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2004年6月の4件の記事

2004/06/30

のびやかに吹くべしホラを 『後宮小説』 酒見賢一 / 新潮文庫

Photo_3【なによ。ばつがわるいじゃないの】

 『鳥類学者のファンタジア』のもう一方の魅力は,小説たるものは本来突拍子もないホラ話であるべし,ということをがつんと思い出させてくれることにある。

 もちろん,ブンガクの使命はほかにもきっとある。多分,あるに違いない。だが,どうも「自分探しに懸命なワタシ」や「衝動的に破壊に走ってしまうワタシ」ばかりだと少々うんざりしてしまう。
 作者自身の惑いや心理衝動を散文にのせただけなら,それは「ワタシ小説」に過ぎない。純文学と分類される小説の側にも,他人を楽しませ,喜ばせ,救う,いうなれば「他小説」がもう少しあってもよいのではないか。もしくはもう少し評価されてもよいのではないか。どうも小乗小説が多いような気がしてならない。

 上記に思い至ったのは,『鳥類学者のファンタジア』に続いて酒見賢一『後宮小説』を読んだためでもある。

 『後宮小説』は第一回ファンタジーノベル大賞受賞作で──といわれても,ファンタジーノベル大賞というものをよく知らないのでうなずくしかないのだが──また,テレビアニメ『雲のように風のように』(1990年3月21日放映)の原作としても知られる作品である。
 このTVアニメ作品をうっかり(?)見てしまったため,これまで原作を読む意欲を失していた。だが,15年近く経って,ふと,アニメのほうはヒロイン銀河を演じた佐野量子のちょっとはかない(というか頼りない)声を除き,ほとんどなんにも記憶にないことに気がついて,今さらながら原作を読んでみようと思い立った。

 さて,その原作だが……なかなか,よかった。

 『後宮小説』は,田舎娘の銀河が,腹上死した先帝の後を継いで素乾国の皇帝となった槐宗の後宮に入り,物怖じしない天真爛漫な言動に周囲を巻き込み,あげくに後宮軍隊を組織して反乱軍に立ち向かう,というお話である。

 まぁ,詳細を覚えてもいないアニメと比較してもしようがないが,『となりのトトロ』や『魔女の宅急便』の近藤勝也によるアニメのキャラクターの銀河はおよそ美人には見えないが,原作では性格はともかく王都で流行している衣装を着せ,公女のように髪を結えば「宦官の身でさえはっとするほどの姫君」とされている。要するに,原作では銀河は美麗であること一流なのである。
 また,原作の文体には,アニメでは表現されなかった,架空の「素乾国」の歴史などをまるごとデッチアゲた「かろみ」が漂っている。架空の王朝の後宮について,架空のしきたり,架空の学問をしゃらりと描き上げる。「素乾」というネーミングからして,素晴らしいではないか。
 本書は,「素乾書」「乾史」「素乾通鑑」という(当然ながら架空の)文献をもとに書かれたことになっており、随所にそれが示される。曰く,

『強ヒテ望ム,ソノ答ヲ出ダサレンコトヲ。判然トセザルハ心気安セザルナリ』
 と銀河が叫んだことになっている。
「ちゃんとした答えを教えてもらわないと,夜も気になって眠れなくなるじゃないの」
 師に対するには不躾すぎる物言いであろう。さらに,『卑怯ナリ』と言ったともいわれるが,どうだろうか。

 ここで,筆者も馬鹿かと思わないこともない。この小説のもとだねとなっている歴史書のひとつ「素乾書」を編纂した無名の史官に対してである。正史とは国家の歴史の正式な記録である。にも拘らず,このような痴戯の類まで馬鹿正直に記載しているのである。そんな史官の執筆態度に筆者も好意を覚えざるを得ない。

