フォト
無料ブログはココログ

« アンリ・ミショー「安穏をもとめて」 ~あるコミック作品の前奏として~ | トップページ | 『ODESSEY 1966 2003 岡田史子作品集 episode 1 ガラス玉』 監修 青島広志 / 飛鳥新社 »

2003/07/14

『死と彼女とぼく』 川口まどか / 講談社漫画文庫

69【 「オリは…… ハナをみてる」 「そうか花か キレイだもんな」 「うん キレイ」 】

 ……死者を見る能力を持つ少女,時野ゆかり。
 死者の声を聞く能力を持つ少年,松実優作……。

 死者の孤独と恐怖が見えてしまう,聞こえてしまう彼らの孤独は深く,少女はいっそそんな目を針でつぶそうか,薬で焼こうかとまで思いまどい,少年は聞こえないはずの声をかき消すために1日中ヘッドホンをはずさす,あげくに三度にわたって自ら鼓膜を破る。

 死者たちは天井のすみ,休んでいる生徒の机の下,ロックされた車の中,立ち読みする人のとなり,あるいは道にあふれ,ゆかりや優作の部屋に押し寄せ,泣き,わめき,騒ぎ,訴える。

 設定そのものはホラーマンガとして決して珍しいものではない。だから,本作をオーソドックスなホラー作品とみなすのはたやすい。が,ホラー作品とのみみなすのは難しい。

 もちろん,この作品においても,死者の多くは悪意に満ち,血まみれで臓腑をさらし,グロテスクだ。人としての姿形を維持していないものも少なくない。
 だが,死者の造形に対する作者の考えは明確で,「ほとんどの死者はどうしても内面をかくせなくなっていくの だってしかたないわ もともと肉体のない 心だけの存在ですもの」,そういうものである。
 つまり,たとえば事故の死のショックに動転して我を忘れた死者は顔の半分を喪った血まみれの姿で現れ,自分が誰かを思い出し,残された家族のことを思いやれば同じ死者が穏やかな若い父親のはにかみを見せる。悪意をもった死者は悪意を剥き出しにし,突然の死にとまどい,不安を隠しきれない死者はときどき子供の姿にフラッシュバックし,水に沈んでぶよぶよと膨れた死者は生者の優しさにふれたとき生前の姿に戻って涙を流す。
 逆に,どこまでも生者を呪ってやまない死者の肢体はゆがみ,凝固し,痛みに苦しみながらだんだん石化して身動きならないまま何年もその場で苦しんだり,熔けて動けなくなってしまったりする。

 本作では死者は生者同様に明るく,あるいは暗く,おしゃべり,あるいは無口,攻撃的,あるいは穏やかだ。……しかし,妄執に我を忘れて生者を呪う死者も含めてすべての死者が切なく,哀しい。
 なぜなら彼らはすでに死んでいるのであり,「生きていくことが 幸せの宝庫だと 気づいてしまって」,その限りではもうどうにも取り返しがつかないことを彼ら自身がよくわかっているからだ。

 死者の姿が見えてしまうゆかりは,死者たちからみると光ってよい匂いのするものらしく,死者はゆかりを見そめては彼女を追い,彼女に迫る。生者たる彼女の体を乗っ取ろうとする死者もあれば,性的虐待すら辞さない死者もいる。死者がゆかりをコントロールしきれないのは,結局のところ死者は死者であり,弱いからにすぎない。

 そんなゆかりの絶望を描く川口まどかの絵柄は,お世辞にも巧みとは言いがたい。
 感動的なシーンで登場人物の手足がドラえもんのそれのようであったり,キスシーンで優作の唇が河童の口のようだったりする。第一話から最新作にいたるまで,川口まどかの絵柄は大きく変化しているが,最新作にしてもせいぜいレディスコミックレベルの,デリカシーに欠けた大雑把な絵柄に過ぎない。ことに瞳や唇の描き方は山岸凉子や大矢ちき,萩尾望都,山本鈴美香らの開拓したテクニックを無視して,まるで60年代の少女マンガのようだ(60年代の週刊少女マンガ誌には,ままこのような絵柄のB級ホラーサスペンスが掲載されていたような気がする。もちろん,実際は川口まどかのほうが格段に洗練されてはいるのだが)。

