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2003年9月の5件の記事

2003/09/27

『東電OL殺人事件』 佐野眞一 / 新潮文庫

500【「ねえ,お茶しません」】

 「古ぼけたアパートの一室で絞殺された娼婦,その昼の顔はエリートOLだった。なぜ彼女は夜の街に立ったのか。逮捕されたネパール人は果たして真犯人なのか,そして事件が炙り出した人間存在の底無き闇とは……」(文庫表紙カバーの惹句より)

 文庫にして540ページの大作である。
 が,実は,著者 佐野眞一がなぜこれほどまでにこの事件に入れ込んだのか,よくわからない。

 プロローグにおいて著者は「『東電OL殺人事件』が起きたとき,世間は『発情』といってもいいほどの過剰な反応を示した」と評しているが,正直なところ,当時の報道についての記憶は「スキャンダラスな事件なのでスキャンダルとして扱った」といった程度の印象しかない。
 上場企業のエリート女性社員が夜になると立ちんぼうの売春婦,そのあげくに殺されたのだ。週刊誌やテレビがこれに飛びついて扇情的に扱わないほうがどうかしている。
 「ついには彼女がベッドの上で撮った全裸写真を掲載する週刊誌まで現れた」とあるが,事件にかかわる女性のヌードが入手できたら掲載したがるのは彼らの「仕事」としての本スジだろう。被害者だから加害者だからと載せない方針を打ち出すとしたらそちらのほうがよほどどうかしている(人権問題から掲載されることはあり得ないだろうが,どこそこ大学の学生たちによる集団レイプ事件の現場写真があったならそれを入手したがらない,載せたがらないブンヤがいるだろうか?)。

 だが,とにもかくにも佐野眞一はこの事件に「大量のアドレナリンを身内から分泌」し,円山町の事件現場,被害者の父親の出身地,あげくに遠くネパールの高地まで足を運んで取材を重ねる。その過程は面白くないといったら嘘になる。
 年収1000万はあったのではないかと想像されるOLが,セックス1回について5000円,場合によってはもっと安い売春婦として几帳面に毎晩働き続けたこと(その方面には詳しくないが,この金額が相当安いほうであることは想像にかたくない)。いや,そのような枠組み以上に,「コンビニエンスストアで百円玉を千円札に,千円札を一万円札に『逆両替』し,井の頭線の終電で菓子パンを食い散らかし,円山町の暗がりで立ち小便をする」,あるいはどこかで拾ってきたと思われるビール瓶を酒屋に持ち込んで五円,十円と金に換える……そういった被害者の一種の「奇行」がなんともいえないリアリティをかもし出すのだ。ことに,なんというか「たまらない」のは,被害者が円山町のセブン-イレブンでオデンを買うのに,一つのカップに一つの具を入れて,汁をどぶどぶといれ,そのカップをいつも五つくらい使ったというエピソードだ。これらの行動になんらかの病的な要素,あるいは意味を求めることも不可能ではないかもしれない,だが,そのような解釈を拒絶する高い壁のような手応えがここにはある。

 一方,犯罪事件捜査の面からも,この事件は奇妙な様相を示す。
 警察や検察は,意図的であるかのように愚かの上にも愚かな対応をし続ける。まるで探偵の推理を引き立てるためにとしか思えないほど短絡的な推理を繰り返すミステリ小説の警部,あるいは一度島流しにあった前科者をすぐ犯人扱いして引っ立てる敵役の岡引のようだ。しかし困ったことに,その裏の活動はそれなりに組織的で,一見まっとうな法治国家に見えるこの国が実はきっちりと構築された愚かさの上に成り立っていることがよくうかがえる。
 もっともこれは考えてみれば当たり前のことで,上場企業であろうが官庁であろうが,親しく仕事で付き合ってみれば4人に1人,いや3人に1人はどうしようもない輩だということはすぐわかる。警察や検察にだけきちんとした人材がそろっているなどと夢見るほうが無茶なのだ(それにしても,これだけ具体的な証拠のない案件を担当させられ,なおかつベストセラー作家にその無能を書きたれられた検察官たちには同情を禁じ得ない。もしかしたら彼らは調書に目を通した時点で「あちゃーこりゃシロだ」と思っていたかもしれないではないか)。

 さて,著者の視点に戻ろう。
 先に書いたとおり,著者は事件に発情し,被害者にアドレナリンを分泌し,被疑者の潔白を信じて疑わない。ネパール人の被疑者は,アリバイその他の面から確かに犯人とするには無理があるのだが,それにしても詳細を調べる先から犯人ではあり得ないと断定的な書き方をしてしまう著者もいかがなものかと思う。これでは先の警察,検察の対応の裏返しにすぎないのではないか。