 などなど。
 タワケているといえばこの上なくタワケた書きっぷりだが,これが本書の魅力と「かろみ」の真髄である。

 また,テレビ用のアニメではほとんど触れられなかったが,原作では素乾国後宮における一種の性愛哲学に大きな比重がおかれている。それを語るに作者は角先生という人物を用意して,作者直接でなく角先生に語らせ,処女の銀河に問答させることで,そのあたりの生臭さを巧みにすり抜け,バートン版『カーマ・スートラ』同様本来のそのことの尾籠さをうまく隠蔽している。
 ただ,なにぶん全編にこの話題の占めるボリュームが大きく,本書を子供に勧めるとなるとやや躊躇するものがあるだろう。

 最後に,『後宮小説』は本来子供っぽくてのびやかな銀河の魅力(年ごろになったハイジを想像すればよい?)によるものだが,それ以上に魅力的なのは,素乾国を滅ぼした幻影達の背後にいた,渾沌なる人物である。
 この気まぐれ,かつ妙に文化人たる混沌,アニメでは気のいいおじさん程度にしか描かれなかったが,原作では一種の「怪物」である。おそらく,混沌という人物の側から素乾史を描いたなら,本書はおよそ手触りの違う暗黒小説となったかもしれない。本書が,いかにもジブリアニメの原作のようでありながら,中に一種の鉛の錘を置いたような按配なのはこの渾沌という人物のせいであろう。

 さて,小説はホラ話,ということでは,もう一人取り上げたい作家がいる。
 次回はその作家の作品を。

2004/06/21

大人のための銀河鉄道の夜…… 『鳥類学者のファンタジア』 奥泉 光 / 集英社文庫

3851【もう,なにもいうことは,ないのでした。】

 楽しい。

 本を読む楽しみをたっぷりと堪能できる1冊である。
 文庫で700ページを超える長編だが,読み終えたとき,美味しいチョコレートケーキの最後の一匙を食べてしまったような気分になる。パラパラとあちらこちら拾い読みしてしまう。また最初から読みたくなる。

 粗筋はカバーから失礼させていただこう。曰く,
 「フォギー」ことジャズ・ピアニストの池永希梨子は演奏中に不思議な感覚にとらわれた。柱の陰に誰かいる……。それが,時空を超える大冒険旅行の始まりだった。謎の音階が引き起こす超常現象に導かれ,フォギーはナチス支配下,1944年のドイツへとタイムスリップしてしまう──。

 つまり,本書はフィリップ K.ディック『高い城の男』や,ジェリー・ユルスマン『エリアンダー・Mの犯罪』と並び称すべきタイムスリップSFの巨編で……。

 ウソウソ。そういう予断なしに手に取るのがいいと思います。

 本書の惹句や推奨コピーの中には「モダンジャズファンにはたまらない!」とか,そういった表現もあるようだが,それも気にしないほうがよい。確かに主人公のフォギーはジャズ・ピアニストだし,ストーリーには音楽が大きくかかわっている。しかし,ジャズに詳しくなければわからない,といった構えは,イギリスで書かれた小説はイギリスに行ったことがなければ楽しめない,とかいうのに等しい。

 そもそも,本書にはキーワードとして
   フィボナッチ数列
   オルフェウスの音階
   ピュタゴラスの天体
   ロンギヌスの聖槍
   宇宙オルガン
などが仰々しく登場する。つまりは,
   チャーリー・パーカー
   チュニジアの夜
などもそれに並ぶパズルのピースとして配置すればよいのだ。

 それにしても,Web上の本書に対する評価の揺れは面白い。やれ笑えない,冗長だ,散漫だ,自分つっこみが多くてうんざり,などなど。酷評の多くはこの文体についていけたかどうかで異なるように思われる。

 想像するに,日ごろからマンガを読みつけている人は,本書の文体にも比較的スムーズに入り込めるのではないか。
(別に本文中に「佐知子ちゃんが峰不二子(ただし胸のない)なら,こっちは『風の谷のナウシカ』だ(やや意味不明ですが,おなじ宮崎監督関係ということで)」などという「笑えない」「自分つっこみ」があるから,というわけではない。)
 要するに,本書は文体上のテクニックを強く意識して書かれているのではないか,ということだ。

