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2003年11月の2件の記事

2003/11/24

読むのに時間がかかった本 『東海林さだおのフルコース “丸かじり”傑作選』 朝日文庫

222【様々な葛藤があったが いまはやすらかにかつ丼をいただくご婦人】

 1巻め『東海林さだおの弁当箱』が791ページ,2巻め『東海林さだおのフルコース』が457ページ,3巻めの『東海林さだおの大宴会』が469ページ。
 大変なボリュームである。ところがこの3冊ですら「自選・特選」と銘打たれた,早い話「傑作集」に過ぎない。

 しかしてその正体はといえば,週刊朝日に現在も連載中の食べ物エッセイ「あれも食いたいこれも食いたい」なのだが,これがすでに単行本にして
  タコの丸かじり
  キャベツの丸かじり
  トンカツの丸かじり
  ワニの丸かじり
  ナマズの丸かじり
  タクアンの丸かじり
  鯛ヤキの丸かじり
  伊勢エビの丸かじり
  駅弁の丸かじり
  ブタの丸かじり
  マツタケの丸かじり
  スイカの丸かじり
  ダンゴの丸かじり
  親子丼の丸かじり
  タケノコの丸かじり
  ケーキの丸かじり
  タヌキの丸かじり
  猫メシの丸かじり
  昼メシの丸かじり
  ゴハンの丸かじり
ぜはぜは,つまりその,ひぃふぅ,だるまさんが転んだ,インド人のクロ…(Pi!),合わせて20冊が発行済みの,さすがは老中松平定信の寛政の改革当時すでに江戸八百八町に名を知られた老舗名代エッセイだけのことはある(ウソ)。

 さてではその本領といえば,とにもかくにも,これほどまでに美味しそうに,これほどまでに楽しそうにモノを食べてよいのだろうか,というくらいうひゃうひゃと楽しそうなその文体にある。

  ゴハンと黄身が上アゴにひっつき,舌にひっつき,口の中はニッチャコ,ニッチャコとなって,目はなんとなく上目づかいになって,口はOの字になったりヘの字になったり,これはなんともこたえられまへんな,という心境になり,はたから見たら,ともて利口には見えまへんな。

  浅漬けの塩ラッキョウは,果実の種のように硬く引き締まり,噛むとカリカリ,シャキシャキと口の中が騒がしい。

  まずすることは,ナイフでもってホットケーキの表面をペシペシとたたくことである。

  チャーシューが六枚という店が多い。八枚だったりすると,思わず店主の顔を見上げ,「そういうヒトだったんですね」と尊敬の目になる。

 なーどなど。

 そもそも,取り上げられた素材がよい。
 同じ食べ物エッセイといっても,代官山のフランス料理のなにがしが……といった取り上げ方もあるわけで,20年近く連載を続けていればたまにはそういう方向に走りたくなるに違いないと思われるのだが,にもかかわらず本シリーズはどこを開いても

  福神漬の鉈豆とは何か
  ゴハンに海苔を巻いて食べるとき,海苔の醤油は内か外か
  立ち食いそば屋の七味唐辛子の二穴式の缶は一体誰がしめているのか
  なぜどの辞書も小倉餡の「小倉」の由来については固く口を閉ざすのか
  スイカを皮から剥いて食べたら……
  カレーラーメンはなぜないのか

といった具合で,まったくどこからどこまでこの国の朝ごはん! もうなんとも日常的かつ素朴な食材を取り上げて次から次へとアクティブな問題提起を行って油断がならない。

 油断といえば経済企画庁長官も務めた堺屋太一が以前どこかの雑誌誌面で「これまで一食何万円もしてサラリーマンには手の届かなかったある料亭の懐石料理が3,500円でランチになった。デフレにもよい面がある」とタワけたことをのたまわったのを読んで呆れ果てた記憶があるが,東海林さだおの食べ物エッセイにはそのような不快極まりない金銭感覚,あるいはグルメぶった居丈高さは一切ない。
 取り上げられた食べ物の大半は立ち食いそばやインスタント食品,おにぎりや串カツ,お汁粉であり,チャーシューメンやかつ丼がハレの日のごちそう扱いである。

 もちろん,作者がマンガ家であることも,(当たり前のことだが)忘れてはならない。
 それぞれのエッセイに添えられたおばさん,おじさんたちはもう実に情けないほどに見事におばさん,おじさんである。このおばさん,おじさんたちがテーマの食材を手に口に,ハグハグ,モゴモゴ食べては目をうるませたり口を尖らせたりしてくれるのだが,そのそれぞれがそれはもう味わい深くたたまらない。

 逆にいえば,さっくり読める軽妙なエッセイといかにもB級のカットの向こう側に徹底的に隠蔽されて,いくら読んでもこの著者には家族がいるのかどうかさえ見えてこない(自宅での食事の話がこれほどあるにもかかわらず!)。また,連載開始当時と最近の作品を並べて読んでも,まるで鮮度に違いが見られない。
 これがプロの技術者による作品でなくて何であろう。

