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2003年12月の5件の記事

2003/12/29

読むのに時間がかかった本 『ばってんBOX(1)』 笈川かおる / 集英社ヤングユーコミックスワイド版

Photo【あなたのは 夢ですら なかったのよ】

 笈川かおるは好きな漫画家の一人だ。清原なつのと同じくらい,といえばおわかりいただけるだろう(か?)。
 単行本はほぼ揃っている。単行本未収録作品のいくつかを掲載誌からの切り抜きで保存してあるのはちょっとした自慢だ。
 残るは集英社の『ばってんBOX』1冊……。

 となってから,本書を入手するまでが長かった。

 『ばってんBOX』は1997年5月の発行なのだが,なにしろ紀伊国屋BookWebですら十数冊しかない単行本の全貌を把握できないほどのマイナー作家である。
 不覚にも『ばってんBOX』の発売に当時は気がつかず,気がついたときはすでに品切れになっていた(発売から1年もたなかった印象だが,いったい何部刷られたのだろう?)。

 紀伊国屋BookWebで「入手付加」の文字を見たその日から,『ばってんBOX』を探し求める孤独な兵士の旅が始まった(いや,それほどのもんでは)。

 訪ねた古書店は北は網走から南は石垣島まで(嘘デス,ゴメンナサイ),少なく勘定しても50軒はくだるまい(こっちは本当)。いや,古書店の前を通りがかるたびに中に入って集英社のヤングユーコミックスのコーナーをチェックする習性がほとんど体にしみついて3年,4年,5年……。
 ある日,Amazon.co.jpのユーズドブック欄にそのタイトルがあった。

 売り値やコンディションなどどうでもよい。震える指でクリックし,飛び立つ思いで(怪しいエステ系の通販商品の推奨文みたいね)注文して待つこと数日,封筒が届いた。

 ヤングユーコミックスの棚をいくら探しても見つからないわけだ。ヤングユーコミックスワイド版だったとは……。
 同じ集英社のヤングユーコミックスから発行された『ソルジャーオブレイン』や『夏だったね』が普通のコミック版だったから,てっきり同じサイズかと……いや,確認してなかったあたしが馬鹿,馬鹿なのよ。

 ともかく,ようやく手に入った『ばってんBOX』である。
 人の心のすれ違いをテーマにしたそれぞれ十ページ程度のショートショート集で,ここしばらくの(といってもいずれも十年以上前の作品だが)単行本の中でも笈川かおるらしさがよく顕れていて,とても面白く,そして切なく思われた。
 女の子はきれいでかわいい。男の子もほどほどに二枚目で,シックな場面も笑えるギャグも巧みに描き分ける。にもかかわらず,照れなのか,何かあったのか,この作者はいつも正面から「ちょっと目をそらして」しまう。
 笈川かおるが実はマンガ嫌いなのではないか,ということについては以前ふれたので繰り返さない。

 マンガと笈川かおるの関係をトレースするかのように,「すれ違い」や「勘違い」ばかり描いたショートショート集の(1)だけを残して,及川かおるは少女マンガに続いてレディースコミックの表舞台からも消えてしまう。

 その後の仕事が『集英社版・学習漫画 世界の歴史人物事典』『集英社版・学習漫画 世界の歴史(11) 市民革命とナポレオン : イギリスとフランスの激動』だというのは……ファンとしてはあくまで追いかけるべきなのか,それとも,痛みにうつむくべきなのか。

2003/12/22

読むのに時間がかかった本 『[完全版]夜の画家たち 表現主義の芸術』 坂崎乙郎 / 平凡社ライブラリー

578【「いや,これはエクスプレションなのだ」】

 『東海林さだおのフルコース “丸かじり”傑作選』のところでは,「ベッドに入ったところでまず少々重めの本を選んで読んで1時間,2時間,微妙に眠くなったところですかさず本書に切り替えて」と書いた。その「重めの本」の1冊として長きにわたり一種の就眠儀式の台本として君臨してきたのが,この『夜の画家たち』である。

 本書は,印象主義の少し後から主にドイツを中心に花開いた「表現主義」の画家たちを取り上げた論評集なのだが,これがもう,絵画についての書籍としては実に重い。重いというより,はっきり言って熱苦しい。
 なにしろ表紙カバーの惹句からして