 また,巻末の精神科医 斎藤学と著者の対談,これがなかなか面白い。ここでは被害者の女性の行動が,敬愛する父親と同じ企業に入りながら,父親のようになれなかった自分への(懲罰的超自我による)一種の自己処罰であることが示唆される。出来すぎと言っていいほど実にわかりやすい。
 だが,自ら堕落として娼婦の道を選んだ被害者にはすなわち東電のエリート社員であることを上,娼婦であることを「落ちる」先とみなす意識があったということだ。しかし,そもそも,東電に勤めることを無条件にイコール品行方正なエリートとみなしてしまうことのほうが正直言って不思議だ。一部上場の大企業,大手銀行,官公庁……。これらのどこがどのように売春業よりエラいのだろうか? 被害者の選択はプロの娼婦を見下すようでもあり,実は彼女が端緒(ハナ)っから低い水平線にいたことの顕れのように思われてならない。

 一流企業と呼ばれる組織で何億という金を動かせることが上流で,円山町の暗い駐車場でまぐわうのが下流。セックスに対する侮蔑であり,そのような貧しい性行為は5000円ですら高い,と思えてしまう所以である。

2003/09/16

最近読んだコミック その三 『頭文字D(27)』『蟲師(1)~(3)』

102『頭文字D(27)』 しげの秀一 / 講談社(ヤングマガジンKC)

 今夜はどのテレビ局も,阪神の優勝シーン一色(正確には黄色と黒のタテジマ二色)だった。
 一球団の優勝がこうまで一般報道を圧するのは,永田町の猿芝居では視聴率が取れないという事実はさておき,今さら言うまでもないが18年ぶりの,それもその間ほとんどBクラスにあえいだチームだから,という要素があるからに違いない。

 要するに,高揚するためには「反動」が必要なのである。引っ張ったり押し縮めたりしてこそ,バネははじける。御託を連ねるまでもない当たり前のことで,スーパーマンは日ごろはメガネをかけた冴えない新聞記者クラーク・ケントでなくてはならない,それだけのことだ。

 ヤングマガジンという雑誌で比較的地味に始まった『頭文字D』の強烈なインパクトは,その「反動」から得られるものだった。
 藤原拓海は四六時中ぼーっとしている,部活は先輩を殴って退部,そのきっかけとなった女の子とはロクに口もきけない,「藤原とうふ店」と書かれた素のハチロクで最新の強力な車とバトルするハメに陥る,等々と,およそヒーローらしからぬ主人公である(もちろんマンガの主人公だから,見てくれは十分に二枚目なのだが)。ともかく初期の数巻は,そのパッとしない拓海が,並みいる強敵と峠のダウンヒルを闘っては勝ち進む,その「反動」がえもいわれぬカタルシスを誘ったものである。
 しかし,最近は冷静かつ攻撃的な群馬エリア最速のダウンヒラーとしてその名も響き渡り,愛車ハチロクもレース仕様のエンジンが積まれてパワー対決でひけをとらなくなった。『頭文字D』の初期からのファンは変わらず拓海を応援してはいるが,考えてみれば拓海にはもう応援など必要ないのである。

 プロのドライバーにも勝ってしまったプロジェクトD,今後読み手が納得できる壁はあり得るのか。勝ち続けるからついつい単行本を買ってしまいながら,そんな心配ばかり浮かぶ27巻であった。

『蟲師(1)~(3)』 漆原友紀 / 講談社(アフタヌーンKC)

 『蟲師』はアフタヌーン増刊,アフタヌーン本誌に発表されてきた連作短編集,現在3巻まで発売されている。作者の漆原友紀は女性だろうか?

 いつの時代,どこの国とも知れぬ世界で,「蟲」と呼ばれる原始的な生命体(それはカビのようであったり,オーロラや山の神のようであったり,言霊のようであったりする)と人々のかかわりを,ギンコという狂言回しの目を通して描く。
 それぞれの「蟲」の発想,造形はなかなか見事で,それによって人生を捻じ曲げられた人々の悲哀,あるいは復活をひっそりと描く筆のクオリティは非常に高い。
 しかし,これだけ好みの設定でありながら,なぜだか雑誌掲載当時から今ひとつ没頭しきれないものがあった。今回単行本を3冊通して読んでみて強く感じたのだが,この短編集はファンタジーでありながらどうも「意外性」に乏しいのである。