 ちなみに,本書を読むのになぜ時間がかかったかといえば,別に分厚いからではない。
 こういう本はダラダラ続けて読んでは味わいに鈍してしまうので,ベッドに入ったところでまず少々重めの本を選んで読んで1時間,2時間,微妙に眠くなったところですかさず本書に切り替えて,ああ今日も幸せな1日だった,明日はこの○○を食べてみようかな……などと余韻を抱きながらスタンドを消してほにゃららと眠りにつく,そんな読み方をしたためであった。

 まだ未読の丸かじりシリーズが何冊も残された,この世界は幸いである。
 多分,1ヶ月もしたら,一度読んだものも忘れているに違いないし……。

2003/11/17

読むのに時間がかかる本

 読み終えるのに時間のかかる本というのがある。

 音楽はとりあえずプレイヤーに任せておけば最後までたどり着くことはできる。
 マンガは多少好みと違ったり,展開が許しがたかったりしても,単行本1冊10数分程度で「読み捨てる」ことが可能だ。
 もちろん,音楽やマンガにも聞き流す,読み捨てることができないほどつまらないもの,耐えがたいものはある。
 映画(ビデオ)についても,見ることができずに放置しているものが少なくない。映画の場合はむしろつまらないものより,「きちんと見たい」と思うものについて,見始めて数分,数十分経ったところで「また今度にしよう」と巻き戻してしまう傾向が強いようだ。ゴダールやタルコフスキーの一部の映画がこれにあたる。

 活字の詰まった本の場合,読み進めるために必要なエネルギーは音楽,マンガ,映画の比ではない。とにもかくにも表紙をめくり,文字を目で追い,その意味を咀嚼しなければ1ページも先に進めないのだから。

 もちろん,哲学書だとか専門用語の並ぶ学術書を読了するのに時間がかかるのは当然といえば当然のことである。前者は論理の流れを追うために一句一句丁寧に言葉を消化しなければならないし,後者はものによると主語も述語も形容詞も専門用語で固められていてまるで歯が立たないことも少なくない。
 たとえば

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 形而上学を独断的に実現しようとしたこれまでの試みは全てなかったものと見なすことができるし,また見なさねばならない。なぜなら,これまでの試みの中に見られる分析的な部分は,我々の理性に先天的に宿っている概念を単に分析しただけで,それは本来の形而上学の目標ではなく,その準備に過ぎないからである。本来の形而上学とは先天的認識を総合によって拡大することだからである。
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といったような文章が数十,いや数百ページ続いていたらどうか。
 いや,これはどちらかといえば「読み終えるのに時間がかかる」ではなく,「ハナから開きもしない」本の例として提示されるべきかもしれなかった……。

 続いて,分厚い本,あるいは何巻にもわたる本,これに時間がかかるのは当たり前だ。

 ただ,意外と,分厚い本,とくに小説に限っていえば,読み始める際には確かに「はずみ」が必要だが,いったんその世界に突入したら最後,寝食を忘れて読み進み,あっという間に読了! というケースも少なくない。作者の側も長編となるとシチ面倒な理屈や修辞は後回しで,ぐいぐい登場人物を走らせ,語らせることが多いためである。

 したがって,分厚い本については,読み始める際の「はずみ」こそが重要である。
 ドストエスフキーの『カラマーゾフの兄弟』は,最初の数十ページがまことに面倒くさい。そこには登場人物の家系だとか関係だとかが綿密に紹介されているのだが,あとで考えてみれば別にそらんじておく必要もなければ,気が向いたときに立ち返ればよい程度のものでしかないのだが,なにしろ相手は世界の大文豪である,読み飛ばしてはいけない深い内容が込められているのかもしれないと正面から格闘して何度も何度も放り投げた記憶がある。そこさえ突破してしまえば,あとは一気呵成に数日で読めてしまったのだが(ちなみに,ドストエフスキーの作品の中で『罪と罰』が傑作とされるのは,その内容だけではなく,冒頭の入りやすさ,随所に見られる探偵小説的オカズなど,ともかく他の長編に比べて読者サービスに満ちていることがあるに違いない)。

 さて,没頭できたら小説は早い,ということの裏返しに,小説以外の書物は分厚いとともかく厳しい。ノンフィクション,ドキュメンタリーの類は小説的な演出を工夫したものが少なくないからまだよいのだが,やっかいなのはイメージの断章を延々と切り張って長編に仕立て上げたような作品である。たとえばロートレアモンの『マルドロールの歌』は,この二十数年にわたってときどきかじり読みはするのだが,どうしても通して読むことができない。こういった手合いはフランスの現代文学に多い。マンディアルグが好ましく思えるのは,その作品の多くがほどよい短編だからかもしれない。

 というわけで最近読了するのに時間のかかった本を紹介しようと思い立ったところで以下次回。

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