  激しい感情表出,死とエロスの,霊と肉の,赤裸々な相剋を伝える緊張と孤独──。
  北欧のムンク,スイスのホードラーを先達とし,ドイツの土壌に開花した表現主義の運動。
  カンディンスキー,クレーを育む現代絵画のひそかな間道としての表現主義芸術を照射する。

といった具合。
 取り上げられた画家も,ムンク,ホードラー,ココシュカ,キルヒナー,ノルデ,ベックマン等々,ヒゲ剃りの後が青々とした(?)こゆいお歴々が並んでいる。後半に登場するカンディンスキーが軽くさわやか!に感じられるのだから,トータルの密度,濃度たるやご想像いただけるのではないか。

 本書から無作為に──いや修辞としてでなく本当に行き当たりばったりにページを繰って──その濃さを示す表記を求めてみよう。

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  闇夜にも似た運命のただ中に浮かび,たえず存在の不安におびえながら,仕事する繊細な腕と対決し,ときに憔悴し,ときに苦渋しながらも,感じ,悩み,愛する人間へのきびしい洞察を,カンヴァスの上に不敵に描き出した生涯こそ,おそらくムンクの生涯だったのではあるまいか。(ムンク)

  自然が,その奥行の全容をうつしだす水の深さを待ってはじめて立体的に,ひとつのまとまりをもった実体としてとらえられるものだとすれば,同様に生もまた,死の深淵に影をうつしてはじめて,その真相をあきらかにすることができるのではあるまいか。(ホードラー)

  印象主義という精神的な遺産をまったくもたないこのドイツの女流画家と詩人とが,この遺産を継承し,これに大きな修正をこころみるセザンヌに血縁を感じたという事実。(モーダーゾーン=ベッカー)

  ノルデの宗教的な作品が,往々にして信仰と狂気,正教と異端,神と悪魔とのあいだの間一髪の綱わたりであると評せられ,みる者に,あきらかに霊と感性とのアンバランスを感じさせるのは,どういう理由によるものであろうか?(ノルデ)

  ココシュカの探求が,事物の本質的な形体や,それの造形的な秩序の把握をめざすものではなく,もっぱら主観の対象への投入と,それによる事物の象徴的な把握から出発していることは疑いのないところだ。(ココシュカ)

  微小なもののなかにひとつの宇宙をみようとする,あるいは単純な表現に深い体験を暗示する象徴性こそ,彼の作品を支える最大の秘密である。(クービン)

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 ……ご覧のとおり,著者の目には,画家の作品など映ってはいない。
 ここにあるのは,画家が描きたかった(つもりの)もの,それを著者が読み取った(つもりの)ものばかりである。是非はともかく,少なくとも絵画作品とは別の次元の話だ。

 そもそも,もし一個の絵画作品を評価するのにこのようなテキストが必要なのだとしたら,それは絵画の敗北である。
 逆にいえば,たとえばムンクの作品は,このようなくだくだしい説明なしに,あの言いようのない不安,虞れ,それらに挑む画家の生きざまを感じさせてくれるからこそ素晴らしいのだ。
 結局,このようなテキストは,その画家,あるいは画家たちがまだ十分に知られていない時期には一種の啓蒙の役割を果たすかもしれないが,一歩違えば予断を押し付けることになりかねない。

 先に引用したテキストが,いかにも学校の入学試験に引用されそうな,そんな雰囲気が立ち込めるのは,だから決して偶然ではない。
  問1 著者はムンクの生涯をどのような生涯だと述べていますか。句読点を含む三十字以内で答えなさい。
  問2 ココシュカの探求について,下線部「それ」は何を指していますか。
  問3 クービンの作品を支える最大の秘密について,下線部と同様の意味で説明されている部分を本文中から抜き出し,最初と最後の5文字で答えなさい。(完全正答)
などなど and so on...
 絵画作品に向かう際,こういった読解の技術は不要でこそないが,必須というわけでもない。少なくとも,表現主義の画家たちの作品に相対するのにこんなテキストが必要かと言われれば,それは疑問である。

 ただ,ベッドで手にする本書には,別の魅力があることもまた事実である。

 本書で取り上げられた画家たちの多くは,ムンクやカンディンスキー,クレーら一部を除けば,概して非常にメジャーとは言いがたい。そして,本書ではそれぞれの画家の作品をいくつか口絵として紹介してはいるものの,いずれもモノクロ,それもあまり精度のよくない小さな写真である。

