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2004年1月の2件の記事

2004/01/27

『どーでもいいけど 不景気な暮らしの手帖』 秋月りす / 竹書房 バンブー・コミックス

7111【当たり前の生活なんだが これを不況というらしい】

 先に取り上げた『紙の中の黙示録 三行広告は語る』に少し遅れて,1992年から2001年まで,いわゆるバブル経済崩壊後の「失われた10年」を(結果的に)描き上げた四コママンガ,それが秋月りすの『どーでもいいけど』だ。
 『どーでもいいけど』は朝日新聞土曜日夕刊の「ウィークエンド経済」欄に掲載されたもので,単行本化が待たれていたが,最近ようやく全373編がまとめられて竹書房から発刊された。

 本連載,おそらくもともとは夕刊の経済欄にその折々の時事ネタを織り込んでくすぐりと風刺を,といった程度の狙いだったのだろうが,単行本のサブタイトルに「不景気な暮らしの手帖」とあるとおり,全編を隙なく覆う閉塞感はふり払いようがない。どこから読み返してもうんざりするほどに「不景気」ネタのキンタロアメ,それも「銀行は定期預金者につまらぬ粗品をよこすくらいなら金利を上げて」,とかいった世知辛い題材のオンパレードである。

 妙な言い方だが,こうやって一望にしてみると,1990年代の不景気さは一種「たいしたもの……」とさえ思える。
 経済欄という発表の場からか,『どーでもいいけど』には阪神・淡路大地震,オウム・地下鉄サリン事件はほとんど扱われていないのだが,そうなるともう目ぼしい事件がほとんど残らない。都市博の中止や山一證券の倒産,和歌山毒物カレー事件など,もちろん大事件ではあったのだが,その大半は中止,倒産,喪失,失敗といった負のベクトルの事件であり,あとに残るのはただしみったれた閉塞感ばかりである。

 ただし,『どーでもいいけど』に横溢する閉塞感をただ時代のせいにするのは,それはそれでまたスジ違いというものかもしれない。

 まず,秋月りすという作家は,何人か(何組か)の登場人物を並列的に描いて,だんだんそれぞれに愛着や味つけを加えていくのが得意な作家である。これはたとえば連載開始当初は決して面白いとは思えなかった『かしましハウス』が,4巻,5巻あたりから三女のみづえ,次女のふたばの個性を強調することでこの作品ならではのノリを獲得していったことでも明らかである。
 ところが,『どーでもいいけど』は,経済欄の週一連載という特性もあってか,とくに誰を主人公とするわけでなく,市井の若夫婦や独身OL,子供たちをその都度語り部とし,そのために,最後まで登場人物たちが踊らなかったきらいがある。
 となると,秋月りすの描く人物のただ塗りつぶされた黒い「目」はアクティブに世相を映す力を失う。学習雑誌のイラストカットのように,妙に硬直したカメラ目線での説明的セリフ,そんな印象のコマが少なくないのだ。

 もう一点,発表の場が朝日新聞であることも少なからず影響したのではないか。
 たとえば単行本の前半で再三登場する「人員整理」という言葉,通常は「肩たたき」ないし「リストラ」という言葉が使われそうなものだが,それを厳密に「人員整理」と表記するあたり,朝日新聞校閲部の
  「リストラ」は「リストラクチュアリング(restructuring)」の略であり,本来企業等の組織・事業内容を再編成,再構築することであって,単なる人員整理のことではない
とかいった指摘の声が聞こえてきそうな気がする。
 朝日朝刊で読売の社長をおちょくれるモンスターいしいひさいちならともかく,秋月りすが朝日の経済欄担当者とのやり取りに全く影響を受けなかったとは考えにくく,直接の修正依頼はなくとも,場の圧力によって作品が伸びやかさを削がれたとみるのはあながち間違いではないだろう。

 だとすると……。

 秋月りすはこの連載を経て否が応でも1990年代の「不景気」の構造を学習し,正面から見据え,それはひるがえって代表作『OL進化論』の足枷ともなった。
 『OL進化論』の好々爺たる社長,スーパーキャリアウーマンたる社長秘書らが登場の場を失い,ジュンちゃんのダメダメぶりがOLとしてではなくプライベートライフにおいてばかり強調されるようになったのは偶然ではないような気がする。
 「人員整理」はもはや「まさか」と笑って過ごせるジョークの素材ではなく,会社は,1980年代までのように呑気で楽しい永遠の楽園ではないのである。

