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2005年1月の5件の記事

2005/01/31

『燕京伶人抄』 皇なつき / 潮漫画文庫

8221 角川書店から単行本として発行された『燕京伶人抄』(1996年),『燕京伶人抄[弐]女兒情』(1997年)の合本,文庫化。

 「燕京」は北京の古名,雅名で,周代にその地に燕の都があったことに由来するそうだ(わざわざ「燕京」と表記しておいて「ペキンれいじんしょう」と読ませるのは少し妙な感じだが)。

 美男美女の笑顔泣き顔拗ねた顔を描く作者の描画は豪華絢爛,随所に挿入されるルビ付き中国語のかもし出す異国情緒とあいまって,こと描画に関しては世評も高い。

 ところで,この1冊には,3つの「作品内時間」が流れている。
 1つはこの作品の舞台となっている北京の1920年代。1つは,そこで主人公たちがかかわる「京劇」の中で流れる時間。そして残る1つが,この作品が描かれた「現在」。

 気になるのは最後の「現在」で,いかに1920年代の北京の人々を描こうとも,結局は現在の作者の生活や目線が反映されるのが当然の理。テレビの時代劇が,服装や住居に時代考証を重ねたあげく,台詞や言動はとことん現代人のそれになってしまうのと同様だ。

 ところが,『燕京伶人抄』に描かれた若者たちの考え方,言動は往々にしておよそ現代的でなく,あまりの古めかしさにしばしば絶句させられる。
 ざっと台詞を抜粋しても,以下のとおり。

  「これまでもずっと待ってきたわ でも 希望が見つかれば待つのはもうつらくない…」
  「大事なあなたのために ご両親が見つけてくださったお相手でしょう?」
  「私が求めて止まないものをこんなにもはっきりと与えてくれたのは… あなただけだわ…」

 (最近は何をしているのかよくわからない)フェミニスト運動家が聞いたら髪の毛を逆立てそうだが,結局のところ作者はこのような生き方を容認しているのか,それとも徹底して作品の向こうに姿を隠しているのか,そこのところがよくわからない。

 つまるところ,おそろしく労力をかけた美麗な「ぬり絵」,絢爛なお人形さんの印象はぬぐえず,この作者は自分の描く登場人物に人間としての尊厳を付与するつもりなどハナからないのだろう。
 実際,第一話「鳳凰乱舞」の如山,第二話「愁雨歳月」の如海など,そのお馬鹿さ加減は思わず目を覆いたくなるほどで,これをみても,作者にとって,美麗な男女さえ描ければ,彼らの人格などどうでもよいということか。

2005/01/23

『蟲師(5)』 漆原友紀 / 講談社アフタヌーンKC

829 昨秋の発刊であり,コミックで「新刊」というには少し間があいてしまったが──。

 動物でもなく,植物でもなく,生物であるかすら疑わしい──それら異形の一群,「蟲」。
 主人公はこの「蟲」を呼び寄せてしまう体質ゆえ定住できず,蟲封じを生業として里や山あるいは海辺の村を放浪する。

 設定は魅力的だし,細い線や点を丁寧に描き込んだ画風も悪くないのだが──なぜか没頭できない。
 最近1巻から通読して気がついた。リアリティに欠けるのだ。いや,妖怪めいた蟲や光脈が潜在することが科学的でない,というのではない。時代も国も明らかでない世界,多くの人々が和服なのに,蟲師ばかりが洋服姿なのは時代設定的に如何,とかいうことでもない。むしろこれらについては違和感なく読めて身になじむ。
 問題は,蟲たちの多くは人の里に災厄を持ち込むが,その大半が致命的でないことなのだ。そんなはずはない。蟲たちは人に寄生しているわけではない。人と全く違う次元で,違うエネルギーを求め,ただ存続しようとするだけである。
 なら,蟲たちが顕在化したとき,もっと惨事が多発して不思議はないのだ。