 だから,本書を読むことは,まだ見ぬ異国の画家の作品についてのびのびと──もとい,著者によるがんじがらめのルールの中で──想像力を働かせる,ということだ。

 たとえば,キルヒナーの「画家とモデル」という作品について,著者が「眼のさめるようなオレンジ色の布地に濃いブルーの横縞の入っているガウンの色彩が,ほとんど画面を決定している」と述べるとき,(その作品を印刷物においてすら見たことのない)読み手は,まざまざと画面の左半分を覆うオレンジと濃いブルーのガウンに圧倒される。これは素晴らしい絵画体験である。
 ……あとでインターネット上でこの作品の画像を発見して,「眼のさめるような? どこが?」とがっかりすることはあっても。

 あるいは,マルクという画家についてはよく知らないのだが,本書にて語られるその作品はひどく魅力的に思われる。ナチスから頽廃芸術の烙印を押されて消息を絶ったとされる「青い馬の塔」はことに心を洗う。

  塔を形成する四頭の馬の眼は,敬虔で神秘の光を放っている。

 ベッドの中で本書をひもとき,そしてこの世にもう存在しないとされる作品の馬の眼の「敬虔で神秘の光」にため息をつき……。
 だが,それは結局のところマルクの作品であって,マルクの作品ではない。本書にとって,「夜の画家たち」は,はたして実在する必要はあったのだろうか。それとも。

2003/12/15

ドーナツブックスいしいひさいち選集 37『蜜月マーヤの暴言』 いしいひさいち / 双葉社

37【きれいに焼けませんのやで。】

 アズキ相場の勧誘電話なら息せき切って「今,大変なチャンスになっているんですぅ!」と叫びそうな空模様である。
 というのも,なぜかこの秋いしいひさいちの新刊が立て続けで,「急いでお金振り込まなくっちゃ!」な状況なのだ。

 なにしろ。
 『となりの山田くん』シリーズの文庫化(東京創元社)を除けば,『現代思想の遭難者たち』が2002年6月の発行,その次が1年2ヶ月後の2003年8月『ののちゃんのとなり』,これにしても東京創元社の既刊文庫化。
 しかして,この秋は。

  『眼前の敵』(河出書房新社)
  『大統領の陰謀』(双葉文庫)
  『がんばれ!!タブチくん!! 阪神死闘編』(双葉文庫)
  『ドーナツブックスいしいひさいち選集 37 蜜月マーヤの暴言』(双葉社)
  『バイトくん 大学には入ったけれど』(双葉文庫)
  『忍者無芸帳 眠れる森の忍者』(双葉文庫)

 もういったいどうしちゃったの,よっぽど苦しいのか双葉社。いやそのごほん。

 もちろん,『がんばれ!!タブチくん!!』『バイトくん』『忍者無芸帳』は既刊の文庫化だが,いずれも久しく(モノによると20年以上!)入手が困難だったもので,初期からのいしいひさいちコレクターからみればこれらが簡単に入手できるようになったことに悔しい面もなくはないもののまずはメデタイと言っておこう。
 『大統領の陰謀』は『ドーナツブックス』『問題外論』『大問題』などの既刊から「大統領」系の作品をピックアップし,単行本未収録作品を加えたもの。エリツィン,ブッシュ父子,クリントン,金正日,フセインらおなじみの面々がご活躍である。

 そして,『となりの山田くん』『ののちゃん』シリーズを除くオリジナル作品集としては実に久しぶりの『眼前の敵』。河出書房新社から新書サイズという体裁もオシャレ。これは『鏡の国の戦争』シリーズの続刊にあたる戦場,軍隊モノで,「いしいひさいちはテンポを狂わすということはないのか」と思われるほどに,変わらぬ苦味を提供するブラックユーモア集である。

 ……どうもタイトル名,シリーズ名ばかり列挙して申し訳ない。

 それにしても,いしいひさいちはもはや国民的四コママンガ家として「大家」の領域に入るだろうに,この四方八方あたりかまわぬ「嘲笑」はどこから出てくるのだろう。1970年代後半,デビュー当時の『バイトくん』や『タブチくん』なら,作者自身が無名の貧乏マンガ家,つまり弱者の側にいることから理解できなくもなかった。しかし,そのスタンスが朝日新聞連載を得た現在にいたるまで続き,他国の大統領を含めてとことんとんとんオチョクリ倒す,この神経は並みではない。
 しかも,それを支える,たとえばプロ野球,推理小説,戦争映画,時代劇,政治経済,哲学等々についての広範囲な知識……。いったいいつ読んで,観戦して,取材しているというのか。

