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2004年9月の5件の記事

2004/09/25

砂漠に咲く花一輪,また一輪 『スマッシュをきめろ!』 志賀公江 / 双葉文庫

232【わたしはあの人を ゆるすつもりはないわ いま失格されてはこまるのよ……】

 テニスマンガは数あれど,読み手として一番「動揺」した作品はこれだったかもしれない。はらはらして,目の前が赤く揺れるような読み応えだった。
 同じ週刊マーガレット掲載だが,かの『エースをねらえ!』(1973~)よりさらに昔(1969~)の作品である。
 最近,ブックオフで双葉文庫版をみかけて購入。通しで読むのは何十年ぶりか。

 感動的だが抹香臭い『エース』に比べ,『スマッシュ』は荒々しいまでにむき出しの憎悪,敵意が魅力だ。

 本作は,天才テニスプレイヤー東城博之の2人の娘,槙さおりと東城真琴が,戦いつつ互いを高めあっていく物語なのだが,とくに連載開始当初の真琴の苛烈さは素晴らしい。木立を相手の訓練,Vカット,ローリングスマッシュといったエキセントリックな魔球も冴え,テニスマンガの歴史で,これほど攻撃的な作品はちょっと記憶にない。
 亡くなった父親をめぐる確執からバリバリとんがるボーイッシュな真琴はともかく,お嬢さん然とした姉のさおりがときおりみせる攻撃性がまた美しい。真琴が正面から点で刺すなら,さおりは面で覆うように攻める。当時の作者の内面にあふれていた何かが折りにふれ登場人物を通してほとばしる,そんな感じだ。

 絵柄やストーリー面で『エース』に比べて評価が低いのはしかたないとは思うが,一点,『エース』には欠落した大切なことを『スマッシュ』は教えてくれる。

 『エース』は得がたい師,先輩,恋人,さらにはライバルのプレイヤーたちとの出会いや別れの中で主人公の岡ひろみが成長していくという物語だった。それはよくも悪しくも誰かに「依存」することであり,岡ひろみの物語は「依存」のバランスのダイヤグラムだったといえる。
 一方,『スマッシュ』は,人間関係に起因する情念を次々に否定していく。恨み,欺き,嫉妬,罠……本作にはさまざまな憎悪や策謀がうずまくのだが,それらにこだわっている間は誰も勝つことができない。テニスプレイヤーとして輝くためには,それらすべての連鎖を超えなければならないのだ(それが難しいからこそ,さおりも真琴も意外と試合では勝っていない)。

 さまざまな諍いの果て,連載当初には呪縛のように姉妹を縛りつけていた父の存在も遺書にも等しい手紙を破り捨てるという明確な行為で振り捨てられてしまう。いつしかただ対戦する相手と互いをみなし,距離を保ちつつ信頼し合う。連載終わりごろのさおりと真琴の関係は驚くほどに澄んで美しい。連載当時はこの美しさにまるで気がつかなかった。『エース』の登場人物たちが脇役含めて総体で花盛りの森をなすなら,『スマッシュ』の姉妹は一人一人で咲く砂漠の花を選んだのだ。

 『スマッシュをきめろ!』の双葉文庫版はすでに品切れだが,実は100円ショップダイソーで手に入る(全5巻)。発表された時代が時代だけに,絵は荒削り,テニスのフォームは笑っちゃうほどとんでもない。それでも,スポーツマンガ黎明期の鮮やかな挑戦として,本作は忘れがたい。

 ……それにしても。思えば,『スマッシュ』も『エース』も,ウィンブルドンのセンターコートはおろか,ジュニアの部に「参戦」するのがせいいっぱいだった。マンガの世界での日本人によるウィンブルドン優勝は,塀内真人(夏子)の『フィフティーン・ラブ』が最初だと思うが(それ以前にいたらごめん),さて,現実のプレイヤーがセンターコートでガッツポーズを決めるのはいつのことだろう。……どうでもいいですね。

2004/09/24

いずれがペットか飼い主か 『しゃばけ』 畠中 恵 / 新潮文庫

080【仁吉も佐助も一見,屏風のぞきを怒っているようで,実は一太郎のことを器用に責めている】

 日本ファンタジーノベル大賞優秀賞受賞作,また江戸人情&妖怪推理譚の人気シリーズの第1作とのことで,楽しみにしていたのだが……残念ながらなんとなく釈然としない読後感だった。

