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2004年3月の5件の記事

2004/03/30

最近読んだ本 『空のむこう』『恋は肉色』『風俗嬢菜摘ひかるの性的冒険』『菜摘ひかるの私はカメになりたい』『えっち主義』

868『空のむこう』 遠藤淑子 / 白泉社(ジェッツコミックス)

 遠藤淑子の作品をヒトカラゲに「ハートウォーミング」とレッテル貼ってすますのはそろそろ止めにしてほしい……と常々思っていたら,久々発行の本短編集では担当者が変わったものか帯やカバーにその言葉は見当たらなかった。善哉。

 「ハートウォーミング」という評価にどうして苛立つかといえば,それを説明するにはエネルギー保存の法則を持ち出さねばならない。

 遠藤淑子の作品が読み手のハートを温める,これが事実であるとき,読み手のハートにもとから用意されていたなにがしかが燃焼するか,あるいはハートの外部から熱量が持ち込まれるのでなくてはならない。
 しかし,読み返すまでもなく,遠藤淑子の作品は,ばたばたしたギャグがちりばめられたものも,しんみりシリアスなものも,いずれもハッピーエンドとは言いがたい。比較的最近の長編,『ヘブン』『狼には気をつけて』『マダムとミスター』などを見ても明らかなように,そもそもがハートウォームといえるような設定ではないのだ。ギャグと穏やかな各エピソードの最終ページに騙されてはいけない。登場人物たちが息づく世界は,寂しくも枯れ果てた,救いのない砂漠なのだ。
 つまり,読み手のハートが温まるのは,彼ら登場人物の残りとぼしいぬくもりを搾取しているからに過ぎない。

 同じ雑誌で活躍したこと,絵柄が決して巧みとは言いがたいこと,シリアスなストーリーにこれでもかとギャグを盛り込むこと,など,類似点の多い遠藤淑子と川原泉が意外なほど並列して語られないのは,このあたりの構造の違いによる。
 遠藤淑子がエネルギー保存の法則にのっとって読み手に熱をもたらすのに対して,川原泉はいうなれば共振,共鳴の理論で読み手を揺さぶる。遠藤淑子の登場人物が諦念に満ちているのに対し,川原泉の登場人物は愚痴っぽいが優しい。彼らのちょっとした台詞やしぐさに心を温められるなら,それはあなたのハートの何かが彼らによって共振,共鳴を起こしているためなのである。

『恋は肉色』『風俗嬢菜摘ひかるの性的冒険』 光文社 知恵の森文庫
『菜摘ひかるの私はカメになりたい』『えっち主義』 角川文庫

 菜摘ひかるのエッセイ集を束ねて読んだ。

 とくに思うところがあったわけではない。
 ずっと以前,インターネットのオークションで,誰かが彼女を(もちろん当人に無断で)売りに出した。その事件の記憶が少しばかり引っかかっていたためかもしれない。

 4冊続けてまとめ読みしたせいなのか,また,どこまでが意図的なのかよくわからないが,4冊の隅から隅まで,著者は自分のことしか書こうとしていない……そのことには何か圧倒された。

 風俗嬢という,徹底的に対人的な職業についていながら,その間,彼女はずっと自分のことしか考えていない。単に「我欲」というのとは違う。まったく違う。また,「自分は,自分は,」と表層的な自己主張が強いわけでもない。

 たとえば服装や化粧について語るとき,人は誰しも「他人にどう見られるか」を気にする。菜摘ひかるの場合,必ずそこに「自分としては」が付け加えられる。彼女の言動,職業選択,対人関係,そこにすべて「菜摘ひかる」というフィルターが被さった感じだ。1つ1つは別に特殊なことではない。だが,「必ず」「すべて」となると,さすがに圧迫感が強い。
 たとえば男女が恋愛関係にあるとき,そこには女と男がいるはずだが,本書では「菜摘ひかる」しかいないようにしか読めない。彼女はなぜ「自分が」その相手と付き合うつもりになったかを語り,「自分が」どうなると「自分が」付き合いを続けられないかを語る。相手の男は菜摘ひかるを通してしか存在しないし,菜摘ひかるが目をそらした瞬間,この世からいなくなってしまう。
 4冊の文庫本のうち2冊の作品名に著者名が乗っかっているのも,偶然ではないような気がする。