 しかし,大概の物語では,人々は少しばかり停滞を被る程度で,それも主人公ギンコの処方で現状維持に終わる。作中で死ぬ人間は人の側の事情で死ぬのであり,悲劇はたとえば人に擬態する蟲が人を駆逐するためでなく,その擬態した蟲たちが駆逐されることで起こる。

 いってしまえば,人の側の安全度が高すぎるのだ。
 村人の大半が血へどを吐いて死に絶える,里の大半が迷い出て二度と戻ってこない,そういった現象の比率がもっと高くないと不自然なのである。

 そんな事態を,あるいはそんな事態になすすべもない主人公を同じ淡々とした筆遣いで描けるなら──。

 なお,昨秋には同じ著者の初期作品集『フィラメント』が発刊されている。短編「岬でバスを降りた人」など一部を別として,総体にまだ習作レベルのように思われた。

2005/01/16

『ホムンクルス(4)』 山本英夫 / 小学館ビッグコミックス

9181 もともと展開が早いとはいえない『ホムンクルス』だが,4巻めはその傾向に拍車がかかり,実質1つ(細分化してもせいぜい3つ4つ)のエピソードで1冊が終わってしまう。
 大ゴマいっぱいに描かれる登場人物たちの露悪的なまでの存在感のぶつけ合いは量感たっぷりだが,このリアリティははたしてマンガとしてのものなのか,ちょいとCGをミクスしてクローネンバーグあたりに撮ってもらったほうがよいものなのか,そのあたり判然としない。

 たとえば,現在は連載を中断している(らしい)井上雄彦の『バガボンド』,あの記録的ベストセラーを僕は好まない。「圧倒的描写力」と賞されるあの画風を,マンガとして評価することができないためだ。
 マンガというのは,たとえば丸の中に点を2つ3つちょちょいと描いただけで人の顔に見える,それを拡張し,洗練した「技術」だと思う。写実的な描写で本物そっくりに見せる手法はマンガでないとまでは言わないが,そうでないマンガならではの「技術」を僕は尊重したい。しかるに『バガボンド』のリアリティは,結局のところ,武蔵を演じきれる役者と優れたディレクターがいたなら実写映像で具現化されたはずのものだ。マンガのコマに映画的手法を取り入れたのでなく,映画として撮るべきものをなぞって紙に落とした印象である。少なくともそこから得られる興奮は,マンガでなければ表出できないものではない。

 『ホムンクルス』についても,似たような懸念はある。
 ただ,この作者はまだ意識して「マンガの側」に立っているところがあって,年末に発行された宝島社のムック「このミステリーがすごい!2005年版」の表紙の右目をおさえた名越にもそれがうかがえて嬉しい(たとえばそのこめかみの汗が,素晴らしくマンガなのである)。

2005/01/11

『庭に孔雀、裏には死体』『13羽の怒れるフラミンゴ』『13羽の怒れるフラミンゴ』『ハゲタカは舞い降りた』 ドナ・アンドリューズ,島村浩子 訳 / ハヤカワ文庫

240【おりよくそちらを眺めていた場合は,犠牲者の頭が唐突に人込みのなかに消え,そしてたいていの場合,そのあとに少量の料理と飲み物が飛びあがるのが見える。】

 (BGMは「春の海」)酉年のはじめにあたり,私ども「くるくる回転図書館」におきましても,何か干支の鳥にまつわる本をご紹介いたしたく存じ上げありおりはべりいまそがり。

