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2004年7月の4件の記事

2004/07/26

『怪盗ニック対女怪盗サンドラ』 エドワード・D・ホック,木村二郎 訳 / ハヤカワ文庫

Photo_2【コブラにかまれたぐらいじゃ,わたしは落ち込まないのよ】

 怪盗ニックシリーズ,1年あまりで早くも4冊めの登場。

 本作は1960年代の海外サスペンスドラマ,とくに『プロ・スパイ(スパイのライセンス)』を思い起こさせ,読んでいてどこか懐かしい。
 『プロ・スパイ』はロバート・ワグナー主演(あのナタリー・ウッドと二度結婚した二枚目俳優だ),CIAに首根っこをつかまれた大泥棒が東西冷戦期のスパイとして活躍するという話だった。

 一方,本シリーズのニック・ヴェルヴェットは,現金とか宝石とか絵画とか,価値のあるものは盗まないというルールを自らに課した頭脳派の泥棒である。
 今回は,トリッキーな犯行のあとに

   白の女王
   不可能を朝食前に

というカードを残す女怪盗サンドラ・パリスが,ニックのライバルとして登場する。二人はあるときは競い合い,あるときは助け合って依頼主の奇妙な注文をクリアしていく。
 バースデイ・ケーキのロウソクを盗め,禿げた男の櫛を盗め,色褪せた国旗を盗め,蛇使いの籠を盗め,など,収録作品は十編。

 競い合い,助け合う怪盗とライバルの女怪盗といえば,ルパン三世と峰不二子を思い浮かべる方も少なくないだろう。作者のエドワード・D・ホックもふーじこちゃんの熱烈なファンではないかと想像されるくらい設定は似ている。要するに,女優の経験もあるサンドラ・パリスは,いまや決して若くはないが美人でオシャレで不可能犯罪の才能も度胸も抜群なのである。さすがのニックも,サンドラに先を越されて何度か悔しい思いをする。

 サンドラの登場によって,価値のないものばかり盗むという,頭脳的ではあるもののどうしても地味にならざるを得ないピカレスクが,一転ゴージャスとなった。
 とはいえ,ニックにはグロリアという長年連れ添った恋人がおり,サンドラと共闘するにもいちいち彼女の顔色をうかがうあたり,作者の真面目さというか,小市民的な印象がぬぐえない(そういえば,同じ作者の『サム・ホーソーンの事件簿』も,生真面目な田舎医者の話だった)。テレビドラマ化されそうでされないのは,そのあたりが原因かも。

2004/07/18

[雑談] UFJと東京三菱が統合?

 また,銀行名,変わるんですか……?

 現在とその直前の行名はたとえばこちらのページなど見ればわかるんですが,割合詳しめのこの表だって,そもそもは
  第一銀行+日本勧業銀行
   ⇒ 第一勧業銀行
とか,
  協和銀行+埼玉銀行
   ⇒ 協和埼玉銀行
   ⇒ あさひ銀行
あるいは,
  神戸銀行+太陽銀行
   ⇒ 太陽神戸銀行
そして
  三井銀行+太陽神戸銀行
   ⇒ 太陽神戸三井銀行
   ⇒ さくら銀行
とかいうのを省略しているわけで……。

 我が家には,学生時代に住んでいた池袋の第一勧銀の通帳とか,以前会社のビルの近所にあった富士銀行高輪支店(もうない)の通帳とかがあって,始末に困ります。
(とっくに扱いが停止しているのかもしれないし,そもそも残金もカードでおろせない数十円,数百円しかないに違いないのだけれど,廃棄するとお金の神様のバチが当たりそう)

 以前は,銀行が統合したり,支店が統廃合されると,その都度連絡がきて,通帳やカードをリメークしなくてはならなかったように記憶しているのですが,最近は「銀行なんてそのうち名前も場所も変わるもの」という意識が当たり前になったのか,そもそも全顧客に連絡していたら金がかかってしかたないせいなのか,ほったらかしですね(普通預金しかしてないから連絡こないのかな? まぁこの利率では定期にするメリットも感じませんが)。
 手間はかからなくていいのだけれど,そうなったらそうなったで,たとえば三和銀行のカードをなくした! というとき,どこに電話すればよいか,とっさに出てこないのがやっかい。戦前とかは別として,1970年ぐらいから後の統合,再編について,一望にできる図があるといいですね。

 それにしても,安全のために預金先を振り分けても,振り分け先が勝手に統合しちゃうのはかないませんね。もっとも,メガバンクが倒れたとき,銀行側が名寄せするのも大変そうです。

 ふと思ったこと。
 現役の銀行員で,当人が入退職したわけでもないのに勤務先の行名が最も変わった人って,どの銀行の,誰なんでしょう? 太陽 ⇒ 太陽神戸 ⇒ 太陽神戸三井 ⇒ さくら ⇒ 三井住友,これで5銀行。もっと変わった(なおかつリストラされずに頑張ってる)人っているんでしょうかね?