 菜摘ひかるはソープで働いたときのことを語る際に,半可通の客をあしらい,うぶで感じやすい若い女を演じてみせ,それをプロの矜持として誇る。とても正しいと思う。彼女に限らず,プロはそうなのかもしれない。そうなのだろうと思う。
 では,これらの書物において,彼女と読み手の関係はどうなのだろう。読み手はどこまで彼女を信じてよいのか。信じるべきではないのか。
 文庫の解説やWebに散見する感想の類では,女性の読者にはなんらかの共振,共鳴を発生しているように思われる。僕には残念ながら,共振,共鳴する糸がない。

 ただ,それならつまらなかったのか? と問われれば,それに対してはけっこう面白かった,と答えたい。
 女ではない自分,風俗営業にかかわったことのない自分,ましてや風俗嬢の経験のない自分(当たり前だ…)からみて,これらのエッセイ群は,実にソリッドなノンフィクションレポートであり,まるで異国文化に触れるような新鮮な読書体験を与えてくれる。
 たとえば,4冊の中では自伝仕立ての『風俗嬢菜摘ひかるの性的冒険』が抜群に面白い。都内某所のストリップ劇場での10日間を描いた「トキメキ☆衆人環視」など,汗の飛び散る肉体労働を歌い上げるという意味で近年まれな大ケッサクだと思う(多分,女性読者にウケるのは,こういった部分ではないのだろうが)。

 ただ,その読書体験を与えてくれる著者に対して好感を持てるかといえば,それはまた別だ。好感という言葉を持ち出すのがそもそも間違いかもしれない。「自分が」「自分は」と繰り返す小さなブラックホールを扱いかねる,そんな印象のほうが近い。わずらわしさのほうが先にたってしまうのだ。

 角川文庫の『えっち主義』には,エッセイに合わせて作者当人によるマンガが掲載されている。絵の巧い下手とは別に,菜摘ひかるにとって人間の顔がゴム製品のように見えているのではないかと思われるときがあり,少しばかり異様な気がする。

2004/03/22

最近読んだ本 『頭文字D(28)』『モーツァルトの子守歌』ほか

558【場数と経験の量が 自信と技術を作る・・】

『頭文字D(28)』 しげの秀一 / 講談社(ヤングマガジンKC)

 読者諸君はかつて『頭文字D(27)』の書評において,筆者が「プロのドライバーにも勝ってしまったプロジェクトD,今後読み手が納得できる壁はあり得るのか」と疑問を呈したことをご記憶だろうか。

 ……と,ナレーション口調もちょっぴり『頭文字D』ふうだが,新刊では早速それに対する1つの回答が提示されている。拓海ではないが「そうくるか」と思わず納得の展開だ。
 ここで「オトナ」を出してくるとは,やるなぁ,しげの秀一。

 高橋啓介と恭子ちゃんのラブラブファイヤーもあえなく散って,ソリッドな公道バトル路線に戻り,結局のところ,無節操な闘いの拡大再生産にも陥らず,ラブアフェアも飾りの域を出ず,『頭文字D』はそのあたりのストイックさが魅力なのかと思ってみたりみなかったり。

『モーツァルトの子守歌』 鮎川哲也 / 創元推理文庫

 斯界の巨匠ならストイックかというと,当然ながらそんなことはない。
 創元推理文庫から最近立て続けに復刊された<三番館>シリーズ,主人公の探偵が持ち込む謎をバー<三番館>のバーテン氏が快刀乱麻に解いてみせるという典型的な安楽椅子探偵タイプの短編集だが,この名作にして,後半はダレダレにダレてさっぱりだった。

 後半というとどのあたりかというと,
  『太鼓叩きはなぜ笑う』
  『サムソンの犯罪』
  『ブロンズの使者』
  『材木座の殺人』
  『クイーンの色紙』
  『モーツァルトの子守歌』
と全6冊並べて,3冊めの『ブロンズの使者』あたりですでに少し緩んだ印象があり,4冊めの『材木座の殺人』ではすっかり弛緩しきっていた。

 何が違うのだろう。
 この<三番館>シリーズの各作品は,おおむね,まず肥った弁護士が探偵に調査を依頼,探偵が足と口を使って執拗な調査を行うがどうにも埒があかず,<三番館>のバーテン氏に相談したところ,意外な着眼点から事件の様相がまるで異なるものになる……という筋書きである。ところが,後の作品になればなるほど,この探偵の調査が適当だったりそもそも欠落していたりするのだ。つまり,あらゆる可能性が検討された後にバーテン氏の指摘があるからこそ,その推理の見事さに打たれるはずなのに,十分な検討,検証を経たうえでないなら,それは単なる可能性を1つ追加するだけなのである。
 実際,『クイーンの色紙』や『モーツァルトの子守歌』収録作品にいたっては,素人読者にも,ほかの解決案が指摘できそうなものがある。「本格」だの「安楽椅子」以前の問題だろう。

