十五年の歳月の向こうから 『ラヴクラフト全集(7)』 H・P・ラヴクラフト,大瀧啓裕 訳 / 創元推理文庫
【この群衆はことごとくその顔に,堪えがたい恐怖から生まれた狂気をまざまざとあらわし】
まいりました。
北千住駅構内,スタバ横の書店店頭で『ラヴクラフト全集』の最新巻が平積みになっているのを発見したときの当方の反応は,嬉しい,というより,なんとも困ったな,そういうものだった。
なにしろ,ひとつ前の6巻が発行されたのが1989年の暮れ。ざっと15年前である。
当時なら新巻の発売に手を打って喜んだかもしれないが──いや,記憶は曖昧ながら,第6巻ですら,ラヴクラフトらしさという点において少し物足りない気がして,だからこそ創元のこの全集は6冊でお仕舞いなのだなあという気分が当時の愛読者に共有されていたのではないか……。
このあたり,訳者(編者)による「作品解題」が胸を打つ。頭が下がる。
「傑作集」が出版社からの連絡でいきなり「全集」に化けてしまったこと。個人で「全集」を編纂するのは,一翻訳者にとって資料蒐集をはじめとして時間的,経済的に極めて厳しい作業であったこと。
資料として掲載する当時の雑誌の表紙や挿絵も,かつては「一五〇ミリのマクロを装着したカメラで,ミニ・コピイと呼ばれるフィルムを使って撮影した」ものが,今では「デジ・カメとスキャナーを使って取りこみ,八ビットのグレー・スケール変換と補正をおこなっている」とのこと,同じ創元推理文庫の黒い表紙の上に流れる歳月を思えば感慨深い。
そうだ,1980年代の当時は,「H・P」といえばラヴクラフトであって,ホームページでもヒット・ポイントでもヒューレット・パッカードでもなかったのだ。
H・P,ハワード・フィリップス・ラヴクラフトは,20世紀初頭のアメリカのホラー・幻想作家。
夢,狂気,古代をキーワードとするその濃い闇のうねるような作風はのちに追随する多数のホラー作家からいわば「トリビュート」を受け,その一連の作品は《クトゥルー神話》と呼ばれ,神話としての体系,年代記,厚いファン層をもつにいたる。
直裁にいえば,アニメビデオ(OAV)やアダルトゲームによく出現する,闇から伸びてきて美少女を蹂躙する巨大ミミズのような,あのグロい触手の元祖がこの人である。ジョン・カーペンター監督の映画や菊池秀行の伝奇バイオレンスによく登場するネバネバピュッピュッのアレ,と言ったほうがわかりやすいかもしれない。
とはいえ,ラヴクラフト当人はデロデロヌタヌタのモンスターをそのまま描いたわけではない。
彼の作品の多くでは,何かを見てしまった狂人の表情が人智を超えた恐怖を物語り,その恐れの真相は決して直接描かれることがない。なにやら巨大なものが地下室をはいずっていく音が聞こえたり,闇の向こうに大きな黒い影がうごめくのが見えたりするだけである。そして,だからこそ,ラヴクラフトの作品は,のちの《クトゥルー神話》のまま直接的なホラー作品群よりよほど怖いのである。
ただ,初期作品を中心とした今回の最新巻は,グネグネ触手系の元祖というよりは,ダンセイニ風ファンタジーというか,若書きの思いつめた幻想小説家の印象が強く,訳者の大変な苦労に対しては申し訳ないが……実はまだ読み通せていない。どうしても短編の途中途中で眠ってしまうのだ。
……まいりました。ごめんなさい。
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