 昨今の小説のどれほどにおいて,作者によって明確に「文体」というものが意識されているだろう。どうもあまり意識されていないのではないか。
 たとえば,文体のみで他と区別できる作家がどれほどいるだろう。また,複数の文体を意図的に使い分けられる作家がどれほどいるだろう。

 一方,マンガというものは,本来的にテクニックの産物である。あらゆるコマは,他の作家の作品ではないことを歴然と示している。作者は1コマ描くにおいても己のテクニックを駆使し,読み手は高速にページをめくりつつ,そこに込められたテクニックを評価する。

 本書『鳥類学者のファンタジア』は,(読み手の好みに合うか否かは別として)文体において相当に意識的だ。
 ノンシャランなジャズ・ピアニストの視点から語られる本文はぶっきらぼうかつ若干無神経な「である調」で,1944年のナチス支配下にタイムスリップするという超常現象に対しても36歳の独身女が酔った帰りにコンビニの棚を見て歩く程度の精度,緊張感しか表さない。超常現象以上にそのことが異常なのだが,それに慣れたとき,読み手はフォギーにシンパシーを抱き,彼女と旅をともにできるだろう。

 それを実現しているのが,作者の文体上のテクニックである。
 おそらく,マンガの熱心な読み手であるなら,そこに「テクニックが込められている」一事をもって,本書に好感を抱くのではないか。逆に,そういう読み方に慣れていない「文学系」の読み手は,かえって本書の文体を余計なものの多い,ゴミゴミしたものに感じてしまうのではないか。

 作者は主人公フォギーのジャズ・ピアノに対する信念として,「アイデアを肉体化し現実の音楽にもたらすのは技術であり,パワーであり,そうした技術やパワーを獲得するには地道な練習以外に方法はない」と記している。こうした考え方は音楽の演奏やマンガの世界ではごく普通だと思われるが,なぜ昨今の文学ではそうした技術や練習に対する敬意が軽んじられているのか,不思議でならない。
 著者は明らかに,技術や練習の側にいようとしているのである。

 壮大といえば壮大,インナーといえばインナーなフォギーの旅は,この世の芸術の全貌を語りつくすような大技を,微苦笑を誘う中年女の冒険譚に織り込んで,軽く読もうと思えばとことん軽く(正直なところ,ここしばらくこんなに笑える本はなかった),重く読もうと思えばどっぷり重く(ここしばらく,これほど音楽について正面から考えた記憶がない),結局のところ,フォギーに対する友情以上,恋愛未満の感情を抱いて本書は終わる。

 賢治ファンが納得するかどうかしらないが,本書は大人のための『銀河鉄道の夜』なのではないか。
 この世のさまざまな事象を別世界に投影して意味を問い,問うだけで明確な回答を用意しないことによってより開放的な回答を求めるという意味で。また,ともに旅をする近しい者との別れが物語が始まる前に確定されているという意味で。

 ところで,本書の魅力の1つに,ぶっきらぼうな「である調」の中に,ごくまれに,かつ唐突に「ですます調」が現れることがある。たとえば,
「水際立つというのは,こうした場合に使う言葉なのかもしれないと思ったりしたのは,やや評価が高すぎるきらいはあると,わたしも思います。」
 この「思います」の主語は,フォギーなのか,作者なのか。それとも著述者=フォギーという構造なのか。そのあたりがえもいわれぬ瑞々しい揺れを感じさせてくれるのだ。
 もう一箇所例示してみよう,
「ついていくことだけに集中したせいで,フォギーは二回角を曲がった段階でもう帰り路がわからなくなった(普通に歩いても同じだったと思いますが)。」
 これだけ抜き出されてもわかりにくいだろうが,冷たい美味しい水に出会えて,そこで自分が渇いていたことに気がついたような,そんな感じです。