 主人公の「若だんな」一太郎は,江戸有数の廻船問屋,長崎屋の一粒種。彼の周辺は,手代の佐助,仁吉(実は犬神,白沢という妖怪)をはじめ,屏風のぞき,鳴家,鈴彦姫など,なぜか妖怪だらけ。そんなある夜,こっそり家を抜け出した一太郎は人殺しを目撃してしまう……。
 というお話はそれなりに面白いが,どうも上滑りして今ひとつ浸りきることができない。展開の詰めが随所に甘いのである。

 たとえば。
 病弱な一太郎のお目付け役たる犬神,白沢は,「そこいらへんの妖怪なぞ相手にならないほどの大物」として描かれて……いるようで,いくたびかの実戦にはなんの役にも立たない。揃いも揃って駆け出しの妖怪にたあいなくひねられてしまう。

 あるいは。
 一太郎は再三再四,「妖(あやかし)と人とは五感がずれているのか,どうもときどき会話が噛み合わない」といった独白をもらすが,妖怪が身近にいればそれと見破り,「妖の言葉は今日は効き目が薄いが,普段なら子守唄代わり」な一太郎の感性観念は妖怪の側にあるはずである。ならば,人間側の会話にだって同様にずれを感じるべきではないか。だいたい彼が「相変わらず妖との話は,どうにもずれる」と強調するほどには,会話はずれていない。むしろ妖怪たちの言動のいちいちは,どうにも人間ふうなのである(上の【 】の引用部など,およそ「ずれ」た妖怪のなすこととは思えない)。

 もしくは。
 最初の事件は,被害者の大工の首が切り落とされるという猟奇的なものであり,なぜ下手人はわざわざ戻ってきて首を切り落とさねばならなかったかが事件の大きな謎の一つとされ,一太郎は何度も首をかしげてみせる。ところが,詳細は書けないが,その謎解きたるやおやおやと首をかしげたくなるようなアバウトなものにすぎない。

 そもそも。
 題名の「しゃばけ」とは「娑婆気」と書き,「俗世間の名誉や俗念を離れない心。しゃばっけ」(広辞苑)のことなのだが……。本作はとくにそういうアングルの話ではない。そういう人物や妖怪を描いたものでもない。妖怪譚だけに「おばけ」に掛けているのかと考えてもみるが,それでつじつまが合うわけでもなさそうだ。

 とどのつまり,要は,どうも全体にヌルいのである。

 作者にはすでにこのシリーズに続編が2作ある。設定や口あたりは悪くないだけに,読むべきか読まざるべきか,うーん迷う。

2004/09/20

最近読んだ本 『フン!』『短篇ベストコレクション 現代の小説2004』

Photo『フン!』 いしいひさいち / 徳間書店

 いしいひさいち描くところの山田家のポチ。彼は徹底的に乾いている。

 ハードボイルドと称されるミステリの探偵たちは,なぜか大概とんでもなくウェットだ。ヘンなたとえで申し訳ないが,湿気た岩オコシみたいな感じだ。彼らは過去にこだわり,小銭にこだわり,去った女の尻にこだわってめそめそじくじくと酒をなめてばかりいる。

 一方,ポチこそはハードボイルドである。ドライとかクールとかいう言葉では表しきれないほど,岩のように乾いている。

 かつて,このように乾いた人物が町中にもう少しはいた。
 周囲との人間関係や,金銭,男女関係など気にかけず,ただ砂を磨くように働いて日々をこなす。そのくせ,単に寡黙なのではなく,人のなすべきことについては一貫していて淀みがない。
 現在では「頑固親父」そのものが希少価値だし,たまの自称他称「頑固親父」はそうみなされることを目の隅で確認しては汲々としている……それは媚びへつらいの一様式に過ぎない。

