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2005年3月の4件の記事

2005/03/28

エロイカ劇場 『マグダラのマリア エロスとアガペーの聖女』 岡田温司 / 中公新書

Photo_2伯爵:少佐,君とこうして1冊の美術書をともに語れるなんて夢のようだよ。
少佐:おれは忙しいんだ。用があるなら早くすませろ(タバコに火をつける)。
伯爵:あいかわらず無粋だね。ご覧,この本を。意外なことに日本ではこれまで美術史の視点からマグダラのマリアについてまとめられた本は1冊もなかったらしい。
少佐:マリアというとあれか,キリストの母親の。
伯爵:いや,聖書に登場する人物だけど,聖母マリアとは別人だよ。
少佐:(タバコの煙で輪を作りながら)教会はいいぞ。心が落ち着く。それとも刑務所のほうがいいか。
伯爵:マグダラのマリアは,聖母マリアやイヴと並んでキリスト教美術によく描かれる女性だ。ほら,数年前にモニカ・ベルッチ主演で話題になったイタリア映画『マレーナ』も,実は「マグダラのマリア」を下敷きにしたストーリーだったんだね(モニカ・ベルッチは,その後,映画『パッション』ではまさにマグダラのマリアを演じている)。
少佐:ふん。
伯爵:それから,Web Gallery of Art, image collection, virtual museum, searchable database of European fine arts (1100-1850),ここは,1100年~1850年にかけてのヨーロッパの芸術作品を検索できるWeb美術館なんだが……あれっ(マウスのコードをからませる)。
少佐:──きさま。おれのコンピュータで何をしとる。メカオンチのきさまがお気に入りを登録できるわけがないから,ボーナムの野郎だな。
ボーナム君:(どきどき)
伯爵:このサイトで,「Magdalene」をキーワードに作品を検索すると,中世からルネサンス期にかけての,50数点の作品が抽出される。ほら,インターネット上の画像にすぎないが,なんという美しさだ……。
少佐:色気おばさんが並んどるだけじゃないのか。
伯爵:いやいや,マグダラのマリアといえば,聖書の解釈でもちょっとした謎なんだね。これらの作品も,食事をするキリストの足を自分の髪の毛で拭いているもの,十字架にかけられたキリストを見守るもの,キリストの埋葬,復活に立ち会うもの,マタイやペテロなどよりよほどキリストを理解した先鋭な使途として説教する姿,さらには砂漠で瞑想にふけっているもの……。
少佐:ほー。けなげなおばさんじゃないか。
伯爵:ところが,これらは,決して一人の人物を示すものではなく,聖書に登場する何人かの人物がのちに一人,「マグダラのマリア」という女性として語られるようになったんだね。娼婦としてのみだらな過去と,「使途のなかの使途」と呼ばれる聖性……その2面性が美術品の中で複雑にからまって,至高の美を奏でているんだ。
少佐:ふん。娼婦は気にくわんが,男の尻を追いかけるよりは健全だ。
伯爵:聖書を通して読んでみると,マグダラのマリアが娼婦であったことなんかどこにも書かれていないのだけどね。この帯に使われているティツィアーノのマリアはベタベタとしつこそうでちょっと耐えられそうもないが,「このミス」でNo.1を獲得したサラ・ウォーターズの『半身』の表紙でも使われたカルロ・クリヴェッリの「マグダラのマリア」ともなると正直ときめかないでもないね。この精緻なタッチ,クールな中にもほとばしるような欲望……。
ジェイムズ君:いやいや伯爵う~。女なんかにうっとりしないで~。
伯爵:美には男女の区別はないさ。少佐も最近の事件(No.18「パリスの審判」)で僕がクラナッハの裸婦を求めて苦労したのは知っているだろう。
少佐:あの発育不全の3人娘か。
伯爵:君にはレオパルトのほうが美しく見えるのかもしれないが……。ともかく,この本は,「美と敬虔,官能性と宗教性のあいだで揺れ」る「マグダラのマリア」という存在を,西洋美術史の視点から語ってくれる,素晴らしい本であることはいうまでもない。
少佐:ほー,そーかね。
伯爵:残念なのは,最初の数ページを除いて,図版がいずれもモノクロだってことだけど……それでも,この美的興奮は,君がチロルダンスを踊る姿と甲乙つけがたいよ。
少佐:──やかましい! 突き落とされんだけでもありがたいと思え!!