【おまけ】

 松任谷由実が,全盛期のインタビューで

 「あたしが売れなくなるのは,都市銀行がつぶれるような時代になるってこと」

というなかなかゴージャスな発言をしたそうで,これが実は予言として的中していたというのはなかなか考えさせられます。

【おまけ その2】

 そういえば,カラスは「UFJ」が何の略だか,結局知らないまま終わりそうです。いや,別に,教えてほしいということではありません。その程度のお付き合いなんだな,と思っただけ……。

2004/07/13

(大袈裟だけど)我が人生の一冊 『イシミツ』 白土三平 / 小学館文庫

079【イシミツならおまえたちに毎日のませていたではないか!!】

 木ヘンに「色」,身ヘンに「黒」の異体字,人ベンにやはり「黒」の異体字,サンズイに「黄」。これで「イ」「シ」「ミ」「ツ」と読む。

 忍者文字は七種のヘンに七種のツクリを組み合わせ,それをいろは文字にあてはめて一種の暗号をなしたものだそうである。ただし,実際に忍者文字というものが存在したのか,白土三平の創作なのかはわからない。

 今では笑い話にもならないが,大学生がマンガを読む,それだけで事件になった時代があった。1960年代後半だったろうか。その少し後には,サラリーマンが電車の中でマンガを読む写真が新聞紙面をにぎわしたこともある。

 一点明らかなのは,少なくとも当時,マンガはしょせん子供だましの低劣なものであり,成人,文化人が読むに足るものではないという考えがあったことだ。当時の,とくに劇画的表現に対する社会的反感はさらに苛烈で,新聞紙面などでごく当然のように非人間的,暴力的,野卑,俗悪と罵られたものである。

 『イシミツ』はそれらの報道よりさらに以前の昭和38年(1963年),少年サンデー誌上に掲載された作品である。
 物語は「イシミツ」と呼ばれる不老長寿の霊薬をめぐって展開する。
 平安,鎌倉,戦国,そして江戸中期,それぞれの時代の忍者たちが,あるときは奪い合い,あるときは共闘して「イシミツ」の謎を追う。

 史実,実在の人物に虚構をちりばめ,忍者同士の壮絶な戦闘と忍法についての薀蓄,さらに各時代における農民たちと支配層の対立を巧みに織り込んで間然するところもない。これで150ページに満たないとは,何度読み返しても信じがたい。

 添付画像は昭和52年2月20日発行の小学館文庫版。
 幸い,『イシミツ』は現在も小学館文庫などで入手できるようなので,機会があったらぜひともご覧いただきたい。
 昭和38年に,マンガはすでにここまできていたのだ。

 白土三平は『カムイ伝』『忍者武芸帳-影丸伝』『サスケ』といった長編は別格として,この『イシミツ』のように1つの謎,忍法等をとことん追求するタイプの中編,連作がいい。たとえば,傷一つなしに人を呪い殺す「丑三の術」をめぐる『真田剣流』。

2004/07/06

どこに向かう技量 『退屈姫君伝』 米村圭伍 / 新潮文庫

5511【(すてきすてき。今日はなんとも波乱万丈だわ)】

 先日紹介した『水曜日は狐の書評 日刊ゲンダイ匿名コラム』においても

 読み手の予想を快く裏切って,意外な展開を続ける米村圭伍の手並みに,すでに「作家の自負」とでもいうべきものが揺るがずに立っているのを感じる。

と賞賛された作品である。
 しかし,そのあとの作品まで俯瞰して見ると,はたしてどうだろう。

 本書『退屈姫君伝』そのものはなかなか面白い。
 美貌ながら生来のいたずら好き,陸奥盤台藩五十万石の末娘,めだか姫が讃岐の小藩にお輿入れ。そんな彼女がある日退屈しのぎに屋敷を抜け出し,幕府隠密,くノ一,長屋の町人まで巻き込んで,藩の七不思議ならぬ六不思議の謎解き,あげくに陰謀めぐらす田沼意次と対決することに……。
 云々という筋書きを古いと読むか,今風と見るかはともかく,天真爛漫,物怖じしないのびやなか性格で,周囲の者たちは呆れはてつつやがて味方となってわいのわいの,というめだか姫,アニメ化の話がないのが不思議なほどである。

 六不思議の謎解きをはじめ,さまざまな事件,登場人物を交えながら,それでも作中の時間はゆっくり過ぎていく。展開が遅いわけではない。文体というより,作品内時間の経過の仕方が際だって「落語」的なのである。

 デビュー作『風流冷飯伝』,本作『退屈姫君伝』,さらに続く3作めの『面影小町伝』(文庫化に際し『錦絵双花伝』より改題)の3作を見ると,一部の人物が複数の作品に登場しており,これらが連作であることは明らかだ。
 だが,作品のもつ手ごたえは,これが同じ作者によるものかと思われるほどに異なる。
 とくに,1作,2作めののんびり明るい風情を好もしく思った者にとって,3作め『面影小町伝』の凄惨な展開は衝撃だろう。また,それと知ったとき,1作めの『風流冷飯伝』も,決して万事にほのぼのした物語ではあり得なかったことに気がつくだろう。

 もちろん,一人の作家がユーモアとシリアスを書き分けることは珍しくない。しかし,三部作で,しかも登場人物や舞台が重なりながらこれだけタッチが異なるのも珍しい。
 これを,狐の書評のように「読み手の予想を快く裏切って」と評価すべきか,それとも作者のフォームが安定しないとみるべきか,そのあたりは難しいが,どうも後者を否定しきれない。
 極端にいえば,三部作を通して共通するのは,作者米村圭伍の「技量」だけなのである。

 この構造は,『後宮小説』のあと,小説を書くという行為そのものをテーマにしたような短編集『ピュタゴラスの旅』を提示した酒見賢一のあり方と一見似ているようで──実はまるで違う。
 酒見賢一は小説が「技量」によって成立していることを作品中でも明示し,いわば手の内をさらしたところでファンタジーを書いた。読み手は,その構造を理解したうえで,その構造も含めて酒見賢一を面白がることが可能である。
 しかし,米村圭伍の文体は,酒見賢一のようにあるにはあまりに口あたりがよすぎる。おそらく落語などの芸能への傾倒が良くも悪しくも米村圭伍の作品をとっつきやすくしているのだろう。そのため,読み手は,そこにある濁りに気がつきにくい。そして,その濁りをメインテーマにされたとき,一部の読み手は途方に暮れるに違いない。

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