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2004年2月の4件の記事

2004/02/23

機械的トリックの復権? 『予知夢』 東野圭吾 / 文春文庫

Photo_5【「すごいな,これがポルターガイストか」はしゃいだ声を出した。】

 重いの軽いの描き分け,広末主演映画の原作で日本推理作家協会賞を受賞したりしながら,どうにもブレークし切れない東野圭吾。そんなことないと仰るあなたはミステリにお詳しいのだろう。試しに身近な方に「東野圭吾」と書いて「とうの」と読むか「ひがしの」と読むか訊ねてみるとよい。

 さて,『予知夢』は同じく文春文庫に上梓されている『探偵ガリレオ』の続編で,警視庁捜査一課の草薙刑事と友人の物理学者・湯川がさまざまな難事件を解決するさまを描いた短編集。
 建付けとしては,現実にはありそうもない奇怪な現象を,天才物理学者が解明する,という構造になっている。したがって,本のあおりや解説にも「オカルト」vs.「科学」という構図が再三登場する。
 確かに,『探偵ガリレオ』における自然発火,心臓だけが腐った死体,幽体離脱,さらに本作における予知夢,霊視,ポルターガイストなど,事件はオカルトミステリと呼ぶにふさわしい状況を呈し,対する探偵の推理は彼の得意分野である物理学を用いた科学的な……。

 そうだろうか? 東野圭吾の意図するところは,はたして本当に「オカルト」vs.「科学」なのだろうか?

 もし,著者が「オカルト」vs.「科学」を強調したいのなら,手はなんとでもあったはずだ。いかにもオカルティックなおどろおどろした難事件,立ちふさがる怪人,対するにいかにものSFめいた最新科学。
 しかし,『探偵ガリレオ』,『予知夢』ともに,読後の印象はオーソドックスなB級本格ミステリのクールなタッチである。湯川が持ち出す「科学」は必ずしも天才物理学者でなければ語れないようなものではなく,いや,大半は普通に中学,高校で物理,化学の授業を聞き,新聞を読んでいれば知っていそうなものばかり。以前紹介した皆川亮二の『KYO』のほうが,よほど「オカルト」vs.「科学」の雰囲気を明確に打ち立てていたように思われる。

 思うに,本シリーズにおいて東野圭吾が(こっそり)やって見せたかったことは,本格ミステリ,それもとくに密室モノにおいて最近とみに軽んじられる「機械的トリック」の復権だったのではないだろうか。

 島田荘司,綾辻行人以来,「新本格」ミステリはちょっとしたブームとなり,現在にいたるも(クオリティはともかく)綿々と作品は生産され続けている。
 この「新本格」系の作家たちが最重要視するのが「トリック」なのだが,彼らはその「トリック」を重視するあまり,えてして読み手からウケの取れない機械的なトリック──たとえば秘密の抜け穴があった,殺害後に糸で鍵を閉めた,など──をことさらに軽視し続けた。
 ただ,そうなるとどうしても心理トリック,それも叙述トリックと呼ばれるものの比率が増えてくる。早い話,「○○がその部屋にいたとは一度も書いてない」「◇◇が男だとはどこにも書いてなかった」などといった,著者が文章中の表記によって読者をだまくらかすやり口である。

 叙述トリックはミステリのテクニックの一種であるから,それ自身がよい,悪いということはない。アガサ・クリスティのある作品のように,ミステリ史に残る傑作もある。しかし,あまりに叙述トリックばかり続けて読まされると,そのあざとさにうんざりするのもまた事実だし,ポーやドイルが示して見せたミステリの明解な魅力が叙述トリックとは別の次元にあったこともまた事実である。なにより,叙述トリックは,その多くが再読に耐えない。

 『探偵ガリレオ』,『予知夢』は,さりげなくではあるが,ここしばらく軽視され続けてきた機械的トリックについて,まだまだうまくすればけっこう面白いものが書けるのではないか,と主張しているように思われてならない。
 読後感に重厚さこそないが,立証をむねとしたその推理は一種爽快でさえある。
 ただ,その明解さ,爽快さが,電車で読んでそのまま読み捨てられそうな軽さにつながっていることも,また事実なのだが……。