 今回の新刊,『ドーナツブックスいしいひさいち選集 37 蜜月マーヤの暴言』の巻頭には,「月子」という,どちらかといえば地味な16ページの新シリーズが掲載されている。こーれーがー,怖い。小品ではあるが,いしいひさいち初のホラーである。もちろん,怖いといっても,決してゾンビの首が抜けて血がドーバドバとか,寝ていると天井から老婆が逆さまに顔の真上にぶらんとか,そういう怖さではない。一話一話は四コマギャグなのである……が,それでもやはりホラーなのだ。
 直接の影響は指摘できないものの,ここにあるのは,ラブクラフト,クトゥルー系の闇の系譜である。それが,いつもの白っぽい四コママンガで描かれていることが,怖い。
 いしいひさいちこそは引き出しの底の見えぬ「妖怪」なのだ。

 なお,「月子」には,いしいひさいち全作品でおそらく初めての,ディープなキスシーンが挿入されている。いしい作品は足が早いので(書店店頭から消えるのが早いので),ファンの方は急ぐように。

2003/12/08

読むのに時間がかかった本 『ワンダフル・ライフ バージェス頁岩と生物進化の物語』 スティーブン・ジェイ・グールド,渡辺政隆・訳 / ハヤカワ文庫NF

549【アノマロカリスは,付属肢を使って獲物をその開口部まで運び,それをすぼめることで獲物を砕いていたのではないかというのだ。ペユトイアと命名されていた環状の板は,内側の縁に歯がついている。】

 忙しいときは忙しい。
 当たり前のようだが,本当のことだ。

 会議,会議,会議の用意,会議で決まったことの落とし込み,また会議。会議が3つ5つとブッキングし,自分で主催したミーティングで議事進行をとりながら,手元のノートPCから別の会議に指示を送る。ある部下は会議の最中に議題の業務をフロー化し,会議が終わると同時に議事録とフロー図の記されたExcelシートを出席者全員に送りつけ,確認を要請した。アッパレ,モノノフのかがみである。
 このような業務スパイラルにはまり込むと,昼飯を食べに出るのはなかなかに難しい。昼時といえど打ち合わせのお招きはメールや電話で押し寄せ,相談という名の業務押し付けがあらゆる通路で多発する。やむなく支援部隊に買いにいかせたコンビニのおにぎりとお茶を会議中にはむはむ流し込んで空腹を押さえ,そのうちコンビニメシを手配する暇もなくなり,最後はトイレに行く時間もなくなって往生する(本当)。
 夜9時から始まる会議に向かうエレベーターでなんだか足がふわふわするのでおかしいと思ったら,朝から固形物を一切口にしてなかった。その時間の会議ともなるとさすがに気心の知れた面子中心なので,急遽会議場を向かいのコーヒー店に移した。

 無茶苦茶ではあるが,この不景気なご時世,忙しいというだけで幸福なことだ。
 仕事をする自分を会社の歯車にたとえて社会を批判する者がいるが,そういう輩に限って歯車としても使い物にならない。目先の仕事や上司の命令に追われているのは本当の自分ではない,「自分らしさ」「本当の自分」を求めて有給を観光地で過ごす……勝手にすればよいが,その「弛緩」を会社に持ち帰らないでほしい。どうせその程度の「自分」は会社でも観光地でもその他大勢のワンピースにすぎないのだから。

 ……などなど,ちょいとモーレツ社員ぶってみたが,新しい商品やサービスを扱う際にたまに会議が重なるだけで,実態はそれほどでもない。ただ普段からそれなりに忙しいのは確かで,そうなると一人で昼食を食べに出られるときには,せいぜい仕事と関係ない本を手にその数十分をくつろぎ,リフレッシュしたいものだと思う。「自分らしさ」「本当の自分」を求めて……コラコラ。