2005/03/21

愛以外もいろいろこもっていて嬉しい 『『エロイカより愛をこめて』の創りかた』 青池保子 / マガジンハウス

966【ほー,そーかね】

 当節まれな,嬉しくなる本である。

 ドリアン・レッド・グローリア伯爵のモデルが明らかにされて嬉しい(ジェイムズ君やボーナム君をお供に引き連れていることから自明だったど)。
 見開きカラーグラビアや書き下ろしイラストがたくさん載っていて嬉しい。
 あまつさえ,エーベルバッハ少佐の五分刈り姿が見られて嬉しい。
 「仔熊のミーシャ」,「白クマ」,「ミスターL」さらには「部長」の若いころの姿が見られて嬉しい(そうか?)。
 その他さまざまなシーンの裏話があれこれ読めて嬉しい。
 ドイツの古都エーベルバッハ市から作者に名誉賞が授与されたと聞いて嬉しい。
 『エロイカ』がドイツ連邦軍の広報誌『Y.(イプシロン)』で好評を博していると知って嬉しい。
 なんだか釈然としない番外編「ケルンの水 ラインの誘惑」が,作者にとっても釈然としない作品であったことがわかって嬉しい。
 大島弓子(!),おおやちき(!),樹村みのり(!)とのかなりキレた合作が掲載されていて嬉しい。

 だが,それら以上に,舞台となる国や都市の景観,建造物,美術品,歴史などの下調べに時間と手間をかける作者の生真面目さが嬉しい。
 何よりも何よりも,作者の作品にかける誠意がストレートに伝わってきて嬉しい。

「だが,いかに体制が変わろうと,人の心は容易に変わるものではない。彼らは,長い間敵として闘った大嫌いな男と協力せざるを得ない葛藤を抱えて,これからも任務に励むのだ。」
「大切なのは題材に対する敬意だ。漫画だからといって,いい加減な扱いは失礼だし自分の仕事を貶めることにもなる。題材に関連する資料をできるだけ多く集めて,間違いのない知識を得たい。そこから新たなアイデアも湧く。想像力を駆使して自分流の漫画を創作するのはそれからだ。手抜きのない基礎工事の上にこそ,堅牢な創作世界が構築できるのだ。」
「やはり小説家が加工した歴史より,歯を食いしばっても学者が調べた事実を読むほうが有益でアイデアも湧きやすい。」
「恐らく,結婚するまで私と同居していた姉も,妹が編集部との打ち合わせの帰り道に,江戸川橋の上で悔し涙にくれていたのを知らなかったはずだ。」

 『エロイカ』は,そのように描かれてきた。だから僕たちは心まかせて時間をゆだねることができるのかと思う。
 永遠なれ,と思う。

2005/03/14

テレビマンの周到な言い訳? 『テレビの嘘を見破る』 今野 勉 / 新潮新書

134【とくに制作者の言葉が,視聴者やその代弁者を任じる活字マスコミの人の心に届いていない,というのが私の実感でした。】

 読み通すという一点において,『テレビの嘘を見破る』は,軽い。読書ズレした読み手なら30分程度で読み終わってしまうかもしれない。
 だが,どうだろう,同じ新潮新書の某スーパーベストセラーなどに比べると,本書はよほど「知らなかった」ことに目を向けてくれる。それも,「問題があると知らなかったところに知識が至ることで,大きな問題が明らかになる」という,痛快な知的体験を味わうことができる。例証も豊富。お薦めだ。

 著者はもともと民放の演出・脚本家で,現在テレビマンユニオン取締役副会長,武蔵野美術大学映像学科教授。
 本書ではテレビにおける「やらせ」「捏造」と「忠実な再現」の間のグレーゾーンがいかに深く広いものかを,NHKのドキュメンタリー「奥ヒマラヤ 禁断の王国・ムスタン」についての「やらせ」報道など,さまざまな実例をもとに立証する。
 その例は盛り沢山で,帯に記された
  「幻の魚は,なぜ旅の最終日に釣れてしまうのか!?」
  「聞き手の頷きは後から加えるインタビュー」
  「帰路で車の向きを変え,往路を撮影する秘境紀行」
など,読めば思わずなるほどである。
 要するに,事件の現場にたまたま居合わせ,たまたまカメラを回してでもいない限り,なんらかのドキュメンタリーは,その事象の「再現」フィルムとなる。その際,その事象をより視聴者にわかりやすく「再現」しようとすることは,そもそもが「誇張」→「歪曲」→「捏造」と裏表だというのだ。

 ここ数年間に話題になったテレビの「やらせ」に対する非難について,著者はおおむね否定的で,その多くは従来,あるいは世界各国のテレビ局で「ドキュメンタリー」の手法として採られてきたものの範疇だと主張する。
 意地悪な見方をすれば,これは制作現場の言い訳に過ぎない。だが,一つひとつの実例を追うと,必ずしもそう言い切れなくなってしまうのが,本書の面白いところである。本書全体が一種思考のロールプレイとなっているからだ。

 結果的に本書は,著者の初期の目的にもかかわらず,「ドキュメンタリー」のあり方について,堅牢な結論を導くことには失敗してしまっている。それどころか,「ドキュメンタリー」という言葉の従来の定義すら放棄して,本書は終わる。

 豊富な実例によって構築された大きなクエスチョンマークのモザイク,それが本書の限界であり,同時に成果である,とでも言おうか。ともに考える側に立つべきか,「勝手にしろ」と投げ捨てるべきか。今はまだ結論が出せない。

2005/03/07

a centenary 『名短篇』 荒川洋治編集長 / 新潮社

354【「新潮」百年の年表を眺めると,読みたいものが,次々に見つかる。楽しみだ。これからも百年に会える。】

 ここ十年二十年で有難みの薄れたものに,プロ野球の四番,大臣の肩書,芥川賞の価値がある。
 野球の首位打者や大物政治家はまだその世界内で多少は大切にされているようだが,芥川賞の地盤沈下は深刻だ。

