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2003年7月の4件の記事

2003/07/29

たおやかな漢字遣いの魅力 『黒いハンカチ』 小沼 丹 / 創元推理文庫

2361【──お這入んなさいな,なんて変だわ。】

 昭和32年4月から翌年3月までというから……もう45年以上も昔,雑誌「新婦人」に「ある女教師の探偵記録」とサブタイトルを付して読切連載された短編作品の初文庫化。
 探偵役はA女学院のニシ・アズマ先生。小柄で愛嬌のある顔をした彼女は,その鋭い観察眼から,ふとしたきっかけをもとに事件を見つけ出し,控え目にその真相を説く……。事件といってもいくつかは窃盗や寸借詐欺の類で,全12話のうち1話にいたっては犯罪ですらない。また,血なまぐさい殺人事件においても犯人の動機やその逮捕は物語の外にあり,ささやかで成就しないアズマ嬢のラブアフェアのほうがむしろ心に残る。

 この作品をして,チェスタートンのブラウン神父の子孫,あるいは昨今の北村薫をはじめとする「日常の謎」系ミステリの祖とみなして論を張るのは不可能ではないだろう。しかし,どちらかといえばそれは牛刀をもっての類ではないか。『黒いハンカチ』の一連の作品にはブラウン神父譚のような論理のアクロバットは用意されていないし,「日常の謎」に素材を求めざるを得なくなった現代ミステリの枯渇感もない。悠揚たる筆致で描かれるは,女学院という女の園を主舞台とした,エスプリあふれる軽妙洒脱なプチパーティの記録である。
 実際,探偵小説の系譜の中で論じるより,同じ著者の『小さな手袋』(講談社文芸文庫)というエッセイ集の惹句に記された「日々のささやかな移ろいの中で,眼にした草花,樹木,そして井伏鱒二,木山捷平,庄野潤三,西条八十,チエホフら親しんだ先輩,知己たちについてのこの上ない鮮やかな素描」の一節のほうが,この作品の本質を格段によく表すものと思う。なるほどチエーホフが女性誌向けにユーモアミステリ短編を書いたら,このような雰囲気になるかもしれない。

 書かれた時代のせいもあって,本書では少しばかり古めかしい言葉遣い,正確にいえば「漢字遣い」に心を魅かれた。初めのほうのほんの十数ページをもう一度軽くひもといただけでも次のような具合である。

 「おやおや,さてはあそこで午睡でもする心算じゃなくて?」(ひるね,つもり)
 「それなら茲へお通しして頂戴な」(ここへ)
 「真逆……,こんな汚い所へお客さんをお通ししちゃ」(まさか)
 「二分と経たぬ裡に」(うちに)
 「まあ吃驚した。目覚時計のベルだったのね?」(びっくり)
 「卒業して暫く会わなかった」(しばらく)
 「頗る面白くなかった」(すこぶる)
 「兎も角,もう一度その専門家とか」(ともかく)
 「これ真物でしょうね?」(ほんもの)
 「狼狽てて呼び留めて」(あわてて)

 さりとて漢字の割合がそう高いわけではない。一般に,漢字が多いと「堅い」「固い」「硬い」文体,ひらがなが多いと「柔らかい」「軟らかい」文体とされるが,上記のような言葉が漢字で書かれていることが決して文体を硬直させていないのである。
 むしろ,これらの漢字遣いは,やまとことばが漢字で表記されてなお柔軟でたおやかな意味を含みもてることを示してくれるような気がする。『黒いハンカチ』にて採られた口調はややもすれば中間小説的であり,決して名文,美文調とは言いがたいが,それでも短冊に書くかのようにさらりと記された文言は日本語の機能の豊かさを嬉しく感じさせてくれるものである。

 収録12作品をミステリとしてとらえれば,とくにお奨めするようなものではないかもしれない。ミステリとして「頭に」残るようなものではないからだ。その代わり,本書はささやかに読み手の「心に」残る。
 ──そうじゃなくって?