 ただ,作品そのものがつまらなくなる一方,一種の「見もの」として注目に値するのが,各巻の解説である。
 なにしろ,作者は本格の巨匠。東京創元社の抱える資産の中では一番の大物かもしれない。あだやおろそかに扱えない巨匠に対する苦し紛れの世辞追従。
 各巻の解説担当者が,テクニックの限りを尽くして作品をそして鮎川御大を持ち上げるさま(あヨイショ!),春の宵にブランデー片手に味わうだけでも十分豊かでインテレクチュアルな時間を過ごせるように思われるのだがさて如何。

2004/03/15

最近読んだ本 『のだめカンタービレ(8)』『白夜行』『老女の深情け 迷宮課事件簿(3)』

Photo『のだめカンタービレ(8)』 二ノ宮知子 / 講談社 Kiss KC

 早くも8巻め。1巻が2002年1月発行,つまり2年で8巻。掲載誌が月2回刊であることを考えれば,少しびっくりしてよい刊行ペース。
 しかも,テンションは高まるばかり。

 帯の惹句には「こんなに笑えるクラシック音楽があったのか!?」とあるが,『のだめ』はもはや「笑い」の領域にはない。上質な『ルパン三世』作品においては,ちりばめられたギャグに笑う以前に完成度に見とれるしかなかったように,『のだめ』8巻では一瞬も笑うことができなかった。
 ここに描かれているのは,ただ,正しく音楽である。
 息が詰まるほど感動する以外に何ができるというのか。

『白夜行』 東野圭吾 / 集英社文庫

 少々動機が不純で,最近諸般の事情から長編小説から離れていたのだが,「いけない,このままでは長距離走に耐えられないカラダになってしまう!」なる焦燥感から,ながく本棚で寝ていた本書を手にとった。

 噂にたがわぬ傑作であった。
 もちろん,数行で感想を語り尽くせる作品ではない。

 新本格派と称する作家の多くが「パズル」を強調するのに対し,『白夜行』はそのまったく逆,動機や犯人の心のあり方に重心を置こうとする試みである。文庫にして800ページを越える膨大な記述の果てに,読み手は最後まで描かれなかったものの重みに圧倒される。

 この長編は,ある意味,許されない人々がいかに許されないか,を描いた作品である。能天気な翻訳をするなら「白夜行」とは「御天道様(おてんとさま)の下を歩けない」の言い換えである。そして,登場人物たちが自分たちの行く末を「白夜」の下に見据えるように,読み手も生半可な感情移入は許されない。
 だが,これほど苦い物語に,こうまで心洗われる気がするのはなぜだろう。

 なお,細かいことだが,1970年代前半に起きた最初の事件以来,『あしたのジョー』連載終了,山口百恵ブームなど,妙に世俗的な描写が頻出するのに違和感があった。これらが必要だった理由は最後に明らかになる。ただ,文章としてはその何箇所かがどうしても浮いていて,もう少し手はなかったのかという気もしないではない。

『老女の深情け 迷宮課事件簿(3)』 ロイ・ヴィカーズ / ハヤカワ・ミステリ文庫

 ヴィカーズといえば倒叙モノの「迷宮課」シリーズ。

 「倒叙モノ」というのは,犯人の視点から物語を書き起こし,あわや完全犯罪,といったところでちょっとした見落としから探偵に暴かれて大逆転,というミステリの一手法である。
 オースチン・フリーマンの短編集『歌う白骨』を祖として,フランシス・アイルズ『殺意』,クロフツ『クロイドン発12時30分』,リチャード・ハル『叔母殺し』などが追従した,とたいていのミステリ史で紹介されている(本当)。要するに『刑事コロンボ』や『古畑任三郎』の展開,あれだ。

 ヴィカーズは,その倒叙モノの短編集『迷宮課事件簿(1)』で知られており,これが1977年にハヤカワ・ミステリ文庫から発売されて,それっきり,音沙汰もなく……。
 と思ったら,今年になって3巻めの『老女の深情け』を書店店頭で発見して「えっ,なぜ第3巻???」。失礼しました,昨年夏に第2巻の『百万に一つの偶然』が発売されていたのですね。それにしたって,2巻が26年ぶりとは。相当に深い「迷宮」にはまりこんでいたとみえる(先に紹介した叙事的な大作『白夜行』で流れた年月にも匹敵!)。