2004/02/16

『バジリスク -甲賀忍法帖- (1)~(3)』 原作 山田風太郎,漫画 せがわまさき / 講談社アッパーズKC

Photo_2 【見破るとは このわしをか? 蛍火】

  光あるところに影がある。まこと栄光の影に数知れぬ忍者の姿があった。
  命をかけて歴史を作った影の男達。だが人よ,名を問うなかれ。
  闇に生まれ闇に消える,それが忍者の定めなのだ。

(『サスケ』オープニングナレーションより)

 というわけで理屈抜きに忍者漫画が大好きだ。

 とはいえその大半は白土三平作品の魅力であり,残る一炎も横山光輝の『伊賀の影丸』に負うところが大きい。会社社会を引退後は都のたつみに小さな庵を設け,晴耕雨読,灯火の下に彼らの作品を紐解いて三昧境に至るがささやかな夢の一つである。

 ただ,残念なことにここしばらく上質な忍者漫画は影を潜め,忍者漫画ファンはいしいひさいちの『忍者無芸帳』に渇を癒すしかない。
 ちなみに少年ジャンプに掲載された桐山光侍『NINKU -忍空-』や岸本斉史『NARUTO』などでは,設定にこそ「忍者」「術」といった言葉が用いられているが,登場人物のファッションなどからも明らかな通り,日本の歴史上の忍者を描くつもりは毛頭なく,単なるファンタジー冒険活劇の一,どちらかといえばアクションゲームの系譜に近いとみなしてよい。

 そこで『バジリスク』である。
 本作は原作に山田風太郎の『甲賀忍法帖』を仰ぎ,化け物じみた忍者同士の荒唐無稽な技対技の対決,殺法ありお色気あり,まこと久々に忍者漫画の王道を歩む作品といえる。

 徳川三代将軍の世継ぎ問題に決着をつけるため,十人対十人で忍法殺戮合戦をして生き残りを懸けることになった甲賀と伊賀。共に愛し合う甲賀弦之介と伊賀の朧は,ついに互いが殺し合う運命となったことを知った!
 というのがストーリーの大枠なのであるが,まぁそういう設定は忘れてかまわない。要はおよそ人の肉体のなせる技とも思えない忍法と忍法,体術と体術の対決がすべてなのだ。土や壁の中を音もなく移動する霞形部,全身の皮膚が吸盤と化して相手の血を吸うお胡夷(こい),あらゆる体毛が尖って武器となる蓑念鬼,かまいたち現象を起こして相手を切り裂く筑摩小四郎……。

 『バジリスク』に登場する忍者たちは,その化け物度合いといい怪異な面貌といい,まことに申し分ない。それぞれの技の描き方も秀逸で,ことに甲賀の首領,甲賀弦之介がその得意技(これが『バジリスク』のタイトルの源となっているのだが)を発揮したシーンの迫力たるや,ここしばらくのあらゆるコミック作品でも類を見ない。
 そして,これらおよそ無敵の忍法,体術が,戦う相手によって,あるときは優位に,あるときは不利に働くその組み合わせの妙。

 ただ,欲をいえば,コンピュータグラフィックスを多用しすぎた絵柄は,ただ重いばかりでコマごとのメリハリがなく,また忍者漫画としてはやや動きに欠けるように思われる。作品のデジタル化にのめり込んだ寺沢武一の『武-TAKERU』がそうであったように,一コマ一コマの効果にこだわるあまり,白土作品,横山作品に見られる忍者同士が木から木へと素早く飛び移りつつ戦う,そういった動的なシーン(そしてその反動としての静的なシーン)が非常に少ないのである。ただ,その意味で,第三巻の如月左衛門と蛍火の戦いは動きが華やかで出色であった。

 ところで,甲賀と伊賀といえば,なんとなく技や勝負にこだわる無口で硬派の甲賀,どことなく悩みをかかえた美貌のウェルテル伊賀,といったイメージが強い。戦いに勝利してなお敵方を慮る伊賀の影丸の印象が強いせいだろうか。