2003/07/21

『ODESSEY 1966 2003 岡田史子作品集 episode 1 ガラス玉』 監修 青島広志 / 飛鳥新社

29【けれどもあれは死んでいる うごかない…あれもレド・アールだ】

 どこで小耳にしたものか,長男が突然「アバンギャルドって何?」と言い出した。既存の権威や流派を否定する芸術上の手法,作品のこと……といった程度の知識は持ち合わせているが,しかし,これをピカソやシュルレアリスムはおろか,「芸術」という概念さえない小学生にどう教えればよいのか。モナリザが,ピアノ発表会の選曲が,書道の練習が,と回答に到る道とも思えぬあれやこれやの話題が飛び交って,あげくに我が家の食卓ではカンディンスキーのように,どちらが上だか下だかわからないのがアバンギャルドということとなった。

 言われてみれば,アバンギャルドという言葉に縁遠くなって久しい。1960年代,70年代には,ファッションや映画について,まだまだ日常的に耳にする機会が少なくなかった。「キーハンター」で大川栄子演ずる丸顔のお嬢さんがちょっと奇抜な洋服を着て現れると丹波哲郎がすかさず「アバンギャルドだねえ」とつぶやく,とか。
 一方,現在,ちゃんとした主旋律もなく,意味不明なつぶやきや自然音だけを組み合わせた音楽CDが発売されたとして,それが面白いか面白くないか,売れるか売れないかは語れても,アバンギャルドとは言われないような気がする。スタンダードがなければ,それに対するアンチも動機足り得ない,そういうことなのだろう。

 さらに加えて,単にコラージュ的であったり幾何学的であったり上下が判別不明であったりすることと,アバンギャルドとはまた少し異なるような気がしないでもない。シュルレアリスムや表現主義においても,ダリやキリコ,ムンクらはアバンギャルドとはまた違うような気がする。アバンギャルドという言葉が似合うためには,もう少し乾いてなくてはダメだ。たとえばピカソの「ゲルニカ」など。

 ひるがえって我が国のマンガ誌において,アバンギャルドなる言葉が雑誌単位で最もよく似合ったのは,虫プロ商事の月刊誌「COM」だったような気がする。たとえば「COM」と同時代,青林堂の「ガロ」に掲載されたつげ義春の「ねじ式」などは,悪夢を自動記述的に描くことにおいてシュルレアリスムの類縁にあるが,どうもアバンギャルドという言葉は似合わなかった。やはり,アバンギャルドを称するためには,(裏にいかなる七転八倒があれど)あくまでクールで既存のものにとらわれないドライさを持ち合わせていなくてはならない気がする。

 そして,1960年代の「COM」のアバンギャルドな空気を代表する作家の一人,それが岡田史子である。
 岡田史子については,かつて朝日ソノラマから発刊された『ガラス玉』を紹介しているので,そちらを参照いただきたい。

 岡田史子は萩尾望都をして「天才」と呼ばしめた稀代の短編コミック作家であり,その鮮烈さにおいて比較し得る対象を知らない。
 しかし,今回飛鳥新社から発刊された『ODESSEY 1966 2003 岡田史子作品集 episode 1 ガラス玉』は,残念ながら朝日ソノラマ版に比べておよそオススメに足るものではない。一人の作家の作品集を編み上げるにおいて,編集や監修の力はそう影響を及ぼすまいと考えるのが普通だ。朝日ソノラマ版と今回の作品集においても,かなりの作品が重複して収録されていることでもあるし……。
 だが,「ODESSEY」というおよそ岡田史子の作風に似合わないサブタイトルを含むごちゃごちゃした書名,表紙カットの選択,その色遣い,作品の収録順,著者への回顧談の依頼にいたるまで……あらゆる切り口からみて,本書は1冊の書物として最低の次元にある。

 岡田史子本人の思いがいかなるものであったにせよ,岡田作品は,プライベートな感傷とは別の次元で読み手に意味を問うものであった。際立って特殊な技法ではなかったにもかかわらず,それはアバンギャルドと呼ぶに足る衝撃を当時の読者,ことにマンガ家や作家をめざす者に大きなショックを与えたものだった。
 たとえば,作品ごとにタッチ,とくに登場人物の「目」の描き方を変えた「とらわれなさ」。作品内世界の木で鼻をくくったような会話の「不親切さ」。それらのすべてが読み手に突きつけられた問いの刃だったのである。

 それを,作家の家族構成だの,作品がコンテストで評価されるかどうかに一喜一憂するさまだの,要するに楽屋ネタばかり加えてどうするのか。いや,百歩譲って資料的価値ありとして掲載するまでは容認するとしても,作品そのものの魅力を邪魔せんばかりに巻き散らかしてどうするというのか。

 コミック作家としての岡田史子は,実際のところは,キャリア的にもテクニック的にも,およそプロといえる水準にはない。作家としてのキャリアを一望にしてみれば,決して商業的に成功したとはいえない「COM」という雑誌の,そのまた「投稿者」に毛の生えた程度の存在に過ぎない。その作品が……場合によっては佳作扱いで,雑誌の1ページに2ページ分ごと縮小されて掲載された程度の作品が,あれほどの衝撃を残したことを思い起こすべきだろう。それを,今さら40年近く昔の「投稿者」としての作者の等身大の姿を紹介することに何の意味があるのか。