 さて,作品としてはどうか。
 元来,倒叙モノには非常に面白い作品が多く,本シリーズでもハタ,と手を打つ作品もなくはない。……のではあるが,いかんせん,20世紀初頭(1930年ごろまで)を舞台にした作品だけに,犯罪が発覚するきっかけとなる小道具がわかりにくく,そのため,いくつかはどうも今ひとつカタルシスに至らなかった。
 誰も疑いすらしなかった犯行が発覚するのが,犯人が「荘園邸の羽目板細工」を処分したため,と言われてもなあ。なんだそれ。

 コロンボや古畑任三郎がああまで痛烈だったのは,映像ゆえ,なのかもしれない。
 アリバイを練り上げた犯行のサスペンス。不敵な笑みさえ浮かべる犯人。ちょっとした小道具や言葉じりから犯罪が暴かれた際の,探偵の申し訳なさそうな口元……。

2004/03/08

こちらのほう,オトナマターということでいかがでしょうか? 『オトナ語の謎。』 監修 糸井重里 / ほぼ日ブックス

153【むしろ,ぜんぜんウェルカムです】

 ある日,サラリーマン金太郎ならぬサラリーマン烏丸が取引先のとある担当者にものしたメールの一文。

  お世話になっております。

  さて、例のスキームの件なのですが、プライオリティ高ということで、
  上のほうからも週明け午後一に各社様からのお見積りをいただくのがマストと
  指示がふってきております。
  必ずあいみつをとることが弊社内のコンセンサスとなっており,
  お手数ですがなるはやでご対応いただけましたら幸いです。

  よろしくお願いいたします。

 「お世話になって」いて,「お手数ですが」「いただけましたら幸い」とへりくだり,あげくに「よろしくお願いいたし」と頭を下げているのだから,さぞや大切な取引先かと思いきや,何を隠そうこのメールの本音は,再三の「お願い」にもかかわらず週明け午後一に見積もり持ってこなきゃ,あんたんとこの商品は二度と扱わないかんね,という最後通牒なのでありました(そうでなきゃ,取引先に直接「あいみつ」の一口だなんて言いませんよね)。

 つまり,「お世話になって」いる相手に「お願い」して,「対応いただけたら幸い」と申し上げるのは,直訳すれば「やってね」という意味しかないのです。
 なにしろ,サラリーマン烏丸のウィンドウズパソコンには
  おつ ⇒ お疲れさまです。
  おせ ⇒ お世話になっております。
     ⇒ 日ごろはお世話になっております。
  よろ ⇒ よろしくお願いいたします。
     ⇒ 何卒よろしくお願い申し上げます。
がそれぞれ辞書登録されていて,へりくだるのなんざピシパシピシと2文字分で朝飯前。
 この場合もちろん,「おつ」が社内向け,「おせ」が社外向けであり,「おせ」「よろ」のやや丁寧なほうが部長級以上が相手の場合,ということは言うまでもありません。

 このメールのもう1つの特徴は,「スキーム」だの「プライオリティ」だの「マスト」だの「コンセンサス」だののカタカナ言葉,「午後一」「あいみつ」「なるはや」という,中学・高校では勉強しなかったヘンテコな言葉,さらには「例の件」「上のほう」とどうにも曖昧模糊な用語用例がちりばめられていることです。

 このような,サラリーマン社会でのみ通じる(つまり辞書には載ってない,もしくは辞書に載っているのと微妙にニュアンスの異なる)言葉遣いに着目し,それを「オトナ語」と名付けて紹介したのが本書『オトナ語の謎。』です。
 もともとは糸井重里のホームページ「ほぼ日刊イトイ新聞」で話題になったコーナーの単行本化だそうで,烏丸は書店店頭で手に入れましたが,デフォルトでは通販で販売されているもののようです。

 素晴らしいのは,苦笑いするしかない,その内容の充実ぶり。
 なぜ苦笑いかというと,そうですね,先週1週間の会議(MTGですな)やメールのやり取りで烏丸が直接使った,あるいは目や耳にしたものだけで,1つ2つ……50ではきかないかもしれない。100近くあるかも。どうやらサラリーマン烏丸は「オトナ語」にまみれたオトナ社会にどっぷり首までつかって生きているようです。

 最初に揚げたメールは先ほどちゃっちゃっとこしらえたマガイモノですが,辞書登録はウソではありません。実際,普段何百通/日とやり取りしている社内,社外へのビジネスメールの大半は,まぁこんな程度のものです。