 一億人がポチを見習うことはない。だが,一千万人くらいは,ポチのことを考えてもよいかもしれない。

『短篇ベストコレクション 現代の小説2004』 日本文藝家協会 編集 / 徳間文庫

 たまに,こういうアンソロジーを読む。
 たいていは,ヒマつぶし。

 収録作は,出版社の思惑はあるにしても,あまたの作品から選ばれるほどだからそう悪いものではない(はずである。実際,たまにはアタリがある)。好みの作家と出会う可能性だってある(かもしれない。実際にはなかなかそういうことはない)。

 本書は,浅田次郎や石田衣良,伊集院静,江国香織,岩井志麻子,川上弘美ら当節の売れっ子に野坂昭如,筒井康隆,泡坂妻夫を加えて,一作一作はなかなか面白く読めた。

 ……が,どうも違和感というか,読後感に乖離がある。

 あとになって,ふと思いあたった。
 それぞれの作品の文体が,どうもあまり短編らしくなく,短編集を読んだ気分になれなかったのだ。

 長編と短編の文体の違いというのは,それなりにあるに違いない。トルストイとポーの違い,などと括ってしまうとまじめに文体を研究している方に失礼千万だが,たとえばそういうことである。
 もちろん簡単な定義づけはできない。ポーの「アッシャー家の崩壊」のように,短編ゆえに比喩をこらして象徴主義的な文体となることもあるだろう。逆に,ヘミングウェイの「老人と海」のように,短編ゆえに表記を切り詰めてとことんクールな文体とする場合もあるだろう。
 思うに,結果としてデコラティブだろうがその逆だろうが,文体にこだわることそのものが短編の特質といえるのではないか。

 そう思って振り返ると,本書に取り上げられた作品の大半は,どうも長編向きの文体で書かれているように思われてならない。短編20作,600ページ近くが,すらりと読めてしまう。単に読みやすいということではなく,流れてしまった,(野坂を除いて)「文体」そのものにこだわりが感じられないのである。

 スムーズに読めることをよろしくないというつもりはもちろんない。しかし,長編と短編の楽しみは別だ。短編は,単に短い長編ではないはずなのだが……。

2004/09/15

最近読んだ本 『薬師寺涼子の怪奇事件簿〈1〉魔天楼』『まんがサイエンスIX からだ再発見』『そーなんだ!』

2011 久しぶりに読むより購入に走ってしまい,ここ二週間ばかりの間だけでも厚さにして五十センチメートル以上の本を買ってしまった(コミック除く)。それもやや重の長編が中心で,いったいいつになったら書棚が片付くのか途方に暮れている。
 そんなこんなで取り上げることの遅れた(さりとて素通りするのも惜しい)本や作品がたまってしまった。
 とりあえずざっとご紹介させていただこう。

『薬師寺涼子の怪奇事件簿〈1〉魔天楼』 原作 田中芳樹,漫画 垣野内成美 / 講談社マガジンZコミックス

 ドラキュラもよけて通る「ドラよけお涼」こと薬師寺涼子の事件簿がついにコミック化されたことは慧眼の皆様ならすでにご存知に違いない。しかも作画はノベルス版でイラストを担当したあの垣野内成美なのだからもはや何も言うことなし……と言いたいところだがやはりイラストと漫画は別モノであった。
 お涼さまがほぼ全見開きにわたって蜂起,もとい芳紀御二十七歳のオミアシをさらしてご活躍される展開に文句はないのだが,どうも動き過ぎるのである。
 思うにコビコビと表情を変えたり動き回ったりするのは小人のなすことである。女王様はもう少し傍若無人に道の真ん中を歩み,ただ取り巻きたちがその周りをおろおろという作画でもよかったのではないか。

 ちなみに,やや旧聞に属するが,作者インタビューや書き下ろし短編,描き下ろしコミックを収録した『女王陛下のえんま帳 薬師寺涼子の怪奇事件簿ハンドブック』(光文社)も発売中。『巴里・妖都変』や『東京ナイトメア』でお涼さま抜きの人生を想定できなくなったジャンキーにはコミックよりむしろお奨めだ。添付画像は迷った末に,こちら。

『まんがサイエンスIX からだ再発見』 あさりよしとお / 学習研究社(NORAコミックス)