 そもそも,このような作りの『ODESSEY 1966 2003 岡田史子作品集 episode 1 ガラス玉』を手にして,新たに岡田史子に衝撃を受ける者がどれほどいるだろう。本書は岡田史子という資源の浪費にすぎない。

2003/07/14

『死と彼女とぼく』 川口まどか / 講談社漫画文庫

69【 「オリは…… ハナをみてる」 「そうか花か キレイだもんな」 「うん キレイ」 】

 ……死者を見る能力を持つ少女,時野ゆかり。
 死者の声を聞く能力を持つ少年,松実優作……。

 死者の孤独と恐怖が見えてしまう,聞こえてしまう彼らの孤独は深く,少女はいっそそんな目を針でつぶそうか,薬で焼こうかとまで思いまどい,少年は聞こえないはずの声をかき消すために1日中ヘッドホンをはずさす,あげくに三度にわたって自ら鼓膜を破る。

 死者たちは天井のすみ,休んでいる生徒の机の下,ロックされた車の中,立ち読みする人のとなり,あるいは道にあふれ,ゆかりや優作の部屋に押し寄せ,泣き,わめき,騒ぎ,訴える。

 設定そのものはホラーマンガとして決して珍しいものではない。だから,本作をオーソドックスなホラー作品とみなすのはたやすい。が,ホラー作品とのみみなすのは難しい。

 もちろん,この作品においても,死者の多くは悪意に満ち,血まみれで臓腑をさらし,グロテスクだ。人としての姿形を維持していないものも少なくない。
 だが,死者の造形に対する作者の考えは明確で,「ほとんどの死者はどうしても内面をかくせなくなっていくの だってしかたないわ もともと肉体のない 心だけの存在ですもの」,そういうものである。
 つまり,たとえば事故の死のショックに動転して我を忘れた死者は顔の半分を喪った血まみれの姿で現れ,自分が誰かを思い出し,残された家族のことを思いやれば同じ死者が穏やかな若い父親のはにかみを見せる。悪意をもった死者は悪意を剥き出しにし,突然の死にとまどい,不安を隠しきれない死者はときどき子供の姿にフラッシュバックし,水に沈んでぶよぶよと膨れた死者は生者の優しさにふれたとき生前の姿に戻って涙を流す。
 逆に,どこまでも生者を呪ってやまない死者の肢体はゆがみ,凝固し,痛みに苦しみながらだんだん石化して身動きならないまま何年もその場で苦しんだり,熔けて動けなくなってしまったりする。

 本作では死者は生者同様に明るく,あるいは暗く,おしゃべり,あるいは無口,攻撃的,あるいは穏やかだ。……しかし,妄執に我を忘れて生者を呪う死者も含めてすべての死者が切なく,哀しい。
 なぜなら彼らはすでに死んでいるのであり,「生きていくことが 幸せの宝庫だと 気づいてしまって」,その限りではもうどうにも取り返しがつかないことを彼ら自身がよくわかっているからだ。

 死者の姿が見えてしまうゆかりは,死者たちからみると光ってよい匂いのするものらしく,死者はゆかりを見そめては彼女を追い,彼女に迫る。生者たる彼女の体を乗っ取ろうとする死者もあれば,性的虐待すら辞さない死者もいる。死者がゆかりをコントロールしきれないのは,結局のところ死者は死者であり,弱いからにすぎない。

 そんなゆかりの絶望を描く川口まどかの絵柄は,お世辞にも巧みとは言いがたい。
 感動的なシーンで登場人物の手足がドラえもんのそれのようであったり,キスシーンで優作の唇が河童の口のようだったりする。第一話から最新作にいたるまで,川口まどかの絵柄は大きく変化しているが,最新作にしてもせいぜいレディスコミックレベルの,デリカシーに欠けた大雑把な絵柄に過ぎない。ことに瞳や唇の描き方は山岸凉子や大矢ちき,萩尾望都,山本鈴美香らの開拓したテクニックを無視して,まるで60年代の少女マンガのようだ(60年代の週刊少女マンガ誌には,ままこのような絵柄のB級ホラーサスペンスが掲載されていたような気がする。もちろん,実際は川口まどかのほうが格段に洗練されてはいるのだが)。

 ……と,ここまでの大まかな紹介では,実はこの作品についておよそ語ったことにはならない。

 まず,互いにその予兆を知りながら,何年もかかってようやく出会うことのできたゆかりと優作の間の固い絆。この面において,本作は赤面しそうなほどの甘いラブロマンス,いやファンタジーの領域にある。