 本書を読んでびっくりしたのは,これらの用語が決して烏丸の勤めている会社やその周辺独自のものではなく,どうやら広くサラリーマン社会に共通するものらしい,ということ。本書には相当数の「オトナ語」が紹介されているのですが,言葉そのもの,あるいは用法をまるっきり知らなかった,というのはほとんどありませんでした。
 つまり,この日本には「標準語」とは別に,「オトナ語」という共通語があるらしい。語意的にはへりくだっているのに内容は脅しに近い断りだったり(「おっしゃることはよくわかるんですが」「と,おっしゃいますと?」「ご縁がありましたら」「~さんに言ってもしょうがないんですけどね」),よいことであるはずなのに危機的状況を表したり(「テンパる」「バンザイ」),いったい何だかよくわからなかったり(「ウィン・ウィン」「あいみつ」「いちばんベター」)。いやはや,なんとも味わい深い用語,用法ばかりではありませんか。

 ちなみに新社会人の方は,「コンセンサス」「シナジー」「シェアする」「アジェンダ」といったカタカナ言葉をわりあい早く口にするようになられると思いますが,むしろ「のむ」「泣く」「丸投げ」「手弁当」「織り込みずみ」などの言葉に慣れてこそ一人前といえます。要するに,後者は実際に追い詰められたり嫌な思いをしたときじゃないと覚えないんですね。

 それにしても,最近は「インパク~インターネット博覧会」の編集長を引き受けてしまうなど,なんとなくパッとしない感のあった糸井重里だけど,こういう着眼点というか,ピックアップはさすがに上手い。ただ,この本もほかのイトイ本と同じように,社内で話題になって,回し読みして,しばらくしたらどこかに消えてしまうのでしょうけど。

 そうそう,烏丸の周りでよく使われる「オトナ語」で,掲載されていないのが1つありました。
 本書にも掲載されている「ざる」はチェックの甘い状態のことを言うのですが,もっとひどい状態のことを「わく」と言います。「ざる」ほどにもひっかかるところがないんですね。

 とりあえず,上記レジュメのほう,ご査収いただけましたら幸いです。
 何卒よろしくお願い申し上げます。

2004/03/01

照れずに読めば少年の心もち 『暁の歌』藤田和日郎短編集 / 小学館 少年サンデーコミックス

9971【命なんざいらん。】

 初期作品のそれを逆に極限までそぎ落としてブレークしたあだち充のような稀有な例を除いて,マンガでは多くの場合「過剰」こそがウリモノである。

 少年サンデー連載の藤田和日郎(かずひろ)『からくりサーカス』はまさにその「過剰」を文字通り絵に描いた大作。努力,勝利,敗北,破壊,悲惨,復活,勇気,友情,恋慕,とっさのひらめき,高揚……ここには少年マンガに求められるものが何でもそろっている。ありすぎると言ってもよい。それらは互いに濃密にからみ合い,まるでラードとソースにひたった熱アツの焼きソバのようだ。

(連載冒頭の,からくり人形を利用した戦闘とゾナハ病をからませ,主人公・才賀勝が自分自身で闘うことに目覚めるまでは実に面白い展開だった。ただ,その後が長い。「波紋の論理」でうならせたあと延々と続いた荒木飛呂彦の『ジョジョの奇妙な冒険』と,関連人物を増やしては話を引っ張ること,絵柄や個々のイベント,決めゼリフが濃いことなど,いろいろ共通点がありそうだ。)

 さて,その『からくりサーカス』に魅力は感じるのだけれど,あまりの濃さ,ボリュームに単行本ではついていけない……という方には同じ作者の短編集がお奨めである。

 先般発売された『暁の歌』がそれだ。
 ベタが多用されていないにもかかわらず,ページを繰る手が黒ずみそうにこってり描きこまれた線。底抜けにおしゃべりな登場人物たち。その上に,作者好みの設定,場面,展開が織り込まれている。たとえば「瞬撃の虚空」における戦闘シーン,「ゲメル宇宙武器店」における少年の自覚,そして「美食王の到着」におけるマンガでなければ描けない食材描写。いずれも素晴らしい「過剰」ぶりだ。歯の浮くような純情におじさん読者としてはテレテレと面映い思いをせざるを得ないが,トイレでこっそり読む分には許してもらいたい。もちろんストーリーに多少の,いや多々破綻があったって知ったことではない。これは,これこそはマンガなのだ。

 ちなみに,藤田和日郎には『夜の歌』という第一短編集がある(1995年8月発行)。
 描線がまだいかにも下手くそなデビュー当時のいくつかの作品は別として,本書収録の「からくりの君」「夜に散歩しないかね」は必読。この二編を知らずしてこの十年のマンガ短編を語ってはならない! ……と,紹介する口調もついつい「過剰」になってしまおうというものだ。

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