 本「くるくる回転図書館」でも再三取り上げてきた『まんがサイエンス』もすでに9巻め。
 今回は長編仕立てではなく,
  寝る子は育つ?
  傷は体の工事現場
  暑い時には汗をかこう
  毒はどうして毒なのか
などなど,体がテーマのオーソドックスなサイエンスコミック短編集となっている。あやめちゃんがいぢられ役として活躍しているのもお約束どおり。
 最後の1編は
  終わる命 つながる命
とちょっとドキッとするタイトルだが,いくらでも重く扱えるテーマをさらりと流した印象。少し物足りない気もするが,前巻『ロボットの来た道』のときのように埋めようのない寂しさを感じさせられるよりはよい。

 ところで,小学生向けのサイエンスコミックといえば,毎週火曜日発売の『そーなんだ!』(デアゴスティーニ発行,現在130号まで)が楽しいが,その123~124号に掲載された「生き物の楽園ビオトープって何?」(マンガ/高樹はいど)に登場した火星人御一行様が最高だった。ちょっとキショイ系のタコ足火星人が各コマに何人(?)も登場して,地球案内のお姉さんの解説に
  「エ?」「エ?」「火星ダメ?」「火星ダメ?」「火星ダメ?」
  「空ダ」「地上ダ」「地下ダ」「川ダ」
  「ナル」「ナルナル」「ナル?」
などなどと口走る,そのバラけたリズムと得体の知れなさがたまらない。
 『そーなんだ!』は中堅の書店なら雑誌売り場にしばらくのバックナンバーが置いてあることも少なくないのでぜひご覧いただきたい。
  見ル? 見ル。 見ル見ル。

2004/09/06

がんばれと言うは誰,がんばるは誰 『がんばれ元気』 小山ゆう / 小学館文庫

4871【ぼくは自分に不似合いな道を…… むりしてつっ走ってきたのかなあ…………】

 『Big Hearts ジョーのいない時代に生まれて』を取り上げた際の繰り返しになるが,ここしばらく,日本ではボクシング人気がぱっとしない。
 ショウアップされたK1やプライドほど話題にのらないし,プロレスのように細分化してニッチを担うわけでもない。

 最近の10年間に日本から出た世界チャンピオンは,かつての,ファイティング原田,藤猛,輪島功一,ガッツ石松らのような国民的英雄扱いを受けているだろうか。誰もがその名を知っている世界チャンピオンのあり方は,具志堅用高あたりが最後だったのではないか。
 たとえば辰吉丈一郎。彼はあれほどドラマを作ってみせながら,それでもマイナースポーツの扱いしか受けなかったような気がしてならない。
 はたしてどのくらいの人が,この10年の世界チャンピオンの名前を言えるだろう……。

 にもかかわらず,ボクシングマンガの人気は高い。

 競技そのものの人気がかげっても,マンガとしての描きやすさ,ドラマの盛り込みやすさにおいて,野球とボクシングは『巨人の星』『あしたのジョー』以来,現在にいたるまで変わらないらしい。
 実際,ボクシングマンガの名作,話題作は『あしたのジョー』から現在の『はじめの一歩』にいたるまで数知れず……といったところでようやく今回のテーマである。

 『がんばれ元気』は,なぜ,これほどまでに忘れられてしまったのだろう?

 『がんばれ元気』が掲載されたのは少年サンデー,昭和51年19号から昭和56年14号までの約5年間。とくに最後の関拳児との統一戦は「どちらが勝つか」と大学生,社会人までビールの泡を飛ばして議論にくれたものだ(それは本作が「主人公が勝ってハッピーエンド」で終わりそうにない,なにやら不穏な気配をかもし出していたからにほかならないのだが)。

 もちろん,この作品のことを当時の読者が覚えていないわけではない。
 だが,さまざまなメディアで正面から,あるいはパロディとして繰り返し取り上げられる『あしたのジョー』などに比べると,再販が話題になるでなし,追従する作品が現れるでなし,連載時の盛り上がりに比べると信じがたいほどその存在が「忘れられている」印象なのだ。