 さて,「鳥」がタイトルにあってお奨めとなりますと,やはり,中年女性ジャズピアニストの切なくも笑える時空の旅を独特なテンポと文体で描いた『鳥類学者のファンタジア』あたりが白眉でしょうか。……え? すでに「くるくる回転図書館」でも取り上げられている? そでしたっけ。えと。くりっく,くりっく。や。確かに。ごほん,失礼。
 では,ヒッチコックの映画「鳥」の原作ともなった,重厚な中短編集『鳥 デュ・モーリア傑作集』をば……。はいっっ? これもすでに紹介されてる? うーん,そういえばそうだったかも。はは。
 え~,それでは。鶏の写実に目を見張るような成果を残し,年末のテレビ東京「開運!なんでも鑑定団」にも掛け軸が持ち込まれた(残念ながら偽物でしたが)伊藤若沖の画集はいかがでしょう。……ほえ? これも2年前のお正月にNHKのドキュメンタリーをからめて取り上げたぁ? たはは,は。いや,年をとると記憶力がちょっと。

 ……困った。ほかに何かよい鳥の本はありましたかねぇ。

 はた! ポンッ! はたはたポンポンはたポンポン。あったありましたよ,年のはじめにふさわしい,おめでたくも楽しい鳥の本が。
 ドナ・アンドリーズの鳥シリーズです。

 (BGM,「軍艦マーチ」に変わる)既刊は4冊,

   『庭に孔雀、裏には死体』
   『野鳥の会、死体の怪』
   『13羽の怒れるフラミンゴ』
   『ハゲタカは舞い降りた』

(いずれも,島村浩子訳,ハヤカワ文庫)

 主人公は鍛冶職人のメグ・ラングスロー。彼女はただ平穏に日々を送りたいだけなのに,家族,親族,さらにはご近所の人々までがそれを許さない。今日も朝から無理難題あめあられと押し付けられ,おまけに死体まで……というお話。

 古今東西「ユーモア・ミステリ」という称号の作品は少なくないけれど,たいていは血なまぐさい事件を描いても登場人物たちが少しばかりぼんやりしている程度で,電車の中で笑いが止まらないものはめったにありません。たとえば赤川次郎の作品は(しいていえば)ヌルさユルさが魅力だし,クレイグ・ライスの作品は小粋な会話が楽しみではあるけど,爆笑を誘うかといえばちょっと違います。

 ところが,ドナ・アンドリューズの作品,とくに第1作『庭に孔雀、裏には死体』や第3作『13羽の怒れるフラミンゴ』は,ともかくぶはぶは笑える。素っ頓狂で強引な家族,親族がわらわらわらわら現れてはこれでもかそれでもかと身勝手弓の嵐,嵐。それをまた主人公メグが強引なパワーでなんとかしのいで,かたして,仕切ってしまうから話が余計ややこしくなってしまう。
 このあたりの事件やキャラクターのありよう,リズムは実に坂田靖子的で,実際,本シリーズの表紙イラスト,また第3作,第4作の解説(か?)も坂田靖子その人によるものです。早川書房の編集氏もわかっておられますね。

 まぁ,ともかくだまされたと思って第1作から手にとってみてください。
 アメリカ南部の田舎町のおおらかでダイナミックな結婚式(花嫁が「孔雀が欲しいわね」とのたまえば──あきれつつも──即注文するのだ),それを母親の分,親友の分,弟の分と3つもまとめて面倒をみなくてはならなくなったメグが仕方なくついでに(?)明らかにする殺人事件の真相……。

 難をいえば,4作品ともに真犯人の正体はそうびっくり仰天というわけではないのですが,それでも犯人探しの試行錯誤は楽しいし,真犯人発覚から逮捕(捕獲?)までのイベントは毎回趣向がきいているし,読み終わってみればそれなりに伏線が張られていたこともわかって納得です。

 また,このシリーズ全体を通してみると,昨今のミステリ作品でますます難しくなった「素人探偵が警察の協力をあおがずに犯人を暴く」設定,展開が,思いがけない形で実現していることに気がつきます。
 なにしろメグは,殺人事件が起こるたびに,犯人扱いされたくて意図的にうろうろしたり,容疑者扱いされていることにすら気がつかないぼんやり家族,親族たちを(やる気のない!)警察の容疑者リストから消すためにしかたなく真犯人を探すハメにおちいるのですから。