2004/06/18

『さみしさの周波数』 乙一 / 角川スニーカー文庫 (including 『森の死神』 ブリジット・オベール,香川百合子 訳 / ハヤカワ文庫)

586<Part A>

 乙一(おついち)をときどき読む。

 正面から挑むとか,およそそんな感じではない。枕元に積んだ本の中にあって,ときにnightcap代わりに,短編を1つか2つ。16歳でジャンプ小説・ノンフィクション大賞を受賞し,話題になったという『夏と花火と私の死体』すらまだ読んでいない。その程度。

 だから,今回は別に《切なさの達人》と呼ばれる乙一を正面から語ろう,とかいうつもりはない。

<Part B>

 海外ミステリをときどき読む。

 しばらくミステリらしいミステリから遠ざかっていたのだが,最近また何冊かに1冊の割合で海外ミステリを手にするようになった。とくにはきっかけも,意図するものもない。
 たまたま女流作家の作品が続いている。それなりに楽しんではいる。しかし,正直なところ,臓腑が揺れるほどには没頭していない自分がいる。読後感も淡々としたものである。

 たとえば,『森の死神』

 テロ事件に巻き込まれて全身麻痺に陥り,目も見えず,口をきくこともできなくなった女性を主人公とするブリジット・オベールのこの作品は,その設定の巧みさゆえ,絶妙なもどかしさを味わえる。事件はほとんどすべて主人公エリーズの耳に入った周囲の人々の言葉だけで展開し,彼女はイエスの意思表示の代わりに人差し指を持ち上げることしかできない。そんな状態で,彼女は,いかにして次々と子供たちを殺してはその体の一部を切り取って持ち去る殺人鬼の正体を暴くのか……。

<Part C>

 乙一の短編集『さみしさの周波数』に収録された「失はれた物語」は,交通事故で全身麻痺に陥り,目も見えず,口をきくことも,さらには音を聞くこともできなくなった男性の物語である。
 残された──いや,彼は生きてはいるのだから「残された」という表現は正確ではないのだが──妻は,かすかに痛点の残る右腕に文字を書くことで彼と会話を交わす。彼は,右手の人差し指を一度上げることでイエス,二度上げることでノーの意思表示をする。
 作品中の記述はすべて彼の一人称で描かれる。妻の言動は,彼の右腕の痛みを通して以外,一切描かれない。

<Part D>

 全身麻痺の人物が,唯一動かせる指やまぶたで意思表示するという設定は,ミステリの世界ではとくに初めてというわけではない。
 たとえばウィリアム・アイリッシュ「じっと見ている目」(創元推理文庫『アイリッシュ短編集3 裏窓』所収)では,やはり全身麻痺の老婆が,まばたき一度でイエス,二度でノーという意思表示をすることによって息子の仇を討つ。アイリッシュ(=コーネル・ウールリッチ)のファンは少なくなく,のちに複数の作家たちが似たような設定を選んだとしても,とくに驚くにはあたらないだろう。

 オベールの作品では,主人公の麻痺が完治することはないものの,事件についてはそれなりにハッピーエンドが用意されている。一方,乙一の作品では,およそ救いのない,哀切な最後が待っている。作品としての厚み,伏線,サスペンス,それらについてはすべてオベールの長編がまさり,それでもなおかつ乙一の描いた絶望は圧倒的にオベールにまさる。

<Part E>

 両作品とも,そのサスペンス,その絶望は,人差し指を上下することでイエス,ノーしか意思表示できない,そのコミュニケーションの障壁がキーとなっている。
 不思議なことに,主人公の周囲の人々は,なぜか,時間をかけてでも「言葉」による会話を実現しようという発想にはいたらない。アルファベットはたった26文字。人差し指を速く=10の桁,ゆっくり=1の桁,などと使い分ければ,文字を表すのも難しくはないだろう。モールス信号を学習させるという方法もある。時間だけはふんだんにあるのだ。

