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2004/06/21

大人のための銀河鉄道の夜…… 『鳥類学者のファンタジア』 奥泉 光 / 集英社文庫

3851【もう,なにもいうことは,ないのでした。】

 楽しい。

 本を読む楽しみをたっぷりと堪能できる1冊である。
 文庫で700ページを超える長編だが,読み終えたとき,美味しいチョコレートケーキの最後の一匙を食べてしまったような気分になる。パラパラとあちらこちら拾い読みしてしまう。また最初から読みたくなる。

 粗筋はカバーから失礼させていただこう。曰く,
 「フォギー」ことジャズ・ピアニストの池永希梨子は演奏中に不思議な感覚にとらわれた。柱の陰に誰かいる……。それが,時空を超える大冒険旅行の始まりだった。謎の音階が引き起こす超常現象に導かれ,フォギーはナチス支配下,1944年のドイツへとタイムスリップしてしまう──。

 つまり,本書はフィリップ K.ディック『高い城の男』や,ジェリー・ユルスマン『エリアンダー・Mの犯罪』と並び称すべきタイムスリップSFの巨編で……。

 ウソウソ。そういう予断なしに手に取るのがいいと思います。

 本書の惹句や推奨コピーの中には「モダンジャズファンにはたまらない!」とか,そういった表現もあるようだが,それも気にしないほうがよい。確かに主人公のフォギーはジャズ・ピアニストだし,ストーリーには音楽が大きくかかわっている。しかし,ジャズに詳しくなければわからない,といった構えは,イギリスで書かれた小説はイギリスに行ったことがなければ楽しめない,とかいうのに等しい。

 そもそも,本書にはキーワードとして
   フィボナッチ数列
   オルフェウスの音階
   ピュタゴラスの天体
   ロンギヌスの聖槍
   宇宙オルガン
などが仰々しく登場する。つまりは,
   チャーリー・パーカー
   チュニジアの夜
などもそれに並ぶパズルのピースとして配置すればよいのだ。

 それにしても,Web上の本書に対する評価の揺れは面白い。やれ笑えない,冗長だ,散漫だ,自分つっこみが多くてうんざり,などなど。酷評の多くはこの文体についていけたかどうかで異なるように思われる。

 想像するに,日ごろからマンガを読みつけている人は,本書の文体にも比較的スムーズに入り込めるのではないか。
(別に本文中に「佐知子ちゃんが峰不二子(ただし胸のない)なら,こっちは『風の谷のナウシカ』だ(やや意味不明ですが,おなじ宮崎監督関係ということで)」などという「笑えない」「自分つっこみ」があるから,というわけではない。)
 要するに,本書は文体上のテクニックを強く意識して書かれているのではないか,ということだ。

 昨今の小説のどれほどにおいて,作者によって明確に「文体」というものが意識されているだろう。どうもあまり意識されていないのではないか。
 たとえば,文体のみで他と区別できる作家がどれほどいるだろう。また,複数の文体を意図的に使い分けられる作家がどれほどいるだろう。

 一方,マンガというものは,本来的にテクニックの産物である。あらゆるコマは,他の作家の作品ではないことを歴然と示している。作者は1コマ描くにおいても己のテクニックを駆使し,読み手は高速にページをめくりつつ,そこに込められたテクニックを評価する。

 本書『鳥類学者のファンタジア』は,(読み手の好みに合うか否かは別として)文体において相当に意識的だ。
 ノンシャランなジャズ・ピアニストの視点から語られる本文はぶっきらぼうかつ若干無神経な「である調」で,1944年のナチス支配下にタイムスリップするという超常現象に対しても36歳の独身女が酔った帰りにコンビニの棚を見て歩く程度の精度,緊張感しか表さない。超常現象以上にそのことが異常なのだが,それに慣れたとき,読み手はフォギーにシンパシーを抱き,彼女と旅をともにできるだろう。

 それを実現しているのが,作者の文体上のテクニックである。
 おそらく,マンガの熱心な読み手であるなら,そこに「テクニックが込められている」一事をもって,本書に好感を抱くのではないか。逆に,そういう読み方に慣れていない「文学系」の読み手は,かえって本書の文体を余計なものの多い,ゴミゴミしたものに感じてしまうのではないか。

 作者は主人公フォギーのジャズ・ピアノに対する信念として,「アイデアを肉体化し現実の音楽にもたらすのは技術であり,パワーであり,そうした技術やパワーを獲得するには地道な練習以外に方法はない」と記している。こうした考え方は音楽の演奏やマンガの世界ではごく普通だと思われるが,なぜ昨今の文学ではそうした技術や練習に対する敬意が軽んじられているのか,不思議でならない。
 著者は明らかに,技術や練習の側にいようとしているのである。

 壮大といえば壮大,インナーといえばインナーなフォギーの旅は,この世の芸術の全貌を語りつくすような大技を,微苦笑を誘う中年女の冒険譚に織り込んで,軽く読もうと思えばとことん軽く(正直なところ,ここしばらくこんなに笑える本はなかった),重く読もうと思えばどっぷり重く(ここしばらく,これほど音楽について正面から考えた記憶がない),結局のところ,フォギーに対する友情以上,恋愛未満の感情を抱いて本書は終わる。

 賢治ファンが納得するかどうかしらないが,本書は大人のための『銀河鉄道の夜』なのではないか。
 この世のさまざまな事象を別世界に投影して意味を問い,問うだけで明確な回答を用意しないことによってより開放的な回答を求めるという意味で。また,ともに旅をする近しい者との別れが物語が始まる前に確定されているという意味で。

 ところで,本書の魅力の1つに,ぶっきらぼうな「である調」の中に,ごくまれに,かつ唐突に「ですます調」が現れることがある。たとえば,
「水際立つというのは,こうした場合に使う言葉なのかもしれないと思ったりしたのは,やや評価が高すぎるきらいはあると,わたしも思います。」
 この「思います」の主語は,フォギーなのか,作者なのか。それとも著述者=フォギーという構造なのか。そのあたりがえもいわれぬ瑞々しい揺れを感じさせてくれるのだ。
 もう一箇所例示してみよう,
「ついていくことだけに集中したせいで,フォギーは二回角を曲がった段階でもう帰り路がわからなくなった(普通に歩いても同じだったと思いますが)。」
 これだけ抜き出されてもわかりにくいだろうが,冷たい美味しい水に出会えて,そこで自分が渇いていたことに気がついたような,そんな感じです。

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