 そもそも「文学で身を立てる」という考え方が今ではすっかり喪われてしまった。もちろん平成の現代だってベストセラー小説はある。だが,そこでは,作家の技量や生き様といった裏付けなど誰にも求められていない。極端な話,十台の若者が十冊二十冊本を読み,ちょっぴり風変わりなストーリーを書き上げれればそれで十分なのである。作者は美人か,何か話題付きならさらに言うことなし。映画かTVドラマの原作になってヒットすればそれで「あがり」である。それ以上をいったい誰が期待しているだろう。

 過去十数年の芥川賞受賞作家をほとんど知らない読書家は不勉強だろうか。誰が受賞するかとハラハラしたり,受賞作の掲載された文藝春秋を買いに走ったりする必要がまるで感じられない。『蹴りたい背中』や『蛇にピアス』を読んでいないことで何か問題はあるだろうか……?

 さて,『名短篇』は,「新潮創刊一〇〇周年記念 通巻一二〇〇号記念」と銘打ち,文芸誌「新潮」に掲載された過去の名品佳品を三十八篇選んで掲載したものである。

 その大半は「文学で身を立てる」ことにまだ大いに意義のあった時代の作品だ。作家名からして大変である。森鴎外,島崎藤村,荒畑寒村,志賀直哉,正宗白鳥,葛西善蔵,宇野浩二,徳田秋声……。文学史の教材でよく見かけたが,実作は一度も手にしたことのない小説家がわらりわらりと並んでいる。梅崎春生,椎名麟三,深沢七郎,安岡章太郎,色川武大あたりになるととぼけた味も加わってかなり現代的だ(梅崎の『幻化』なんて大好きだった。椎名,安岡は沢山読んだけれど,正直言ってよくわからなかった……)。

 古い作家の文章となると,当たり前のことかもしれないが,漢字の率が高い。

  富津行の荷物,其他上総通ひの客を載せて横浜を出発した帆船は実に快く走つた。

 これは藤村の「海岸」という作品の冒頭のなんということもない一節だが,実に漢字が多い。とくに現代と異なる言葉遣いでもないのに,何故だろう。
 そういえば,ファーストネームで呼称される作家とそうでない作家の違いも気になる。漱石,鴎外,藤村,白鳥はOKで,龍之介,直哉,健三郎はNG。時代の違いだけでもなさそうだ。

 本書には,三十八の短篇のほか,「名長篇──新潮が生んだ四十作」というコラムが織り込まれている。この顔ぶれがまた凄い。

  太宰治『斜陽』
  川端康成『みずうみ』『眠れる美女』
  檀一雄『火宅の人』
  三島由紀夫『金閣寺』『豊饒の海』
  伊藤整『氾濫』
  大江健三郎『遅れてきた青年』
  北杜夫『楡家の人々』
  井伏鱒二『黒い雨』
  吉行淳之介『夕暮れまで』
  ……

 これだけでやはり文学史の教材が組めてしまいそうだ。

 逆に,これだけの重みが現在の「新潮」誌にあるかと問えば,果たしてどうか。名短篇として選ばれた最も新しい作家は町田康。ところが新しいほうから二人目,三人目がもう瀬戸内寂聴,小川国夫である。続いて三浦哲郎,河野多恵子,大江健三郎。
 長篇も,小川洋子『博士の愛した数式』,水村美苗『本格小説』,村上春樹『ねじまき鳥クロニクル』と今ふう路線の奮闘は否定しないが,いずれも単行本から話題になった印象で,「新潮」という雑誌のイメージは薄い。

 「新潮」一誌に限らない。これから,文学はただ希薄な,「ベストセラー」の中の一ジャンルになってしまうのか,それとも何か新しいものとして再生はあり得るのか。

 本書に掲載された作品の,のびやかで巧みな文章,一瞬で克明に人生を切り抜くような鉈の業に驚嘆しつつも,それが今後そのまま踏襲されるとはとても思えない。その当時と現代とでは,人の抱える荷物が違う。荷物に刻まれる時間の尺度が違う。だから,面白い,やっぱり凄い,と驚嘆しつつも,一晩に一作かそこらしか読むことができない。短篇なのに途中で投げ出してしまったものもある。

 もちろん,過去の名品を伝統工芸品のように扱うことが「文学」への正しい対処とは思えない。
 このあたりは,いつか……正面から考える日が来るだろうか。それとも。

 最後に。
 もう三十年ばかり昔のことになるが,本書の編者である荒川洋治先生に小品を褒めていただいたことがある。それも,絶賛と言ってよい評価だった。結局そちらの道には進まなかったが,今もその折りの先生の言葉は心のつっかえ棒の1本とさせていただいている。

 もう一つ。百周年で通巻一二〇〇号というのは,さりげない表記だが大変なことだ。
 戦時中も含めて,百年にわたり,一号も欠かさず毎月発行されたということだ。これがどれほどのことか……。試しに十年,通巻一二〇号ばかり継続してみればよい。

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