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 というわけで,最後は,今週のトリビア。

 「リストラ」なる言葉を商標登録しているのは,2度にわたる大規模な人員整理で話題をまいた当の富士通である(第3324766号)。

2004/01/19

『紙の中の黙示録 三行広告は語る』 佐野眞一 / ちくま文庫

712【近所の人達は誰れも知らぬ。過去と今後の進路は一切問わぬ。重病の父に一目だけでも会って欲しい。真佐子】

 佐野眞一といえば,読売新聞,日本テレビ,プロ野球巨人軍の上に君臨した正力松太郎を取り上げた『巨怪伝』,ダイエーの中内功を主軸に戦後の流通史を描き上げた『カリスマ』,そして『だれが「本」を殺すのか』,『東電OL殺人事件』など,骨太で長大な著作で知られるノンフィクション作家。
 一方で彼は生活に密着した低い目線のルポルタージュ雑誌連載も得意で,ゴミや業界紙といった身近な素材から現代日本を浮き彫りにしてみせる。
 本書『紙の中の黙示録 三行広告は語る』は,新聞の三行広告をトリガーに,さまざまなメディアの小さな広告群から浮かび上がる社会の実相に着目した作品である。

 読み手はまず,巻頭に例示された赤瀬川原平収集による三行広告に圧倒される。そこでは,なんらかの経緯で家を出た「隆」に対するその母親らしい「真佐子」の執拗なまでの語りかけが繰り返されている。十五回にわたるその尋ね人広告の中で,隆の父は倒れ,入院し,死んでいく。当人たち以外にはわからぬドラマが短い活字の向こうで展開され,消えていく。
 そして,これら尋ね人広告,お詫び広告,黒枠広告の裏でしのぎをけずる新聞,広告代理店の面々。

 面白いのは,
  「三行の活字の裏側にひそむ社会の諸相と,この時代のみえない底辺を,文字通りフィールドワークしていきたい」
という著者の作業そのものが,本書が「モノマガジン」に連載された1988年から翌89年,つまりバブル経済最盛期(バブルがはじける直前)の世相を期せずして克明に描き上げていることである。

 たとえば,
  「未曾有の好景気による求人広告出稿数の激増ぶり」
  「もはや給与面の待遇など,一点だけをアピールするだけでは,なかなか人が集められない時代」
といった表記を,現在のリストラクチャ当事者たちはどう読むだろう。
 もちろん,バブル最盛期とはいえ,財界の大物のレポートを得意としただけあって著者の視点にブレはなく,
  「三行広告は,ふくらむだけふくらんではいるが,内部の空洞もそれだけ広がっているゴム風船のような日本経済そのものを象徴している」
の一節は,流石と評価してなお余りある。

 ただ,雑誌連載のメリハリに窮してか,大阪・釜ヶ崎,訪問販売業者,求人情報誌など,素材や対象を広げ過ぎてやや散漫な印象があるのが残念。
 また,『東電OL殺人事件』などでも時折りみられた,
  「そのカラフルな頁には,時代という名の共犯者に追従し,彼らが無意識のうちに犯してきたその咎(とが)もまた,あぶりだしのように滲みだしている」
  「もし三行広告に声があるとするならば,時代と社会の澱の底からわきあがるようなおらび声やうめき声が,紙面の背後から聞こえてくるはずである」
といったウェットに過ぎる表現が気にかかる。
 これほどに扇情的にあおらず,事実の積み重ねだけで読み手を圧倒するのが,ルポルタージュのあるべき姿ではなかっただろうか。

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 ところで,三十余年を経た今も記憶に残る,尋ね人広告について,一ネタ。
 おそらく1971年の秋だと思われる。講談社・少年マガジン本誌の『巨人の星』の連載が完結し,少年マガジン別冊として厚さ2cm程度の『巨人の星』総集編本が発売された。マンガの単行本文化がまだ発達しておらず,人気連載マンガを追体験するにはそういった別冊を購入するしかなかった時代である。
 さてその『巨人の星』総集編本の最後を飾る1巻の,そのまた巻末に掲載された埋め草ページ,読者の声やイラストにちょっとしたギャグをあしらったその見開き,新聞の体裁をとった確か左ページ右下にその尋ね人広告はあった。

  「飛雄馬 パーフェクトかたついた帰れ 一徹」

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