吾妻ひでおはそのぶん読むのがつらい。とり・みきは楽に読めるが読まないでも平気だ。

 『失踪日記』が外から己を観ているなら,内側,内臓の陰に身をひそめて己を見つめ,培養された粘液で1日を記録した作品が「夜の魚」で,これは太田出版の芸術漫画叢書(!)の『夜の魚』で読むことができる。
 この「夜の魚」は,つげ義春の「ねじ式」,岡田史子「墓地へゆく道」と並ぶ短編コミックの最高峰(もしくは最深溝)の1つではないかと思う。吾妻ひでおをもってしてもこの水準を維持するのは難しかったらしく,続編と思われる「笑わない魚」では格段に緊張感が喪われている。それどころか,コマのコマを結びつけるツジツマが──このような不条理な幻想譚にツジツマもないものだが──あちらこちらほころびてしまっている。

 1992年9月発行の『夜の魚』には「書き下ろし新作」として「夜を歩く」が掲載されている。これが『失踪日記』の第1話にあたることから,この時期が最初のホームレスからの復帰時期かと思われる。

 『失踪日記』には警察に保護された際,たまたまファンの警察官がおり,「先生ほどの人がなぜこんな……」と色紙にサインをねだるシーンがあるが,実のところ,「なぜこんな……」という感慨はおかしい。
 ある種の表現者がこのような状況に陥るのはごく自然なことで,異とするにはあたらない。
 継続できてしまうことのほうがよほど問題なのだ。

2005/05/02

触手系の本家本元 『うろつき童子(全6巻)』 前田俊夫 / ワニマガジン・コミックス 他

889【我 三千年の 眠りより 今 甦り!!】

 ラヴクラフト紹介の際に触れた「アニメビデオ(OAV)やアダルトゲームによく出現する,闇から伸びてきて美少女を蹂躙する巨大ミミズのような,あのグロい触手」だが,アニオタ,アダルトゲームマニアの間では,これをして「触手系」と称するらしい。
(「触手系」は「陵辱系」に含まれるが,「陵辱系」がすべて「触手系」というわけではない……のだそうな)

 かつて,その「触手系」の元祖と呼ばれるオリジナルアニメビデオがあった。
 『超神伝説うろつき童子』の「超神誕生篇」「超神呪殺篇」「完結地獄篇」全3部作である。
 『超神伝説うろつき童子』は,アダルトビデオとして対象を限定してしまうのが惜しいくらい実によく出来たアニメ作品なのだが,今回取り上げるのは,その原作コミックのほう。

 三千年の眠りより目覚めて甦るという伝説の「超神」を捜し求めて人間界に現れた獣人「天邪鬼」。超神であるかに見えて今ひとつ正体のはっきりしない高校生・南雲辰夫。超神の正体をめぐって獣人と対立し,南雲を襲う魔界の妖鬼たち。そして妖鬼・獣人・人間たちの欲望のままに蹂躙される女たち。……

 『うろつき童子』は昭和元禄バブル繚乱の直前,音楽CDやコンビニエンスストアが若者の生活に定着しつつあった1980年代半ば,当時元気だった官能劇画誌(早い話がエロマンガ)の東の正大関,「漫画エロトピア」(ワニマガジン社刊)に掲載された作品である。
 ワニマガジン社から発行された単行本は全6巻。発行日が6冊とも「昭和61年12月1日」となっているあたり,マイナーコミックならではという気がしないでもない。

 作者の前田俊夫は,アクの強い作家の多かった当時の官能劇画誌でも異彩を放った作家の一人で,ともかくその執拗なまでのペン入れの濃密さに特徴がある。巨根の無頼漢や淫蕩な美女をたてて,濃厚かつアブノーマルなセックスシーンを連発するのだが,写実とはまた違う意味でリアルに──つまり,妖魔,淫獣といった非現実的な存在も含め,あらゆる事象をとことんソリッドに描こうとする彼の意識は,明らかにほかの作家とは異なるものだったように思う。
 もっとも,あらゆる作家がボーダーレスにペンタッチやキャラクター,ストーリーの独自性を競ったのが当時の官能劇画誌の特徴であり,その坩堝の中からその場限りの大傑作,あるいはのちの大作家が生まれたのだが……。

 定期購読率が高かったとは思えない「漫画エロトピア」で,単行本6冊分にわたる破綻のない連載を維持するには,単に読み手に面白いマンガを提供する,あるいはエロマンガを描いて糊口をしのぐ,といった程度の動機付けでは足りなかったはずだ。
 たとえば,同時期,それなりに高い目的意識(美学)をもって描かれたと思われる村祖俊一『娼婦マリー』シリーズ(「漫画エロジェニカ」掲載)にしても,常に読み切り短編といった形しかとりえず,その結果単行本にまとめられた同作品は物語の順序もクオリティもおよそばらついたものになり果てている。

 では前田を動かしていたのは何だったのか。
 三千年の眠りから甦る「超神」が人間界を破壊しつくすというストーリーに,当時の官能劇画誌を支えていた全共闘世代の反体制意識を読み取ることはたやすい。だが,この作品が表向き示している劇画,SF,エロス,バイオレンスといった枠組みとは別の何か,作者自身の事情としか評しようのないカタマリのような目的意識は容易に説明のつくものではなく,それが『うろつき童子』を,現在でも再読に足る作品としているように思う。

 そのモチベーションが結果的に,いわゆる「触手系」という,アンダーグラウンドな嗜好の開祖となってしまったという経緯は,作者にとって望ましいものだったのか,どうか。
 前田俊夫は『うろつき童子』をもってアニメファン,ゲームファンには名をはせたが,彼の情熱はこの作品を形に仕上げたところで昇華(射精?)してしまったかのように,その後は集中を欠いた,いわゆるヌルい作品が続いている。
 ビデオ作品を含めた『うろつき童子』だけが,抜群の高みを示してくれているのだ。

 ……とまぁ,エロマンガを素面でマジメに論ずるのは難しいが,論より証拠は小泉今日子,18歳以上の方は原作,ビデオともどもご覧いただければますますもって帆立貝。

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