 もう一点,昔から不思議なのは,多くの漫画作品,時代劇において,忍者たちが刀を帯びていることである。隠密剣士秋草新太郎や浪人矢車剣之助ならともかく,甲賀,伊賀の忍者は帯刀を許されていたのだろうか?
 と思って調べてみたら,広辞苑に「甲賀者」は「江戸幕府に仕えて鉄砲同心を勤めた甲賀の地侍出身者。隠密に秀でたといわれ,伊賀者と並称。甲賀衆」とあり。なるほど。

2004/02/08

『社長をだせ!ってまたきたか! “あっちでもこっちでも”クレームとの死闘』 川田茂雄 監修,森 健 取材・文 / 宝島社

0701【ふつうのキャンディであれば,何も問題はないでしょう? 犯罪ではありませんよ】

 前作『社長をだせ! 実録 クレームとの死闘』に負けず劣らず,いや,個人的には前作より幾段か面白く読みました。
 カスタマーサポートに少しでもかかわる方,商品戦略にかかわる方,営業にかかわる方,どなたにもオススメ……というありきたりの推奨文のほか,中高生の課題図書にして感想文書かせるてはどうか,なんてことも考えてしまいます。

 前作では著者川田茂雄氏個人の経験を中心に,カメラ製造会社に寄せられるクレームの実態とそれに対する対策が詳細に語られたのに比べて,今回は「食品製造,書店,電気機器メーカー,旅行代理店,定食チェーン,ファミリーレストラン,通信販売,テレビ放送,量販店……」とさまざまな業種のお客様相談室,サポートセンターの担当者にルポライターの森 健氏がインタビュー,そしてそのそれぞれに川田氏のコメントが付く,という構成になっています。

 本来サポート担当者というのは,契約上,業務の裏事情を語ってはならないことになっており,インタビューの了解を得るのは非常に難しかったと想像されますが,それで得られた本書の各章の内容は,かなり実態に即した内容ではないかと想像されます。そして,さまざまな業種を並べたことが,単にバリエーションが増えただけでない,構造的な面白さにつながっているのです。
 どういうことかというと,前作がいわば川田氏のワンマンショーであったのに対し,今回はサッカーや野球のように,さまざまなプレイングスタイルのサポート担当者が,ディフェンス,オフェンス,時と所を変えながらさまざまなクレームに対応するわけです。ファミレスと家電量販店ではそもそもクレームの種類や質も異なりますし,受ける側もその対応はさまざま。本書に展開する世界は,野球やサッカーのような集団競技のようであり,ルール不在の異種格闘技のようでもあります。

 野球やサッカーのチームに優れた選手とそれほどでもない選手がいるように,非常にクレバーで冷静な担当者,温かみのある対応をするサポート担当者,自分が客の立場ならクレーマー扱いされて不愉快な思いをしそうな担当者などさまざま。サポート担当者側からみての勝ち負けだけでなく,そもそも問い合わせをしてきた客のほうが正しいように思われる,つまり決してクレームとは思えないエピソードさえあります。
 また、単にクレーム対応だけでなく,その企業の顧客への意識そのものが透けて読める面もあり,カメラ製造,販売の経験から語る川田氏の分析が,必ずしも彼らの対応とマッチするとは限らないところも微妙な味わいです。

 クレームの種類も,意図的に謝礼や金銭を狙ってくるものから,寂しさや自己顕示欲から電話を何度もかけてくるもの,どこか歪んだというか壊れた精神状態を感じさせるものなどいろいろで,カメラ業界に限定された前作より「人の業」を感じる例が少なくありません。
 個人的には書店のレジで起こるトラブルのいくつかに胸を打たれます。本来出版物というのは薄利多売で利益を上げるもので,顧客対応に時間や経費をかけるのはたいへんやっかいなのですが,本書に登場した大手書店チェーンの担当者の方の対応には出版の見果てぬ夢を説かれたようで胸が熱くなりました。