 今回読み返してみて,古びているか,つまらないか,といえば,決してそんなことはない。

 もちろん,格闘技の描き方は,最近のリアルな格闘マンガに比べると難がある。
 堀口元気や関拳児のパンチは一見かっこいいが,防御をまるで考えてない「いってこい」パンチでしかない。ゴングが鳴るや2人ともおよそフットワークを使わず,足を止めての正面からの殴り合い(なにしろ足元の擬音は「ズズ」なのである)。その後,「巨大熊を一撃のもとに葬った」(本当)関のパンチを顔面に何度も受け,何度もダウンしながら元気は立ち上がり,12ラウンドをフルに戦い抜く。……などなど,地味ではあるが破天荒さにおいてはギャラクティカマグナーム!の『リングにかけろ』とそう変わらない。

 その分,マンガとしては面白い。ボコボコに殴り,殴られ,最後に逆転で勝つという展開がつまらないわけがない(このあたり,WBAフライ級チャンピオンだった大場政夫の闘いぶりを思い出させなくもない)。
 関拳児との決戦など,読み終わってすぐ最初のページに戻り,読み返すだけの魅力にあふれてはいるのだ。

 それだけの魅力にあふれながら……つらい。『がんばれ元気』を読み返すのは,なぜか,とてもつらい。
 元気の母,元気の父であるシャーク堀口,元気にボクシングを教えた三島など,本作には身近な人物の死や別れがあふれている。だが,それがつらいのとは少し違うようだ。

 マンガをほめるとき,よく使われる常套句が「人間が描けている」だが(ちなみにミステリをけなすときによく使われるのが「人間が描けていない」),『がんばれ元気』がほかのボクシングマンガに比べ,より「人間が描けている」ようには思えない。それどころか本作に登場する人物はいずれも視野狭窄,感情は痙攣的で,どこか壊れたような,実生活にいたら「マンガ的」とレッテルを貼るしかなさそうな人物ばかりだ。

 うまくいえないが,問題はそのあたりにあるような気がする。
 単に一枚板的に,「マンガの登場人物がマンガの中で活躍する」という構図ならいいのだ。しかるにここでは,「マンガ的な人間が,マンガの中に登場する」という妙な二重構造が起こっているのだ。

 『がんばれ元気』を読み返すとき,ともかくつらいのは,随所に表れる登場人物たちの泣き笑い顔だ。彼らは泣くような顔で笑い,笑うような顔で泣く。それも静かにじわじわ泣くことは決してなく,ベショベショに泣き笑う。

 関との決戦前夜,元気は愛する芦川先生とドライブし,ホテルに入ろうかとゆき惑う(1970年代後半の,それもお行儀のよい少年サンデーの誌面としてはラディカル極まりない展開である)。だが,ホテルに入らず車を飛ばす元気に,「男はボクサーは結局女に逃げることはできない」と述懐する芦川先生の泣きながらの最初のセリフは「えへっ……」なのだ。

 この場面で,元気は芦川先生と心中を再三試み,キスを交わす。延々と繰り出される元気の愚痴っぽい統一戦への宣言は,結局のところ本作がボクシングマンガではなかったこと,堀口元気がボクサーではなかったことを示しているように思えてならない。

 関との統一戦後,元気は世界チャンピオンを引退して祖父母のもとに戻り,堀口元気の名を捨てて田沼元気になることを宣言する。

 つまり,『がんばれ元気』は,死者や敗者のことを気に病んだ少年が,「堀口元気」というボクサーとしてがんばってがんばって,最後にやっとそのしがらみからただ解放される物語なのである。年齢差などを考えれば少年誌向けとはいいがたい芦川先生との恋愛も,彼に課せられた「がんばり」と考えれば理解できなくもない。
 不向きな職業,不似合いな恋愛。およそボクサーの似合わない丸顔の少年が死を覚悟するまで「がんばれ」と追い詰め続けたのはいったい誰(何)なのか(それは読者です,となるとなかなかメタで興味深い構造なのだが,それはまた別の機会に)。

 いずれにしても結局のところ,これほど面白いにもかかわらず,これほどにつらい,これほどに目をそむけたいマンガもそうはない。
 小山ゆうはこの後も『愛がゆく』など,あまりのつらさに読んだことを忘れる以外ないような傑作を発表し続ける。彼が何をしたいのか,本当のところはよくわからない。途方に暮れるばかりだ。

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