 『蟲師』の作品世界では,決して思いがけない事件は起こらない。
 平穏が続くとみえて急転直下悲劇が起こる,とか,朗らかな笑みの裏に暗い冷たい過去が,といった「反動」がないのだ。いかにも悲劇が起こりそうだなと読み進むと悲劇が起こり,まことに暗い過去がありそうだなと思われる人物にはたっぷり暗い過去がある。
 それでは心は波打たない。
 もちろん,作者の意図は角川ホラー文庫的絶叫世界ではない。ひたひたと溢れる静謐な悲哀感の描写を(おそらく)目的としている以上,必要以上の過剰過激な演出は無用である。しかし,静謐な悲哀感で読み手を満たすためには,やはりその前にいったんは心を泡立たせる必要があるのではないか。そうでないとその悲哀は表面的な皮膚感覚に終わってしまうのではないか。

 いくつか,本来ならとても切ない話が,あるいは底なしに恐ろしいはずの話が,さほど切なくも恐ろしくもないのは,やはり何か「ばね」が足りないように思われてならない。どうだろうか。

2003/09/10

最近読んだコミック その二 『ホムンクルス(1)』

269『ホムンクルス(1)』 山本英夫 / 小学館ビッグコミックス

 ホムンクルスとは,フラスコの中で創造される人造人間のこと。
 16世紀の医師,錬金術師のパラケルススによれば,人間の精液を馬糞とともにフラスコに入れて40日間密封すると,透明な生命が誕生する。これを人間の生き血で養い,40週間一定の温度で保存すると,フラスコの中に小さな人間が創造される,というものだ。ホムンクルスは,ゲーテの『ファウスト』に登場することでも知られている。

※Googleで検索してみた。
  ホムンクルス 117,00件
  ホルムンクス 75件
  ホムルンクス 46件
  ホンムクルス 14件
  ホルンムクス 3件
となった(46へぇ)。この数字──つまり間違い,書き違いは多いのか,それとも少ないのか。ちなみに,カラスもときどき「ホルモン → ホルムンクスだったかな」など記憶が納豆になる(エーゲ海でガラスを割ったホムンクルスと女神ガラテアへの拙いオマージュはこちら)。

 さて本題。
 山本英夫の『ホムンクルス』は,別にフラスコの中の人造人間を描いたものではない。
 主人公は新宿西口のカーホームレス(車上生活者)の名越進,34歳。金のつきた彼のもとに,医大生伊藤学が話をもちかけてくる。頭蓋骨に穴を開ける手術(トレパネーション)を受けてくれたら70万円を支払う,というのである。

 登場人物は数少なく,顔のアップが多くてセリフも少ないため,流れを把握するのはさほど困難ではない。だが,その流れの意味を日常の言葉に置き換えるのはおよそ容易ではない。実に異様な展開である。名越がなぜ車上生活者になったのか,「人間オタク」伊藤学の真意はどこにあるのか,推理の端緒すら与えられず,感情移入は難しい。伊藤学の容貌はファッション的にもまことに気色悪く,作者の筆から愛着と悪意のバロメータは読み取れない。
 そもそも,あらゆるコマ,あらゆる細部について,作者がどこまで意図的なのかは不明だ。たとえば,名越が羊水のように体を丸めて眠る車は60年代のマツダキャロルで,その選択は絶妙だが,なぜキャロルでなくてはならないかは説明できない。

 山本英夫は,ヤングサンデー誌上の『のぞき屋』,そして『殺し屋1 -イチ-』の印象が強い。印象が強すぎて,作者が何を描こうとしているのかさっぱりわからない,そういった作家の1人である。『殺し屋1』では泣き虫の殺し屋,自傷癖のあるヤクザなどインパクトの強い登場人物が少なくない。その中でも記憶に強く残っているのは,ナイフ使いの巧みなヤクザが,若い女性の乳首を服の上からスっと切り落とすシーンだ。ラオウやケンシロウが圧倒的な破壊力で相手を抹殺するシーン以上に,それは徹底的な「破壊」であったような気がする。円形に両の乳首を切り落とされた女は,その瞬間,想像を絶するほどに壊されてしまう。この衝撃は並みではない。

 しかし,インパクトが強いからといって,山本英夫が高く評価できるわけではない。いや,評価はする。するのだが,その評価には必ず留保が伴う。

 いうなれば,山本英夫は,ゲテモノ料理の一大名人なのである。イグアナの脳味噌とゾウガメのペニスとナメクジの和え物,が果たして美味かどうか。インパクトの瞬間,ヘッドは回転し,味のことなど忘れてしまうのではないか。つまり,山本英夫は強烈な腕を持ちながら,いや持っているからこそ,客からみて何を作っているのかよくわからない料理人なのである。つまりは食事の領域を越えてしまっているのだ。