 いや,そんなことより,死者だ。

 かつて,いかなるホラーサスペンスにおいて,その死者(幽霊)が見えてしまう者をして,死者に対し
「そんなことばかりしてちゃ 暗闇に閉ざされて動けなくなるわ!! ひとり苦しむのは いずれ あなたよ」
「冷静に よーく考えることだ やりきれなさから 逃れたいのか やりきれなさの虜になりたいのか 自分を救うには最終的には 自分しかいないんだ 自分しかな」
「赤ちゃんはね どんな死者にでも さわろうとするわけじゃないの キレイで ステキな そして 幸せになって当然の 死者にしか 近よろうとしたりしない」

と語らしめるような作品があっただろうか。

 『死と彼女とぼく』の中では,時間はゆっくり流れ,ときには逆行して何年も昔のことが語られ,あるいは長きにわたって1人の死者と過ごした時が数コマの間に語られる。
 ある死者と出会い,その死者とゆかりと優作が語り合う穏やかな何日,何ヶ月,何年の月日。その死者がいつかはこの世界から消える(一種の成仏ということだろうか),その寂寥感。
 生き残った者たちを愛する死者,さらには誰という具体的な対象すら越えて人々の幸福を願う死者。

 説話文学というジャンルが喪われ,きまじめな道徳訓話が忌避される時代に,この作品のうちいくつかは,あらすじだけ切り出すと鼻につきそうなほど教訓的である。しかし,それが不快に感じられないのは,先に挙げたような教科書的,宗教説話的なセリフが,ゆかりや優作,あるいは死者たちのおかれた状況の切実さから発せられた言葉だからではないか。ただ死者を恐れ,逃げまどっていたゆかりと優作は,成長とともに,死者のいる生活に慣れ,死者たちの哀しみを見つめ,自分たちにできること,できないことを見すえるようになる。

 つまり,ここで語られる死者とは,ゆかりや優作にとっては(ほかの人間たちに見えない,聞こえないというだけで)閉じた,彼らの社会の構成員なのである。そして,人間社会において疎ましい,呪わしい人物がいるように,あるいは美しい,愛しい人物がいるように,あるいは暴力的なあるいは甘美な人物がいるように,死者たちにもさまざまな存在があり,さまざまなコミュニケーションの物語がつむがれる。

 だから,これはホラーサスペンスではなく,切ないまでのコミュニケーションギャップと,その裏返しとしての稀有なコミュニケーションの果実を描いた物語なのである。そしてそれは,ゆかりや優作が,あるいは死者が,自らの思いを伝え得ない,あるいは伝える相手をもち得ない子供であるときに,いっそう悲哀のこもった旋律が流れることになる。

 『死と彼女とぼく』の世界において,多くの死者は生きた人間以上に人間らしい。死者たちは呪い,攻撃し,願い,泣く。
 この作品世界で死者として存在することは,生半可な生者とは比較にならないほどあざらかに生きることなのである。

2003/07/07

アンリ・ミショー「安穏をもとめて」 ~あるコミック作品の前奏として~

Photo 「この世をうけいれない者は家を建てない。寒さを覚えずに風邪をひき,熱くもないのに熱がる」
 アンリ・ミショーの散文詩「安穏をもとめて」(思潮社『ミショー詩集』,小島俊明訳)はこのように始まる。

 「あんのんをもとめて」という何となく呑気で穏やか極まりない音感の題名とは裏腹に,そこで描かれるのは苛烈な男の生きざまだ。何が苛烈かといえば,その生きざまが,ことごとくずれているからである。彼は「まるで何もうち倒さないかのように,死刑執行人をうち倒す」,「渇きを覚えないのに彼は水を呑み,岩のなかへ平気で入っていく」。
 そして彼は「荷馬車にひかれて脚が折れても」「空気のない大暴風が彼のなかで吹き荒れ」ても,平和に思いをはせる。「地獄に堕ちて痛みもだえている平和,彼の平和,人びとがその平和以上だという平和に思いをはせる」のだ。

 ミショーが何を思ってこの作品を書いたのかは知らない。
 「彼」や「死刑執行人」「水」が何の暗喩(メタファー)であるのか,この「平和」がいかなる意味をもつ「平和」であるのか,まるでわからない。
 だが,この作品は心をうつ。正確にいえば,心をはがす,もしくは心をはぎ分ける。

 人間の衝動や,その衝動がもたらす行為,その結果。それらとはまるで別のところで,別の色合い,別の次元,別の音程で,常に願われ,常に描かれ,常に奏でられ続けられる希い。それが「安穏への思い」であるとするなら,ここで語られる「安穏」はただ一人の人間の生活における安逸などであるはずもない。単なる戦争と反対の状態としての平安などであるわけはないのだ。

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