<Part F>

 結局,作者たちは「言葉」が伝えられない状況こそを描きたかったということか。

 さらにいえば,オベールは二重三重の条件を仕掛けた中でのサスペンスそのものを描きたかったのであり,そのために主人公の置かれた状況は厳しければ厳しいほうがよかった。したがって,事件が解決してしまえば,主人公は穏やかな融和の中に再配置される。

 一方,乙一はコミュニケーションの喪失そのものを描きたかったのであり,それはある程度成功している。「失はれた物語」は,短編小説としては図抜けて素晴らしいといえるほどのものではない。だが,ここに描かれたものはかつて類を見ない,徹底的な孤独として記憶されるべきものである。

 イエス。あるいは,ノー?

2004/06/14

取り上げられた本より面白い? 『水曜日は狐の書評 日刊ゲンダイ匿名コラム』 ちくま文庫

720【この一冊を待っていた。】

 圧倒される。
 たった八百字程度なのに。いや,たった八百字程度だから,かもしれない。

 筆名は「狐」。夕刊紙「日刊ゲンダイ」に匿名で連載された書評コラムである。掲載は毎週水曜日。今回まとめられたのは,およそ四年分にあたる二百二編,文庫にして四百四ページ。この四百四ページが,広漠,かつ濃密な海をなして読み手を満たす。

 物語によく「命を削って」なにがしかをこしらえる話が登場する。本書に漂う殺気はそれに類するものだ。
 なにしろ書き出しからして凡百の書評とは《威力》が違う。
 たとえば。

 一読,積年の胸のつかえが下りる。気持ちがいい。啓蒙されるというのは本来,このように快適なことなのだ。

安保徹著『医療が病いをつくる』(岩波書店)

 これが天才編集者の仕事である。

ヘルマン・ヘッセ著/フォルカー・ミヒェルス編/倉田勇治訳『雲』(朝日出版社)

 嵐山光三郎が気合を入れた。

嵐山光三郎『美妙,消えた。』(朝日新聞社)

 馬には乗ってみよ,ナボコフには添うてみよ。

沼野充義ほか訳『ナボコフ短編全集 II』(作品社)

 厚い。重い。千三百二十ページ余りもある。読んでも読んでもゴルゴである。

さいとう・たかを/さいとう・プロダクション著『リーダーズ・チョイス BEST13 OF ゴルゴ13』(小学館)

 全編全文,このような感じである。キレのよい名言のカタマリと言ってよい。

 なぜ,どうしたらこのような読書ができて、どのようにしたらかくのごとき書評が書けるのか。
 古今(イグナチオ・デ・ロヨラからナンシー関まで)の著述やどこから見つけてきたかというような専門書,チエーホフ,中島敦,野坂昭如にまじって東海林さだお,黒鉄ヒロシ,高野文子,川原泉,岡崎京子らがいるのも選択の自在さを顕して信頼に足る。

 丁寧に読んでみれば,決して奇をてらっているわけではない。
 書物の来歴を少ない文字数で的確に著し,その魅力と難点を遠慮なくまっすぐな言葉にしたらこうなる。……それが,難しい。本当に難しいことをこの著者はすっぱりとやってのける。

 権威ある出版社の全集本などに対して,権威への反抗としてでなく,正面からその解釈の誤りを指摘するますらおぶりも魅力的だ。底知れぬ学識をそれと意識させず,あくまで好もしい本との出会いを悦ぶその姿勢が嬉しい。

 ただし。

 書評のあまりの面白さに,紹介された本を何冊か手にとってみたものの……著者のようにあらゆる書物を読み解き,己の楽しみとするのもまた才能の1つなのかもしれない。
 いたらぬ修行,痛感である。

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