 本作『ホムンクルス』も,予想にたがわない,いや,予想を格段に越えたゲテモノ料理である。美味なのか,美味ではないのか,今はまだわからない。とりあえず,1巻めの食材はかなりとんでもないものであった。続刊に注目したい。

2003/09/08

最近読んだコミック その一 『のだめカンタービレ(6)』『ヒカルの碁(23)』

23『のだめカンタービレ(6)』 二ノ宮知子 / 講談社 Kiss KC

 何度か取り上げてきた「のだめ」だが,いまだテンション下がらず。

 今回もスパークするギャグの中に,
「いいえ! 軽くなんて…… そんな練習 ないんです! わたし」
と泣けるセリフも散りばめ,油圧ショベルとフォークリフトで社交ダンスを踊るような濃い世界が展開する。

 ところで,主人公のだめ(野田恵)を除く,千秋真一,奥山真澄,鈴木萌・薫らのSオケメンバーはこの巻で学部を卒業である。飛行機恐怖症,海(船舶)恐怖症の千秋は海外留学もできず院に進むが,それ以外のSオケのメンバーはそれぞれの道に進む。
 本作は読み切りでこそないものの,ギャグの印象が強く,『サザエさん』『ドラえもん』『うる星やつら』的時間の停止した無限ループをついつい想定してしまう。しかし実のところ作者の資質はそういったループ系ではない。前作の『GREEN』でも,最終巻で主人公たちの結婚というかなり思い切りのよい展開を見せている(その結婚式に用意されたエピソードが,また,ほかの作者ならまず選ばないような思い切りのよいものであったが)。

 逆に言えば,『のだめカンタービレ』には,読み手の予想などまったく通用しないということだ。ダイナミックに揺れながら長く続くのか,それとも思いがけないアップダウンを見せて数巻内で物語を閉ざすのか。そのとき,読み手はカラカラと笑うのか,それとも「やられた」と下唇を噛みながら涙を落とすのか。

『ヒカルの碁(23)』 原作 ほったゆみ,漫画 小畑 健,監修 梅沢由香里四段(日本棋院) / 集英社(ジャンプ・コミックス)

 『ヒカルの碁』が終わった。
 以前も「佐為編」完結後に再度連載が始まったという経緯はあるが,いちおう原作者による挨拶もあり,単に「北斗杯編」が終わったということではなさそうだ。
 この作品が絵柄,ストーリーともに非常によく出来ているにもかかわらず,根っこのところでなぜつまらないかは以前述べたので繰り返さない。……が,この最終巻はそれにしてもひどい幕切れであった。

 たとえば,ボクシングマンガの『はじめの一歩』なら,いじめられっ子がプロボクサーの鷹村と知り合い,ライバルと出会い,その時点までに用意されていた身体的資質を伸ばし始め,その成長に応じて闘う相手の壁も高くなる。つまり,1巻めから,摂理はゆきわたっているのである。
 それに対し,ヒカルは23巻を費やして,いまだ碁盤の上で闘う理由を見出すことができない。最終巻でも泣いてみたり無理繰り言葉で説明したりはしてはみせたが,説得力に欠け,対局相手にさえ鼻で笑われる始末だ。今後彼が訓練によっていかに勝率をあげようが,彼の存在が他者を脅かすことは当分ないだろう。彼は本質的にまだ勝負師のステージには上がれていないのだ。
 にもかかわらず,塔矢アキラは,小学生の頃にヒカルに憑依した藤原佐為に完膚なきまでに敗北したことから,ヒカルを自らのライバルとみなし,彼を意識し続ける。匿名の悪戯メールに恋をしてしまうようなものだ。気の毒でならない。

 この構図は最終回にいたるまで変わることはなく,登場人物たちにはなんら救済は提示されない。
 ヒカルは今後も虚偽申告のレール上の人生を歩み続け,周囲は多かれ少なかれそれに歩みを揺らされるのだろう(アキラの,同年代の他の棋士たちへの態度を思い起こしてみよう。本来,佐為抜きなら,ヒカルもあのように扱われるのが妥当なのである)。
 心理学的に鑑みれば,ヒカルは遅かれ早かれ精神状態に変調をきたすだろう。早めにカウンセリングを受けることをお勧めしたい。

 今,ふと思い当たった。
 『ヒカルの碁』は,『ドラえもん』と構図的には実によく似ているのだが,野比のび太には,ドラえもんがいかにサポートしてみせてもそれがのび太本人の成長を示しているわけではないことを把握し,のび太を叱咤してくれるママがいる。のび太の将来もかなり心配ではあるが,ヒカルのそれほど陰惨なことにはならないだろう。