 ……と,ここまでの大まかな紹介では,実はこの作品についておよそ語ったことにはならない。

 まず,互いにその予兆を知りながら,何年もかかってようやく出会うことのできたゆかりと優作の間の固い絆。この面において,本作は赤面しそうなほどの甘いラブロマンス,いやファンタジーの領域にある。

 いや,そんなことより,死者だ。

 かつて,いかなるホラーサスペンスにおいて,その死者(幽霊)が見えてしまう者をして,死者に対し
「そんなことばかりしてちゃ 暗闇に閉ざされて動けなくなるわ!! ひとり苦しむのは いずれ あなたよ」
「冷静に よーく考えることだ やりきれなさから 逃れたいのか やりきれなさの虜になりたいのか 自分を救うには最終的には 自分しかいないんだ 自分しかな」
「赤ちゃんはね どんな死者にでも さわろうとするわけじゃないの キレイで ステキな そして 幸せになって当然の 死者にしか 近よろうとしたりしない」

と語らしめるような作品があっただろうか。

 『死と彼女とぼく』の中では,時間はゆっくり流れ,ときには逆行して何年も昔のことが語られ,あるいは長きにわたって1人の死者と過ごした時が数コマの間に語られる。
 ある死者と出会い,その死者とゆかりと優作が語り合う穏やかな何日,何ヶ月,何年の月日。その死者がいつかはこの世界から消える(一種の成仏ということだろうか),その寂寥感。
 生き残った者たちを愛する死者,さらには誰という具体的な対象すら越えて人々の幸福を願う死者。

 説話文学というジャンルが喪われ,きまじめな道徳訓話が忌避される時代に,この作品のうちいくつかは,あらすじだけ切り出すと鼻につきそうなほど教訓的である。しかし,それが不快に感じられないのは,先に挙げたような教科書的,宗教説話的なセリフが,ゆかりや優作,あるいは死者たちのおかれた状況の切実さから発せられた言葉だからではないか。ただ死者を恐れ,逃げまどっていたゆかりと優作は,成長とともに,死者のいる生活に慣れ,死者たちの哀しみを見つめ,自分たちにできること,できないことを見すえるようになる。

 つまり,ここで語られる死者とは,ゆかりや優作にとっては(ほかの人間たちに見えない,聞こえないというだけで)閉じた,彼らの社会の構成員なのである。そして,人間社会において疎ましい,呪わしい人物がいるように,あるいは美しい,愛しい人物がいるように,あるいは暴力的なあるいは甘美な人物がいるように,死者たちにもさまざまな存在があり,さまざまなコミュニケーションの物語がつむがれる。

 だから,これはホラーサスペンスではなく,切ないまでのコミュニケーションギャップと,その裏返しとしての稀有なコミュニケーションの果実を描いた物語なのである。そしてそれは,ゆかりや優作が,あるいは死者が,自らの思いを伝え得ない,あるいは伝える相手をもち得ない子供であるときに,いっそう悲哀のこもった旋律が流れることになる。

 『死と彼女とぼく』の世界において,多くの死者は生きた人間以上に人間らしい。死者たちは呪い,攻撃し,願い,泣く。
 この作品世界で死者として存在することは,生半可な生者とは比較にならないほどあざらかに生きることなのである。

« アンリ・ミショー「安穏をもとめて」 ~あるコミック作品の前奏として~ | トップページ | 『ODESSEY 1966 2003 岡田史子作品集 episode 1 ガラス玉』 監修 青島広志 / 飛鳥新社 »

コミック(作品)」カテゴリの記事

コメント

コメントを書く

(ウェブ上には掲載しません)

« アンリ・ミショー「安穏をもとめて」 ~あるコミック作品の前奏として~ | トップページ | 『ODESSEY 1966 2003 岡田史子作品集 episode 1 ガラス玉』 監修 青島広志 / 飛鳥新社 »