 というわけで,年男のカラスマルも鳥族を代表してオススメの本シリーズ,年度末の多忙な時期の気分転換にひとついかがでしょう。
 は? トシオトコって今年で何歳かって? それはもちろん……24歳。しゃばだばだ~,べび。

2005/01/02

そこにいるための戦い,そして戦い続けること 『ホーリーランド』(現在8巻まで) 森 恒ニ / 白泉社JETS COMICS

021【きっと 僕がこれからする事は 今はもう ない 僕の聖地への 手向けなんだ】

 2005年の年頭にあたり,ヤングアニマルに連載中の格闘マンガ『ホーリーランド』をぜひとも取り上げたい。なにしろ,ここしばらく単行本を読み返して,いっこうに飽きないのだ。

 しかり,古今東西,面白い格闘マンガは少なくなかった。
 最初はおよそ強いとはいえない主人公が(何かに巻き込まれる形で)戦いに目覚め,拳を交わした相手と友情を結び,さらに強い相手とめぐり合うことで当人も成長していく……黄金パターンである。これで競技を選べば連載は決まったようなものだ。

 だが,連載開始当初はともかく,主人公が戦い続ける理由を明確に設定した作品ははたしてどれほどあったろうか。
 たとえば,ボクシングをテーマにして秀逸な『はじめの一歩』。この作品では,いじめられっ子が強さにあこがれてボクシングを始めるという初期の設定は単行本数冊で薄まってしまい,とくに日本チャンピオンとなって以降の一歩が何のために戦っているのか,単行本を読み返しても実はよくわからない(そのため,最近は主人公より脇役達のほうが格段に存在感が鮮明だ)。
 『明日のジョー』も,半歩引いて見ればジョーがなぜリングに上がり続けたのかはよくわからない。だが,彼の深い目に何かありそうに見えたあたりがあの作品独特の魅力だったように思う(逆に,同時期の『巨人の星』は,飛雄馬がマウンドに立つ理由の空疎さこそを描いた,ある意味野球マンガの壮大なパロディだった)。

 さて,『ホーリーランド』に登場する神代ユウは,やせて,デイパックを背負い,およそ格闘マンガの主人公らしからぬ風貌をしている。

 彼は中学生のころ苛烈な「いじめ」にあい,いわゆる「不登校」となる。そして,ただ鈍化し,何も感じなくなることを望み,部屋にこもって毎日何千と数えながらパンチを振るようになった彼がやがて自分の居場所(ホーリーランド)を求めたのは,学校ではなく夜の街だった。
 しかし,自衛のために相手を殴り返し,やがて“不良(ヤンキー)狩り”と呼ばれるようになるユウは,勝てば勝つほど夜の街に居られなくなるというジレンマに陥るのだった。……

 この作品は全編さまざまな若者達のジレンマに満ちている。主人公のユウはもちろん,それ以外の夜の街にたむろする不良(ヤンキー)達も,あるいはレスリングや空手,剣道に励む青年達も,一人一人,行き違い食い違う現実に対してゆがんだり遠回りしつつ,結局は誠実に対処していこうとする。そうしなければ居場所を失うからだ。

 現在,夜の街にたむろする若者の生態がどのようなものか,僕は知らない。今どきのケンカはこうかという疑問もある。さらに,作者の語る格闘技の薀蓄がどの程度正確なのか,門外漢ゆえよくわからない。
 だが,それらの疑問を抱えてなおかつ圧倒されるだけの切実さがこの作品には満ちている。

   僕は拳を固めてきた
   話をしに来たワケじゃない
   無事に済むとも思ってない
   怖くないワケでもない
   それでもボクは
   これからも悪意に対して
   暴力で答える

 これをただ暴走と言ってよいのだろうか。
 僕は言わない。僕は神代ユウの側にある。……四捨五入すればとうに五十歳のオヤジがそう述懐するに足る力が,この作品にはある。

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