2003/09/01

骨になっても踊り続けろ 『屍体狩り』 小池寿子 / 白水Uブックス

791【骸骨探しには推理小説のような面白味と興奮がある。】

 「普段は黒いスーツの似合うクールな葬儀屋青年,いざ事件に邂逅するや屍体と古今東西の文献についての豊富な知識をもとに快刀乱麻の推理を展開し,警察も一目置く葬儀屋探偵」を創造し,年に1冊の長編,3年に1冊の短編集を発表するやそれがいずれもベストセラーに,映画化もあたってイタリアはトスカーナの片田舎で印税生活を送る……。

 惜しくも山村美紗に先を越されてベストセラーの夢は果たせなかったが(んなことはミステリ短編の1つも書いてからおっしゃいなさい),今回はその幻と終わった「蒼い棺シリーズ」の素材というか参考資料として秘蔵していた書物を1冊,特別にナイショでご紹介しよう。

 小池寿子『屍体狩り』は,美学美術史家たる著者が「屍体」をテーマにした古今の絵画・彫刻作品を取り上げて死を語った雑誌連載エッセイをまとめたもの。
 取り上げられた作品は著者が専門とするヨーロッパ中世のものが中心だが,アジアの壁画や外国煙草の商標にいたるまで,その対象は自在,内容もしかつめらしい美術講釈でなく,のびのびと思索の翼を広げて享楽しい。ただし,その翼の黒い風切り羽根は常に「屍体」に触れているのだが。

 43の各章(本書では第1体,第2体……と数えているが)には絵画や彫刻の写真が数葉ずつそえられ,テキストを補っている。本来はそちらの写真がメインとなるべき章も少なくないが,いかんせん新書サイズの1ページにモノクロ写真を2,3点,つまり一辺せいぜい数cmの写真では「屍体」ぶりもそうリアルとはいかず,そうとうエグい作品のはずも,一部を除き気持ち悪いレベルには至らないのでご安心。
 それにしても,死者に誘惑される女や,高貴な人々が死んだ際に墓を飾るトランジ(腐敗屍骸像)など,ヨーロッパ中世の人々はいかに毎日死と向き合って生きてきたことか。ペストの流行や宗教的な必然性から,というのもわからないではないが,要するにいたるところ骸骨と腐敗屍骸だらけである。それでも飽き足らず,フラッシュ撮影不可の修道院の塀を乗り越えようとする著者は天晴れ,「屍体屋」のカガミといえよう。

 個人的には先に触れた「トランジ(腐敗屍骸像)」を興味深く思った。
 これは「みずからの朽ち果てる屍をあえて見せしめにして,道ゆく人に生のむなしさを思い起こさせ,せめて生前に神の加護を請い,道徳的に正しい生活を送って,あまりにぶざまな姿では死なないように教え諭す」ことを意図し,「腐乱状態の表現が残酷であればあるほど,見る者の恐怖心をあおり,善生善死の効用を説く効果があった」というものである。
 別の章にある,カトリーヌ・ド・メディチが「とある彫刻家に腐敗屍骸像の見本帳を見せてもらった彼女は,おそるおそる『死後数日ていどのもの』を注文した」といったエピソードも楽しいが,現在の日本社会においては,葬儀の風習があまりに屍体を小奇麗に扱い,またすぐに荼毘に付してしまうため,屍体が腐敗するものであることが隠蔽され,ひいては現代日本人が死と向かい合う機会を失っているのではないか,ということにも思い至った。
 1995年に相次いで起こった阪神・淡路大震災,地下鉄サリン事件が当時社会に大きな動揺を与えたのは,これらが単に大規模な災害を引き起こしたから,だけではなく,これらの事件が私たちに「メメント・モリ(死を想えよ)」と強く訴えたからではないか。

(無茶を承知で言うなら,阪神・淡路大震災で祖父を喪った少年Aがのちにあのような事件を起こしたのは,この地震災害によって直面した「死」を彼がうまく処理できなかったからではないか。さらに極言するなら,民主主義の名目のもと,宗教や天皇制や戦争を正面から見据えようとしなくなった日本社会がいまや「死」を扱うマニュアルを見失っていることを少年Aの事件は証明してみせてしまったのではないか。)

 それにしても,いくら自他ともに認める「屍体屋」さんとはいえ,東大医学部解剖学教室の養老孟司教授に招かれるままに献体に触れ,あまつさえ「せっかくの機会だからとメスをとり,開きかけた胸の皮膚を切り剥がそうとする」のは……小池先生,いかがなものか。遺体を解剖に提供した当人も,そんな扱いを受けるとは予想外だったと思うのだが。

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