 というわけで,ここ数ヶ月,昼食時に持ち歩いていたのがこの『ワンダフル・ライフ』である。昼食時だけに限定したので,読み終わるのにずいぶん時間がかかった。

 『ワンダフル・ライフ』は,カナダ,ブリティッシュ・コロンビア州の山中の「バージェス頁岩」にて発見された約5億年前の奇妙な小動物たちの化石をめぐって,生物の進化の謎を追うノンフィクションである。

 当初,バージェス頁岩の発見者であるウォルコットは,その生物たちを従来の節足動物の枠にあてはめた。すなわち,三葉虫やエビの一種とみなしたわけである。しかし,のちの研究でそれらは既存の分類体系のいずれにも収まらないことが明らかになってくる。それどころか,それは,従来の進化についての考え方を大きく覆すきっかけとなるものだった……。

 書物としてはまことに面白い。
 スリリングであり,説得力があり,ファンタスティックで,さらになんといっても化石から復元された小動物たちの見目姿がよい。
 たとえば表紙の右に描かれたハルキゲニアは,どちらが前か後ろか,どちらが上か下かさえわからない。表紙左のオパビニアは,一見エビの一種のように見えるが,5つの目と先が爪状になったノズル(口?)を持ち,体節の上面には鰓,尾には3つの節がある。
 二対の棘が長く突き出た頭部とエレガントな鰓脚を持つマルレラ(当初は三葉虫の一種とされたがのちに否定された),頭部は節足動物に見えるがそれ以外は脊索動物のように見える(!)ネクトカリス,遊泳する扁平な動物オドントグリフスは円形型の歯が独特だ。
 本書に登場する小動物たちはいずれも謎に満ちて魅惑的である。マリアン・コリンズによる細密な復元画がまた魅力的で,嬉しい,たまらない。

 もっとも,進化に関する著者の主張については,若干首を傾げてしまう面もなくはない。
 グールドが指摘するのは,従来の進化の系統樹が逆円錐形をしており,現在に近づくにつれて枝が多くなり,複雑化することに対する疑問符である。彼はバージェス頁岩に見られる「カンブリア紀の爆発」に,生命は発生初期にこそ多様性が最大で,そこから悲運多数死によってどれかの種が偶然生き残る,という進化観をとる。
 この考え方がおかしいと言いたいわけではない……いや,そうではなくて,むしろ当然のような気がするのだが,違うのだろうか。つまり,グールドがこぶしを振り上げて否定したがっている進化についての思い込みは,そもそもそのような思い込みがあること自体馬鹿馬鹿しくはないか。
 どうもキリスト教に基づいた西欧文明というのは,動物の中では哺乳類,哺乳類の中では霊長類,霊長類の中ではヒト,といった具合に生物を「高等」「下等」に分けて悦に入るところがあって,逆円錐形の系統樹もそれと同じ根の上にはびこっているように思えてならない。「未開民族はすべて同一の発展段階を経て,西欧型の最終段階文明に到達すると考えていた十九世紀的進化論の遺物的な思想」(唐沢俊一『カラサワ堂怪書目録』光文社知恵の森文庫),これとそっくりな思考フォーマットである。
 しかし,そもそもそのような進化のとらえ方そのものがピンとこない者には,グールドの主張は今ひとつ意味がよくわからない。三葉虫は人類より下等だ,と言われても,すぐにはうなずけない。少なくとも,人類はあれほど幾何学的に美しくはない。
 グールドは本書において我田引水が過ぎ,コンウェイ・モリスらの研究者から反発を買ったらしい。その前に,東洋的,仏教的な輪廻観などを,(是非はともかく)進化学者たちにばら撒いてみたいような気がしないでもないがどうだろうか。

 いずれにせよ,バージェス頁岩の小動物たちは,夢のように美しい。
 のちの研究では,彼らの大半は(あのハルキゲニアすら!),実は従来の分類に収められると言われているそうだ。だが,別に進化や生物の分類学について正確な情報が欲しくて本書を手にしたわけではない。本書は十分に魅力的で,かつかなり論理的でもある。よい書物は,よしんば内容が古びてしまっても,読むに足るものなのだ。

 遅い昼食にのんびり箸を運びながら,カンブリアの海底に思いをはせる。穏やかだが,にぎやかな午後の海。君たちの波,君たちの光,君たちの闘いと生産性。

 ここに大きな泥の波が押し寄せて何億年かののちに発掘されたなら,僕たち人類はどのように評されるのだろう。僕たちはオパビニアやサンクタカリスのように魅力的に見てもらえるだろうか。少なくとも進化の長と認めてはもらえそうにないように思われてならないのだが。