 一方,最低だったのは本書中ほどに掲載されたとある業種(会社)です。
 明らかにミスは自社のほうにあるにもかかわらず,強引に顧客に責任をなすりつけ,結局被害の半額を顧客払いにした所長とやらも問題ですが,その経緯を「このケースについて言えば,社内的には所長のゴリ押しは通る話でしょう」と容認してしまう担当者も問題です。この業種にはそのような酷い事件が相次いでいるのではないかと思わせる一節でした。

 本書の巻末には,弁護士と大学教授が法律の専門家として寄稿しています。とくにインターネットでの告発が自分にはね返る可能性を語った後者の論旨は普段あまりお目にかかれないもので,丼のキムチにカエルが入っていたり,修理に出した車が傷ついて戻ってきたり,ビデオの画質が許せなかったりする方々はインターネットに告発サイトを立ち上げる前にぜひとも目を通しておくとよいでしょう。

2004/02/02

コンビニの棚の前で我を高みにいざなう聖性 「Jupiter」 平原綾香

Photo_3【愛を学ぶために 孤独があるなら 意味のないことなど 起こりはしない】

 その歌を初めて耳にしたのは昨年の暮れ,たしかときどき立ち寄るブックオフ2Fの文庫コーナーでのこと。清水國明のにぎやかな宣伝歌のあと,この曲が始まったときは,一瞬空間がゆがんだかとさえ思った。
 もっともその瞬間の「頭」の反応は,小柳ゆきがK-1のオープニング用にアメリカ国歌を歌ったのかしら,とかいったものだったけれど。

 その歌,「Jupiter」を歌っているのは平原綾香という新人。祖父,父ともにミュージシャンという音楽一家に育ち,高校を出たばかりの19歳とか。原曲はホルスト『惑星』から「木星」の一部をモチーフに,日本語の歌詞を付したもの。

 その後,コンビニ等で何度か耳にするうちに気になって気になって,矢も楯もたまらず(←これは「木星」ではなく「火星」のイメージだが)マキシシングルを購入してきた。
 ……ところが,自宅でじっくり聞いてみると,これがコンビニで聞くほどにはよろしくない。

 「木星」をリメークしたコンセプトは見事だし,歌も上手い(残念ながら宇多田ヒカルほど存在感があるわけではないし,ミーシャほど切れるわけでも,小柳ゆきほど揺さぶりをかけるわけでもない。息継ぎ音も気になる。が,新人としては十二分な唱力と言ってよいだろう)。すべてにおいて平均点以上,そのうえあの荘厳な雰囲気,意味深な歌詞……。

 それでもやはり,コンビニで聞いたほうがよく聞こえるのだ。

 たぶん,それはこういうことなのだろう。コンビニエンスストアという,是も非もなく「俗」な空間,そこでカップ麺やらカテキン茶やらアロエ入りヨーグルトやら青年誌やら潤滑ゼリー付きコンドームやらをレジに並べて釣銭をまるめようと財布を開いたところに静かにこの曲が始まる。すると,聞き手は一瞬にして雑然としたレジの前からある種の「高み」にすっと引きずり上げられてしまうのだ。
 目と鼻の先のプチ食欲や性欲をコンビニエントリに処理して済ませんとする自分の耳をつまんで,その音は自分の内奥をいきなり透明に洗い上げ,静謐な境地を垣間見せてくれる,そんなふうに思われるのだ。

 ところが,自宅のごく普通のオーディオ機器でそれを流すとき,この曲は単なる「ちょいとコンセプトの巧い,新人の佳曲」に過ぎなくなる。
 たとえば宇多田の「COLORS」や元ちとせ「ワダツミの木」のように,繰り返し聞けば聞くほどに胸のうちで大きな領域を占める,そういったレベルの楽曲ではない。そのうち,心に残ったのは,実はそもそものホルストによる原曲のメロディであることに気がついたりもする。

 結局のところ,平原綾香の「Jupiter」が与えてくれる音のシャワーは,コンビニや古本屋といった有線放送の似合う空間でだけ,生活の向こう側のありようを指し示してくれる「聖性」なのかもしれない。

 ただし,それはそれで得がたいものであることもまた事実。
 安ホテルのシャワーなどより格段に心を洗ってくれるものが,少なくともそこにはあるのである。

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