2003/12/01

読むのに時間がかかった本 『蔭桔梗』 泡坂妻夫 / 新潮文庫

417【静乃は眩しいようなあどけない笑顔を見せた。】

 読むのに時間がかかった,どころか,実はまだ読み終えていない。

 発行が平成五年二月とあるから,かれこれ十年近くもの間,通勤の鞄の中と本棚の未読コーナーを行ったり来たりしているということになる。我ながら,少々情けない。

 別に晦渋な学術書でもなければ,両手に重い超大作でもない。たかだか300ページに満たない文庫本に,収録短編11作品である。悪文で不評轟々というわけでもなく,実は作者の(遅めの)直木賞受賞作にあたる。
 だが,しかし……なぜかページを繰る手が止まってしまうのだ。

 泡坂妻夫のトリックはすごい。そのトリックを提供する展開がすごい。その展開の合間にほの見える人間関係に妙にほろほろと苦味があって,いわゆる「行間を読ませる」ところがすごい。
 デビュー短編を含む『亜愛一郎の狼狽』1冊だけで,作者がこの国のミステリ史上,最高の業師であることは明らかである。かと思えば,とことん設定で遊んだように見える初期の長編『乱れからくり』に登場する女探偵・宇内舞子の堂々たる存在感はどうだろう。彼女の過去については何一つ描かれていないにもかかわらず,両の腕を伸ばして抱えなければとても相手できそうもない,その肉の厚み。

 そんな泡坂妻夫が直木賞を受賞したのがやはりミステリではなく,紋章上絵師としての人情譚でだった,それが悔しい。作者当人がどう考えるかは別として,「失われゆく江戸情緒」を評価されて直木賞を受賞したのなら,亜愛一郎や宇内舞子,あるいは最近は初期の論理の妖艶さを失ってしまったとはいえ,奇術探偵 曾我佳城の価値はいったいどうなってしまうのか。

 いや,もちろんそれはミステリやSFになかなか賞を与えようとしない直木賞の選者,出版社側の問題であり,一方で初期のタッチを見せてくれない作者の作風の変化によるわけだが,それにしてもアクロバティックな魅力を失ってしまった泡坂妻夫,それにもかかわらず相変わらずほめてばかりの解説担当者たちの情けなさ。

 誰か,「読みたいのは,こうではなくて,こういうのではなくって……」とはっきり泡坂妻夫に提言しないものか。

 もちろん,『蔭桔梗』に収録されているような,紋章上絵師など古い技術にかかわる人々をしっとりと描き上げた作品がつまらない,というのではない。主人公が作者と同じ紋章上絵師であるからと,すなわち私小説的に日々の出来事を淡々と描いたのだろうなどと微温なことを想像するつもりもない。
 それぞれの作品にはそれなりに苛烈な設定やアイデアがこめられているのもまた事実であって,『蔭桔梗』収録作では,「竜田川」や「くれまどう」にその魅力を感じる。しかし,表題作の「蔭桔梗」そのものは,それほど褒めちぎるべきものだろうか。あるいは最近の長編で,読み終えたとたん最初から読み直したくなるような作品があっただろうか。

 などということを思いつつ読んでいると,なんだか没頭できずに短編の一つ二つ読んだところでまた本棚に戻してしまう。数ヶ月,あるいは数年して再度取り上げたときには,その空気になじむためにまた最初のページからめくることになる。
 いったいいつになったら読み終えることやら。

 ちなみに,出版された作品はほとんど読んでいるはずの泡坂妻夫なのだが,この『蔭桔梗』以外にもあと2冊,どうしても読めない「本」がある。
 1冊は長編『写楽百面相』,江戸中期の浮世絵師・写楽の正体をめぐって……ということのようだが,どうも文体だか冒頭の展開だか,あるいはその両方になじめず,これまた鞄と本棚を何度も行きつ戻りつしている。
 もう1冊は『生者と死者 酩探偵ヨギガンジーの透視術』……これを読めていないのは自分が悪い。出版されてすぐにもう1冊買っておくべきだった。これは,手元に2冊ないと,読むわけにはいかない類の「本」なのである……。新潮文庫ではとうに絶版,再販の気配もない。実に困っている。

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